歌姫と共に   作:ぶるうず

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渓谷の入口

三日目の朝、嘆きの渓谷が見えた。

 

空が、黒かった。

 

高台の上に立ったフェズの足が止まった。隣でルセも、ラリサも、カシルも——全員が、同じ方向を見ていた。

 

嘆きの渓谷。大陸の中央西部に刻まれた巨大な裂け目。7年前に戦争が終わり、1000年前に太古の精霊が眠った場所。

その上空に、暗い紫の雲が渦を巻いていた。

 

普通の雲じゃない。重く、厚く、ゆっくりと渦を描きながら渓谷の真上に蓋をしている。雲の奥から断続的に黒い光が明滅していた。脈打つように。何かが呼吸しているように。

 

「・・・あれが」

 

フェズの声は、自分でも聞こえないくらい小さかった。

 

アポピスの意識だ。封印の隙間から溢れ出している。3日前に宿場街から見えた紫の明滅は、こんなものじゃなかった。あの時はまだ遠くの空がちらついている程度だった。今は——渓谷の上空を丸ごと覆い尽くしている。

 

渓谷の周囲に、黒い影が見えた。動いている。ゆっくりと、あてもなく彷徨うように。

 

ラリサが望遠用の共鳴を嵐の精霊に頼んだ。目を細めて——顔から血の気が引いた。

「黒斑病の精霊たちです。十体以上います。目が真っ黒で、体の表面に黒い斑点が・・・正気を完全に失ってます」

ラリサの声が震えていた。各地で黒斑病を調査してきたラリサだからこそ、あの数が異常だと分かるのだろう。

 

「こんなに・・・」

 

カルンが震えていた。

フェズの肩にしがみつくように体を縮めて、光が不規則に明滅している。怯えている。同族の精霊たちが狂わされ、あの渓谷の周りを彷徨っている。その原因が——封印の奥にいる太古の存在の狂気だと、精霊であるカルンは本能で分かっている。

 

「カルン」

 

フェズはカルンに手を添えた。撫でるのでもなく、隠すのでもなく。ただ触れた。ここにいる、と。

カルンの震えが少しだけ収まった。光がまだ揺れている。でも——フェズの肩から離れなかった。

 

ミストが渓谷の全景を見渡していた。その目は冷たく、正確に状況を読んでいる。

「封印はまだ完全には破られていない」

「・・・分かるのか」

「あの雲の渦の中心が、まだ閉じている。完全に崩壊すれば——渦が開く。そこからアポピスの本体が出てくる。今はまだ意識が漏れ出しているだけだ」

「だけ、って——あれで?」

 

ルセが信じられないという顔をした。あの禍々しい紫の雲、十体以上の黒斑病の精霊。あれでまだ「意識が漏れ出しているだけ」だという。完全に目覚めたら——想像もしたくない。

 

ミストが頷いた。

「だがかなり危うい。蛇の目が渓谷の中で儀式を続けているはずだ。時間がない」

 

カシルが腕を組んで、渓谷の方を見ていた。朗らかな表情は消えていた。目が鋭い。かつて勇者と呼ばれた男の目だった。

「急ぐぞ。あの雲の下に入ったら——精霊たちは全員影響を受ける。ラリサの精霊も、カルンも」

 

ラリサの嵐の精霊が不穏に揺れた。ラリサが精霊に手を伸ばして、なだめるように光を撫でた。

「大丈夫です。うちの子は上級ですし、わたしとの絆は深い。でも——長時間は、分かりません」

 

正直な言葉だった。精霊使いの最強格であるラリサですら、あの圧力の中でどこまで精霊を守れるか分からない。

 

フェズはカルンを見た。カルンは上級でもない。音楽の精霊という稀少な存在ではあるけれど、力そのものはまだ回復途上だ。あの雲の下に入ったら——

 

カルンがフェズを見返した。光が揺れている。怖い。でも目は逸らさない。

行く、と言っている。

 

「・・・ああ。一緒に行こう」

 

フェズが小さく呟いた。

 

 

高台の岩陰に移動して、簡易的な作戦会議が始まった。

 

ミストが地面に枝で渓谷の略図を描いた。渓谷の入口、中間地点、そして最深部。

「蛇の目の本隊が渓谷の中にいる。首領もいるだろう。幹部も。数は——恐らく二十から三十」

「二十から三十」ルセが繰り返した。「あたしたち五人でそれを?」

「全員を相手にする必要はない」

 

カシルが言った。渓谷の略図を指で辿りながら。

「俺とミストで蛇の目の本隊を抑える。ルセ、ラリサ、お前たちにも加わってもらう。蛇の目の儀式を止めるのが先だ」

「で、フェズは?」

 

カシルの視線がフェズに向いた。

「フェズは——封印の核に行く。アポピスに歌を届けるために」

 

全員の視線がフェズに集まった。カルンにも。

静かだった。風だけが吹いている。渓谷の方角からの、冷たい風。

 

「一人で行くのか」

 

フェズが言った。声が乾いていた。

「そうだ。封印の核は渓谷の最深部にある。蛇の目の連中を排除しながらそこに辿り着くのは効率が悪い。俺たちが蛇の目を引きつけている間に、お前が奥に進む」

 

ミストが補足した。

「・・・途中まで俺が案内する。渓谷の構造は頭に入っている。入口から中間地点までは一本道だ。そこで分岐がある。本隊がいるのは東の広場。封印の核は西の最深部。中間地点まで連れていく。そこから先は——」

「一人で行く」

 

フェズが自分で言った。

 

カシルがフェズを見た。朗らかさの欠片もない、真っ直ぐな目で。

「怖いか」

「・・・怖い」

 

嘘をつく意味がなかった。太古の精霊。1000年前から封印されている狂った大精霊。その前に立って——歌を歌う。そんなこと、怖くないわけがない。

 

「でも——これが俺にしかできないことだ」

 

カシルが小さく笑った。初めて、作戦会議の間で見せた笑み。

「・・・ああ。そうだ」

 

ラリサが手を挙げた。

「あの、一つ確認なんですけど。フェズさんが封印の核に向かうとき、黒斑病の精霊にぶつかる可能性は?」

「高い。渓谷の中は黒斑病の精霊が溢れている。最深部に近いほど密度が上がるはずだ」

 

「カルンちゃんがいれば——いえ、カルンちゃんの状態を考えると、戦闘は最小限にしないと」

 

ラリサの声に焦りがあった。精霊学を修めた人間として、カルンの核がまだ回復しきっていないことを分かっている。

 

フェズがカルンを見た。カルンが光を揺らした。弱い。02話で新しい共鳴を試した時と同じくらいの強さしか出せない。長時間の戦闘は無理だ。

「・・・避けられるなら避ける。戦うのは最後の手段だ」

 

ルセが言った。

「あたしが途中まで一緒に行く——ってのは?」

 

カシルが首を振った。

「ルセ、お前の力は蛇の目の本隊を止めるのに要る。お前は正面突破力がある。ラリサの遠距離支援と合わせれば、二十人相手でも時間は稼げる」

 

ルセが唇を噛んだ。分かっている。分かっているけど——フェズを一人で行かせることに、納得しきれない顔。

「・・・分かった」

 

短く、低い声でルセが言った。

 

ミストが立ち上がった。枝で描いた略図を足で消す。

「作戦は以上だ。——出発する前に、少し時間を取る。各自、準備を」

 

 

高台の端で、フェズは渓谷を見下ろしていた。

 

紫の雲が渦を巻いている。黒い光が明滅する。黒斑病の精霊たちが彷徨っている。

あの下に、これから降りていく。一人で。カルンと二人で。

 

ルセが後ろから歩いてきた。足音で分かった。ルセの歩き方は特徴がある。速くて、迷いがない。

「フェズ」

 

振り返った。ルセが立っていた。剣を腰に差したまま。旅装のまま。でも——表情だけが、いつもと違った。

「帰ってきなさいよ」

「・・・ああ。約束する」

「三回目だからね、この約束」

 

ルセが指を三本立てた。

「破ったら三倍殴るから」

「・・・殴るのか」

「当然でしょ。約束破りには制裁が必要なの」

 

フェズは笑った。少しだけ。ルセも笑った。

 

でも二人とも——目は笑っていなかった。分かっている。これが一番危険な戦いだと。今までの蛇の目との戦闘や、祠の試練とは次元が違う。相手は太古の大精霊だ。鎮めるためとはいえ、その前に立つということは——

 

「フェズ」

 

ルセの声が少し低くなった。

「あんた、前みたいに一人で抱え込むなよ。カルンがいるでしょ。二人で行くんでしょ」

「・・・ああ」

「ならいい」

 

ルセが踵を返しかけて——振り返った。

「あたしもね。あっちで暴れるから。蛇の目の連中、全部叩きのめしてやる。だから——安心して奥に行きな」

 

フェズは頷いた。ルセの背中を見送った。強い背中だった。旅の始まりの頃は生意気で自己中で、でもいつの間にか——この背中を信頼している自分がいた。

 

足音が聞こえた。今度は軽い。小走り。

「フェズさん!」

 

ラリサが駆け寄ってきた。手に小さな巻物を持っている。

「あの、わたし、精霊学で知ってること全部まとめたんですけど、大精霊級の存在に共鳴で干渉するには、まず相手の核の振動周期を読み取って、それに調和する周波数で——」

 

早口だった。ラリサの悪い癖だ。テンションが上がると止まらなくなる。フェズは半分も理解できなかった。核の振動周期、調和周波数、共鳴干渉域——精霊学の専門用語が次々に飛んでくる。

「ラリサ、待ってくれ。・・・全部は覚えられない」

「あ、ですよね・・・」

 

ラリサがしょんぼりした。でもすぐに顔を上げた。目が輝いている。

「大丈夫です! カルンちゃんが分かってくれますよ! カルンちゃんは音楽の精霊なんですから、共鳴のことは本能で——」

 

ラリサがカルンの方を見て笑った。真っ直ぐな笑顔。精霊を信じている人間の顔だった。

カルンの光がぽんと跳ねた。ラリサに応えるように。

「——だから、フェズさんはカルンちゃんを信じてください。それだけで十分です」

 

フェズは巻物を受け取った。読めなくても、持っておく。ラリサの気持ちごと。

「・・・ありがとう、ラリサ」

 

ラリサが嬉しそうに頷いて、走っていった。嵐の精霊がその後を追うように浮かんでいく。

 

次に来たのはカシルだった。

 

歩いてきて、フェズの隣に立った。同じ方向を見た。紫の雲。黒い渓谷。

「大丈夫だ」

 

カシルが言った。朗らかに。いつもの口調で。

「——お前はもう、十分やれる」

 

フェズはカシルの横顔を見た。笑っている。でもフェズには分かる。前の夜にカシルが教えてくれたことだ。怖い時こそ笑う。嘘でもいいから笑え。そうすれば足が前に出る。

カシルの目は、笑っていなかった。

 

でもその目が——信じている、と言っていた。会って数日の、辺境出身の若い巡祠者を。音楽の精霊と共に歩く少年を。

 

「・・・ありがとうございます、カシルさん」

「礼は帰ってきてからだ。——焼き芋、奢ってやるよ」

 

フェズは少し笑った。カシルが肩を叩いて、離れていった。軽い足取り。でもその背中に——7年分の重さが乗っている。フェズにはそれが見えた。

 

最後に、ミストが来た。

 

来た、というより——いつの間にかそこに立っていた。気配を消すのが上手い男だ。

「・・・フェズ」

 

小さな声で名前を呼んだ。ミストの癖だ。相手の名前を、小さく呼ぶ。

「中間地点まで案内する。そこから先は一人だ。渓谷の最深部まで——走れば四半刻ほどだ。道は一本道になる。迷うことはない」

 

実務的な情報。ミストらしい。

「・・・ああ」

 

ミストが少し間を置いた。言葉を選んでいるのだ。いつもそうだ。この男は、言葉を慎重に選ぶ。

「・・・信じている」

 

短かった。たった四文字。でも——フェズは息を吸った。

 

ミストが「信じている」と言うことの重みを、感じた。この男は七年間、一人で戦い続けてきた。誰も信じず、誰にも頼らず、蛇の目の残党を追い続けた。その男が——信じている、と言った。

 

「・・・ありがとう、ミスト」

 

ミストは何も言わずに踵を返した。背中が遠ざかっていく。黒い外套が風に揺れていた。

 

 

みんなが離れた後、フェズは一人になった。

 

一人と——一匹。

 

カルンが肩の上にいる。弱い光。でも消えてはいない。

 

フェズは渓谷を見た。紫の雲。黒い光。あの下に、アポピスがいる。太古の大精霊。1000年前に狂い、封印された存在。その狂気が精霊たちを蝕んでいる。黒斑病の原因。

そして——あの下に、蛇の目がいる。封印を壊そうとしている。

 

「カルン」

 

呼びかけた。声で。共鳴ではなく。

カルンがフェズを見上げた。弱い光の中に、小さな意志がある。

 

「怖いな」

カルンの光が一回揺れた。怖い。正直な応答。

「でも行く。——お前はどうだ」

 

カルンの光が揺れた。一度、二度。そして——短い旋律が鳴った。

 

弱い音。かすかな、消え入りそうな音。でも——意志がある。行く、と言っている。怖いけれど。フェズの隣で。

 

フェズの胸に何かが込み上げた。

 

精神世界の試練で見つけた答え。守るのではなく、隣に立つ。引き出すのではなく、一緒に歌う。

あの時は分かったつもりだった。でも——本当に試されるのは、ここだ。

 

太古の精霊の前で、歌を歌う。そんなこと、本当にできるのか。鎮魂の歌なんて、聞いたこともない。形も分からない。歌詞もない。旋律もない。

あるのは——カルンの光と、自分の下手な歌だけだ。

 

嵐の前の夜に、部屋で歌った鼻歌。調子外れの、何の曲でもない旋律。カルンがそれに応えて、光を揺らした。下手で、弱くて、でも——寄り添おうとしていた。

あれが、鎮魂の歌になるのだろうか。

 

分からない。

でも——行く。

 

「行こう、カルン」

 

フェズが立ち上がった。

「一緒に」

 

カルンの光がぽんと跳ねた。一緒に、と。

 

 

五人が渓谷に向かって歩き出した。

 

高台を降りて、渓谷に続く坂道に入った。地面が乾いている。草が枯れている。精霊の気配が希薄だ。アポピスの圧力が、周囲の精霊を追い払っているのだろう。

 

近づくにつれて、空が暗くなっていく。紫の雲が頭上に迫ってくる。重い。息が詰まるような圧迫感。

 

カルンが肩の上で身を縮めた。震えている。でも——光は消さない。

ラリサの嵐の精霊も不穏に揺れていた。ラリサが精霊の光を撫でながら、小さな声で何かを囁いている。なだめているのだ。

 

ミストが先頭を歩いている。迷いのない足取り。この道を知っているのだ。七年前、ここで戦争が終わった。この男はその当事者だった。

カシルがミストの隣を歩いている。二人の歩幅が同じだった。七年前も——こうやって並んで歩いたのだろうか。

 

ルセがフェズの横にいた。何も言わない。ただ一緒に歩いている。

 

渓谷の入口が見えた。

 

巨大な岩壁が左右にそびえている。その間を、細い道が奥へと続いている。道の向こうは暗い。紫の光が断続的に明滅して、岩壁を不気味に照らしている。

 

入口の手前で、ミストが足を止めた。

全員が止まった。

 

風が吹いた。渓谷の奥からの風。冷たくて、重い。精霊の気配が混じっている。狂った精霊たちの、苦しみの気配。

 

カルンが震えた。フェズの肩にしがみついた。

フェズはカルンに触れた。

「大丈夫だ」

 

嘘かもしれない。でも——言った。カシルが教えてくれたことだ。嘘でもいいから言え。そうすれば足が前に出る。

 

ミストが振り返った。全員を見渡した。

「・・・ここからが、本番だ」

 

カシルが笑った。

「ああ。——行こうか」

 

朗らかに。怖い時こそ笑う男が、笑って見せた。

ルセが剣の柄に手をかけた。ラリサが嵐の精霊を前に出した。

 

フェズが一歩を踏み出した。

 

嘆きの渓谷。七年前に戦争が終わり、1000年前に太古の精霊が眠った場所。

今、そこに踏み込もうとしている。一人の巡祠者と、一匹の音楽の精霊と、四人の仲間と。

 

歌って鎮める。そんなこと本当にできるのか分からない。鎮魂の歌の形も知らない。太古の精霊の狂気を前にして、自分の声が届くのか分からない。

 

でも——行く。

行くしかない。

 

カルンが隣にいる。弱い光。まだ回復途上の核。それでも——一緒にいる。一緒に行く。

 

足が前に出る。

 

紫の闇の中へ。五人と一匹が、歩き出した。

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