歌姫と共に   作:ぶるうず

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調査報告

ミストの話を消化しきれないまま、翌日の朝を迎えた。

 

宿の部屋で目を覚ました時、窓の外はもう明るかった。フェズは天井を見つめたまま、昨日の情報を頭の中で転がしていた。アポピス。封印。嘆きの渓谷。黒斑病の正体。一晩寝ても、飲み込みきれない。

 

肩の上でカルンが微かに光を揺らした。起きている。フェズが目を覚ますより先に起きていたのかもしれない。

「・・・おはよう」

カルンの光がぽんと一つ跳ねた。おはよう、と。

 

階下の食堂に降りると、ルセが先にテーブルについていた。パンを齧りながら、ぼんやりと窓の外を見ている。ミストは壁際の椅子に座っていた。食事には手をつけず、腕を組んで目を閉じている。寝ているのか起きているのか分からない。

 

フェズが椅子を引いた音で、ルセが振り向いた。

「おはよ。顔、ひどいよ。寝られなかったでしょ」

「・・・お前もだろ」

「あたしは寝た。寝られない時は寝る主義だから」

 

それは寝られたということなのか。フェズが首を傾げている間に、ルセがパンの皿を押してきた。

「食べな。腹が減ってると頭も回んないよ」

 

フェズはパンを手に取った。カルンが肩の上からパンの匂いを嗅いでいる。精霊は食べないが、匂いには反応する。好奇心旺盛な本来の性格が少しずつ戻ってきている証拠だ。

 

ミストが目を開けた。フェズとルセを見る。何か言いかけて——やめた。代わりに窓の外を見た。

「・・・今日中に発つか、もう少し情報を集めるか。決めなければならない」

 

フェズがパンを飲み込んだ。

「嘆きの渓谷に向かうにしても、俺たちだけで——」

 

その時だった。

 

食堂の扉が勢いよく開いた。朝の冷たい空気と一緒に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。

「フェズさーん!」

 

---

 

声の方を見る前に、カルンが反応した。肩の上で光がぱっと明るくなる。警戒ではない。懐かしいものを見つけた時の、弾むような光。

 

食堂の入口に、少女が立っていた。旅装は砂埃に汚れ、髪は風に乱れている。でも目が輝いている。息を切らしている。走ってきたのだろう。その背後に——嵐の精霊が浮かんでいる。風と雷をまとった上級精霊。ラリサの相棒だ。

 

ラリサだった。

 

「フェズさん! ルセさん! よかった、やっと追いつきました!」

ルセが椅子から立ち上がった。顔がぱっと明るくなる。

「ラリサ! ・・・久しぶり。元気そうじゃん」

「元気ですよ! でも大変だったんです、各地を回って——あ、ご飯食べてます? わたしもお腹空きました! 二日ろくに食べてなくて——」

 

ラリサがテーブルに駆け寄ってくる。勢いのままフェズの隣の椅子に座りかけて——足を止めた。

フェズの肩の上のカルンを見ている。

 

「カルンちゃん・・・肩の上にいる。前は胸の中にいたのに」

ラリサの目が大きくなった。水の祠の後で別れた時、カルンはフェズの胸の中に隠されていた。外に出すのは危険だったし、フェズ自身がカルンを隠すことを当たり前だと思っていた。守るために。

でも今は肩の上にいる。弱い光だけど、自分の場所として落ち着いている。

 

「・・・色々あった」

「いい色々ですか?」

フェズはカルンを見た。カルンがラリサの方を向いて光を揺らしている。挨拶するように。ラリサの嵐の精霊もカルンに向かって微かに反応した。精霊同士の、言葉にならない交信。

「・・・うん。たぶん」

 

ラリサの視線がルセの肩に移った。ピカがルセの肩の上で光っている。ラリサの目がもう一度大きくなった。

「えっ——ピカちゃん、大きくなってません?」

ルセが首を傾げた。「そう? ずっと一緒にいると分かんないんだけど」

「大きくなってます! 光の密度が全然違う。水紋の谷の時は埃級に近い光だったのに、今は——中級に近いですよ、これ」

 

ラリサが身を乗り出してピカを観察する。精霊学者の目になっている。ピカはラリサの視線に少し落ち着きなく光を明滅させて、ルセの首筋に隠れた。

「あはは、ごめんね。びっくりしたよね」

ラリサがピカに謝って、それからルセの方を向いた。

「ルセさん、ピカちゃんと何かしたんですか? 普通、こんなに成長するには——」

「何もしてないよ。あたしピカと共鳴なんてしないし。勝手に育った」

「勝手に・・・」

 

ラリサが考え込むように首を傾げた。でもすぐに——その視線が、壁際の男に移った。

表情が一瞬で引き締まった。嵐の精霊が警戒するように光を強くする。

「・・・この方は?」

「・・・ミストだ」

 

ミストが短く名乗った。立ち上がりもしない。壁際の椅子に座ったまま、ラリサを見ている。

ラリサの目が見開かれた。

トルニオの弟子だ。師匠から英雄戦争の話を聞いている。勇者カシル、英雄ミスト。7年前の戦争を終わらせた二人の名前を、ラリサは知っている。

 

「ミスト・・・って。あの——」

「・・・ああ。その、ミストだ」

 

ラリサがフェズの方を見た。説明を求める目。フェズは短く頷いた。

「昨日会った。蛇の目を追ってる。——話が長くなる。座れ」

 

ラリサは椅子に座った。嵐の精霊がラリサの肩に降りてくる。まだミストを警戒している。ラリサが精霊の体を軽く撫でて落ち着かせた。

 

ルセがラリサの前にパンの皿を押した。

「まず食べな。話はそれから」

「いえ、先に聞きたいです。蛇の目を追ってるって——」

「食べながら聞けばいいでしょ。二日食べてないんでしょ」

 

ラリサが口を開きかけて、閉じた。パンを手に取った。一口齧って、フェズの方を向いた。目が「早く話して」と言っている。

 

フェズが昨日のことを簡潔に話した。黒斑病の精霊との戦闘。ミストとの遭遇。蛇の目の真の目的。アポピスの封印。嘆きの渓谷。

 

話している間に、ラリサのパンを齧る手が止まった。

 

---

 

「じゃあ・・・黒斑病が増えてるのは、その封印が弱まってるから・・・」

 

ラリサの声が小さくなった。顔から血の気が引いている。パンを持った手が膝の上に落ちた。

 

ミストが静かに頷いた。

「・・・ああ。アポピスの意識が封印の隙間から漏れ出して、精霊を汚染している。それが黒斑病の正体だ」

 

ラリサが唇を噛んだ。目の前の机を睨みつけるように見ている。考えている。精霊学の知識を総動員して、今聞いた情報を頭の中で組み立てている顔だ。

そして——顔を上げた。

 

「フェズさん。わたし、各地を回って黒斑病の発症パターンを調べていたんです」

フェズは頷いた。水の祠の後でラリサが離脱した理由。黒斑病の異変を調査するため、一人で各地を回っていた。

 

ラリサが旅袋から一枚の大きな紙を取り出した。皺だらけで、端が少し破れている。何度も折り畳んで持ち歩いていたのだろう。

地図だった。

 

大陸の地図の上に、赤い印が無数につけられている。各地で黒斑病が発生した地点。日付の書き込み。発症した精霊の数。几帳面な字で記録されている。ラリサが一人で各地を歩き回って、一つ一つ集めたデータだ。

 

ラリサが地図をテーブルの上に広げた。皿を端に寄せて、四隅を手で押さえる。

「黒斑病は各地でバラバラに発生しているように見えますが、パターンがあるんです。発症地点を地図に落とすと——見てください。西から東に広がってます」

 

フェズが地図を覗き込んだ。確かに、赤い印には偏りがあった。西側に集中し、東に行くほどまばらになる。放射状に広がっている。

「震源地が、特定の方角に集中してるんです。ここ——大陸の中央西部。この辺り」

ラリサが指で地図の一点を示した。

 

ミストが身を乗り出した。初めてミストが身体を動かした。壁から背を離して、地図を見ている。

「・・・嘆きの渓谷だ」

 

ラリサが顔を上げた。

「知ってるんですか? この場所」

「・・・知っている。昨日話した封印の場所だ。1000年前からアポピスが眠っている場所」

 

ラリサの目が大きくなった。自分が追いかけていた黒斑病の震源地と、ミストの言う封印の場所が——一致している。

「つまり・・・わたしが調べてたのは、封印から漏れてるアポピスの影響の、広がり方だったんですか」

「・・・そうなる」

 

ラリサが地図をもう一度見た。自分の手で集めたデータが、ミストの情報と繋がった瞬間の顔。精霊学の研究者としての顔と、仲間としての顔が同時に浮かんでいた。

 

「じゃあ・・・黒斑病がここ数日で急に増えてる理由も」

「蛇の目が封印に何かしている。その影響で漏れ出す量が増えた。・・・お前の地図が裏付けている」

 

ミストの声は平坦だったが、ラリサの地図を見る目は真剣だった。7年間一人で追ってきた情報に、初めて具体的なデータが重なった。

 

ルセがラリサの地図を覗き込んだ。

「ラリサ、あんたこれ全部一人で?」

「はい。水紋の谷から始めて、南のテッラ盆地の方まで回って、そこから西に——」

「半年以上かかったでしょ」

「七ヶ月です。でも途中で蛇の目の連中に何回か追われて、遠回りしましたけど」

 

さらりと言った。ラリサらしい。命がけの調査旅を「遠回りしました」で済ませる。でもフェズには分かる。嵐の精霊がいるとはいえ、蛇の目が暗躍する大陸を一人で歩き回るのがどれだけ危険か。

 

「・・・すごいな、ラリサ」

フェズが言った。思ったままを。

 

ラリサが少し照れたように笑った。

「すごくないですよ。わたしは調べてただけです。フェズさんたちの方がずっと大変だったでしょう。——ていうか、カルンちゃんが肩の上にいる話、ちゃんと聞きたいんですけど」

「・・・それは後で」

「えー」

 

---

 

四人が地図を囲んでいた。朝の食堂に、他の客はもういない。テーブルの上にラリサの地図が広がり、その周りにパンの皿と水の杯が散らばっている。

 

フェズが口を開いた。

「整理しよう。ラリサの調査で、黒斑病の震源地が嘆きの渓谷だと分かった。ミストの話と合わせると——黒斑病はアポピスの封印から漏れ出す狂気が原因。蛇の目の残党が封印に何かをしていて、漏れ出す量が増えてる」

 

ラリサが頷いた。

「わたしの地図だと、ここ三日で発症数が一気に跳ね上がってます。特に嘆きの渓谷に近い西部で。それまでは月に数件だった報告が、一日に十件以上になってる」

「・・・加速している」

 

ミストが言った。低い声だ。

「封印が一定以上弱まると、漏出が指数的に増える。・・・恐らく、破壊の儀式が最終段階に近い」

 

カルンがフェズの肩の上で身を震わせた。フェズの首筋に、カルンの体の冷たさが伝わる。精霊として、アポピスの恐怖を本能で感じ取っている。

フェズはカルンに手を添えた。指先がカルンの小さな体に触れる。守るためではない。一緒にいるために。

 

「このペースで増え続けたら・・・」

ラリサが言いかけて、口をつぐんだ。自分で言いたくないのだ。

ミストが代わりに言った。

「封印が完全に解けたら、黒斑病どころではない。アポピスが目覚める。大陸全土の精霊が狂う」

 

静かな声だった。でもその静かさが、却って言葉の重さを際立たせていた。

 

ラリサの嵐の精霊が不穏に揺れた。ラリサが精霊の体に手を置く。「大丈夫」と小さく呟いている。でもラリサ自身の手が震えていた。

 

ルセが腕を組んだ。

「つまり——止めに行くしかないわけだ。嘆きの渓谷に」

「・・・ああ」

 

ミストが答えた。

「そのつもりだ。だが蛇の目の戦力が分からない。俺一人では——」

「一人じゃないでしょ」

 

ルセが遮った。当然のように。

「あたしたちがいる。昨日もそう言ったじゃん」

 

ミストがルセを見た。それからフェズを見た。カルンの光が揺れている。怯えはある。でも消えていない。フェズの肩の上に、まだいる。

 

ラリサが立ち上がった。椅子がガタンと鳴った。

「わたしも行きます! ——ていうか、行かないって選択肢がないです。黒斑病の原因が分かったんですよ? 調べてただけじゃ意味がない、止めなきゃ!」

 

ラリサの声が食堂に響いた。元気な声だ。でもその裏に、七ヶ月分の使命感がある。各地で黒斑病に苦しむ精霊を見てきた。原因を突き止めたいと一人で旅をしてきた。その全部が、今ここに集まっている。

 

ミストが三人を見た。フェズ。ルセ。ラリサ。それぞれの目を、順番に。

長い沈黙。ミストの沈黙はいつも長い。言葉を選んでいるのだ。

 

そして——ミストの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。笑ったわけではない。でも、昨日の廃屋で見たあの変化と同じものが、また口元に浮かんだ。薄い氷に入る亀裂のような。

「・・・助かる」

 

短い。でもミストにとっては、それが精一杯の言葉なのだろう。7年間、一人でやってきた男が。助かる、と言った。

 

フェズはカルンの体に指先を添えたまま、地図を見た。嘆きの渓谷。ラリサの赤い印が一番密集している場所。全ての線が、そこに集まっている。

 

全体像が見えた。目的地も。敵の正体も。

——だが、太古の精霊を相手にして、何ができるのか。

その答えは、まだ誰も持っていなかった。

 

カルンがフェズの指に体を寄せた。小さな光が、微かに揺れている。怖い。でもフェズの隣にいる。それだけが、今の確かなこと。

 

窓の外で、風が吹いていた。西からの風だ。嘆きの渓谷のある方角から、冷たい風が——

 

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