形も知らない歌。歌詞もない。旋律もない。
——でも、歌わなければいけない。カルンが隣にいる。それだけで、始められる。
紫の光が渦巻く洞窟の中心で、俺は息を吸った。深く。肺の底まで。アポピスの叫びが頭の中を引っ掻き回している。1000年分の苦しみの残響が鼓膜の裏側にへばりついている。それでも——息を吸った。歌うために。
カルンが肩の上で光を揺らした。俺を見ている。準備はできている、と。
「・・・行くぞ、カルン」
歌い始めた。
何の曲でもない。歌詞もない。旋律すらまともに持っていない。あの日——ルセたちと合流した夜、部屋でカルンと一緒に歌った鼻歌と同じだ。調子外れの、寄り添おうとするだけの音。上手くもない。力もない。ただ——ここにいる、という声。
カルンが応えた。弱い旋律。俺の声に重なるように、カルンの音が広がっていく。不協和音に近い。俺の声とカルンの旋律がぶつかって、ざらざらした響きになる。綺麗じゃない。でも——二人の音が、洞窟の空気を揺らしている。
アポピスが反応した。
紫の光が激しく明滅する。一拍、二拍、三拍——脈動が速くなる。叫びが強まる。耳の奥を殴りつけるような圧力。
「近づくな」
声じゃない。感情だ。アポピスの感情が直接頭の中に流れ込んでくる。
「触れるな」
拒絶。怒り。1000年の間、誰にも届かなかった叫びを聞いた存在に対する——怒り。今さら来るな。今さら聴くな。もう誰も信じない。
「もう——」
叫びの圧力が歌を押し潰した。カルンの旋律がかき消される。光が吹き飛ばされるように明滅して、カルンの体が大きく揺れた。俺の声も——出ない。喉が詰まる。アポピスの叫びに押し返されて、声が出ない。
膝が震えた。歯を食いしばって立っている。立っているのがやっとだ。1000年の苦痛を前にして、俺の声は——あまりにも小さい。何も届かない。形も知らない歌で、1000年の苦しみに寄り添えるわけがない。
——本当にそうか。
歯を食いしばったまま、考えた。違う。今やっていることが間違っている。歌を届けようとしていた。寄り添おうとしていた。でもそれは——俺が一方的にやっていただけだ。あの精霊の声を、ちゃんと聴いていたか。
歌を止めた。
カルンが俺を見た。光が揺れている。どうした、と聞いている。
「・・・カルン。聴こう」
口を閉じた。歌わない。声を出さない。代わりに——アポピスの叫びを聴く。ただ聴く。精神世界の試練で学んだことだ。空の大精霊が教えてくれたこと。引き出すのではなく、聴くこと。相手の声を聴くこと。
カルンも旋律を止めた。沈黙。俺たちの音が消えて、洞窟にはアポピスの叫びだけが残った。
苦しい。暗い。一人。怖い。寂しい。助けて。誰か。もう嫌だ。もう疲れた。狂いたくない。でも止められない。1000年。ずっと。ずっと一人で。
涙が頬を伝った。さっきも泣いた。また泣いている。止められない。アポピスの感情が流れ込んでくる。苦しい。痛い。——でも、聴いている。聴き続けている。背けない。この叫びから背を向けたら、歌なんか歌えない。
カルンも聴いている。音の精霊として。同族の存在の苦しみを。カルンの光が静かに震えている。泣いているのだと思う。でもカルンも——背けていない。
どれくらい聴いていただろう。
叫びの中に——何かがあった。最初は分からなかった。叫びが大きすぎて。苦痛の声が多すぎて。でも聴き続けていたら——叫びの奥に。苦しみの底に。
微かな旋律。
ほとんど聴こえない。叫びに覆い隠されている。でも確かにそこにある。狂気の叫びの奥で、かすかに震えている旋律。アポピスがかつて持っていた——狂う前の旋律。大精霊だった頃の歌。1000年前、正気を失う前に歌っていた音。それが叫びの底で、まだ消えずに震えている。
「カルン」
声をかけた。小さく。叫びの中でかき消されそうな声で。
「聴こえるか。・・・あの奥に」
カルンの光が——変わった。震えが止まった。目が据わっている。聴こえている。音の精霊の耳が——叫びの奥にある旋律を、捉えている。
カルンが歌い始めた。
俺が指示したんじゃない。俺が引き出したんじゃない。カルンが自分の意志で——アポピスの旋律を拾い上げた。叫びの中から。狂気の中から。苦痛の底から。かつてのアポピスの歌を見つけ出して、それに合わせて歌い始めた。
音楽の精霊にしかできないことだ。
風の精霊でも、地の精霊でも、嵐の精霊でもできない。叫びの奥にある旋律を聴き分けて、拾い上げて、応えること。それは音楽の精霊だけが持つ力だ。1000年の狂気の中から元の歌を見つけ出すこと。カルンの——カルンだけの力。
カルンの旋律が洞窟に響いた。弱い。消えそうなくらい弱い。でも——アポピスの叫びの奥にある旋律と、同じ方向を向いている。寄り添っている。
俺はカルンの旋律を聴いた。そして——応えた。
下手な歌だ。いつも通り。調子外れで、音程も怪しい。でもカルンの旋律と同じ方向を向いている。アポピスの奥にある歌を聴いて、寄り添おうとしている。
三つの音が重なった。カルンの旋律。俺の歌。そしてアポピスの——叫びの奥の、微かな歌。
不安定に揺れている。まだ調和とは呼べない。ぶつかって、離れて、また近づいて。でも——少しだけ。ほんの少しだけ、三つの音が同じ方向を向いた瞬間があった。
アポピスの叫びが——少しだけ弱まった。
気のせいかと思った。でも違う。紫の光の明滅が遅くなっている。さっきまで一秒に何度も脈打っていた光が、少しだけ——穏やかになっている。まだ狂気に満ちている。まだ苦痛に溢れている。でも——何かが届いている。
カルンが歌い続けている。アポピスの旋律に寄り添いながら。叫びが弱まるたびに、奥にある旋律が少しだけはっきりと聴こえるようになる。カルンがそれを拾って、旋律を紡ぎ直す。叫びの中から歌を引き上げていく。
俺はカルンの音を聴いて、応える。下手な声で。でもカルンの旋律とぶつからないように。カルンが紡ぐ音の隙間を埋めるように。カルンの歌を支えるように。
対等な共鳴。
これだ、と思った。俺が引き出すんじゃない。カルンが歌って、俺が応える。二人の音がアポピスに届く。鎮魂の歌は——技術じゃなかった。形があらかじめあるものじゃなかった。苦しんでいる相手の声を聴いて、その奥にある歌を見つけて、寄り添って、応える。それだけだ。それだけのことが——鎮魂の歌だった。
カルンの核が——光り始めた。
さっきまで弱々しく明滅していた光が、強くなっていく。共鳴の負荷じゃない。無理に引き出した力じゃない。アポピスとの対話が——カルンの中にある何かを呼び覚ましている。音楽の精霊としての本質。叫びの中から歌を見つけ出し、狂気の中から旋律を拾い上げ、苦しむ存在に音を届ける力。カルンが生まれ持った力が——今、目を覚ましている。
光が強くなる。カルンの旋律が力を増していく。洞窟を満たすアポピスの叫びに、カルンの歌が混ざっていく。押し返すんじゃない。溶け合っていく。叫びの中に旋律が染み込んでいくように。苦痛の声の隙間に、安らぎの音が忍び込んでいくように。
アポピスの叫びが——変わり始めた。
叫びの中に、歌が混ざっている。狂気の声の合間に、かすかな旋律が聴こえる。アポピスの旋律だ。1000年間、叫びの底で消えずに震えていた歌が——少しずつ表に出てきている。カルンの歌に引き上げられて。
紫の光がゆっくりと——色を変え始めた。端の方から。紫の中に白い筋が混ざる。太古の大精霊の、本来の光。1000年前、正気だった頃の光。争いの悪感情に染まる前の——アポピス本来の色。
泣いている。
アポピスが泣いている。怒りじゃない。苦痛の叫びでもない。今度は——安堵だ。1000年の間、暗い封印の中で一人で叫び続けて、誰にも届かなくて、狂って、それでも消えなかった歌が——届いた。聴いてくれる者がいた。応えてくれる者がいた。
カルンの光が——限界に近づいているのが分かった。
核が熱い。回復途上の核に、この共鳴は重い。カルンの光が強くなるたびに、核の温度が上がっているのが手を通じて伝わってくる。止まれ、と言いたい。止まってくれ、と言いたい。でも——
カルンは止まらない。止まれない。自分の意志で歌っている。あと少し。あと少しで——アポピスの叫びが歌に変わる。あと少しで、この精霊が安らげる。
止めない。
止めたい。カルンの核が壊れるかもしれない。壊れたら——考えたくない。でも止めない。これはカルンの意志だ。カルンが歌いたくて歌っている。信じる。あの約束を守る。カルンの意志を。
代わりに——声を張った。
自分の歌を強めた。下手な歌だ。音程もめちゃくちゃだ。でも——カルンの負担を少しでも減らすために。俺の声がアポピスに届けば、その分カルンの核にかかる負荷が減るはずだ。根拠はない。でもそう信じた。
声を出す。もっと強く。アポピスに届くように。喉が痛い。声が掠れる。構わない。もっと出す。もっと強く。カルンの歌を支えるために。カルンの隣で、一緒に歌うために。
二人の歌が——一つになった。
完全な共鳴。搾取じゃない。依存でもない。俺が引き出したんじゃない。カルンが無理に差し出したんでもない。二人の意志が重なった音。カルンが歌いたくて歌って、俺が応えたくて応えて、二つの声が一つの歌になった。
音楽の魔法の——真の姿。
洞窟が光に満ちた。紫が消えていく。白い光が岩壁を這い上がる。天井を覆う。古代の文字が光を受けて浮き上がる。1000年前の封印の文字が——今度は悲鳴じゃなく、安らぎの中で光っている。
アポピスの叫びが——消えた。
代わりに、静かな旋律が洞窟を満たした。太古の大精霊の、安らぎの歌。穏やかで、優しくて、少しだけ悲しい。1000年ぶりの安息の歌。
封印が——自ら閉じていく。
力任せの封じ込めじゃない。アポピス自身の意志だ。もう暴れる必要がない。苦しみが鎮まった。叫びを聴いてくれた。歌を見つけてくれた。もう——大丈夫だ。眠れる。やっと——眠れる。
白い光が洞窟全体を包んでいく。新しい封印。1000年前のような力任せの封じ込めじゃない。アポピス自身の安息による、自然な眠り。岩壁の古代の文字が柔らかく光っている。封印の形が変わっている。縛りつける鎖じゃなく——揺り籠みたいだった。
カルンの旋律が——静かに消えていった。歌い終えたのだ。
俺の声も——止まった。喉がひりひりする。声が出ない。歌い過ぎた。でも——歌い切った。
洞窟が静かになった。アポピスの叫びも。カルンの旋律も。俺の声も。全部が終わって、白い光だけが残っている。穏やかな光。1000年の苦しみの果てに——安らぎを得た精霊の光。
手の中を見た。
カルンがいる。光が——弱い。点滅している。でも——消えてない。目が閉じかけている。疲れている。限界ギリギリだ。でも。消えてない。
カルンが——微かに光を揺らした。弱い。でも。ぽん、と。跳ねた。
「・・・やったな、カルン」
声が掠れて、ほとんど聞こえなかった。自分の声なのに。
カルンの光がもう一度——ぽん、と跳ねた。弱く。でも確かに。
鎮魂の歌が終わった。アポピスが眠りについた。1000年の苦しみの果てに——安らぎを得た。
洞窟が静かだ。白い光が壁を照らしている。古代の文字が穏やかに光っている。風の音もない。叫びもない。
フェズとカルンだけが、白い光の中に立っている。