精霊の悲鳴は一体ではなかった。
三体。街道の東から、狂った精霊たちが走ってくる。
朝靄を引き裂くようにして現れたのは、中級クラスの精霊が三体。いずれも体表に黒い斑点が浮き上がり、目が黒く濁っている。正気を失った精霊の証——黒斑病。暴走した精霊たちは街道の石畳を踏み砕きながら、手当たり次第に周囲を薙ぎ払っていた。
旅人たちが悲鳴を上げて逃げている。荷馬車が横転している。商人が荷物を投げ捨てて走っている。
フェズは走りながら剣を抜いた。隣でルセも剣を抜いている。二人の足音が街道の石を叩く。
「ルセ、左の二体を頼む」
「一体多くない?」
「カルンがいる」
肩の上で、カルンの光が強くなった。弱い。まだ回復途上の、頼りない光だ。でも——意志がある。怯えではない。フェズの隣にいて、力になりたいという、光。
フェズはカルンに顔を向けた。共鳴ではなく、声で問いかける。
「いけるか」
カルンの光が二回跳ねた。応答。やれる、と。
ルセが左に走った。二体の黒斑病の精霊に向かって、迷いのない直線で。ルセの足は速い。踏み込みから一撃目まで、フェズには真似できない速さだ。肩を離れたピカが先行して、精霊の前で鋭い閃光を放った。精霊の一体が目をくらませてよろめく。その隙にルセが踏み込んだ。
フェズは正面の一体に向き合った。
中級の精霊。体長はフェズの胸ほどある。四足で、毛並みは灰色——いや、黒い斑点が全身を覆い尽くしていて元の色が分からない。口から涎のように黒い靄が垂れている。目の焦点が合っていない。痛みか、恐怖か、怒りか。精霊自身にも分かっていないのだろう。ただ暴れている。
フェズは剣を正眼に構えた。トルニオに叩き込まれた基礎。足を肩幅に開き、膝を軽く落とし、剣先を相手の喉元に向ける。
精霊が吠えた。黒い靄が口から噴き出す。それごと突っ込んでくる。正面から。
フェズは動かなかった。——ぎりぎりまで。
精霊の爪がフェズの胸に届く直前、半身をずらした。体捌き。トルニオの基礎。力で受けるな、位置で躱せ。精霊の体がフェズの脇を駆け抜ける。すれ違いざまに、剣の腹で精霊の脇腹を打った。斬らない。峰打ちに近い衝撃を与えて、動きを止める。
精霊がよろめいた。だが止まらない。振り返って再び突進してくる。速い。中級の精霊は、黒斑病で暴走するとさらに力が上がる。
その時——カルンが旋律を紡いだ。
短い。弱い。以前の全力共鳴とは比べものにならない。ほんの数音の、途切れそうな旋律。
でもその旋律が、「右」と告げていた。
フェズの体が反応した。考えるより先に、右に半歩踏み出す。直後、精霊の尾が左側を薙いだ。さっきまでフェズがいた場所だ。
カルンが見ていた。フェズの死角を。精霊の動きを。そしてその情報を、旋律で伝えた。
——質が違う。
以前の共鳴は、力だった。カルンの力を引き出して、音の衝撃波を叩きつけていた。魔法として強力だが、カルンへの負担が大きかった。
今は違う。カルンが自分の判断で、自分のタイミングで、短い音を出す。合図と、ほんの小さな魔法。フェズの剣が主で、カルンの音が補助。
カルンの次の旋律が、精霊の動きを一瞬鈍らせた。音の衝撃波——というほどの力はない。精霊の耳元で不意に鳴った音に、反射的に体が硬直した。それだけ。弱いが、タイミングが正確だった。
フェズはその一瞬を逃さなかった。
踏み込んで、剣の腹で精霊の前足を払う。バランスを崩した精霊に、もう一撃。今度は肩口を打つ。精霊がたまらず地面に転がった。
動きが止まった。完全に気絶はしていないが、暴れる力を失っている。黒い靄がまだ口から漏れているが、弱くなっている。
殺してはいない。
黒斑病の精霊は——もとは普通の精霊だ。狂わされているだけだ。殺さずに止められるなら、殺したくない。
カルンの光が揺れた。安堵の色。フェズの肩の上で、小さな体がほんの少しだけ力を抜いた。
フェズはカルンを見た。
「・・・やれたな」
カルンの光がぽんと跳ねた。
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左の方から、金属の打ち合う音と精霊の悲鳴が途切れた。フェズが振り向くと、ルセが剣を鞘に戻しているところだった。二体の精霊が地面に転がっている。どちらも動かない。ピカがルセの肩に戻って、少し息を切らすように明滅している。
圧倒的に速い。フェズが一体を止めている間に、ルセは二体を捌き終えていた。ピカの閃光で隙を作り、その一瞬を逃さず斬る。共鳴ではない。連携だった。
ルセが戻ってくる。額に薄く汗をかいているが、息は乱れていない。
「終わった?」
「・・・ああ」
「あんた、殺さなかったね」
「殺す必要がなかった」
ルセが少しだけ目を細めた。何か言いたげな顔だったが、口にはしなかった。
フェズは倒れている精霊たちを見た。三体とも、もう暴れる力は残っていない。黒い靄が薄くなっている。意識があるのかないのか。黒い斑点はまだ消えていない。
「この子たち、どうする? このままにしておいても——」
ルセの言葉が途切れた。
街道の奥から——別の音がした。
金属が打ち合う音。人間同士の戦闘音。
フェズとルセが同時に顔を上げた。街道の先、朝靄の向こうに広がる林の中から、はっきりとした剣戟の音が聞こえている。
「精霊じゃない。人だ」
ルセの声が低くなった。フェズも分かっている。精霊の悲鳴とは質が違う音だ。
二人は走った。
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林の中に踏み込んで、フェズは足を止めた。
一人の男が、三人の人間を相手に戦っていた。
いや——戦っているというより、一方的に制圧していた。
三人の男たちは揃いの黒い外套を着ている。腰に剣。胸元に金属の何かが光っている——フェズの目がそれを捉えた。蛇が自身の尾を咥えた意匠。中央に縦長の瞳孔を持つ目。
蛇の目。
フェズの背筋が冷えた。蛇の目の構成員だ。三人もいる。この場所に、この数。偶然ではない。
だが——その三人が、もう負けていた。
一人は既に地面に倒れている。武器が手から離れている。もう一人は逃げようとして木に背をぶつけ、へたり込んでいる。最後の一人を、男が腕を捻り上げて地面に押さえつけた。
男の動きに無駄がなかった。構成員の腕を掴み、手首を返し、膝で背中を押さえる。流れるような動作。一つ一つは地味だが、全てが最適な位置と角度で繋がっている。戦い慣れた人間の動き。
男の顔が見えた。
黒髪。目つきが鋭い。年齢は二十代半ば。纏っている外套は薄汚れて、旅の長さを物語っている。顔に表情が薄い。淡々と、作業のように構成員を制圧している。
押さえつけられた構成員が叫んだ。
「く——お前、まだ生きて——」
男がその口を手で塞いだ。静かに、しかし有無を言わさない力で。
「・・・騒ぐな」
低い声だった。言葉を選ぶ間に沈黙が入る、静かな声。
それから——男がフェズたちに気づいた。
視線が交わった。男の目が、フェズの顔を見て——それから、フェズの肩の上に移動した。
カルンを見ている。
長い沈黙だった。男の目が細くなった。観察するように。確認するように。
「・・・音楽の精霊か」
低い声。独り言のように。
フェズは剣を構えた。カルンが肩の上で身を硬くしている。味方か敵か分からない。蛇の目と戦っていたから敵ではないのかもしれない。でも——精霊を知る目でカルンを見た。それだけで警戒する理由になる。
「・・・誰だ」
フェズの声は低かった。剣先を男に向けている。ルセも隣で剣を抜いている。
男は押さえつけていた構成員を地面に残したまま、ゆっくりと立ち上がった。両手を上げた。武器を持っていない——正確には、腰の剣に手をかけていない。
「敵じゃない」
短い言葉。それから——少し間を置いて。
「・・・ミストだ。この連中を追っていた」
ミスト。
フェズにその名前の心当たりはなかった。蛇の目を追っている人間。それだけが分かった。
「蛇の目を追ってる? なんで——」
「・・・長い話だ」
ミストの視線がもう一度、フェズの肩の上のカルンに向いた。何かを考えている目だった。冷たいわけではない。でも感情が読めない。
「その精霊と——お前は、巡祠者か」
「・・・ああ」
「そうか」
ミストはそれだけ言って、黙った。地面に転がっている蛇の目の構成員たちに目を向ける。三人とも動けない。だが生きている。ミストは殺していなかった。
ルセがフェズの横に立った。剣はまだ抜いている。だがルセの顔を見て——フェズは気づいた。
ルセの表情が変わっている。
驚き。困惑。そして——硬さ。名前を聞いてから、ルセの顔がわずかに強張っていた。
「ルセ?」
フェズが名前を呼ぶと、ルセは小さく首を振った。「後で」と、口の形だけで言った。
ミストがフェズたちに背を向けて、構成員の一人の懐を探り始めた。伝令用の封書と、小さな地図のようなものを引き抜く。淡々とした動きだった。慣れている。こういうことを何度もしてきた人間の手つきだった。
「・・・こいつらは偶然ここにいたわけじゃない」
ミストが封書を開きながら言った。
「黒斑病の精霊が三体、同時に暴走した。自然に起きたことじゃない。こいつらが——何かをした」
フェズの胸がざわついた。黒斑病の精霊が自然に暴走したのではなく、蛇の目が意図的に引き起こした。そんなことが可能なのか。
「精霊を、わざと暴走させたのか」
「・・・正確には分からない。だが蛇の目の連中が動く場所では、黒斑病の精霊が増える。ここ数年、ずっとそうだ」
ミストは封書を懐にしまった。そして立ち上がり、フェズとルセの方を向いた。
「・・・お前たちに訊きたいことがある。だが、ここではまずい。この連中の仲間が来る前に場所を変える」
フェズはルセを見た。ルセの顔はまだ硬い。でも——頷いた。
「・・・分かった」
フェズも頷いた。蛇の目を追う男。カルンを「音楽の精霊」と見抜いた男。訊きたいことがあるのは、こちらも同じだった。
ミストが歩き出した。フェズとルセがその後に続く。林を抜けて、街道を外れ、宿場街の裏手へ。
カルンがフェズの肩の上で、小さく光を揺らしていた。不安とも警戒ともつかない色。ミストの方をじっと見ている。
「・・・大丈夫だ」
フェズが小さく声をかけた。カルンの光が少しだけ安定した。
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蛇の目を追う謎の男、ミスト。その名に——フェズは聞き覚えがなかった。
だがルセの顔が、わずかに強張ったまま戻らない。ルセは何かを知っている。ミストという名前の意味を。
フェズはそれを訊こうとして——やめた。ルセが「後で」と言ったのだ。今は、従う。
朝の日差しが高くなり始めていた。林を抜けた先の空は青い。でも——西の方角だけ、空の色がわずかに淀んでいる気がした。
気のせいかもしれない。でもカルンの光が、西を向いた時だけ少し縮んだ。