その男は、道端に座って焼き芋を食べていた。
嘆きの渓谷へ向かう準備を始めた翌日の朝。宿で荷を纏め、食料を買い足し、さあ出発しようかという段になって——宿場街の入口に、一人の男がいた。
旅装の男だった。20代半ばだろうか。朗らかな顔をしている。外套は旅の汚れで薄黒くなっているが、着こなしに不思議と清潔感がある。街の入口の石垣に腰掛けて、両手で焼き芋を持って、はふはふと頬張っている。通行人に笑いかけている。笑いかけられた方は困惑しながらも、つい笑い返してしまうような——そういう空気を持った男だった。
先代勇者にしては、あまりに呑気な登場だった。
最初に足を止めたのはミストだった。
フェズたちの先頭を歩いていたミストが、突然立ち止まった。後ろを歩いていたフェズが危うくぶつかりそうになる。
「ミスト? どうし——」
フェズの言葉が途切れた。ミストの横顔が見えた。
驚いている。あのミストが、目を見開いている。出会ってから初めて見る表情だ。低く静かで、感情を見せない男。その顔に——何かが走っていた。驚き。そして——名前のつけられない、もっと深い何か。
「・・・カシル」
ミストの声は小さかった。
石垣の男が振り返った。焼き芋を片手に。口の端に芋のかけらがついている。
そして——笑った。
「よう、ミスト。久しぶり。——元気そうじゃないか」
朗らかな声だった。7年ぶりの再会に、焼き芋片手で笑っている。
ミストが一歩踏み出した。それ以上は動かなかった。
「・・・元気に見えるのか、俺が」
「少なくとも生きてる。それで十分だ」
カシルが石垣から飛び降りた。軽い動きだった。焼き芋の残りを口に放り込んで、手を服で拭く。それだけの動作が、妙に自然で、同時にどこか——大きく見えた。
フェズたちは立ち尽くしていた。状況が飲み込めない。ミストが「カシル」と呼んだ。その名前を知っている。昨日ミストが語った名前。7年前の英雄戦争を終わらせた男。先代の勇者。
ルセが最初に声を上げた。
「え——カシルって。先代の、勇者?」
カシルがルセの方を見た。にっこりと笑う。
「元、な。今はただの旅人だ。焼き芋食べる?」
「いらない。——何でここにいるの」
ルセの声は警戒と困惑が半々だった。無理もない。先代勇者が宿場街の入口で焼き芋を食べていたと言われて、素直に受け入れられる人間はいない。
カシルが少し真面目な顔になった。少しだけ。焼き芋を食べ終わった手で、後頭部を掻く。
「ミストの伝言が来たからだ。・・・音楽の精霊を持つ巡祠者がいるって」
カシルの視線がフェズに向いた。——いや、正確には、フェズの肩の上にいるカルンに。
カルンが光を縮めた。知らない人間への警戒。でも——怯えではない。カシルの視線には、ヴェーノのような執着がなかった。奪おうとする目ではない。もっと違う何かを見ている目だった。
「お前がフェズか」
「・・・ああ」
「その肩の上にいるのが、音楽の精霊」
「・・・カルンだ。名前がある」
フェズが言った。反射的に。カルンを「音楽の精霊」とだけ呼ばれることへの、小さな抵抗。
カシルが目を丸くした。それから——笑った。嬉しそうに。
「いい名前だ。カルン。——よろしくな」
カルンの光がぽん、と一つ跳ねた。驚いたのか、照れたのか。フェズにも分からない。でもカルンが怯えていないことは分かった。
ラリサが一歩前に出た。目がきらきらと輝いている。好奇心が全開だ。
「先代勇者カシルさんですか! わたしラリサです、トルニオ師匠の弟子の——本物ですか? 本物ですよね! 師匠から話は聞いてました! 英雄戦争の最終決戦で——」
「おお、トルニオの弟子か。元気にしてるかあの人」
「元気です! 相変わらず怖いですけど!」
「だろうな。昔から怖かった」
カシルがからからと笑った。ラリサも笑っている。空気が——少し和んだ。ミストだけが、まだ微動だにしていない。
場所を移した。宿場街の外れにある、見晴らしの良い丘の上。街と街道が一望できる。西の空は——少し暗い。嘆きの渓谷がある方角。
フェズ、ルセ、ラリサ、ミスト。そしてカシル。五人が丘の草の上に座っていた。カルンはフェズの肩の上、ラリサの嵐の精霊はラリサの傍に浮かんでいる。
カシルが足を伸ばして座っている。呑気な姿勢だ。でもその目は、遠くの西の空を見ている。
「ミスト。——状況は聞いてる。伝言鳥で大体はな。蛇の目が封印に手を出してるって」
「・・・ああ。ここに来る途中で何があったか知っているか」
「黒斑病が増えてる。西に行くほどひどい。・・・道中で三回、暴走した精霊に出くわした。全部鎮めてきた」
カシルがそれを、まるで天気の話でもするように言った。暴走した精霊を三体。一人で。
ルセが小さく息を呑んだのが、フェズには聞こえた。
「それで」とカシルが続ける。「お前から聞いた話——音楽の精霊と共鳴する巡祠者がいるってな。それを聞いて、来た」
「・・・音楽の精霊がいると、何が変わるんですか」
フェズが訊いた。ミストからは「蛇の目の目的」と「アポピスの封印」は聞いた。でも——自分とカルンが何故必要なのかは、まだ分からない。
カシルがフェズを見た。朗らかな表情が、少しだけ変わった。真剣というのとも違う。何かを思い出している目。7年前の記憶を辿っている目だった。
「俺とミストが茶番を演じて戦争を終わらせた——ってのはミストから聞いたか?」
「・・・ああ。昨日」
「あれは表の話だ。裏では——二匹の竜が戦っていた」
フェズの眉が動いた。竜。伝説の精霊。精霊でありながら単体で圧倒的な力を持つ存在。
「英雄戦争の最終決戦の時、二匹の竜が顕現した。勇者側と英雄側に一匹ずつ。戦争の決着——俺とミストが芝居を打って決着をつけた、その裏で、竜たちはもっと深い場所で戦っていた」
カシルの声から、朗らかさが少し引いた。
「竜たちは気づいたんだ。戦争の影で、何かが目覚めかけていることに。嘆きの渓谷の地下で——アポピスが、封印を破ろうとしていた。いや、蛇の目がそれを手引きしていた。戦争で生まれた悪感情がアポピスの力を強めて、封印を内側から食い破ろうとしていた」
ラリサが息を飲んだ。ミストが黙って頷いている。ミストはこの話を知っている。当事者だったから。
「竜たちは戦争を終わらせた後、自ら渓谷の地下に降りて——アポピスを押さえ込んだ。再封印した。竜の力で、無理やりに」
「・・・竜が、封印を」
フェズが呟いた。
「ああ。でもな——竜は万能じゃない。力で封じ込めているだけだ」
カシルが草の茎を一本抜いた。手の中でくるくると回す。
「1000年前の先人たちが使った方法は——力じゃなかった」
沈黙が落ちた。風が吹いている。西からの風。冷たい。
「鎮魂の歌、って言うらしい」
カシルが言った。
フェズの背中が強張った。カルンが肩の上で光を揺らした。
「アポピスは精霊だ。狂った精霊だ。1000年前、人間の争いの悪感情に当てられて正気を失った精霊界の古い存在。でも——精霊であるなら、共鳴で対話ができる」
カシルが草の茎を放した。風に乗って飛んでいく。
「1000年前にアポピスを最初に封印した者たちは、音楽の精霊と共鳴する人間だったという。武力じゃない。歌だ。歌でアポピスの狂気を鎮め、眠らせた。それが鎮魂の歌だ」
全員の視線がフェズに集まった。フェズとカルンに。
フェズは自分の肩の上を見た。カルンがフェズを見上げている。弱い光。でも——目を逸らしていない。
「でも歌える者がいなくなった」
カシルが続ける。
「音楽の精霊は数が少ない。共鳴できる人間はもっと少ない。歌い手がいなくなって、封印は力任せの封じ込めに代わった。竜の力で抑えつけるしかなくなった。でもそれも——永遠じゃない。少しずつ弱まってきた。そして今、蛇の目がそれを壊そうとしている」
カシルが立ち上がった。草についた土を払う。
そしてフェズの正面に立った。
朗らかだった表情が——変わっていた。笑ってはいない。でも厳しいわけでもない。ただ、真っ直ぐにフェズを見ていた。
「フェズ。お前の歌が要る」
風が止まった。
「アポピスは倒すものじゃない。鎮めるものだ。そして今、音楽の精霊と共鳴できるのは——世界でお前だけだ」
静かだった。丘の上の草が揺れる音すら聞こえなかった。
フェズは口を開いた。声が掠れた。
「・・・俺に、できるのか。そんなこと」
「分からない」
カシルが即答した。嘘をつかなかった。
「分からない。でもお前しかいない。——嫌なら無理にとは言わない。でも」
カシルが一瞬、空を見上げた。西の空の暗さを。それから視線を戻した。
「俺は7年前、友を悪者にして戦争を止めた」
ミストの方を見た。ミストは何も言わなかった。表情も変えなかった。でもその「変えなかった」ことが、フェズには何かを語っているように見えた。
「代償は大きかった。でも——やるしかなかった」
カシルの声が、少しだけ低くなった。
「今も同じだ。やるしかないことがある。お前にしかできないことがある」
カシルが笑った。今度は——笑おうとして、笑った。朗らかに。いつもの朗らかさで。でもフェズには分かった。その笑顔は、怖さを隠すためのものだ。7年前も、きっとこうやって笑って——友を悪者にした。
ルセが隣で黙っていた。ラリサも何も言わなかった。嵐の精霊が静かに揺れている。
誰も、フェズの代わりに答えることはできない。
皆が丘を降りた後、フェズは一人で残った。
丘の端に座った。足を投げ出して、西の空を見ている。暗い。あの暗さの先に、嘆きの渓谷がある。1000年前から精霊が眠っている場所。蛇の目がその眠りを壊そうとしている場所。
カルンが膝の上にいた。
「・・・カルン」
フェズが呼んだ。
「聞いたか。——俺たちの歌で、アポピスを鎮めろって」
カルンの光が揺れた。不安の色ではなかった。考えている。精霊として、アポピスのことを——遠い記憶の底で、何か感じているのかもしれない。同じ精霊だから。太古の、狂った同族だから。
「怖いか」
カルンの光が一瞬、強くなった。
怖くない、とは言わなかった。怖いのだ。でも——光は消えなかった。フェズの膝の上で、小さな光は揺れ続けていた。フェズの隣にいる。それは変わらない。
空の祠での精神世界の後、カルンは嘘をつかなくなった。いや——前から嘘はつかなかったけれど、自分の気持ちを隠すことをやめた。怖い時は怖いと光で伝える。嬉しい時は跳ねる。それが、二人が選んだ関係だ。
「・・・俺も怖い」
フェズが言った。
「1000年前の歌い手と同じことをしろって言われてる。そんなの——歌ったことない。鎮魂の歌なんて、聞いたこともない」
カルンの旋律が微かに鳴った。短い。弱い。でも——応答だった。一緒に行く、と言っている。
フェズが笑った。小さく。
空っぽだった自分に、役割がまた一つ来た。「お前の歌が要る」。世界でお前だけだ、と言われた。
——嬉しいのか?
胸の奥で、何かが疼いた。
必要とされている。役に立てる。存在に意味がある。その感覚が——怖いくらい心地よかった。
でも。
あの精神世界で見たのだ。「役に立つ自分」にしか価値を見出せなかった、空っぽの自分を。カルンを守る役割にしがみついて、いつの間にかカルンを道具にしていた自分を。
今度は違うのか。
本当に?
「お前の歌が要る」と言われて嬉しいのは——カルンのためか。世界のためか。それとも、必要とされたい自分のためか。
分からない。まだ分からない。
でも——空の祠で学んだことがある。分からないなら、分からないまま行けばいい。カルンが歌いたいと思えば歌う。自分は剣を振る。二人で行く。理由は後からついてくる。
フェズはカルンに指先を伸ばした。カルンがその指に体を寄せた。小さい。50センチの光の体。でもこの存在が隣にいるだけで、足が前に出る。
「・・・行こう。カルン」
カルンの旋律が鳴った。今度はさっきより少し長く。少し強く。怖いけれど、行く。フェズの隣で。
フェズは空を見上げた。西の暗さが、少し増した気がした。
太古の精霊を鎮める歌。そんなもの、歌ったことはない。
でもカルンが隣にいる。まだ弱い光。まだ回復途上の核。それでも——二人なら、何かが生まれるかもしれない。
丘の上で、風が吹いた。冷たい風だ。嘆きの渓谷の方角から。でもその風の中に、微かにカルンの旋律が混じっていた。小さな歌。怖いけれど、行く、と言っている歌。
フェズは立ち上がった。丘を降りる。皆が待っている。
明日、出発だ。