歌姫と共に   作:ぶるうず

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東の戦場

東の広場に踏み込んだ時、カシルが笑った。

 

「——久しぶりだな、ここは」

 

ルセにはその笑みの意味が分かった。朗らかさの裏に、別の何かがある。7年前の記憶。7年前、この場所で戦争を終わらせた男の顔だ。

 

広い岩場だった。渓谷の壁が左右に大きく後退して、自然の円形闘技場のような空間が広がっている。天井はない。頭上に紫の雲が渦を巻いている。黒い光が脈打つたびに、岩壁が紫に染まって、消えて、また染まる。

 

闘技場の中央に、石の祭壇があった。古い。見るからに古い。苔と黒い染みに覆われた巨石が組み上げられて、人の背丈ほどの台座になっている。その上面から——紫の光の柱が立っていた。真っ直ぐ上にではなく、西の方角に向かって斜めに伸びている。封印の核に向かって。あの光が、封印を崩している装置だ。

 

祭壇の周囲に——人がいた。

 

二十人以上。黒い衣の男たちが陣を敷いている。武器を持っている者、精霊を従えている者。統制の取れた配置。ただのならず者じゃない。訓練された兵隊だ。

 

蛇の目の本隊。

 

ルセは剣の柄を握った。手のひらが汗ばんでいる。二十人。四人で。——いけるかどうかは考えるな。いくしかない。

 

祭壇の傍に——一人の男が立っていた。他の構成員とは明らかに違う。四十代半ば。痩せた体に黒い衣。背は高くない。腕も細い。見た目だけなら街の学者か何かだ。でも目が違った。瞳の奥に紫の光が宿っている。暗い紫。渓谷に漂う瘴気と同じ色。あの目を見た瞬間、ルセの背中に冷たいものが走った。

 

——なにあれ。人間の目じゃない。アポピスの色だ。

 

カシルが首領を見て、表情が変わった。朗らかさが消えた。顔が硬くなる。

 

「あいつか。・・・7年前にも見た顔だ」

「・・・首領だ。あの男がすべてを動かしている」

 

ミストの声が低い。いつもより低い。この男を七年間追い続けた男の声だった。

 

ルセはミストとカシルの顔を交互に見た。二人とも——目が変わっている。七年前の記憶がある目だ。この場所で、この相手と戦った記憶。ルセにはその記憶がない。でも二人の目を見れば、あの首領がどれだけ厄介な相手か——分かる。

 

 

首領が四人に気づいた。

 

薄い笑み。余裕のある笑みだった。二十人以上の兵を従え、封印を崩す儀式を動かし、自分はその中心に立っている。自信に満ちた目でこちらを見ている。

 

「来たか」

 

低い声。渓谷の岩壁に反響した。

 

「——勇者と英雄。7年前の続きをしに来たのか?」

 

カシルが一歩前に出た。剣を抜いた。金属の擦れる音が広場に響く。

 

「続きじゃない。終わらせに来た」

 

首領の笑みが深くなった。手を振った。軽く。何でもないことのように。二十人が動いた。一斉に。まるで一つの生き物のように構成員たちが散開して、四人を囲むように動く。前方から五人、左右から三人ずつ、残りが後方を断つ。

 

「——来る!」

 

ルセが叫んだ。

 

カシルが最初に動いた。正面の五人に向かって真っ直ぐ走り込む。剣を一閃。先頭の構成員の剣を弾き飛ばし、返す刀で二人目の足を払う。三人目が精霊を放った——火の塊がカシルに向かう。カシルが身を捻って避ける。火が岩壁に当たって砕けた。

 

ミストが側面から入った。影のような動き。カシルが正面を引きつけている隙に、左側面の三人に滑り込む。剣を抜いたのが見えなかった。気がついた時には三人のうち二人が崩れ落ちていた。峰打ち。三人目がミストに斬りかかる。ミストが受け流して——肘を顎に叩き込んだ。

 

七年前のコンビネーション。カシルが正面を派手に切り崩して、ミストが側面から静かに制圧する。二人の動きに七年のブランクは見えなかった。呼吸が合っている。言葉を交わさなくても互いの位置が分かっている。

 

後方からラリサの声。

 

「そこ、離れてください!」

 

嵐の精霊が光った。風の鎖が構成員三人の足を絡め取り、動きを封じる。雷光が走った。バチンと乾いた音がして、固まった集団が吹き飛ぶ。精霊使いの最強格。伊達じゃない。

 

ルセは右側面の構成員に走り込んだ。ピカが肩を離れ、先行する。

 

三人。剣を持った男が一人、精霊を従えた男が二人。精霊使いの一人が地の精霊を放った。足元の岩が隆起してルセの足を掴もうとする。跳んだ。岩の上に着地して、勢いのまま一人目に斬りかかる。剣がぶつかった。重い。でも——ルセの方が速い。二撃目で相手の体勢を崩して、三撃目で剣を弾き飛ばした。

 

残りの二人が同時に来た。片方が精霊の炎を放ち、もう片方が剣で踏み込む。ピカが炎を放った精霊使いの目の前で閃光を弾けさせた。男が目を押さえてよろめく。ルセは剣の方を受けた。腕に衝撃。強い。でも剣は握れている。押し返して、蹴りを腹に入れた。相手がよろめく。目をくらませていた精霊使いが体勢を立て直す前に——

 

カシルの剣が横からその構成員の手を叩いた。精霊の炎が消える。

 

「いい動きだ。——あんた、才能あるな」

 

カシルがルセの横に並びながら言った。笑っている。戦闘中に笑うやつ。

 

「今さらでしょ」

 

ルセは鼻を鳴らした。でも悪い気はしなかった。先代勇者に認められるのは、素直に嬉しい。

 

カシルと背中を合わせる形になった。正面にまだ五人。左からミストが制圧した残りが二人。ラリサが後方を完全に封じている。構成員たちは弱くなかった。精霊を持つ者もいる。統率が取れている。蛇の目の名は伊達じゃない。でも——四人の連携が上回った。数の差を質で覆していく。

 

一人、また一人と崩していく。カシルが切り込み、ミストが仕留め、ラリサが遠距離から支援する。ルセがカシルの横で正面突破の力を加える。四人の歯車が噛み合っている。

 

構成員の半数以上が地面に伏した頃——空気が変わった。

 

 

首領が動いた。

 

祭壇に手を置いた。紫の光の柱が——首領の腕を伝って体に流れ込んだ。

 

ルセの肌が粟立った。何が起きたか——見えた。アポピスの力の一端を、自分の体に引き込んでいる。封印を崩す儀式の装置を、自分の強化に使った。

 

首領が一歩、祭壇から離れた。空気が震えた。物理的に。足元の砂利が跳ねた。精霊的な圧迫感が広場全体にのしかかる。瘴気が濃くなった。息が詰まるような重さ。

 

カシルが剣を構えた。

 

「——来る」

 

首領が歩いてくる。走らない。歩いてくる。その一歩ごとに紫の光が足元から広がって、岩盤を走る。

 

カシルが斬りかかった。速い。先代勇者の本気の斬撃。刃が紫の光を裂いて首領の首元に迫る——弾かれた。

 

首領の右腕。素手。紫の光が腕を覆っている。カシルの剣が紫の光の上で滑って、火花が散った。金属と光がぶつかる耳障りな音。カシルの体がよろめいた。受けた腕がしびれている。

 

「・・・化け物だな」

 

カシルが笑った。笑っているが、目は笑っていない。ルセは初めて見た。カシルのあの笑みの下にある、焦り。

 

ミストが側面から入った。カシルが弾かれた瞬間を狙って、首領の死角から剣を振るう。正確な一撃。——それも弾かれた。首領は見もせずに左手を振った。紫の光がミストの剣を叩き返す。ミストの腕に紫の光が掠めた。衣の袖が焦げた。ミストの表情が歪む。痛みじゃない。驚きだ。

 

ラリサが雷撃を放った。嵐の精霊が唸る。白い稲妻が首領に向かって走る——紫の光の盾が首領の前に展開された。雷が盾にぶつかって、弾ける。光と音が広場に炸裂した。盾は——傷もついていない。

 

「嘘でしょ・・・」

 

ラリサの声が聞こえた。嵐の精霊の最強格の雷撃を、あの男は片手で受け止めた。

 

カシルとミストが左右から同時に斬りかかった。息の合った連携。七年間の信頼が刃に乗っている。カシルの剣が右から、ミストの剣が左から——首領が両腕を広げた。紫の光が爆発するように膨張する。二人の剣が同時に弾かれた。カシルが膝をつきかけた。踏みとどまる。ミストが距離を取る。

 

「カシル!」

 

ルセが叫んだ。走り出そうとして——足が動かなかった。

 

怖い。

 

首領の目がルセの方を向いた。紫の光を宿した瞳。あの目に見られた瞬間、足が止まった。体が動かない。恐怖じゃない。もっと根本的な——力の差。格が違う。人間の域を超えている。

 

首領が口を開いた。

 

「無駄だ」

 

静かな声。怒りも興奮もない。事実を述べるように。

 

「アポピスの目覚めは止められない。これが世界の正しい姿だ。精霊の狂気が大地を覆い——人間は再び恐れを知る」

 

狂信者の声だった。正気の声で、狂ったことを言っている。本気で信じている。アポピスの復活が正しいと。精霊が狂い、人間が怯え、世界が暗闇に覆われることが——正しいのだと。

 

カシルが立ち上がった。剣を構え直す。笑みは消えている。

 

「ミスト」

「・・・ああ」

 

二人が同時に首領に向かった。カシルが上段から、ミストが下段から。首領が受け止める。紫の光がぶつかって岩壁を照らす。カシルが弾かれて、すぐに踏み込む。ミストが回り込む。首領が振り向いてミストの剣を弾く。その隙にカシルが——弾かれる。

 

押されている。

 

七年前の勇者と英雄。大陸全土を巻き込んだ戦争を終わらせた二人が——押されている。

 

ルセの拳が震えた。怒りじゃない。初めて感じる壁の高さ。カシルとミストの二人がかりで抑えられない。ラリサの雷撃が通じない。あの男は人間の形をした何かだ。アポピスの力を取り込んで、人の域を超えている。

 

あたしは——何をすればいい。

 

剣を握り直した。手が震えている。握っても握っても、震えが止まらない。

 

祭壇の紫の光が脈打っていた。あの光が首領に力を与え続けている。あの光が西の封印の核に繋がっている。東と西が——繋がっている。

 

首領が再びカシルに向かった。カシルの剣が受け止める。火花が散る。カシルが押される。ミストが側面から斬りかかる。弾かれる。ラリサの雷撃が牽制に走る。受け止められる。同じことの繰り返しだ。何度やっても——崩せない。

 

カシルが片膝をついた。剣を杖にして体を支えている。息が荒い。朗らかさは欠片も残っていない。

 

「・・・くそ。7年前より強い。アポピスの力を——直接使ってやがる」

 

ミストが距離を取りながら息を整えていた。腕の焦げ跡を押さえている。冷静に——だが、初めて余裕のない目をしている。

 

ラリサの嵐の精霊が明滅している。アポピスの瘴気に精霊が圧迫されて、出力が落ちている。ルセの肩に戻ったピカも光が弱まっている。瘴気に耐えきれず、ルセの首筋に体を押しつけて震えていた。

 

「持ちません・・・精霊がアポピスに——」

 

ラリサの声が震えた。精霊使いの最強格が弱音を漏らしている。それだけで状況の深刻さが分かる。

 

ルセは剣を握ったまま、立ち尽くしていた。

 

カシルとミストの二人がかりでも——押されている。ラリサの精霊が弱っている。構成員はまだ数人残っている。首領は傷ひとつない。

 

勝てないかもしれない。

 

その言葉が頭の中に浮かんで——消えなかった。今までそんなことを思ったことはなかった。祠巡りの旅で、強い精霊にも荒くれ者にも勝ってきた。負ける気がしなかった。なのに——あの男の前では、自分の剣がおもちゃみたいだ。

 

首領がこちらを向いた。紫の瞳がルセを見た。蔑みでも敵意でもない。——無関心。ルセのことが視界に入っていない。あの男にとって、ルセは脅威ですらない。

 

それが——いちばん堪えた。

 

ルセは剣を握った。手が震えている。でも——剣は握れている。離さなかった。

 

カシルが立ち上がった。また笑っている。怖い時こそ笑う男。

 

「ミスト。ルセ。ラリサ。——下がれ。俺が抑える」

 

一人で背負おうとしている。また。7年前と同じように。

 

ルセは剣を持つ手を見た。震えている。怖い。あの首領は人間の域を超えている。

 

でも——

 

「・・・冗談じゃないわよ」

 

小さく呟いた。誰にも聞こえないくらいの声で。

 

剣の重さを、初めて本当に感じた。今まで軽かった。振ればいいだけだった。才能があるから、振れば何とかなった。でも——この剣で、あの化け物を斬れるのか。この手で、仲間を守れるのか。

 

分からない。分からないけど——握った。離さなかった。

 

紫の光が広場を照らしている。首領が立っている。カシルが向かっていく。ミストが構える。ラリサが精霊を支えている。

 

あたしが——やらなきゃ。

 

何をすればいいかは、まだ分からない。でも——ここで立ち尽くしているわけにはいかない。

 

ルセは一歩、踏み出した。

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