歌姫と共に   作:ぶるうず

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出発

夜明け前に全員が起きていた。誰も起こす必要がなかった。

 

宿の一階に降りると、もうミストが食堂のテーブルに地図を広げていた。外套を羽織ったまま、油灯の弱い光で経路を指でなぞっている。その隣にカシルが座っていて——こちらは欠伸をかみ殺しながらパンを千切っている。

 

「・・・早いな」

フェズが声をかけると、ミストが顔を上げた。

「眠れたか」

「少しだけ」

 

嘘だった。一睡もしていない。でもカシルが言った通り、体を横にしていただけで少しは楽になった。肩の上でカルンが微かに光を揺らしている。カルンも眠れなかったのだろう。でも光は昨夜より安定していた。

 

ルセとラリサも降りてきた。ルセは剣を腰に差したまま、もう完全に旅装だった。ラリサは嵐の精霊を傍に浮かべて、小走りに食堂に入ってきた。

「おはようございます! ・・・って、皆さんもう揃ってますね」

ラリサの声が食堂に響いた。夜明け前の静けさには少し大きかったが、誰も気にしなかった。むしろ——少しだけ、空気が緩んだ。

 

ミストが地図を指した。

「嘆きの渓谷まで、ここからなら三日の道程だ」

全員がテーブルに視線を落とした。ミストの指が、宿場街から西へ伸びる道を辿っている。街道を外れ、山間の小道を抜けて、渓谷に至るルート。

「ただし、蛇の目の妨害がなければ」

 

カシルがパンを齧りながら頷いた。

「妨害はあるだろうな。連中も馬鹿じゃない。邪魔者が来ると分かれば迎撃する」

 

ルセが腕を組んだ。

「三日。封印はそれまで持つの?」

ミストが少し間を置いた。

「・・・分からない。だが、あの紫の明滅はまだ断続的だった。完全崩壊には至っていない」

 

昨夜の紫の光。カルンが震えた、あの不吉な明滅。あれがまだ断続的だということは——まだ間に合う可能性がある。

 

フェズは窓の方を見た。東の空が白み始めている。夜が明けようとしている。でも西の空は——嘆きの渓谷のある方角は、まだ暗かった。昨日の夜よりも暗い気がした。普通の夜明け前の暗さとは違う。何かが、あの方角で空を塞いでいる。

 

「行こう」

フェズが言った。短く。

 

五人が立ち上がった。荷物は昨日のうちに準備してある。食料、水、薬草、武器。必要なものは全て揃っている。あとは——歩くだけだ。

 

宿の扉を開けた。夜明け前の冷たい空気が頬を撫でた。街はまだ眠っている。石畳の道に足音だけが響く。

 

カルンがフェズの肩の上で、弱い光を朝焼けに透かして光らせていた。東の空に薄い橙色が滲み始めている。その光がカルンの体を通り抜けて、淡い金色に変わる。

 

五人と一匹が、歩き出した。

 

 

 

一日目の午後だった。

 

街道を外れて山間の小道に入っていた。ミストが先頭を歩いている。蛇の目の追跡網を避けるルートを知っているのはミストだけだ。獣道に近い細い道。両側に木々が茂り、頭上の枝が空を隠している。

 

「ミストさん、本当にこの道で合ってるんですか? 獣しか通らなそうですけど」

ラリサが後ろから声をかけた。

「・・・合っている。7年間、この辺りを歩き回った。蛇の目の連中が使う道も、使わない道も把握している」

ミストの声は低く静かだった。振り返りもせずに歩き続ける。

 

カシルがその後ろを歩きながら、肩をすくめた。

「ミストの方向感覚は昔から異常だったからな。一度通った道は忘れない。——便利な男だよ」

「・・・便利で悪かったな」

「褒めてるんだぞ」

 

カシルが笑った。ミストは答えなかったが、歩く速度が少しだけ落ちた。カシルの歩幅に合わせたのだろう。

 

ルセがフェズの隣を歩いていた。小声で言った。

「ねえ。あの二人、ずっとあんな感じ?」

「・・・たぶん」

「7年ぶりに会ったのに、もう息ぴったりじゃん。ちょっと羨ましい」

 

フェズは前を歩く二人の背中を見た。ミストの黒い外套と、カシルの軽装。歩幅が同じだった。長い付き合いの人間にしか出せない、自然な距離感。

 

カルンが肩の上で小さく光を揺らした。何か感じ取ったのかもしれない。精霊は人間の感情に敏感だ。

 

——その時だった。

 

ミストが足を止めた。

右手を上げた。全員が止まる。無言。

 

ミストの視線が木々の奥を射抜いている。耳を澄ませている。フェズも聴こうとした。風の音。鳥の声。虫の音。それ以外に——

枝を踏む音。

一つではない。複数。道の左右から。

 

「来たか」

カシルが呟いた。朗らかさが消えていた。声が低い。

「伏兵だな。道を読まれている」

ミストが静かに言った。

「・・・俺の動きを知っている連中がいる。長く追い続けた弊害だ」

 

木々の間から、人影が現れた。六人。蛇の目の構成員だった。黒い布で顔の下半分を覆い、腰に短剣を差している。明らかにフェズたちを待ち伏せしていた。

 

先頭の男が叫んだ。

「やはりこの道か、ミスト! ——足止めさせてもらうぞ!」

ミストが外套の下から剣を抜いた。

 

一瞬だった。

 

ミストが地を蹴った。先頭の男が剣を構える暇もなかった。ミストの体が影のように滑り込み、男の手首を掴んで捻り——短剣が宙を舞った。続けて二人目の脇腹に肘を叩き込む。二人が同時に地面に崩れ落ちた。

 

元組織のリーダー格。その戦闘力は、圧倒的だった。相手の動きを先読みしている。どこに踏み込むか、どの腕で受けるか——全部、読んでいる。

 

カシルも動いていた。

残りの四人のうち一人がカシルに向かって斬りかかった。カシルが半身をずらして避ける。軽やかに。踊るように。

「大丈夫だ、殺しはしない」

朗らかに言いながら、相手の剣を下から叩き上げた。武器が手から弾け飛ぶ。がらん、と地面に落ちる音。相手が呆然としている間に、カシルが肩を押して地面に座らせた。

 

動きは軽い。でもその軽さの中に——かつて勇者と呼ばれた実力が、確かにあった。

 

「ラリサ!」

ルセが叫んだ。左側から二人が同時に飛び出してきた。

ラリサの嵐の精霊が反応した。

 

風が唸った。ラリサの手が前に伸びる。嵐の精霊の光が一瞬膨れ上がり——風の鎖が二人の構成員の体を巻き取った。腕を縛り、足を絡め、地面に押さえつける。暴れようとしても、風の拘束は解けない。

 

精霊使いとしての最強格。その片鱗が見えた瞬間だった。

 

残り一人。

そいつはフェズとルセの方に向かっていた。

ルセが先に切り込んだ。剣を引き抜きながら踏み込む。速い。相手が防御に回る。剣と短剣がぶつかる甲高い音。

 

フェズが横から回り込んだ。カルンが肩の上で短い旋律を紡いだ。弱い音。でも——意図がある。

旋律が地面を走った。

敵の足元の砂利が弾け飛んだ。小さな衝撃波。大した威力じゃない。でも——足場が崩れた。構成員の体勢が一瞬だけ乱れる。

その一瞬を、ルセは逃さなかった。

剣の腹で相手の手首を打った。短剣が落ちる。続けて蹴りを入れて、地面に転がした。

 

終わりだった。

六人全員が地面に転がっている。あっという間だった。

 

ルセが剣を収めながら、蹴飛ばした男を見下ろした。

「弱い。本隊じゃないね」

ミストが構成員の一人の腕を縛りながら、静かに頷いた。

「偵察と時間稼ぎだ。本隊は嘆きの渓谷にいる。幹部もいるだろう」

 

幹部。

 

その言葉に、フェズの脳裏に顔が浮かんだ。

穏やかな笑みと冷たい目。丁寧な言葉遣いの奥に潜む、底のない執着。

 

——ヴェーノ。

 

あの男も、嘆きの渓谷にいるのだろうか。

 

カルンが肩の上で光を縮めた。フェズの感情を感じ取ったのだ。不安ではない。もっと複雑な何かだった。因縁。セルペ高原で初めて出会い、スコルダの廃砦でカルンを奪われかけた男。

 

フェズは頭を振った。今考えることじゃない。まずは渓谷に着くことだ。

 

「・・・行こう。ここに長居するのは良くない」

ミストが立ち上がった。縛り上げた構成員たちをそのまま木に括り付ける。これ以上追っては来られないだろう。

 

五人が再び歩き出した。

 

 

 

日が傾き始めていた。

 

山間の小道を抜けて、少し開けた尾根道に出た。西に向かって歩いている。西の空が——やはり暗い。夕焼けとは違う暗さが、遠くの空に滲んでいる。嘆きの渓谷に近づいている証拠だった。

 

不思議な空気があった。

五人で歩いている。数日前まではフェズとルセの二人旅だった。カルンを入れても三人。それが五人と一匹になった。

 

ラリサがカシルの横を歩いていた。好奇心が止まらないのだろう。質問攻めにしている。

「カシルさん、勇者って本当にあの戦い方するんですか? さっきの、ひょいって避けるやつ」

「ひょい、じゃないぞ。あれは計算だ。相手の重心と踏み込みの角度を見て——」

「でもひょいって感じでしたよ!」

「・・・まあ、ひょいでもいいけど」

 

カシルが笑った。ラリサが畳みかける。

「竜って大きいんですか? 伝説の精霊って呼ばれてますけど、やっぱりこう——ドーンって」

「竜はな、思ったより小さいぞ。人間と同じくらいだ」

「え、嘘です!」

「嘘じゃない。でかいのは存在感だけだ。あいつらは喋るからな。口が達者で困る」

 

ラリサが目を輝かせていた。トルニオの弟子として英雄戦争の話は聞いていただろうが、当事者から直接聞くのは初めてだ。精霊学を学んできた人間にとって、伝説の精霊の話は何よりの宝だろう。

 

ミストが黙々と先を歩いている。でもカシルとラリサの会話を聞いて——ほんの少し、口元が緩んでいた。7年間、一人で蛇の目の残党を追い続けてきた男だ。こうやって複数人で歩くこと自体が、久しぶりなのかもしれない。

 

ルセがフェズの隣を歩いていた。

「ねえ、フェズ。なんか——変な感じしない?」

「変?」

「こんなに人がいるの。旅が始まってから——あんたとカルンとあたしだけだったのに」

 

フェズは周りを見た。前を歩くミストとカシル。その横でラリサが身振り手振りで何か語っている。嵐の精霊がラリサの肩の近くで呑気に光っている。

「・・・ああ。確かに」

「悪くないけどね。にぎやかで」

 

ルセの声はいつもの調子だった。からかうような、でも本心を滲ませた言い方。

カルンがルセの方を向いて光を揺らした。同意するように。ぽん、と跳ねる光。ルセがそれを見て、ふっと笑った。

「カルンもそう思うんだ。——よかった」

 

フェズは空を見た。

西の空の暗さが、少し増している気がした。あの暗さの下に、嘆きの渓谷がある。蛇の目の本隊がいる。幹部がいる。そして——封印が、壊れかけている。

 

あと二日。

 

カルンが肩の上で光を絞った。あの暗さを見ているのだ。精霊として、あの先にいるものの気配を感じている。怖い。でも——光は消えない。

フェズはカルンに手を添えた。守るためじゃない。隣にいるために。

 

ラリサの笑い声が聞こえた。カシルが何か冗談を言ったらしい。ミストが肩を竦めている。ルセが「何の話?」と前に駆け寄っていく。

 

にぎやかだった。最終決戦に向かう道のりにしては——妙に、にぎやかだった。

でもそれが悪いとは思わなかった。

 

フェズは歩いた。五人の中で。カルンが肩の上にいる。弱い光。まだ回復途上の核。それでも——ここにいる。

 

嘆きの渓谷まであと二日。

五人と一匹。旅の始まりは——一人と一匹だった。リトルネッロ村で、カルンと出会ったあの日。追われている精霊を、ただ庇った。それだけだった。

いつの間にか、こんなに増えた。

 

心強い。でも同時に——この全員を守り切れるのか、という考えが頭をよぎった。

 

いや。

守る、じゃない。

一緒に行くんだ。

 

カシルが言っていた。「一人だと思ってた。でもミストがいた。お前には、もっと多い」と。

 

守るんじゃない。背負うんじゃない。一緒に歩いて、一緒に戦って、一緒に帰ってくる。それが——空の祠で、カルンと見つけた答えだ。

 

そう思い直すのに、まだ少し時間がかかる。頭では分かっていても、胸がすぐには追いつかない。

でもいい。歩きながら追いつけばいい。嘆きの渓谷まで、まだ二日ある。

 

西の風が吹いた。冷たい風。渓谷の方角からの風。でもフェズの肩の上で、カルンが小さく光を揺らしていた。寒いとか、怖いとか、そういうんじゃない。ただ——ここにいる、と言っている光だった。

 

フェズは前を向いた。

 

西の空は暗い。あの先に、嘆きの渓谷がある。太古の精霊が眠っている場所。蛇の目が封印を壊そうとしている場所。

 

でも今は——この道を歩く。五人で。一匹と一緒に。

 

足が、前に出る。

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