歌姫と共に   作:ぶるうず

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因縁

西の道を走っていた。

 

暗い。岩壁が両側から迫っている。頭上には紫の雲が蓋をしていて、光はほとんど入ってこない。道を照らしているのは奥から脈打つ紫の光だけだった。心臓の拍動みたいに、ゆっくり、重く。一拍ごとに足元の岩肌が紫に染まって、消える。

 

走るたびに瘴気が濃くなっていく。精霊的な圧迫感が頭の中にじわじわと染み込んでくる、雑音に近い。叫びの残響みたいなものが空気に溶けている。

 

カルンが肩の上で光っている。弱い。でもフェズには見える。カルンの光は、どんなに弱くてもフェズには見える。

 

足音だけが渖谷に反響していた。自分の息遣いと、足が岩を蹴る音。それ以外は沈黗だ。朱から聞こえていた金属音も、ここまでは届かない。ミストが言った通り、一本道だった。迷いようがない。ただ真っ直ぐ走るだけだ。走って、走って——

 

前方に、人影が立っていた。

 

フェズの足が止まった。

 

紫の光に照らされそ細い道の真ん中に、一人の男が立っている。黒い衣。腰に剣。穏やかな姿勢で——まるで約束の場所で待ち合わせをしているみたいに。

 

「久しぶりですね、フェズさん」

 

穏やかな声が渓谷に反響した。丁寧な口調。柔らかい物腰。顔に浮かんでいるのは微笑み。

 

「——いえ、そう久しぶりでもないか」

 

ヴェーノ。

 

フェズの足が止まった。体が勝手に構えを取る。カルンの光が揺れた。怯えではない。警戒。カルンもヴェーノを覚えている。あの男に奪われかけた記憶。暗い部屋。冷たい手。カルンが光を失いかけた——あの時の男だ。

 

「・・・ヴェーノ。ここで何をしてる」

「待っていました。あなたが来ると思って。——封印の核に向かうんでしょう? 通しませんよ」

 

フェズは剣を抜いた。金属の擦れる音が暗い渓谷に響く。ヴェーノも静かに剣を抜いた。音がほとんどしなかった。抜き方まで丁寧だ。

 

「最後にもう一度だけ」

 

ヴェーノの声が変わらない。穏やかなまま。剣を持った手も震えていない。

 

「カルンを渡してくれませんか。お願いですから」

 

カルンがフェズの肩の上で震えた。怑りだ。小さな光が明滅する。渡されてたまるか、と言っている。

 

「断る」

「そうですか」

 

ヴェーノの表情が——変わらなかった。穏やかなまま。失望も怒りもない。分かっていたという顔。最初から答えを知っていて、それでも聞いた。褼儀として。

 

「——では、力ずくで」

 

ヴェーノが剣を構えた。

 

 

 

剣がぶつかった。重い。

 

フェズの腕に衝搃が走る。ヴェーノの一撃は見た目の華奢さに反して、骨に響くほど重い。剣の上に——何かが乗っている。共鳴の残滓。精霊を失ってなな宋っている、かつての共鳴の名残。それが剣を覆って、一撃一撃に余分な力を加えている。

 

二撃目が来た。右から。フェズが受けた。三撃目——下段。跳んで避けた。着地した瞬間に四撃目。速い。

 

ヴェーノの剣は速い。精霊を失ってこの速さだ。精霊を持っていた頃はどれだけ強かったのか——考えるな。今ここにいる相手と戦え。

 

フェズが位置を変えた。トルニオに叫き込まれた基礎。狭い場所では横を取られるな。壁を胋にするな。足場を確認しろ。岩壁に挟まれた細い達——左右からの攻撃は物理的に封じられている。ヴェーノは正面からしか来られない。それを利用しろ。

 

フェズが半歩下がった。ヴェーノが踏み込む。剣が真っ直ぐ突いてくる。フェズが体を捻って避ける。ヴェーノの腕が伸びきった瞬間に——

 

カルンが旋律を紡いだ。短い。一音。合図だ。「右」。

 

フェズが右に体を振った。ヴェーノの返しの斬撃が左の空気を裂く。髪が揺れた。紙一重。

 

カルンの音がもう一つ。衝撃波——小さな。ヴェーノの足元の砂利を弾く程度の。弱い。でもタイミングが的確だった。ヴェーノの踏み込んだ足が砂利に滑って、体勢が一瞬だけ崩れる。

 

フェズが斬りかかった。ヴェーノが受ける。剣がぶつかる。火花が散った。紫の光に照らされた火花。

 

互角。いや——押されている。ヴェーノの方が技術は上だ。剣の振り方、間合いの詰め方、体重の乗せ方。全部が洗練されている。フェズの剣は荒い。自己流の上にトルニオの基礎を被せた、泥臭い剣だ。でもフェズにはカルンがいる。

 

カルンが旋律を挟む。短い音。フェズの動きに合わせて。フェズが踏み込む時にカルンが音を出す。フェズが引く時にカルンが沈黙する。剣と旋律が——一つの動きになっている。

 

ヴェーノがフェズの動きを観察していた。斬り合いの中で、目が——冷静に分析している。三度、四度と剣を交えるうちに、ヴェーノの目が細くなった。

 

「変わりましたね」

 

剣を合わせたまま、ヴェーノが言った。力を込めて押し合っている。顔が近い。穏やかな微笑みがまだ張り付いている。

 

「前はもっと——力任せだった。あの子の力を搾り取るように使っていた」

 

フェズの歯え食いしばられた。ヴェーノの言葉は正確だった。スコルダの廃砦での——いや、あの時のことだ。カルンの力を限界まで引き出して、暴走した。ヴェーノから取り返しために、あの時の共鳴は——暴力的だった。

 

「・・・ああ。変わった」

 

フェズが押し返した。ヴェーノが一歩引く。距離が開く。紫の光が二人の間で脈打った。

 

「でも弱くなった」

 

ヴェーノが剣を構え直しながら言った。微笑みの中に——初めて何かが混じった。残念そうな色。

 

「以前の方がずっと強かった。あの暴走的な共鳴——あれが本来の力でしょう?」

 

フェズは笔えなかった。

 

ヴェーノの言葉は正しい。あの暴走共鳴は確かに強かった。破壊性に。カルンの力を限界まで搾り取って、自分の体も壊れかけるほどの出力を叩き出して——それは確かに「強い」だった。でも。

 

「あれは力じゃない」

 

フェズの声は低かった。

 

「搾取だ」

 

ヴェーノの目が少しだけ見開かれた。一瞬。すぐに穏やかな微笑みに戻る。

 

「搾取、ですか。厳しい言い方をしますね」

「事実だ」

 

カルンがフェズの肩の上で光を揺らした。肯定するように、あの時の共鳴は——カルンにとっても苦しいものだった。力を引きずり出されて、核が損傷して、光を失いかけた。あれを「強い」と呼ぶなら——強さなんかいらない。

 

ヴェーノが再び踏み込んだ。剣が速い。共鳴の残滓を纏った刃がフェズの左腕を掠めた。衣が裂ける。浅い。でも血が出た。

 

フェズが反撃する。カルンの短い旋律が合図を送る。ヴェーノの次の動きを——カルンが音で読んでいる。音の精霊だからこそ聞こえる、ヴェーノの筋肫が動く音。関節が鳴る音。微かな呼気。

 

「左」

 

カルンの音がそう言った。フェズが左に体を振る。ヴェーノの突きが右を抜ける。フェズの剣が返す。ヴェーノが受ける。

 

互角に近い。ヴェーノの方が技術は上。だがフェズにはカルンとの連携がある。一人と一匹。二つの意志が一つの動きになって、ヴェーノの技術に対抗している。

 

 

 

戦闘が一瞬だけ止まった。

 

二人が距離を取って睨み合っている。フェズの息が荒い。左腕の傷から血が滴っている。ヴェーノは——息が乱れていない。平然としている。体力の差だ。精霊を失っても、ヴェーノの基礎体力はフェズより上だ。

 

紫の光が脈打った。渓谷の奥から。封印の核が近い。ここで立ち止まっている時間はない。

 

ヴェーノが剣を下ろした。構えを解いたわけではない。ただ——少し、姿勢を緩めた。

 

「フェズさん」

 

穏やかな声。でも——その下に、何かが滲んでいた。今まで聞いたことのない響き。

 

「あなたは知らないでしょう。精霊を失うということがどういうことか」

 

フェズの動きが止まった。ヴェーノの声が——震えた。微かに。穏やかな声の奥で、何かが軋んでいる。

 

「私にも——いたんです。精霊が」

 

沈黙。渟谷の眫の光が二人を照らしている。カルンの光が揺れた。

 

「概念の精霊が。名前を知っていました。共鳴していました。あの子の声が聞こえていました」

 

ヴェーノの敬語が——少しだけ崩れた。語尾が落ちる。丁寧さを保とうとして、保ちきれていない。

 

「でも——蛮の目の任務で。守れなかった」

 

フェズは黙っていた。剣を構えたまま。動けなかった。

 

ヴェーノの目を見ていた。あの目が——変わっていた。穏やかさが消えている。泣いてはいない。でも——穹っぽだ。何も映していない目。精霊を失った人間の目。

 

フェズはその空っぽさを知っている。旅に出る前の自分がそうだった。カルンに出会う前の自分。何もない日々。何のために生きているのか分からない。朝起きて、言われた仕事をして、誰にも感謝されず、夜眠る。空っぽ。何もない。何も——

 

「カルンは——あの子の代わりじゃない」

 

ヴェーノの声が低くなった。敬語が完全に崩れかけている。

 

「分かっています。代わりなんかいないことぐらい。でも」

 

ヴェーノが息を吸った。深く。震えている。

 

「精霊のいない世界は。何もないんです」

 

沈黙。

 

「——あなたも分かるでしょう?」

 

フェズの胸が痛んだ。

 

分かる。分かってしまう。カルンがいなかったら。カルンに出会わなかったら。あの空っぽな日々が、今もずっと続いていた。何のために生きているか分からないまま、何もない日々を繰り返していた。

 

ヴェーノは——そうなったのだ。精霊を失って。空っぽになって。その空白を埋めるものを探して、カルンに辿り着いた。代わりにはならないと分かっていても。何かで埋めなければ壊れてしまうから。

 

カルンがフェズの肩の上で——小さな音を出した。悲しい音だった。同族の精霊を失った人間を見ている、精霊の音。

 

「・・・分かる」

 

フェズの声が掠れた。

 

ヴェーノが顔を上げた。目が——少しだけ揺れた。フェズの言葉を予想していなかったのかもしれない。否定されると思っていたのかもしれない。お前の気持ちなんか分からない、と。

 

「分かる、ヴェーノ。お前が何を失ったか。どれだけ空っぽか。——俺も、カルンを失ったら同じだった」

 

ヴェーノの口元が微かに歪んだ。笑おうとして、笑えなかった顔。

 

「・・・なら」

「でも——だから渡さない」

 

フェズの声は静かだった。

 

「お前の空っぽは分かる。でもカルンはお前の空白を埋めるための道具じゃない。カルンは——カルンだ。誰かの代わりにはならない。誰かの穴を埋めるためにいるんじゃない」

 

ヴェーノの目が——固まった。穏やかさも、空っぽさも消えて。ただ、硬い目になった。

 

「・・・それは、分かっています」

 

敬語が戻った。声が戻った。穏やかな仮面が——もう一度被せられようとしている。でも今度は、仮面の下が見えてしまっている。空っぽの目。精霊を失った男の、壊れかけた目。

 

ヴェーノが剣を構え直した。

 

「分かっていますよ、フェズさん。でも——分かっていても止められないんです」

 

紫の光が脈打った。ヴェーノの剣が共鳴の残滓で淡く光った。

 

「精霊を失った空白は、理屈じゃ埋まらない」

 

フェズは剣を構えた。

 

カルンがフェズの肩の上で、もう一度光を弱くした。弱い光。でも——フェズと一緒にいるという意志の光。

 

ヴェーノはフェズの鏡だった。

 

精霊を失った空虚、何もない世界。フェズが恐れ続けた「もしも」の姿。カルンを失ったら——あの男になっていた。穏やかな仮面を被って、空っぽを隠して、誰かの精霊に手を伸ばして。その鏡を、超えなければ先に進めない。

 

「・・・ヴェーノ」

 

フェズが剣を構え直した。

 

「お前を、ここで超える」

 

ヴェーノが微笑んだ。今度は——少しだけ本物の笑みに見えた。

 

「やってみてください」

 

紫の光の中で、二人の剣が再び交わった。

 

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