歌姫と共に   作:ぶるうず

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封印の核

西の道の果てに、光があった。

 

紫の、暗い光。脈打つように明滅している。一拍ごとに岩壁が震える。足の裏から振動が伝わってくる。心臓の鼓動みたいだ。ただし人間の心臓よりずっと大きくて、ずっと重い。

 

アポピスの心臓だ。

 

ヴェーノを超えてから、どれくらい走っただろう。一本道を真っ直ぐ。ミストの言った通り迷わなかった。暗い岩壁の間をひたすら走って、紫の光が強くなるたびに足が重くなった。物理的にじゃない。空気が重い。頭の中に雑音が入り込んでくる。近づくほどに。

 

カルンが肩の上で光を揺らしている。弱い。ヴェーノとの戦闘で消耗している。でも——フェズの肩にしがみついている。離れない。

 

走り続けた。

 

道が急に開けた。広い。洞窟だ。天井が高くて、声を出したら反響しそうなくらい広い。空気の匂いが変わった。外の渓谷の乾いた空気じゃない。湿っている。古い。何百年もここに閉じ込められていた空気の匂い。岩壁に——文字が刻まれている。見たことのない古い文字が壁一面に。薄い紫の光に照らされて、文字の線が浮き上がって見える。1000年前の封印。カシルが言っていた。1000年前にアポピスを封じた場所。ここだ。

 

洞窟の中央に——光球があった。

 

紫の光球。直径は俺の背丈くらいある。浮いている。地面から少し上。脈打っている。心臓のように。一拍ごとに瘴気の波が洞窟全体に広がって、岩壁の古代文字がびりびりと震える。

 

封印の核。この光球の中に——アポピスがいる。太古の大精霊の意識が、1000年間閉じ込められている。

 

一歩、踏み込んだ。

 

——来た。

 

頭の中に雑音が溢れた。今までの比じゃない。渓谷を進む間に感じていた圧迫感なんか、そよ風みたいなものだった。叫び声。怒号。苦痛の声。何千もの声が同時に流れ込んでくるような圧力。精神的な圧迫が頭蓋骨の内側を叩いている。目の奥が痛い。視界がぶれる。

 

膝が折れかけた。歯を食いしばって立った。立て。立ってろ。ここで倒れたら——何のために来たんだ。ヴェーノを超えてきた意味がない。ルセやカシルやミストやラリサが東で戦っている間に、ここに辿り着いた意味がない。

 

「ッ——」

 

カルンが悲鳴を上げた。

 

振り返るまでもない。肩の上で——カルンの光が激しく明滅していた。体が震えている。音の精霊が、アポピスの叫びを直接受けている。人間の俺が頭の中の雑音で膝をつきかけているのに——精霊のカルンには、もっと直接的に届いている。同族の精霊の叫びが。狂気が。1000年分の苦痛が。

 

「カルン!」

 

手を伸ばした。カルンを覆うように。守ろうとして——

 

いや。違う。もう「守る」じゃない。

 

手を添えた。カルンの震える体に。一緒にいるために。お前は一人じゃない。俺がここにいる。そういう手の温度を伝えるために。

 

カルンの震えが——少しだけ収まった。俺の手の温もりが伝わったのか。それとも俺がそばにいることが伝わったのか。少しだけ。ほんの少しだけ——楽になったみたいだった。

 

でも。

 

アポピスの圧力は増し続けている。光球のひびが——見える。紫の光の表面に、細い亀裂が走っている。裂け目から紫の光が噴き出している。噴き出すたびに洞窟の空気が重くなる。呼吸が浅くなる。

 

封印が崩壊しかけている。

 

東の祭壇が砕かれたことで儀式は止まったはずだ。さっき地鳴りの中で何かが変わった気がした。紫の光の脈動が一瞬だけ途切れた。祭壇からの力の供給が止まったんだと思う。でも——遅かったんだ。封印は既に限界を超えている。祭壇を壊しても、もう止まらない。

 

ひびが広がった。ばきり、と音がした。光球の表面が裂けて、紫の光が噴き出す。洞窟全体が紫に染まった。岩壁の古代文字が光を受けて浮き上がる。1000年前に封印を施した者たちの言葉が——悲鳴みたいに光っている。

 

目覚めかけている。アポピスが。

 

「カルン」

 

俺は声をかけた。手の中のカルンに。できるだけ穏やかに。震えている声だったけど。

 

「歌えるか」

 

カルンの光が揺れた。弱い。核はまだ回復途上だ。ヴェーノとの戦闘で消耗している上に、アポピスの圧迫を受けている。全力で歌ったら——核がどうなるか分からない。壊れるかもしれない。空の祠で、精神世界で見た。カルンの核が損傷している姿を。あの時よりは回復している。でも——万全には程遠い。

 

俺はそれ以上言わなかった。

 

カルンに強制しない。あの約束を守る。カルンが歌いたい時だけ。カルンの意志で。俺が引き出すんじゃない。カルンが自分で決める。

 

沈黙が落ちた。

 

アポピスの叫びが洞窟を揺らしている。岩壁から石の欠片が落ちてくる。封印のひびがさらに広がる。紫の光が脈打つたびに亀裂が深くなっていく。時間がない。分かっている。でも——急かさない。

 

待った。

 

長い時間に感じた。たぶん数秒だった。アポピスの叫びが頭の中で暴れ回っている間、俺はカルンの返事を待った。

 

カルンが——光った。

 

弱い。震えている。でも。意志の光だった。

 

俺の手の中で、カルンが自分の意志で光っている。誰かに引き出されたんじゃない。誰かに強制されたんじゃない。自分で——光ることを選んでいる。カルンが俺を見た。その目に——覚悟がある。

 

歌う。自分の意志で。命懸けかもしれない。核が回復途上なのも分かっている。全力の共鳴が核を壊すかもしれないことも。それでも——歌う。フェズの隣で。

 

胸が熱くなった。泣きそうになった。泣くな。今は泣くな。

 

「・・・一緒に」

 

それだけ言った。言えた。

 

カルンの光がぽんと跳ねた。弱いけど。跳ねた。うん、と言っている。あの光の跳ね方は——うん、だ。

 

 

封印が崩壊した。

 

光球が割れた。卵の殻が砕けるように、紫の表面がばらばらに裂けて、中から光が溢れ出す。目を開けていられないくらいの光量。腕で目を庇った。カルンを片手で抱えたまま。

 

風が来た。洞窟の中なのに。封印が砕けた衝撃で空気が渦巻いている。紫の光が嵐みたいに洞窟を駆け巡る。髪が顔に張り付く。目を細めて前を見た。

 

光が収まった瞬間——何かが流れ込んできた。

 

アポピスの「声」だった。声じゃない。もっと直接的な何か。言葉でもない。意識に直接流れ込んでくる。1000年分の感情が、一気に。

 

苦しい。暗い。一人。誰もいない。

 

争いの悪感情が染み込んで——正気を失って——それでも意識がある。狂っていると分かっているのに止められない。止め方を忘れた。1000年。封じ込められて。暗くて。誰も来なくて。助けを求めても声にならなくて。叫んでも叫んでも——誰にも届かなくて。

 

怖い。寂しい。苦しい。助けて。誰か。誰も来ない。もう1000年も。

 

膝が折れた。今度は本当に。地面に両手をついた。涙が落ちた。俺の涙だ。カルンの涙じゃない。俺自身の涙が、地面に落ちている。冷たい岩の上に。

 

これは——

 

「——敵じゃない」

 

声が出た。自分の声が、遠くから聞こえるみたいだった。

 

これは敵じゃない。これは——カルンと同じだ。精霊だ。苦しんでいる精霊だ。1000年の間、封印の中で一人で狂って、苦しみ続けて——それでも死ねない。精霊だから。死ねないまま、1000年。ずっと一人で。ずっと暗い中で。

 

カシルが言っていた。「アポピスは倒すものではなく鎮めるもの」と。鎮魂の歌で眠らせたんだと。あの時は意味が分かったつもりでいた。倒すんじゃなくて鎮める。うん、分かった。——嘘だ。全然分かっていなかった。今、分かった。

 

アポピスは怒っているんじゃない。苦しんでいるんだ。1000年の孤独と苦痛で狂った大精霊が——泣いている。怒りじゃない。悲鳴だ。助けてくれという悲鳴が、1000年分溜まって、狂気になっている。

 

黒斑病の精霊たちも、渓谷の入口で見た精霊たちも。目が黒く濁って正気を失っていたあの精霊たちも——全部、この叫びの余波だ。アポピスの苦痛が大陸中の精霊に伝播して、精霊たちまで狂わせていた。

 

「カルン」

 

声をかけた。手の中のカルンに。カルンの光が震えている。聴こえている。同族の精霊の叫びが。1000年の苦痛が。音の精霊だから——誰よりも直接的に。叫びの中にある感情の一つ一つが、カルンには音として聴こえているはずだ。

 

「聴こえたか。あの声」

 

カルンの光が強く震えた。聴こえている。痛いくらいに。

 

カルンの光の揺れ方が——泣いているみたいだった。同族の精霊の苦しみを聴いて。1000年も一人で叫び続けている存在の声を聴いて。カルンだって追われ続けた精霊だ。怖くて心を閉ざした精霊だ。孤独を知っている。だから——アポピスの叫びが、誰よりも痛い。

 

「歌おう」

 

立ち上がった。膝が震えている。涙が止まらない。頭の中がアポピスの叫びで満たされている。苦しい。でも——立った。

 

「あの精霊に、歌を届けよう」

 

カルンの光が——変わった。震えの質が変わった。怯えから——決意に。

 

弱い光だ。ヴェーノとの戦闘で消耗して、アポピスの圧力で更に削られて、核は回復途上で。何もかもが足りない。力が足りない。時間が足りない。経験が足りない。でも——一緒にいる。カルンがここにいる。俺がここにいる。

 

形も知らない歌だ。歌詞もない。旋律もない。鎮魂の歌がどんなものかなんて、誰も教えてくれなかった。カシルも知らないと言っていた。1000年前の伝承にも具体的な記述はない。分からないまま歌うしかない。分からないまま——あの精霊に、声を届けるしかない。

 

カルンが俺の肩の上で、光を揺らした。小さく。でも確かに。——行こう。

 

封印が砕けた洞窟の中心で、紫の光が渦巻いている。アポピスの意識が溢れ出している。1000年の苦しみが洞窟を満たしている。

 

その中に——俺たちは立っている。

 

フェズと、カルン。巡祠者と、音楽の精霊。形も知らない歌を、歌うために。

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