歌姫と共に   作:ぶるうず

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渓谷の中へ

渓谷に踏み込んだ瞬間、空気が変わった。

 

外とは別の場所に来た、と体が分かった。呼吸が苦しいわけじゃない。肺に入る空気はちゃんと空気だ。でも——肌の上を這う何かがある。冷たくて、重くて、ぬるぬると纏わりつくような。

 

瘴気だ。

 

アポピスの意識が霧のように漂っている。目に見えない。でも精霊的な圧迫感が——全身にのしかかっている。

 

カルンが肩にしがみついた。光が激しく明滅していた。不規則に、短く、長く。苦しんでいるのだ。精霊にとってこの瘴気は、人間が感じる重い空気なんかじゃない。直接的な圧力。同族の狂気が——同族の精霊に突き刺さっている。

 

「カルン」

 

フェズはカルンに手を添えた。守るためじゃない。ここにいると伝えるために。カルンの震えが少しだけ収まった。光はまだ明滅している。でも——フェズの肩を離れなかった。逃げなかった。

 

ラリサの嵐の精霊も光を不穏に揺らしていた。ラリサが精霊の光に手を当てて、低い声でなだめている。

 

「精霊たちが圧迫されてます。アポピスの意識が精霊に直接干渉してるんです。長くは・・・」

 

ラリサの声が途切れた。言い切れなかったのだろう。精霊使いの最強格であるラリサでも、この瘴気の中で精霊を守りきれる保証はないのだ。

 

「どれくらい保つ」

 

カシルが聞いた。ラリサが嵐の精霊の光を見た。計算するように目を細めて、それから首を横に振った。

 

「分かりません。うちの子は上級ですから、しばらくは平気です。でもカルンちゃんは・・・」

 

ラリサがカルンを見た。カルンの光はまだ不安定に明滅している。核がまだ回復途上だ。瘴気への耐性は低い。

 

「・・・急ごう」

 

フェズが言った。

 

ミストが先頭を歩いていた。迷いのない足取り。渓谷の内部構造を知り尽くしている。七年前にここで戦争を終わらせた男は、暗い道の中でも迷わなかった。

 

岩壁に挟まれた細い道が続いている。幅は三人が並べる程度。上を見上げれば、切り立った岩壁の間から紫の空が覗いている。空なのか雲なのか分からない。渓谷の上に蓓をした紫の雲が、すぐそこにある。近い。手を伸ばせば届きそうなほど。

 

黒い光が断続的に明滅した。渓谷の奥から脈打つように。岩壁を照らして、消えて、また照らす。心臓の拍動みたいだった。そのたびに足元の砂利が微かに震える。

 

「声を落とせ」

 

ミストの低い声。足を止めずに、前を向いたまま。

 

「・・・この先に黒斑病の精霊がいる」

 

全員の足音が変わった。意識して静かに踏み始める。カシルが剣の鞘に手を当てて揺れを止めた。ルセが息を浅くした。

 

フェズは前方を見た。岩壁の間を曲がった先——道が少し広がっている場所に、二つの影が見えた。

 

 

 

黒斑病の精霊が二体。

 

ゆらゆらと、あてもなく彷徨っている。正気を失っているのがすぐに分かった。動きに意思がない。風に揺れる枯れ枝のように、ただ揺れている。目が黒く濁っていた。体の表面に黒い斑点が浮かんでいる。元は普通の精霊だったのだろう。風の精霊か、地の精霊か——今は判別もつかない。アポピスの狂気に汚染されて、こうなった。

 

道を塞ぐように二体が浮かんでいる。

 

「避けられるか?」

 

カシルが低い声で言った。ミストが周囲を見回した。左の岩壁に——棚のような段差がある。人一人が通れる幅の岩棚が、精霊たちの上方を迂回するように続いていた。

 

「左の岩棚を使えば回り込める。だが音を立てると気づかれる」

「戦った方が早くない?」

 

ルセが岩棚を見上げながら言った。

 

「ルセ、駄目だ」

 

カシルが即座に首を振った。

 

「黒斑病の精霊は正気を失っている。際限なく暴れる。二体を倒す間に音が渓谷中に響えて、他の黒斑病の精霊を呼び寄せる」

 

ミストが頷いた。

 

「・・・それに。あれは敵じゃない。汚染された被害者だ」

 

フェズの胸に、その言葉が刺さった。被害者。あの精霊たちは、アポピスの狂気に巻き込まれた被害者だ。倒す相手じゃない。

 

「・・・ミストの言う通りだ。避けよう」

 

フェズが言うと、ルセが一瞬フェズを見て——小さく頷いた。

 

五人が視線を交わした。

 

ミストが先に岩棚に手をかけた。音を立てずに体を引き上げる。身のこなしが軽い。影から㽽へ移動するような動き。カシルが続く。体が大きい分慎重に、でも確実に。ルセ、ラリサの順。

 

フェズが最後だった。

 

岩棚に足をかける前に、カルンを見た。カルンの光が——変わった。明滅していた光が、ゆっくりと弱まっていく。弱まるのではなく——カルンが自分の意志で、光を極限まで落としている。精霊の気配を消すために。フェズは言われなくても分かった。カルンが何をしようとしているか。

 

頷いた。言葉はいらなかった。

 

岩棚を週うように進む。狭い。左は岩壁、右は二メートルほど下に黒斑病の精霊がいる。岨肌が湿っている。手のひらが滑る。足を滑らせたら——考えるな。一歩ずつ。

 

ミストが前方で手を上げた。止まれの合図。全員が凍りつく。

 

下の精霊の一体がこちらの方を向いた。黒い目。濁った、空っぽの目。何も映していない。でも——何かを感じ取っている。

 

息を止めた。全員が。

 

精霊がゆっくりと首を傾げた。ぎこちない動作。壊れた人形みたいだった。

 

前を行くラリサの靴底が——小さな砂利を踏んだ。

 

ジャリ、と。

 

かすかな音。フェズの心臓が跳ねた。精霊の黒い目が、まっすぐこちらを向いた。

 

動くな。誰も動くな。

 

ラリサが動いた。嵐の精霊に視線で合図を送る。精霊が微かな風を起こした。ほんの一瞬の——反対側の岩壁に向かう、か細い風。岩壁の窪みに溜まっていた砂利を散らす。カラン、と小さな音が響いた。

 

黒斑病の精霊がそちらを向いた。もう一体もつられるように同じ方向を見た。

 

——今だ。

 

五人が音を殺して岩棚を進む。一歩、また一歩。息を止めたまま。カルンの光はほとんど消えていた。気配がない。精霊がいないかのように。フェズの肩の上で、体を丸くして、じっとしている。

 

通り抜けた。

 

岩棚を降りたとき、フェズの手が震えていた。緊張で。ルセが隣に降りてきて、ふっと息をついた。

 

「・・・心臓止まるかと思った」

 

小さな声でルセが言った。ラリサが胸に手を当てて、もう片方の手で嵐の精霊を撫でている。「よくやったね」と無言で。精霊の光がぽんと跳ねた。

 

フェズは通り過ぎてきた方を振り返った。黒斑病の精霊が二体、まだゆらゆらと揺れている。正気を失った目。黒い斑点に覆われた体。

 

——元は普通の精霊だ。

 

あの精霊たちを狂わせたのは、これから鎮めに行く相手だ。アポピスの狂気が、精霊たちをあんなふうに壊した。壊したくて壊したんじゃない。狂っているから。1000年も封印されて、正気を保てなくなったから。

 

カルンが光を少しだけ戻した。弱い光。でも——さっきよりも強い意志がある。同族の精霊が壊されている姿を、カルンも見た。

 

フェズはカルンに手を添えた。

 

「・・・行こう」

 

カルンの光が一度揺れた。行こう、と。

 

 

 

岩壁の間の細い道をどれくらい歩いただろう。

 

曲がり角を幾つも越えて、上り坂を登って、下り坂を降りた。ミストが迷いなく先導する。暗い渓谷の中で、紫の光だけが道を照らしていた。

 

途中、カシルがフェズの隣に並んだ。

 

「フェズ」

「・・・はい」

「さっきの——精霊は敵じゃない、って。お前、ちゃんと分かってるな」

 

カシルの声は小さかった。朗らかさはないが、穏やかだった。

 

「・・・当たり前です。あの精霊たちは、ただ巻き込まれただけだ」

「ああ。7年前の俺は——そこまで考える余裕がなかった。目の前の敵を倒すことしか頭になくて」

 

カシルが少し笑った。自嘱するように。

 

「お前が封印の核に行く理由は、そこにあるんだろうな。倒すんじゃない。鎮めに行く」

 

フェズは答えなかった。答える代わりに、肩の上のカルンに視線を落とした。カルンの弱い光が揺れている。

 

それが——唐突に開けた。

 

岩壁が左右に後退して、広い空間に出た。天井が高い。渓谷の裂け目が広がって、紫の空が大きく見える。地面は平らな岩盤で、五人が並んでもまだ余裕がある。

 

中間地点だ。ミストが言っていた分岐点。左——東の方角に道が続いている。右——西の方角にも道が続いている。

 

東の方角から、音が聞こえた。金属音。微うな怒号。遠い。でも確かに——人間の声と、剣がぶつかる音。

 

「・・・蛇の目の本隊だ」

 

ミストが東を見た。目が細くなっている。

 

「もう動いてやがるな」

 

カシルの声に朗らかさはなかった。東の音に耳を澄ませている。顔が硬い。七年前と同じ音を聴いているのだろう。

 

フェズは西を見た。沈黙。暗い道が奥に続いている。紫の光が——奥の方から脈打っている。遅く、重い拍動。心臓の鼓動のように。封印の核がある方向。西の道は、静かだった。静かで——暗い。そしてその暗さの奥から、精霊的な圧力が波のように押し寄せてくる。カルンの光がまた激しく揺れた。

 

ミストがフェズの方を向いた。

 

「ここで分かれる」

 

短い言葉。分かっていたことだ。作戦会議で決めたことだ。でも——実際にここに立つと、胸が締まった。

 

「フェズ、西の道を真っ直ぐだ。一本道。迷わない」

「・・・ああ」

 

ミストが少し間を置いた。言葉を選んでいる。いつもの癛。

 

「・・・何があっても、立ち止まるな。走れ」

 

それだけ言って、ミストは東の道に向き直った。

 

カシルがフェズを見た。渓谷の紫の光に照らされた顔。朗らかさは消えている。でも——目が真っ直ぐだった。

 

「行け。——俺たちはこっちを片付ける」

 

カシルが東の道を親指で指した。その動作は軽い。でも目は重い。信じている、と言っている。お前にしかできないことをやれ、と。

 

ラリサが駇け寄ってきた。

 

「フェズさん、カルンちゃんを——大事にしてあげてくださいね。瘴気の中で精霊が消耗すると、核に負担がかかります。無理はさせないで」

「ラリサ、ありがとう。・・・分かってる」

 

ラリサが笑った。震えているけど、笑顔。嵐の精霊がラリサの横でぽんと光を揺らした。

 

ルセがフェズを見た。何か言おうとして——止めた。口を開きかけて、閉じた。

 

「フェズ」

 

短く名前を呼んだ。それだけ。

 

でもフェズには全部分かった。ルセの声に全部が入っている。帰ってこいよ。約束したでしょ。三回目だからね。——全部。

 

渓谷に入る前に、言葉は全部済ませた。今さら㛸け足すものは何もない。

 

フェズが頷いた。

 

「行ってくる」

 

振り返らなかった。

 

振り返ったら止まってしまうからじゃない。振り返る必要がないからだ。後ろにいる四人を信じている。ルセも、ラリサも、カシルも、ミストも——やれる。東の蛇の目を。片付けてくれる。

 

だからフェズは前を見た。暗い西の道。紫の光が脈打つ一本道。

 

走り出した。

 

カルンが肩の上で光を強くした。弱い。まだ弱い。回復途上の核。出力は足りない。でも——意志の光だった。自分の意志で光っている。行く、と言っている。フェズと一緒に。

 

フェズは走った。暗い道の中を。紫の光に導かれるように。背後に四人の仲間を残して。一人と一匹で。

 

足音が渓谷に反響した。

 

東に四人。西にフェズとカルン。二つの道に別れた。

 

——ここからは、一人と一匹の戦いだ。

 

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