歌姫と共に   作:ぶるうず

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帰郷

朝食を終えた後、トルニオが言った。

 

「始める前にやることがあるだろう」

 

俺が首を傾げると、トルニオは窓の外を見た。リトルネッロ村がある方角だ。

 

「荷物もあるだろう。身辺を整えてから戻ってこい」

 

・・・ああ、そうか。村に何も言わずに消えるわけにはいかない。買い出しに行ったまま数日帰っていない。村長には報告しないと。

 

「筋は通せ。黙って消えるな」

 

トルニオの声は淡々としていた。命令というより、当然のこととして言っている。この人にとって、筋を通すことは呼吸と同じぐらい自然なことらしい。

 

「はい」

 

「一人で行ってこい」

 

ラリサが口を開きかけたけれど、トルニオが目で制した。ラリサは黙って頷いた。

 

一人。まあ、正確には一人じゃない。カルンがいる。

 

胸元でカルンがもぞもぞ動いた。外に出る気配を察したのか、小さく顔を上げて俺を見ている。光がちらちらと揺れて、何か聞きたそうだ。

 

「行こう、カルン。村に戻る」

 

カルンが首を傾げた。

 

---

 

見慣れた道だった。

 

リトルネッロ村とグラーヴェ市を繋ぐ土の道。子供の頃から何度も歩いた。一人で買い出しに行くようになってからは、月に二、三回は通っている。足元の石の配置まで覚えている。

 

でも今日は少しだけ違った。

 

カルンが俺の肩の上に乗って、きょろきょろと周りを見回している。

 

道端に咲いている野花を見つけると、体を乗り出して覗き込む。頭上を鳥が横切ると、びくっとして俺の首筋にしがみつく。風が草原を渡る音がすると、耳をぴんと立てて聞き入る。

 

「怖い?」

 

カルンが首を横に振った。怖いんじゃない。初めて見るものが多いんだ。あの森で追われている間は、景色を見る余裕なんてなかっただろう。

 

蝶が飛んできた。黄色い、小さな蝶。カルンの目の前を横切って、野花の方へ飛んでいく。カルンが手を伸ばして、届かなくて、少し残念そうに光を揺らした。

 

「・・・好奇心旺盛だな、お前」

 

カルンがむっとしたように頬を膨らませた。膨らませた、ように見えた。光っているからよく分からないけれど。

 

なんだか可笑しかった。追われて、怯えて、心を閉ざしていた精霊が、蝶を追いかけようとしている。本当はこういう性格なんだ。

 

「帰ったらさ」

 

声に出してから、止まった。帰る。どこに。トルニオの拠点に? それともリトルネッロ村に?

 

・・・リトルネッロ村は、帰る場所なんだろうか。

 

考えるのをやめた。今は歩こう。

 

---

 

リトルネッロ村が見えてきた。

 

木の柵に囲まれた小さな集落。泥道に沿って質素な家が並んでいる。畑の向こうに村長の家の屋根が覗いている。いつもの景色だ。数日留守にしたぐらいでは何も変わらない。

 

村の入口を通ると、ちょうど水汲みに行く女の人とすれ違った。隣の家のおばさんだ。

 

「あら、フェズ。帰ったの」

 

「うん、ちょっと遅くなって」

 

「そう。大変だったね」

 

それだけだった。おばさんは水瓶を抱えて通り過ぎていった。俺が数日いなかったことを、水汲みの途中で思い出した程度の関心。

 

カルンが俺の肩の上で、おばさんの背中を見送っていた。

 

まず村長の家に行こう。

 

---

 

村長は畑にいた。家の裏手の小さな畑で、しゃがんで何かの苗を触っている。俺が近づくと、顔を上げた。

 

「おう、フェズ。遅かったな」

 

「すみません、買い出しの帰りに色々あって」

 

「ああ」

 

村長は立ち上がって、膝の土を払った。白い髪をかいて、俺を見る。怒っている様子はない。心配していた様子もない。

 

「品物は」

 

「・・・すみません、持って帰れませんでした」

 

眉をひそめるかと思ったけれど、村長は「まあいい」と頷いただけだった。

 

「他の者に頼んだ。もう届いている」

 

・・・そうか。俺がいなくても、回る。当たり前だ。買い出しなんて誰でもできる。

 

「村長」

 

「なんだ」

 

「俺、旅に出ます」

 

一瞬の間。村長が俺を見た。驚いた顔、ではなかった。よく分からない顔。強いて言うなら、「ふうん」という顔。

 

「そうか」

 

「・・・はい」

 

「気をつけろ」

 

それだけだった。

 

沈黙が落ちた。畑の向こうで鶏が鳴いている。風が苗を揺らしている。

 

何か言わなきゃと思った。この人に養ってもらった。孤児の俺を引き取って、部屋を与えて、飯を食わせてくれた。それに対して何か。

 

「村長、今まで」

 

言葉が詰まった。ありがとう、と言えばいいだけなのに。喉に引っかかる。養ってくれた。それは事実だ。でもそれは義務だった。村長は村長として、身寄りのない子供を放り出さなかった。それ以上でも以下でもない。

 

感謝を言おうとしている自分と、何に感謝するんだと聞いている自分がいて、言葉がまとまらなかった。

 

「・・・お世話になりました」

 

結局、それだけ出てきた。

 

村長は頷いた。

 

「ああ。達者でな」

 

表情は変わらなかった。感慨もなければ、寂しさもない。義務は果たした。お前ももう出ていく歳だろう。それだけの空気。

 

悪い人じゃない。ずっと知っている。でも、ただそれだけだ。

 

カルンが俺の肩で小さく身じろぎした。俺の服を掴む力が、少しだけ強くなった気がした。

 

「それ、精霊か」

 

村長がカルンを見た。

 

「はい」

 

「ふうん。珍しいのを連れてるな」

 

それ以上聞かなかった。精霊自体はこの世界で珍しくない。村にも風の精霊を使って農作業を手伝っている人がいるし、森の方には自然の精霊がたくさんいる。カルンが概念の精霊だなんて、見ただけじゃ分からない。

 

そして、分かったとしても、この村長は大して興味を持たなかっただろう。

 

「じゃあ」

 

「ああ」

 

背を向けた。足が重かった。嫌な気持ちじゃない。ただ、重い。

 

---

 

自分の部屋に戻った。

 

村長の家の端にある、小さな部屋。木の寝台と、薄い毛布と、壁に掛かった古い上着。窓は小さくて、日当たりは悪い。

 

荷物をまとめた。着替えが一組。使い古した革の水筒。ナイフ。紐。火打ち石。

 

それだけだった。

 

何年もこの部屋にいたのに、荷物がこれだけしかない。寝台の上に何も残らない。壁には何の跡もない。この部屋に俺がいた痕跡が、ほとんどない。

 

・・・明日にはもう、この部屋は空き部屋だ。次の使い道があるのかは知らないけれど。

 

カルンが寝台の上にちょこんと座って、部屋を見回していた。光がちらちらと不安定に瞬いている。俺の気持ちに反応しているんだろう。

 

「大丈夫」

 

カルンが俺を見た。

 

「こんなもんだよ。前から」

 

大丈夫の意味は、傷ついていないということじゃなかった。慣れている、ということだった。

 

荷物を革袋に詰めた。背負ってみる。軽い。笑えるぐらい軽い。

 

部屋を出る前に、一度だけ振り返った。何もない寝台。薄い毛布。小さな窓。

 

特に感慨はなかった。・・・嘘だ。少しだけ、何かが引っかかった。でもそれは寂しさじゃなくて、こんなものか、という確認に近かった。

 

---

 

村を歩いた。

 

道端で薪を割っていたおじさんに声をかけた。

 

「旅に出ることにした」

 

「おう、そうか。頑張れよ」

 

視線は薪に向いたままだった。

 

井戸のそばで洗い物をしていたおばさんにも言った。

 

「しばらく村を離れます」

 

「あら、そう。気をつけてね」

 

目が合ったのは一瞬だった。すぐに洗い物に戻った。

 

広場では同年代の子供たちが遊んでいた。棒きれを剣に見立てて、英雄戦争ごっこをしている。「俺が勇者な!」「ずるい、さっきもそう言ったじゃん!」。楽しそうだ。

 

俺に気づいた子が一人いた。目が合った。でもすぐに逸らされた。声はかからなかった。俺もかけなかった。かけたことがない。

 

カルンが俺の肩で、子供たちをじっと見ていた。光が不安定に揺れている。

 

「カルン」

 

カルンが俺を見上げた。

 

「ほんとに大丈夫だから。ずっとこうだったし」

 

カルンは納得していない顔をしていた。顔、というか光が。ぐらぐらと揺れて、落ち着かない。俺が平気なふりをしても、この精霊には伝わってしまうらしい。共鳴したから。感情が流れ込む。

 

・・・参ったな。

 

「行こう。もう用は済んだ」

 

村の出口に向かって歩いた。

 

誰も引き留めなかった。誰も見送らなかった。普段通りの午後だった。フェズがいてもいなくても変わらない、いつもの村だった。

 

---

 

村の柵を出た。

 

振り返った。期待していなかったのに、振り返ってしまった。

 

村は普段通りだった。煙突から煙が上がっている。畑で人が働いている。子供の笑い声が風に乗って聞こえる。

 

俺が出て行ったことに、村はたぶん気づいていない。気づいていても、明日には忘れる。

 

不思議と、それでいい気がした。ここにはもともと俺の居場所なんてなかった。それが今、はっきり分かっただけだ。

 

グラーヴェ市の方へ歩き出した。来た時と同じ道。荷物は軽い。あの小さな部屋に何年もいて、持ち出す荷物がこれだけ。

 

カルンが肩の上で少しだけ体を起こした。さっきまで不安定だった光が、ほんの少しだけ落ち着いている。俺の気持ちが少し軽くなったのが、伝わったんだろうか。

 

帰る場所は、もうない。

 

でも向かう場所はある。トルニオが待っている。ラリサがいる。行く場所があるなら、帰る場所がなくたって歩ける。

 

カルンが道端の花をまた見つけて、体を乗り出した。紫色の、小さな花。行きにも見たやつだ。でもカルンは飽きずに覗き込んでいる。光がきらきらと揺れて、楽しそうだ。

 

「気に入った?」

 

カルンが嬉しそうに光を跳ねさせた。うん、と言っているみたいだった。

 

・・・なんだ。こいつ、笑うと綺麗だな。

 

歩いた。振り返らなかった。

 

空は高くて、風は穏やかで、道の先にトルニオの拠点がある。あそこに行けば訓練が始まる。覚悟しろと言われた。覇者になれと言われた。無理なら取り上げると言われた。

 

全部重い。全部怖い。でも全部、俺が選んだことだ。

 

カルンを守る。そのために強くなる。それだけでいい。

 

荷物は軽かった。背中は軽かった。でも胸の奥に、小さくて確かな重さがあった。カルンの温もり。肩に乗った、ほんの少しの重み。

 

それだけあれば、歩ける。

 

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