トルニオの拠点が見えてきたのは、太陽が一番高いところに差し掛かった頃だった。
グラーヴェ市の城壁が遠くに霞んで、その手前の丘に、質素だけれど頑丈な石造りの建物が立っている。数日前、ラリサに肩を借りてふらふらと辿り着いた場所。あの時はぼろぼろで、景色を見る余裕なんてなかった。
今はちゃんと見える。石壁は苔が這っていて古いけれど、屋根の瓦はきちんと揃っている。裏手に薪が几帳面に積まれていて、玄関の横に水瓶が二つ。質実って、こういうことを言うんだろう。
カルンが俺の肩の上で身を乗り出した。覚えているのか、建物を見て光をちらちら揺らしている。
「うん、あそこだよ」
道を上っていく。近づくにつれて、門の前に人影が見えた。小柄で、長い髪が風に揺れている。
ラリサだった。
門に背を預けて立っていたラリサが、こちらに気づいて手を振った。大きく、遠くからでも見えるぐらい大きく。
「フェズさーん!」
声が風に乗って聞こえた。明るい声。遠慮のない、真っ直ぐな声。
足が少しだけ速くなった。
ラリサが門から離れて、こちらに駆け寄ってくる。嵐の精霊使いと呼ばれる最強格のくせに、走り方は子供みたいだ。
「遅いですよー! お昼、もう用意してあるんですからね!」
「・・・ごめん」
「謝らなくていいです!」
ラリサが俺の前で立ち止まった。息を整えて、にこっと笑った。
「おかえりなさい、フェズさん!」
足が止まった。
一瞬、何を言われたか分からなかった。
おかえり。帰ってきた人に言う言葉。ここがお前の帰る場所だと、そういう意味の言葉。
さっき村を出た。誰にも引き留められなかった。誰にも見送られなかった。俺がいなくなっても何も変わらない場所を、背中に置いてきた。
帰る場所なんてないと、そう思っていたのに。
ラリサが不思議そうに首を傾げた。
「フェズさん? どうしました?」
返事が出てこなかった。喉の奥が詰まっている。泣いているわけじゃない。泣くような場面でもない。ただ、言葉が見つからなかった。
カルンが肩の上でぽん、と光を弾いた。ちいさな、明るい光。背中を押すみたいに。
「・・・ただいま」
声がかすれた。自分で思ったより小さかった。
でもラリサには聞こえたらしい。にこっと、もう一度笑った。
「はい! さ、ご飯食べましょう! トルニオ師匠がお粥作ってくれたんです。・・・いえ、お粥しか作れないんですけど」
「お粥」
「あの人、料理の腕はほんっとうにダメで。でも今日はちゃんとしてましたよ。フェズさんが帰ってくるの分かってたからかな」
トルニオが。俺が戻ってくるのを見越して。
何も言わない人だ。出迎えもしない。でも粥を炊いている。そういう人なんだ。
ラリサが先に歩き出した。「ほら、早く早く! 冷めちゃいますよ!」
つられて歩いた。門をくぐる。石畳の庭を通り過ぎて、見覚えのある玄関。木の扉の向こうから、穀物の煮える匂いが漂ってきた。
カルンが匂いに反応して鼻をひくつかせた。ひくつかせた、ように見えた。精霊に鼻があるのかは分からないけれど、興味津々で顔を突き出しているのは確かだ。
「カルンちゃんもお腹空いてます?」
ラリサがカルンに話しかけた。カルンがびくっとして俺の首筋に隠れた。・・・まだラリサには慣れていないらしい。
「あ、ごめんなさい。驚かせちゃいました?」
ラリサがしゅんとした顔をする。カルンが恐る恐る顔を出して、ラリサをちらちら見ている。嫌がっているんじゃない。怖いけど気になる。そういう顔だ。
「・・・カルン、ラリサは味方だよ」
カルンがもう少しだけ顔を出した。光が揺れている。ラリサの肩にいる嵐の精霊をじっと見ている。仲間が気になるんだろう。
「ゆっくりで大丈夫ですからね、カルンちゃん」
ラリサが優しく笑った。カルンの光が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
玄関の扉を開けた。中はあの日と同じ、飾り気のない石造りの室内。木の長卓の上に、湯気を立てる鍋が置いてある。
奥からトルニオが出てきた。俺を一瞥して、長卓の椅子を顎で示した。
「食え。話はそれからだ」
おかえりとは言わない。ただ、俺の席が用意されている。
「・・・はい」
椅子に座った。ラリサが隣に座って、鍋から粥をよそってくれた。素朴な穀物の粥。具は干し肉と根菜が少し。見た目は地味だけれど、湯気が温かい。
一口食べた。
・・・しょっぱい。結構しょっぱい。
「どうです?」
ラリサが期待と不安が半々の顔で聞いてきた。
「・・・うん。あったかい」
味の感想は避けた。ラリサが何か察したのか、苦笑いした。
「ですよね・・・。明日から私が作りますね」
トルニオが無言で粥を食べている。本人は気にしていないらしい。あるいは、味が分からないのかもしれない。
カルンが鍋の縁に手をかけて、中を覗き込んでいた。湯気に当たって、きらきら光っている。
「カルン、熱いから気をつけろ」
カルンが慌てて手を引っ込めた。でもすぐにまた覗き込む。好奇心は止まらないらしい。
静かな昼食だった。ラリサが時々喋って、トルニオが黙っていて、俺が相槌を打つ。それだけの食卓。
でも、なんだろう。
リトルネッロ村でも食卓を囲んだことはあった。村長と二人で、黙って食べた。会話はなかった。向かい合っているだけで、同じ場所にいるだけだった。
ここは違う。ラリサが話しかけてくるし、トルニオは黙っているけれど、粥を作って待っていた。カルンが鍋を覗き込んでいる。
たった数日の付き合いだ。まだ何も始まっていない。でも、この食卓には俺の場所がある気がした。
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粥を食べ終えると、トルニオが口を開いた。
「明日から始める」
俺を見ている。厳しい目だ。でも初めて会った夜の、あの突き放すような冷たさとは違う。
「まず体を作る。走り方、立ち方、剣の持ち方。全部やり直しだ。お前の体は何もできていない」
「はい」
「楽だと思うな。途中で音を上げても手は緩めない」
「・・・はい」
「ラリサ」
「はい、師匠!」
「精霊との共鳴の基礎は、お前が教えろ」
「了解です! 任せてください!」
ラリサが張り切っている。嬉しそうだ。弟子、というか後輩ができたことが嬉しいんだろう。
トルニオが再び俺を見た。
「もう一度言う。お前が無理だと俺が判断した時点で、あの精霊は取り上げる」
胸がきゅっとなった。分かっている。覚悟したはずだ。でも改めて言われると、重い。
カルンが俺の膝の上に移動して、俺の腹に頭を押しつけた。小さな体がぽかぽか温かい。怖がっているんじゃない。大丈夫、と言っている気がした。
「・・・分かっています」
トルニオが頷いた。それだけだった。
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夕方、ラリサが俺の部屋を案内してくれた。拠点の二階、小さな部屋。木の寝台と毛布と、窓からグラーヴェ市の城壁が見える。
リトルネッロ村の部屋と大差ない広さだ。でも窓が大きい。西日が差し込んで、部屋全体が橙色に染まっている。
「ここ、元は物置だったんですけど、師匠が片付けてくれたんです。昨日のうちに」
「・・・昨日?」
「フェズさんが村に行っている間に。何も言ってなかったけど、準備してたんですよ」
トルニオが。あの無愛想な人が。
「・・・あの人は、いつもああなの?」
「ああって?」
「口では厳しいこと言うのに、やることは」
ラリサがくすくす笑った。
「そうです。昔からそうです。怖いんですけどね、言い方が。でも行動を見ていると・・・ちゃんと考えてくれてるんだなって分かるんです」
「・・・そう」
「最初は私も泣きましたよ。師匠に怒鳴られて」
想像できた。
「でも、厳しいのは期待してくれてるからだって、途中で気づきました。期待してなかったら、怒る手間もかけないですから」
ラリサが窓の外を見た。城壁の向こうに、夕焼けが広がっている。
「フェズさんのこと、師匠はちゃんと見てますよ。だから安心して・・・いえ、安心はしないでください。訓練はほんとにきついので」
笑えなかった。ラリサの言い方が冗談なのか本気なのか分からなかった。たぶん両方だ。
「ラリサ」
「はい?」
「ありがとう。色々」
ラリサが目を丸くした。それからぱっと笑った。
「まだ何もしてないですよ! お礼は訓練が終わってからにしてください!」
「・・・うん」
ラリサが「おやすみなさい!」と言って部屋を出ていった。足音が軽い。廊下を弾むように歩いている。
一人になった。
カルンが窓枠に座って、夕焼けを見ていた。橙色の光が精霊の体を透かして、きれいな色に変わっている。
「カルン」
カルンが振り向いた。
「明日から大変になる。たぶん」
カルンが首を傾げた。
「・・・でも、やるよ。お前を守れるようになるまで」
カルンがじっと俺を見た。それから、ふわりと飛んできて、俺の胸元に収まった。光が穏やかに揺れている。温かい。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと夜に変わっていく。グラーヴェの城壁に灯りがぽつぽつと点き始めている。
明日から訓練が始まる。走り方から。立ち方から。何もできていないと言われた。全部やり直しだと。
怖い。正直、怖い。
でも今は、この部屋に自分の寝台がある。明日の朝、ラリサが起こしに来る。トルニオが待っている。
帰る場所が、できた。
カルンの光が静かに弱くなっていく。眠りに落ちかけている。俺の心臓の音に合わせて、ゆっくりと明滅している。
「おやすみ、カルン」
返事はない。もう眠っている。
目を閉じた。明日のことを考えた。きつい訓練。厳しい師匠。でも、粥を炊いて待っていてくれた人。おかえりと言ってくれた人。
空っぽだった。リトルネッロ村には何も残さなかった。何年もいたのに、荷物は革袋ひとつ分しかなかった。
でもここには、俺のための部屋がある。俺のために片付けられた部屋。俺を待っていた人たち。
それだけで、十分だ。
明日から、強くなる。