歌姫と共に   作:ぶるうず

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嵐の前

出発は翌朝と決まった。

 

ミストが宿の食堂で簡潔に告げた。嘆きの渓谷までの道のりと、必要な装備と、蛇の目の追手を想定した経路。ミストが話す間、誰も口を挟まなかった。カシルだけが焼き芋の代わりにパンを齧りながら頷いていたが、それ以外は皆、真剣な顔をしていた。

 

準備は夕方までに終わった。食料、水、武器の手入れ。ラリサが薬草を買い足し、ルセが剣の刃を丁寧に研いでいた。フェズも自分の剣を研いだ。トルニオに教わった手入れの手順。刃の角度、砥石の当て方。体が覚えている動きだった。

 

日が落ちて、宿場街に夜が来た。

 

各自が部屋に戻り、休む時間だった。明日は夜明け前に出発する。体力を温存しなければならない。分かっている。分かっているが——

 

眠れなかった。

 

フェズは窓辺に座っていた。カルンが肩の上にいる。宿場街の夜は静かだ。遠くで犬が吠えている。虫の声がする。普通の夜の音。

 

——その時だった。

 

遠くの空が、一瞬、暗い紫に明滅した。

 

フェズの体が強張った。見間違いではない。西の空——嘆きの渓谷がある方角。暗い紫の光が、雲の奥で脈打つように明滅した。稲光とは違う。もっと深い場所から滲み出てくるような、不吉な光だった。

 

カルンが反応した。

肩の上で光が激しく明滅した。普段の穏やかな揺れとはまるで違う。全身が震えている。フェズの肩に顔を押しつけるように——いや、体全体をフェズの首筋に寄せるように、身を縮めた。

「カルン——」

 

フェズが手を添えた。カルンの震えがフェズの指先に伝わる。怖い。何か巨大なものが、遠くで動いている。カルンはそれを、精霊として直接感じている。

 

廊下に足音がした。

バン、とドアが開いた。ルセだった。

「フェズ、今の見た? 西の空——」

「・・・ああ」

「何あれ」

 

ルセの声にはいつもの軽さがなかった。

続いてラリサが走ってきた。嵐の精霊が傍に浮いている。普段は穏やかに光っている嵐の精霊が——不穏に揺れていた。光の色が微かに濁っている。

 

「精霊たちが怯えてます」

ラリサの声は緊張していた。

「この感じ——嘆きの渓谷の方角からです。うちの子がこんなに動揺するの、見たことない」

 

廊下の奥から、ミストとカシルも現れた。二人とも寝ていなかったのだろう。ミストは外套を羽織ったまま、カシルは上着だけの姿だった。

 

「・・・始まった。蛇の目が封印を——」

 

その言葉を最後まで言い切る前に、もう一度、西の空が明滅した。今度はさっきより長い。紫の光が雲の底を舐めるように広がり、数秒かけて消えた。

 

全員が窓の外を見ていた。

 

カシルが腕を組んだ。朗らかな顔は、していなかった。

「急ぐべきだな。・・・明日の朝まで待てるか分からん」

ルセが振り返った。「今から出るの? 夜道は——」

ミストが首を横に振った。

「・・・夜明けを待つ。夜の山道を急いで全滅しては意味がない」

 

冷静だった。声に焦りはなかった。でもその目は、窓の外の紫の残光を追っていた。

 

「だが——猶予は少ない。明日、一刻でも早く出る」

 

誰も反論しなかった。紫の光が消えた後の夜空は、普通の夜よりも暗く見えた。

 

 

 

眠れるわけがなかった。

 

フェズは部屋を出た。カルンが肩の上にいる。廊下は暗い。宿の油灯が一つだけ、壁に揺れている。

 

外の空気を吸おうと裏口に向かった。扉を開けて——足を止めた。

 

カシルが壁に寄りかかっていた。

裏口の横の壁。腕を組んで、夜空を見上げている。フェズに気づいて、首だけこちらに向けた。

「眠れないか」

「・・・ああ」

「俺もだ」

 

カシルが笑った。いつもの朗らかな笑い方。でも——声が少し小さかった。

「7年前の前夜も眠れなかった」

 

フェズは壁に背中を預けた。カシルの隣。少し距離を空けて。夜空が見える。星が出ている。でも西の空だけ、星が見えない。暗い紫の雲が、薄く渦を巻いているのが遠くに見えた。

 

「カシルさん」

「ん?」

「怖くなかったのか。7年前」

 

カシルが少し間を置いた。星を見ていた。

「怖かったよ。死ぬほど怖かった」

 

あっさりと言った。

「ミストを悪者にしなきゃいけない。友達を。7年一緒にやってきた相棒を。——それが一番怖かった。死ぬことより」

 

フェズはカシルの横顔を見た。星明かりの下で、朗らかな顔が——少し違って見えた。笑ってはいる。でも目の奥に、古い痛みがある。

 

「でもな、フェズ。怖い時こそ笑う方が体が動く」

カシルがフェズの方を向いた。にっ、と笑って見せた。朗らかに。いつもの調子で。

「嘘でもいいから笑え。そうすれば足が前に出る。泣いたり震えたりするのは——全部終わってからでいい」

 

笑っている。朗らかに。

 

——でもその目は、笑っていない。

 

フェズにはそれが見えた。空の祠での精神世界を経て——人の痛みが、少しだけ見えるようになった。カシルの笑顔は防衛だ。怖い時に笑う。辛い時に笑う。7年前もそうやって笑って——友を悪者にして、自分は姿を消した。

 

「・・・カシルさんは、強いな」

「そうでもないぞ。焼き芋があれば大体なんとかなる」

「・・・嘘つけ」

 

フェズが言った。小さく。

カシルが目を丸くした。それから——本当に、少しだけ笑った。さっきまでの朗らかさとは違う、静かな笑い方だった。

 

「・・・見抜くなよ。年下に見抜かれるのは堪えるぞ」

「すまない」

「謝るな。——ありがとうの方がいい」

 

カシルが壁から背中を離した。伸びをした。大きな伸び。

「あの時は一人だと思ってた。俺が全部背負わなきゃいけないと思ってた。でもミストがいた。・・・お前には、もっと多いだろ」

 

フェズは宿の建物を振り返った。中にルセがいる。ラリサがいる。ミストがいる。そして肩の上に、カルンがいる。

「・・・ああ。多い」

「なら大丈夫だ」

 

カシルが歩き出した。宿の中に戻るのだろう。数歩歩いて、振り返った。

「フェズ。——寝られなくても、横になれ。体を休めるだけでいい。明日は長い」

「・・・分かった」

 

カシルが手を振って、裏口の中に消えた。

 

フェズはもう少しだけ夜空を見ていた。西の空の暗さ。あの先に、嘆きの渓谷がある。

カルンが肩の上で、小さく光を揺らした。フェズの首筋に温かみが伝わる。大丈夫。まだここにいる。

 

フェズは息を吐いた。白い息ではなかった。季節はまだそこまで寒くない。でも——西からの風は、冷たかった。

 

 

 

宿の一階、食堂の隅。

 

ルセとラリサが並んで座っていた。

テーブルの上にはお茶が二つ。宿の主人が気を利かせて置いていってくれたものだ。夜中に騒がしくしたことへの文句は言わなかった。西の空の紫光は、宿の主人にも見えたのだろう。

 

「・・・ルセさん、強くなりましたね」

ラリサが言った。お茶を両手で包んでいる。

「離れてる間に。なんか——雰囲気が違います」

ルセが横目でラリサを見た。

「あんたもでしょ。一人で各地回って。——よく無事だったね」

「わたしは調べてただけですよ。戦ってたわけじゃないし」

「調べるのだって命がけでしょ。蛇の目がうろうろしてる中を」

 

ラリサが少し照れたように笑った。お茶の湯気が揺れる。嵐の精霊がラリサの肩の近くでゆっくり光を明滅させている。さっきの動揺は少し落ち着いたようだが、まだ完全ではない。

 

「ルセさんこそ。フェズさんと二人で——色々あったんですね。カルンちゃんが肩の上にいるの見て、びっくりしました。前は胸の中に隠れてたのに」

 

ルセがお茶を一口飲んだ。

「・・・うん。色々あった。あいつが暴走して、カルンが壊れかけて。あたしが怒鳴って。——山の上で、二人とも変わった」

「いい変わり方ですか」

「たぶんね。まだ途中だけど」

 

ラリサが頷いた。そして——少し真剣な顔になった。

「ルセさん。明日の戦い——わたし、前に出ますね」

「え?」

「嵐の精霊がいますから。祠を全部回ってきた経験もありますし、遠距離支援は任せてください。蛇の目の構成員を拘束するのも、黒斑病の精霊を止めるのも——風の鎖でやれます」

 

ラリサの目が、好奇心とは違う光を帯びていた。覚悟の色だった。

 

ルセが少し驚いた顔をした。それから——笑った。

「頼りにしてる。ラリサ」

「はい!」

 

ラリサの声がいつもの元気さを取り戻した。でもすぐに声を落とす。夜中だ。

「・・・はい。任せてください」

 

二人はしばらく黙ってお茶を飲んだ。静かな食堂に、湯気が漂う。

 

「ねえ、ラリサ」

「はい?」

「フェズのこと——頼むね。あいつ、一人で背負い込む癖があるから」

 

ラリサが首を傾げた。

「わたしに言います? それ、ルセさんが一番近くにいるのに」

ルセが苦笑した。

「あたしが言っても、あいつ素直に聞かないの。でもラリサの言葉なら——なんか、違う角度から入るでしょ」

「それ、褒められてるんですか」

「褒めてる」

 

ラリサが嬉しそうに笑った。嵐の精霊が光をぽんと跳ねさせた。カルンみたいだ、とルセは思った。肩のピカがつられたように小さく光った。精霊って、持ち主に似るのかもしれない。

 

 

 

深夜。

 

フェズは部屋に戻っていた。

ベッドには横にならなかった。窓辺の椅子に座っている。膝の上にカルンがいる。

 

宿場街は静まり返っていた。さっきの紫の明滅以降、夜空は静かだった。でもその静けさが——かえって不気味だった。嵐の前の静寂だ。

 

カルンが——歌っていた。

微かに。弱い旋律。

 

精神世界の試練以降、カルンは時々こうして歌う。フェズに求められたからではない。歌いたいから歌う。カルン自身の意志で。それが、空の祠の後に変わったことの一つだった。

以前のカルンは、フェズが共鳴を求めた時だけ力を出していた。求められるまま、差し出していた。でも今は——カルンが自分で判断する。歌いたい時に歌う。止まりたい時に止まる。

 

フェズはその旋律を聴いていた。引き出さない。ただ聴く。

 

カルンの旋律は——不安だった。高い音が震えている。短いフレーズを繰り返して、途中で途切れる。怖いのだ。西の空で明滅した紫の光。あの先にいる、太古の狂った精霊。カルンはそれを、同じ精霊として感じている。

 

でも、旋律は止まらなかった。

途切れても、また始まる。震えていても、鳴り続ける。

その奥に——意志がある。怖いけれど、行く。フェズの隣で。

 

フェズは無意識に口を開いていた。

鼻歌。

何の曲でもない。カルンの旋律に合わせようとして——合っていない。調子外れだ。フェズは歌がうまくない。昔からそうだ。リトルネッロ村にいた頃も、祭りの歌をみんなと一緒に歌えば音を外す。

 

でも——歌った。

カルンの旋律に寄り添おうとした。音程は合わない。リズムもずれている。不協和音と言えばそうだ。でも——不協和音ではなかった。下手だけど、寄り添おうとしている音だった。

 

カルンの光がぽん、と跳ねた。

フェズの鼻歌に反応して——旋律が少しだけ変わった。フェズの音に合わせようとしている。二つの音が近づいて、離れて、また近づく。重なりきらない。でも重なろうとしている。

 

小さな歌だった。

弱い光と、下手な鼻歌。

 

窓の外の空が、遠くでまた暗い紫に明滅した。三度目。アポピスの夢が封印の隙間から漏れ出している。世界が震えている。渓谷の方角から、冷たい風が吹き込んでくる。

 

でもこの部屋の中では、小さな歌が鳴っている。

 

カルンが光を揺らしている。フェズの膝の上で。怖い。でも歌っている。

フェズも歌っている。下手な鼻歌で。何の力もない。鎮魂の歌なんてものとは程遠い。1000年前の歌い手が聞いたら笑うだろう。

 

でも——カルンが応えている。

 

それだけで、十分だった。

 

「・・・大丈夫。なんとかする」

 

フェズが呟いた。カルンに。自分に。

カルンの光がぽんと跳ねた。信じている、と言っているように。——いや、信じているのとも少し違う。一緒にやる、と言っている。お前だけに背負わせない、と。

 

フェズは窓の外を見た。

 

嵐の前の夜。

世界は震えている。西の空で紫の光が明滅するたびに、精霊たちが怯えている。嘆きの渓谷で、蛇の目が封印を壊そうとしている。太古の精霊が目覚めかけている。

 

でも歌はまだ鳴っている。

小さく。弱く。

 

この音が明日、世界を鎮める力になるのかは分からない。鎮魂の歌なんて歌ったことはない。1000年前の歌い手たちがどうやってアポピスを眠らせたのか、想像もつかない。

 

でも今は、この音だけでいい。

 

カルンがフェズの膝の上で光を揺らしている。小さな旋律を紡いでいる。フェズがそれに下手な鼻歌で応えている。二つの音が重なりきらないまま、寄り添っている。

 

明日が来る。夜明けとともに出発して、嘆きの渓谷に向かう。五人と一匹で。

 

カルンの旋律が、ゆっくりと静かになっていった。眠りに落ちるように——光が穏やかに揺れている。歌い終わったのではない。歌いながら、安心したのだ。フェズが隣にいるから。

 

フェズはカルンをそっと膝の上に乗せたまま、壁に背中を預けた。眠れはしないだろう。でもカシルが言っていた。横になるだけでいい。体を休めるだけでいい。

 

窓の外で、西の風が吹いている。

 

嵐の前の夜が、ゆっくりと更けていく。

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