カシルが膝をついた。
二度目だ。首領の紫の剣が振り下ろされるたびに、カシルの体が沈む。立ち上がる。また沈む。笑っている。笑っているけど——もう余裕がない。笑みの下の焦りが、隠せていない。
ルセは見ていた。
東の広場の中央。祭壇の紫の光が脈打つたびに、首領の体を覆う紫の輝きが増していく。封印崩壊が進んでいる。進めば進むほどあの男は強くなる。時間が経つほど——こっちが不利になる。
構成員の大半は倒れている。ミストとカシルとラリサとルセ——四人がかりで制圧した。でも首領だけが立っている。あの男一人が、四人を圧倒している。
カシルが首領と斬り結んだ。紫の光を纏った剣がカシルの剣を叩く。火花と紫の閃光が散った。カシルの腕が跳ね上がる。体勢が崩れる。首領の二撃目——カシルが辛うじて受け止めて、岩壁に叩きつけられた。背中が岩に打ちつけられて、息が詰まる音が聞こえた。
「カシル!」
ミストが側面から首領の死角を突いた。低い姿勢からの斬り上げ。正確で、速い。——首領が振り返りもせずに左手を振った。紫の光がミストの剣を弾く。ミストの体が横に飛ぶ。着地して——右腕を押さえた。さっきの焦げ跡の上から、また紫の光を食らっている。ミストの表情が歪んだ。痛みを堪えている。
ラリサが嵐の精霊を放った。雷撃。白い光が首領に走る。首領が片手で紫の盾を展開した。雷が盾にぶつかって弾ける。前と同じだ。でも——さっきより盾が厚い。アポピスの力が増している。
「精霊が・・・限界です」
ラリサの声が震えていた。嵐の精霊が明滅している。光が弱い。アポピスの瘴気に圧迫されて、出力が落ち続けている。精霊使いの最強格が——追い詰められている。
カシルが岩壁から体を起こした。血を拭う。口の端が切れている。でも立った。立って、剣を構え直した。
首領が嗤った。
「勇者よ。お前の時代は終わった」
祭壇に手を伸ばす。紫の光がさらに首領の体に流れ込む。増幅。封印崩壊が加速している。首領の目の紫の光が——さっきより濃い。人間の目じゃない。アポピスの瞳だ。
「次の時代は——アポピスと共にある」
カシルが笑った。口だけで。目は笑っていない。
「ミスト。ルセ。ラリサ」
静かな声だった。戦場の喧騒の中で、妙に通る声。
「——下がれ。俺が抑える」
ルセの体が強張った。
「・・・また一人で背負う気か」
ミストの声が低い。怒りじゃない。もっと深いものが混じっている。悲しみに近い何か。この男は知っている。7年前も——カシルは同じことを言った。
カシルが振り返らなかった。前を向いたまま、首領に向かって歩き出す。一人で。剣を片手に。紫の光の中に。
ルセは見ていた。カシルの背中を。
強い背中だ。広い肩。まだ戦える体。7年前に戦争を終わらせた男の体。でも——重い。あの背中は重すぎる。全部を一人で背負おうとしている。仲間を守るために自分が盾になる。友を逃がすために自分が残る。7年前もそうやって——一人で全部を終わらせた。友であるミストを悪者にして、自分が正義の勇者を演じて。一人で。
ルセは知っている。カシルの話を聞いた。ミストの話も聞いた。7年前、この場所で何があったか。カシルが何を背負ったか。
また同じことをしようとしている。
首領に一人で向かって、他の三人を逃がすつもりだ。自分が倒されても、その間に三人が態勢を立て直せる。そういう計算をしている。朗らかに笑いながら、自分の命を計算に入れている。
——馬鹿じゃないの。
ルセの口が動いた。声が出た。思ったより大きな声だった。
「馬鹿じゃないの」
カシルが足を止めた。振り返った。
ルセが剣を構えてカシルの横に並んでいた。手が震えている。膝も震えている。怖い。あの首領は人間の域を超えている。さっきから見ているだけで足が竦んでいた。でも——立っている。カシルの横に。
「ルセ、お前じゃまだ——」
「まだ足りないのは分かってる」
ルセはカシルの言葉を遮った。声が震えている。怖い。怖いに決まっている。でも——怖いとか怖くないとか、そういう話じゃない。
「でもあんた一人でも足りてないじゃん」
カシルの目が見開かれた。
「ミストとカシルとラリサの三人がかりでも崩せなかった。あんた一人で何が変わるの。——一人で背負って、かっこよく散ろうとしてるだけじゃん」
カシルの口が開いて、閉じた。何か言おうとして——言えなかった。
「あたしがいるでしょ」
ルセは剣を握り直した。震えている手で。
「一人で足りないなら二人。二人で足りないなら四人。——なんのためにあたしたちがここにいるのよ」
カシルが——笑った。
さっきまでの笑みとは違った。朗らかさでも、強がりでも、焦りを隠す笑みでもなかった。呆れたような、嬉しいような、泣きそうな——本当の笑顔だった。
「・・・そうだな」
カシルの声が震えた。一瞬だけ。すぐに戻った。
「そうだった。——忘れてた」
ルセが首領に向かって走った。
考えるより先に体が動いた。怖い。怖い。でも足が動いている。剣を握っている。
首領がルセを見た。紫の瞳。さっきと同じ無関心な目——だったのが、一瞬だけ変わった。この小娘が向かってくるのか、という目。脅威ではない。ただの驚きだ。
ルセは構わず走った。
斬りかかった。全力の一撃。正面から。小細工なんかできない。ルセにできるのは、真っ直ぐ斬ることだけだ。
首領が紫の光で受け止めた。ルセの剣が紫の盾にぶつかる。衝撃が腕を伝って全身に走る。重い。弾かれる——
弾かれなかった。
ルセの剣が——紫の盾の上で止まっていた。押し返されていない。食い込んでいる。紫の光に亀裂が——入りかけている。
肩のピカが弾けた。
小さな光が膨張して、ルセの周囲を白く染めた。ピカの体が——大きくなっている。光の密度が変わった。中級の淡い光ではない。鋭い、強い、白い輝き。ピカが叫ぶように光を放っている。ルセの覚醒に応えて——ピカが進化していた。
嘘。
ルセ自身が驚いた。何が起きたか分からない。ただ、剣が——光っている。比喩じゃない。ルセの剣の刃が白い光を放っている。ピカの光と祠印の力が混ざり合って、紫の盾を内側から侵食していく。祠巡りで得た力——四つの祠印の力が応えている。今まで応えたことなんかなかったのに。
「なっ——」
首領が初めて——驚愕した。紫の瞳が見開かれる。この小娘の剣が自分の盾を裂きかけている。あり得ない。そんなことは——
カシルがその隙を逃さなかった。
首領の目がルセに向いた瞬間。カシルが首領の懐に入った。7年前の勇者の踏み込み。一歩で間合いを詰めて——首領の脇腹を剣で薙いだ。紫の光が薄くなった部分を抉る。首領が体をよじった。初めて——よけた。当たってはいない。でも首領が初めて防御以外の動きをした。
ミストが動いた。首領がカシルに意識を向けた一瞬。影のように滑り込んで、首領の足を払った。首領の体が傾く。ほんの少し。でも——傾いた。
ラリサの精霊が唸った。嵐の精霊。もう限界に近い。でもラリサは撃った。渾身の雷撃。首領の動きが止まった一瞬に、白い稲妻が首領の体を打つ。
「がっ——」
首領の動きが——止まった。一瞬。雷が体を痺れさせている。紫の光が明滅する。
ルセは跳んだ。考えていない。体が動いた。首領が止まっている。今しかない。剣を両手で握って——振り下ろした。全力。今出せる全部。
白い光がルセの剣から溢れた。四つの祠印が同時に応えている。水の祠が教えてくれた適応力。風の祠が教えてくれた判断力。地の祠が教えてくれた粘り強さ。空の祠が教えてくれた自分自身。全部が剣に乗っている。
ピカが叫んだ。声なんかない精霊のくせに——叫んでいるとしか思えない光を放った。ルセの剣に纏わりつくように、白い輝きが祠印の光と溶け合う。ピカの光が刃の先端に集まって、白銀の軌跡を引いた。
ルセの剣が首領の剣を叩いた。紫の光を纏った首領の剣が——折れた。ばきん、と乾いた音がして、紫の光が散った。刀身が二つに割れて岩場に落ちる。同時に——ルセの剣が祭壇を裂いた。ピカの光と祠印の力が絡み合った白い斬撃が石の祭壇に叩きつけられて、古い巨石が真っ二つに砕けた。紫の光の柱が揺れて——消えた。
儀式が止まった。
西の封印の核に伸びていた紫の光が消えた。祭壇の上面が崩れて、中の装置が剥き出しになって、黒い金属の破片が岩場に散らばった。
首領がよろめいた。紫の光が——薄れていく。アポピスの力の供給源を失った。祭壇から体に引き込んでいた力が、途切れた。首領の目の紫の光が明滅する。消えかけている。
「馬鹿な——」
首領の声が震えた。初めてだった。あの静かな狂信者の声が——震えた。
「封印は、もう——」
カシルの拳が首領の顎を打ち抜いた。
剣じゃなかった。拳だった。左の拳。全体重を乗せた一撃。首領の顎が跳ね上がって、体が宙に浮いて——岩場に叩きつけられた。紫の光が完全に消えた。首領の目から紫の色が消えて、ただの人間の目に戻った。動かない。
カシルが拳を下ろした。肩で息をしている。拳の皮が剥けて血が滲んでいる。
「7年前のツケだ」
低い声だった。朗らかさはない。でも——穏やかだった。
カシルがルセを見た。ミストを見た。ラリサを見た。
「——今度は一人じゃない」
ルセは肩で息をしていた。手が震えている。剣を握ったまま。白い光はもう消えている。腕が痛い。全身が痛い。足がふらついている。でも——立っている。仲間と一緒に。
ルセは地面に剣の先を突いて、体を支えた。膝が笑っている。もう一歩も動けない気がする。でも——勝った。勝ったんだ。
カシルが首領の横に歩いていって、動かないことを確認した。気絶している。紫の光が消えた首領は——ただの痩せた中年の男だった。あの圧倒的な力が嘘みたいに、小さく見える。
「ミスト、腕は」
「・・・動く。折れてはいない」
ミストが右腕を押さえながら、低い声で答えた。焦げた袖の下は赤く腫れている。でも剣は握れている。ミストの目がルセの方を向いた。何も言わない。でも——少しだけ、口の端が上がった気がした。
ラリサが嵐の精霊を抱えるようにして座り込んでいた。精霊の光が弱々しく明滅している。
「お疲れ様です・・・あなたも頑張りましたね」
小さな声で精霊に話しかけている。精霊がぽんと跳ねた。弱いけど。
ルセの肩の上で、ピカが光っていた。さっきの爆発的な輝きはもうない。でも——明らかに、前と違う。光の粒が細かくて、密度が濃い。体も一回り大きくなっている。中級の時はぼんやりした淡い光だったのに、今は輪郭がくっきりしている。上級の精霊の光だ。ピカ自身は何事もなかったみたいに、ルセの肩の上でぽんぽん跳ねている。お前、自分が変わったこと分かってるの。
ラリサがピカに気づいて、目を丸くした。
「ピカちゃん——え、また? さっきまで中級だったのに——」
ルセは答えられなかった。自分でも分からない。
カシルがルセの横に来た。
「お前——あの光、なんだ」
「知らない」
ルセは正直に答えた。自分でも分からない。祠印が応えた。それだけだ。理屈は分からない。ただ——仲間を信じて走った瞬間に、何かが解放された。怖くて足が竦んでいる間は何も起きなかったのに。カシルの横に並んだ瞬間に——応えた。
「知らないって・・・お前な」
カシルが呆れたように笑った。でもその目は真剣だった。
「才能とかそういうもんじゃないぞ、あれは。お前が——」
カシルが言いかけて、止めた。首を振る。
「いや、いい。自分で分かってるだろ」
「・・・分かんない。ただ——一人じゃ無理だなって思って。あんたが馬鹿なことしようとしてるから止めなきゃって思って。それだけ」
カシルがまた笑った。本当の笑顔で。目まで笑っている。
「それだよ。それが——俺が7年前にできなかったことだ」
ルセは瞬いた。カシルの目が——遠くなっていた。7年前を見ている目。この場所で、一人で全部を終わらせた時の記憶を。
「一人で背負った。全部一人で。ミストを逃がして、正義の勇者を演じて。——あの時、誰かが横に並んでくれたら。あの時の俺に、お前みたいなやつがいたら」
カシルが言葉を切った。ルセの肩を叩いた。軽く。
「・・・ありがとな」
ルセの目が熱くなった。泣くな。泣くな。勝ったんだから泣くな。
「・・・礼を言うのはこっちでしょ。あんたが前にいてくれたから突っ込めたんだから」
「お互い様だ」
カシルが空を見上げた。紫の雲が——薄くなっている。祭壇が壊れたことで、瘴気が弱まり始めている。
「・・・終わったのか?」
ミストが呟いた。
「いや」
カシルの声が硬くなった。西の方角を見ている。渓谷の奥——封印の核がある方角。
「祭壇は壊した。儀式は止めた。でも——」
地鳴りがした。
足元が揺れた。小石が跳ねる。岩壁がびりびりと震えている。西の方角から——低い音が伝わってくる。大地の奥底から響くような、重い重い音。
咆哮だ。アポピスの咆哮が、渓谷を揺らしていた。
ルセの肌が粟立った。さっきの首領の圧力なんか比じゃない。渓谷全体が震えている。岩壁から石の欠片が落ちてくる。紫の光が——西の方角から噴き出している。祭壇が壊れても。儀式が止まっても。
封印は——もう保たない。
遅かったんだ。祭壇を壊すのが、少しだけ遅かった。封印の崩壊は既に臨界を超えていた。
「フェズ・・・」
ルセは呟いた。西の方角を見ている。紫の光が脈打っている。あの先に——フェズがいる。カルンと二人で。
首領は倒した。祭壇は壊した。ルセたちにできることは、やった。あとは——フェズに託すしかない。
カシルがルセの横に立った。同じ方角を見ている。
「あいつなら——やれる」
静かな声だった。信じている声だった。
ルセは拳を握った。震えている。怖さじゃない。祈りだ。
——フェズ。頼んだよ。
西の渓谷から、アポピスの咆哮が止まなかった。大地が震え続けている。紫の光が空に伸びて、薄くなりかけた雲をまた黒く染めていく。
封印が砕ける音がした。