歌姫と共に   作:ぶるうず

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英雄の影

「ミスト」

 

ルセがその名を繰り返した。声が低い。フェズが知らない種類の緊張が、ルセの顔に張りついていた。

「英雄戦争で死んだはずの——英雄?」

 

フェズの足が止まった。英雄戦争。7年前の戦争。辺境のリトルネッロ村で育ったフェズにとって、それは「昔あった大きな争い」でしかない。大陸を巻き込んだ内戦だったとは聞いている。勇者と英雄が戦ったとも。でもそれは、教科書の中の話だった。

 

ミストが足を止めた。振り返らない。背中だけがそこにある。

「・・・死んだことにした。そうしなければ、戦争が終わらなかった」

 

低い声だった。言葉の間に沈黙が挟まる。ミストの声はいつもそうだ。たった数時間の付き合いだが、もう分かる。この男は、喋る前に言葉を選ぶ。

 

宿場街の外れの廃屋に着いた。崩れかけの石壁と、屋根の半分が落ちた小さな建物。かつては物置だったのかもしれない。壁際に木箱が積まれていて、埃を被っている。日差しが屋根の穴から差し込んで、室内を斜めに照らしていた。

 

ミストが蛇の目の構成員から奪った封書を木箱の上に置いた。それからフェズとルセの方を向いた。

三人が向かい合う。カルンがフェズの肩の上にいる。弱い光を小さく揺らしている。ミストの方を見ている。警戒というより——観察している目だ。

 

ルセが口を開いた。

「英雄戦争の英雄。自立派の旗印だった人。——記録では戦争で死んだことになってる」

 

フェズはルセを見た。ルセがそこまで詳しいのが意外だった。

ルセが視線に気づいた。

「あたしは街育ちだからね。歴史は一通り習ってるよ。英雄戦争の当事者の名前くらいは知ってる」

 

フェズは黙った。自分は知らなかった。リトルネッロ村には学び舎はなく、戦争の話をする大人もいなかった。

「・・・詳しくは知らない。教えてくれ」

フェズがミストに向かって言った。真っ直ぐに。知らないことを知らないと言う。それが一番早い。

 

ミストがフェズを見た。少しだけ目を細めた。

「・・・何から話す」

「最初から。全部」

 

ミストは短く息を吐いた。それから——言葉を選びながら、話し始めた。

 

「7年前。大陸を二つに割る戦争があった。宗教対立——精霊信仰の解釈を巡る争い。表向きはそうだった。だが裏で糸を引いていたのは蛇の目だ。争いを煽り、人間同士を戦わせた」

「蛇の目が・・・?」

「・・・ああ。俺はその蛇の目の中にいた。表向きのリーダーだった」

 

ルセの息が止まった。フェズも動きを止めた。カルンの光がちかっと揺れた。

 

ミストは表情を変えなかった。淡々と続ける。

「蛇の目の目的を、俺は途中で知った。戦争そのものが目的ではなかった。もっと別の——大きなことのために、争いが必要だった」

「・・・それで?」

「勇者のカシルと俺で、戦争を止めた。俺が悪役を演じた。自立派の旗印だった俺が——勇者に敗れたことにした。悪の英雄が倒されて、戦争は終わった。俺は死んだことにされた」

「・・・自分から?」

 

ルセの声が掠れていた。

「自分からだ。そうしなければ戦争は終わらなかった。勝ち負けがないと、人間は矛を収めない」

 

沈黙が落ちた。廃屋の中に埃が舞っている。屋根の穴から差し込む光の中で、細かな塵がゆっくり回っている。

 

フェズは何も言えなかった。自分から悪を演じて、死んだことにした。7年前のことだ。ミストはそれからずっと——

 

「・・・じゃあ今は何してるの。7年間」

ルセが訊いた。声は低いままだ。

「蛇の目の残党を狩っている。奴らはまだ生きている。そして——目的を諦めていない」

 

---

 

フェズが身を乗り出した。

 

「蛇の目の目的って——精霊の売買とか、そういうことじゃないのか」

これまでフェズが蛇の目から受けた攻撃は、全てカルンを奪うためだった。精霊を捕獲し、売買する。それが蛇の目の仕事だと思っていた。ヴェーノも、カルンを「回収対象」と呼んでいた。

 

ミストが首を振った。

「・・・それは表向きだ。金と精霊を集めているのは、もっと大きな目的のための手段に過ぎない」

「もっと大きな目的?」

「・・・古代の災厄。アポピスの封印を解くことだ」

 

アポピス。

フェズは聞いたことがなかった。隣のルセも、微かに眉をひそめている。知らない名前だ。

 

ミストが続ける。言葉が短い。でも一つ一つが重い。

「アポピスは太古の大精霊だ。精霊界の古い存在。1000年前——神話の時代に、人間の争いの悪感情に当てられて正気を失った。暴走する太古の精霊を、先人たちが封印した」

 

カルンの光が揺れた。精霊という言葉に反応したのか、それとも——「正気を失った」という部分に。フェズの肩の上で、小さな体が微かに震えている。

 

「封印は、永遠じゃなかった。封じ込める方法を知る者がいなくなって、封印は少しずつ弱まっていった」

「・・・それを蛇の目が解こうとしてるのか」

「ああ。7年前の英雄戦争。あれは——蛇の目が封印を破るために仕組んだ戦争だった」

 

フェズの思考が止まった。

戦争が。封印を破るために。

 

「人間の争いが悪感情を生む。その悪感情がアポピスの力を強め、封印を内側から弱める。大陸規模の戦争は——最大級の悪感情の供給源だ。蛇の目はそれを利用した。英雄戦争そのものが、封印破壊のための・・・儀式だった」

 

ルセが椅子代わりの木箱から腰を浮かせた。

「戦争が——儀式? あの戦争で何千人も死んだんだよ。それが全部、封印を壊すためだったっていうの」

 

ミストの目がルセを見た。感情のない目ではなかった。痛みがあった。隠しきれない痛みが。

「・・・そうだ」

 

短い。でもその二文字に、7年分の重さがあった。

 

フェズは拳を握りしめていた。知らなかった。何も知らなかった。蛇の目が精霊を売買しているだけの組織だと思っていた。ヴェーノがカルンを狙っているだけだと。

でも違った。もっと大きな——想像もしていなかった目的があった。

 

「7年前に・・・失敗したのか」

「ああ。俺とカシルが戦争を止めたことで、悪感情の供給が途切れた。封印は保った。だが——」

 

ミストの声が止まった。

「・・・だが?」

 

---

 

「封印は保ったが、完全ではない。7年前に弱まった部分が、修復されていない。そこからアポピスの意識が——少しずつ漏れ出している」

 

フェズの背中に冷たいものが走った。漏れ出している。封印された太古の精霊の意識が。

「・・・漏れ出してるって、どういうことだ」

「黒斑病だ」

 

ミストの声が静かに響いた。

「精霊が正気を失う病。お前たちも見ただろう。さっきの三体。——あれはウイルスでも呪いでもない。アポピスの狂気が封印の隙間から滲み出して、精霊たちを汚染している」

 

フェズの手が止まった。カルンを見た。

 

カルンが光を縮めていた。

小さな体がフェズの肩の上で震えている。怯えている。黒斑病——あの目が濁り、体に黒い斑点が浮かび、暴走する精霊たちの病。その原因が、封印された太古の精霊の狂気だった。

同族の精霊たちが、狂わされている。

 

フェズは右手をカルンの方に伸ばした。触れるだけ。指先がカルンの小さな体に当たる。守るためじゃない。ここにいる、と伝えるため。

カルンの震えが少しだけ和らいだ。でも光は縮んだままだ。

 

ルセが唇を噛んでいた。

「じゃあ・・・あたしたちが今まで見てきた黒斑病は、全部——」

「全てアポピスが原因だ。封印の弱い部分から意識が漏れ、近くの精霊を汚染する。距離が近いほど影響が強い。だから黒斑病は各地でバラバラに見えるが、実際には震源地がある」

 

「ここ数日で黒斑病が急に増えてる。宿場街の噂で聞いた」

フェズが言った。一昨日の夜、食堂で旅人たちが口々に言っていた。西の街道で三体。水紋の谷の近くでも。ここ数日で急に増えた——。

 

ミストが頷いた。

「封印がさらに弱まっている証拠だ。蛇の目の残党が——何かを始めた」

「何かって?」

 

ルセが食い下がる。

「・・・分からない。だから追っている。さっき捕まえた連中は末端だが、嘆きの渓谷の方角から来ていた」

 

嘆きの渓谷。フェズはその名前を初めて聞いた。でもミストの声の沈み方で、ただの地名ではないと分かった。

「封印の場所だ」

ミストが言った。

「7年前の最終決戦の地。あの場所の地下に、1000年前から続く封印がある」

 

沈黙が降りた。重い沈黙だった。廃屋の壁に寄りかかったルセが、腕を組んだまま目を閉じている。フェズは木箱の上に座ったまま、膝の上で拳を握っていた。カルンがフェズの肩の上で身を縮めている。

 

黒斑病。蛇の目。アポピス。

全部が——繋がった。

 

トルニオの下で修行していた頃に初めて見た黒斑病の精霊。あの時は一体だけだった。偶然のように見えた。でも違った。あれは始まりだった。アポピスの意識が漏れ出し、精霊を一匹、また一匹と狂わせていく——その最初の一体だったのかもしれない。

蛇の目がカルンを狙っていたのも、精霊の売買だけが目的ではなかった。金と精霊を集めていたのは、もっと大きな目的のため。封印を破るため。

 

フェズは顔を上げた。

「・・・嘆きの渓谷。それが、封印の場所なのか」

「ああ」

 

ミストの声は平坦だった。でもその平坦さが、むしろこの男が何年もこの事実と向き合ってきたことを物語っていた。

「7年前の最終決戦の地だ。あの場所の地下に、1000年前から続く封印がある。俺とカシルが戦争を止めたあの日——表では俺たちが茶番を演じ、裏では別のことが起きていた。だがそれは・・・今はいい」

ミストが言葉を切った。何かを飲み込んだように。

 

フェズはそれ以上訊かなかった。今の自分に必要な情報は揃った。

黒斑病の原因はアポピス。蛇の目の目的は封印の破壊。封印は嘆きの渓谷にある。そして——蛇の目の残党が、そこで何かを始めている。

 

ルセが目を開けた。

「・・・つまり、黒斑病がもっと増える。放っておけば」

「放っておけば、封印が完全に解ける。その時——大陸全土の精霊が狂う」

 

カルンの光がちかっと震えた。フェズが指先でカルンの体を撫でた。小さな体の震えが指に伝わる。怖いんだろう。同じ精霊として、アポピスの恐怖を本能で感じているのかもしれない。

 

ミストがフェズとカルンを見ていた。あの観察するような目。でも——そこに冷たさはなかった。

「・・・お前と、その精霊」

ミストが言った。声が少しだけ柔らかくなった気がした。ほんの少しだけ。

「音楽の精霊を持つ巡祠者。・・・珍しいな」

「珍しいとは言われる」

「・・・そうだろうな」

 

ミストは何かを考えている顔をした。フェズには読めなかったが——何か、思い当たることがあるような目だった。それを口にするかどうか迷っているような。

だが結局、ミストは何も言わなかった。

 

「・・・俺は嘆きの渓谷に向かう。蛇の目が何をしているか確かめるために」

「一人で?」

「・・・一人だ。今まで、ずっとそうだった」

 

ミストの声に感情はなかった。事実を述べているだけ。7年間、一人で蛇の目の残党を追い続けてきた男の、ただの事実。

 

フェズは立ち上がった。

「・・・俺たちも行く」

 

ミストが顔を上げた。少しだけ——驚いた顔をした。

「蛇の目に関わるのか。お前たちは巡祠者だろう」

「巡祠者だ。でも——黒斑病のことを知って、何もしないわけにはいかない」

 

カルンの光が揺れた。フェズを見上げている。怯えはまだある。でも——フェズの言葉に反応して、光が一つ跳ねた。

 

ルセが木箱から立ち上がった。

「あたしも。蛇の目にはいい思い出がないからね」

 

ミストが二人を見た。長い沈黙。ルセの目。フェズの目。カルンの光。

それから——ミストの口元が、ほんの微かに動いた。笑ったわけではない。でも、薄い氷に亀裂が入るような、何かの変化だった。

「・・・そうか」

 

それだけだった。でもフェズには、その短い言葉の奥にあるものが——少しだけ分かった気がした。

 

廃屋の外では日が傾き始めていた。西の空が橙色に染まっている。その橙色の奥——もっと西の方に、空の色がわずかに淀んでいた。嘆きの渓谷のある方角だ。

 

カルンがその方を見て、光を縮めた。フェズも見た。見えるものは何もない。でも——何かが、あの方角で動いている。封印された太古の精霊の意識が、少しずつ漏れ出している。

 

黒斑病の原因。蛇の目の目的。全てが一本の線で繋がった。

 

そして——その線は、嘆きの渓谷へと伸びている。

 

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