ヴェーノの剣が加速した。
さっきまでとは違う。精密さが消えている。間合いも体重移動も——洗練されていた全部が崩れて、ただ力任せに振り下ろしてくる。共鳴の残滓が剣の上で紫に燃えていた。全開だ。残っている力を全部叩きつけている。
「返せ」
ヴェーノの声が変わった。
「返せ——あの子を返せ!」
敬語が消えていた。穏やかな声が消えていた。仮面が——剥がれた。丁寧な物腰も、冷たい微笑みも、全部なくなって。そこにいたのは、精霊を失って泣いている男だった。
「あの感覚を——共鳴を! 精霊の声を!」
剣がフェズの顔の横を過ぎた。風圧で髪が揺れる。続けて横薙ぎ。受けた。腕が痺れる。三撃目——上段からの叩きつけ。フェズの剣で受け止めた。岩壁に金属音が反響する。重い。さっきまでの比じゃない。暴走している。
フェズはこれを知っている。
あの時の自分だ。カルンを奪われた後。取り戻すために走った。ルセが止めるのも聞かず。共鳴を限界まで酷使して、カルンの力を搾り取って、自分の体も壊れかけて。あの時の自分と——同じだ。精霊を失う恐怖に飲まれて、理性も技術も捨てて、ただ力で押し潰そうとする。
ヴェーノの目が濡れていた。涙じゃない。まだ涙じゃない。でも——目の奥が潤んでいる。怒りと悲しみの区別がつかない顔。剣を振るたびに叫んでいる。戦っているんじゃない。泣いているんだ。剣で。
ヴェーノの剣がフェズの頬を掠めた。血が出た。熱い。紫の光に照らされた血が黒く見えた。
痛い。でも——フェズは冷静だった。
かつての自分なら、ここで暴走し返していた。相手が暴走しているなら、こっちも暴走して力でねじ伏せる。そういう戦い方をしていた。カルンの力を限界まで引き出して、体が壊れてもいいから。今は違う。
「カルン」
小さく呼んだ。命令じゃない。ただ——意識を合わせるための声。
カルンが応えた。旋律じゃない。音でもない。光が揺れた。フェズの呼びかけに、光で返事をした。ここにいる。一緒にいる。
フェズが呼吸を整えた。ヴェーノの暴走する剣を見ている。振りが大きい。力任せ。軌道が読める。精密さが消えた分、隙が増えている。でも一撃一撃が重い。共鳴の残滓を全開にした剣は、まともに受けたら弾かれる。
受けなければいい。
フェズが半歩引いた。ヴェーノの剣が空を切る。紫の光を纏った刃が岩壁を掠めて、石の破片が飛んだ。あれが体に当たっていたら——考えるな。
踏み込まない。誘わない。ヴェーノが自分から崩れるのを待つ。
トルニオが教えてくれた。強い相手と戦う時——力で押し返すな。流せ。受け流せ。相手の力を使え。あの人の不器用な声が頭の中に響く。「来い」「見せろ」「足を見ろ」。何百回も聞いた声だ。
カルンが旋律を紡いだ。短い。一音。ヴェーノの次の動きを読んでいる。音の精霊にしか聞こえない、筋肉の軋み。呼気のリズム。足が岩を蹴る角度。
「右」
フェズが右に体を振った。ヴェーノの剣が左を薙いだ。空振り。体勢が崩れる。
フェズが踏み込んだ。カルンが同時に音を出した。踏み込む足に合わせて。二つの動きが——一つの呼吸になっている。フェズが吸う時にカルンが音を溜めて、フェズが吐く時にカルンが音を放つ。言葉で決めたわけじゃない。ただ——合っている。
フェズの剣がヴェーノの剣の腹を叩く。弾こうとしたんじゃない。軌道を逸らしただけ。ヴェーノの剣が明後日の方向に流れる。
ヴェーノが立て直す。速い。暴走していても体が覚えている動きがある。何年も剣を振ってきた男の体だ。筋肉が勝手に動く。剣を引き戻して——
カルンの旋律が割り込んだ。ヴェーノの足元で短い音が弾ける。衝撃波。弱い。砂利を弾く程度の。でもヴェーノの踏み込んだ足が一瞬滑った。
その一瞬。
フェズの剣がヴェーノの剣を受け流した。下から上へ。トルニオの体捌き。力じゃない。角度と速度。ヴェーノの腕が跳ね上がる。
「返せ!」
ヴェーノが叫んだ。剣を振り下ろそうとする。でも体勢が崩れている。足元が定まっていない。
カルンの旋律がもう一度——ヴェーノの耳元で短い音が弾けた。高い音。一瞬だけ平衡感覚を揺らす、鋭い音。ヴェーノの目が泳いだ。眩暈。
フェズが踏み込んだ。カルンが沈黙した。この瞬間だけは音がいらない。フェズの体が覚えている動き。剣を返して——ヴェーノの手首を打った。
鈍い音。ヴェーノの指から剣が離れた。金属が岩壁にぶつかって、甲高い音を立てて地面に落ちた。紫の光の中で剣が回転して、動かなくなった。
力じゃなかった。
カルンの微弱な魔法とフェズの剣が、一つの動きとして機能した。どちらか一方では勝てなかった。フェズの剣だけでは技術で負けていた。カルンの音だけでは威力が足りなかった。でも二つが重なった時——ヴェーノの剣術を超えた。
フェズの剣がヴェーノの喉元に突きつけられた。
「終わりだ、ヴェーノ」
静かな声だった。息は荒い。頬から血が垂れている。左腕の傷もまだ痛む。でも声は——静かだった。
ヴェーノが膝をついた。ゆっくりと。剣を失い、喉元に刃を向けられて。抵抗する体勢すら残っていない。共鳴の残滓が剣と一緒に消えて、ただの人間が——膝をついていた。紫の光が二人の間で脈打っていた。
ヴェーノの目から涙が流れていた。
フェズはそれを見た。初めてだった。穏やかな微笑みも、冷たい敬語も、空っぽの目も——全部見てきた。でも涙は初めてだ。ヴェーノの涙は静かだった。声を上げていない。ただ目から溢れている。止められない、という顔をしている。止め方を忘れた、という顔。
「・・・殺せ」
掠れた声だった。
「精霊のいない世界なんて——」
フェズは剣を下ろした。ゆっくりと。ヴェーノの喉元から、刃を引いた。
ヴェーノが顔を上げた。涙で濡れた目が、フェズを見ている。困惑していた。殺されると思っていたのかもしれない。殺してほしかったのかもしれない。
「ヴェーノ」
フェズの声は低かった。剣を下ろしたまま、真っ直ぐにヴェーノを見ている。
「お前は俺だ」
ヴェーノの目が見開かれた。
「カルンを失ったら、俺もお前と同じになっていた。穏やかな顔して、空っぽを隠して、誰かの精霊に手を伸ばして——お前と同じことをしていた」
ヴェーノの唇が震えた。何か言おうとして、言葉が出ない。
「前にお前が言ったこと——覚えてる。『あなたも同じことをしている』って。あの時は認めたくなかった。でも——正しかったよ。俺もカルンに依存してた。搾り取ってた。お前が俺に見えた通りの人間だった」
フェズの声が少しだけ震えた。でも目は逸らさなかった。
「でも——精霊はお前が思っているような存在じゃない」
ヴェーノが瞬いた。涙が頬を伝った。
「代わりなんかいない。カルンはお前の精霊の代わりにはならない。お前の精霊も、カルンの代わりにはならなかった。精霊は——穴を埋めるためにいるんじゃない。隣にいて、一緒に歌って、一緒に歩いて。そういう存在なんだ」
「・・・分かってる」
ヴェーノの声が割れた。敬語は戻ってこなかった。仮面はもう被れない。
「分かってるんだ。代わりなんかいないことぐらい。あの子はあの子で、カルンはカルンで——全然違うことぐらい。でも——」
ヴェーノの手が地面を掴んだ。爪が岩を引っ掻く音がした。
「でも空っぽなんだ。何もないんだ。朝起きて、何もなくて。あの子の声が聞こえない。共鳴がない。何年経っても慣れない。何年経っても——あの子がいた場所だけ、ぽっかり空いてるんだ」
フェズの胸が痛んだ。知っている。その空っぽさを知っている。カルンに出会う前の日々。何もなかった。何のために生きているか分からなかった。
「・・・空っぽは埋まらない」
フェズの声は静かだった。
ヴェーノが顔を上げた。
「お前の精霊がいた場所は、多分ずっと空いたままだ。何かで埋めても埋まらない。カルンを手に入れても埋まらない。——それは、お前も分かってるだろ」
「・・・・・・」
「でも」
フェズが一歩、後ろに下がった。剣を鞘に戻した。
「空っぽのまま生きていくことはできる。——俺がそうだったから」
ヴェーノの目が揺れた。
「カルンに出会う前の俺は空っぽだった。何もなかった。でも——生きてた。空っぽのまま、それでも毎日起きて、飯食って、寝て。それだけだったけど。生きてた」
フェズの声が——少しだけ柔らかくなった。
「お前の精霊はもういない。それは変わらない。でもお前はまだ生きてる。空っぽでも——それでも生きていける。お前が思ってるより、人間はそういうふうにできてる」
ヴェーノが崩れ落ちた。
膝をついていた体がさらに折れて、両手が地面についた。肩が震えている。声が——出た。初めて。声を上げて泣いていた。穏やかな仮面の下に隠していた全部が溢れて、嗚咽になって渓谷に反響していた。
フェズは何も言わなかった。ヴェーノの泣き声を聞いていた。紫の光が脈打つ渓谷の中で、一人の男が泣いていた。精霊を失って、空っぽになって、それでもどうにか生きようとして壊れかけた男が。岩壁に反響する嗚咽は、渓谷の瘴気に混じって消えていく。
「・・・行くよ」
フェズが呟いた。ヴェーノには聞こえたか分からない。
フェズがヴェーノの横を通り過ぎた。封印の核へ向かって。背後でヴェーノの嗚咽が聞こえている。止まない。止まらない。
カルンがフェズの肩の上で——ヴェーノの方を振り返った。一瞬だけ。
同族の精霊を失った人間を、精霊が見ていた。カルンに何が分かるのかは分からない。精霊は喋れない。でもカルンの光が——ほんの少しだけ、温かい色に揺れた。悲しいのか、同情しているのか。それともただ——同じ精霊の名残を感じているのか。
カルンが前を向いた。フェズの肩の上で。小さな光が前方を照らしている。弱い。でも——消えない光。
フェズは走った。振り返らなかった。ヴェーノの嗚咽が遠ざかっていく。紫の光が濃くなっていく。渓谷の奥に向かって。封印の核に向かって。足が痛い。頬の傷が熱い。左腕の傷から血が滲んでいる。体が重い。でも——足は止まらなかった。
ヴェーノを超えた。鏡を超えた。精霊を失った自分の「もしも」を、超えた。
暗い道の奥から——音が聞こえた。低い。大地を揺らすような。渓谷の岩壁がびりびりと震えている。
咆哮だ。
アポピスの咆哮が、封印の奥から響いてきていた。
カルンの光が激しく明滅した。怯えじゃない。反応している。同族の——太古の大精霊の叫びに、音の精霊が反応している。
フェズは走り続けた。
鏡を超えた先に待っていたのは、もっと大きな闇だった。