歌姫と共に   作:ぶるうず

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帰郷

見覚えのある丘が見えた。

 

グラーヴェ市の城壁が陽の光を受けて白く浮かんでいる。その手前の丘陵地帯、緩やかにうねる草原。一年前、買い出しの帰り道に何度も歩いた風景だ。

 

カルンが肩の上で跳ねた。大きく。嬉しそうに。光がぱっと弾けて、俺の頬を照らした。

 

「覚えてるのか」

 

カルンがもう一度跳ねた。覚えている。ここだ。全部が始まった場所。

 

嘆きの渓谷を出てから、もう数週間が経っている。歩いて、休んで、歩いて。急ぐ旅じゃなかった。カルンの核が回復するのを待ちながらの、ゆっくりした旅路だった。

でも、もう大丈夫だ。

 

カルンは元気になった。核の光が安定して、以前と同じように飛び回れるようになった。道端の花を見つけると体を乗り出して覗き込み、鳥が横切れば追いかけて、飽きると俺の頭の周りをぐるぐる回って戻ってくる。一年前と同じだ。あの時と同じ好奇心旺盛なカルン。

 

でも、一つだけ違う。

 

前は俺から離れるとすぐ怯えた。少し距離が開くだけで光が不安定になって、慌てて戻ってきた。追われ続けた精霊の恐怖が、まだ体に染みついていたから。

今は違う。カルンが離れても、すぐ戻ってくる。でもそれは怯えじゃない。帰る場所があると分かっているから。俺の隣が自分の場所だと、もう知っているから。

 

街道を歩きながら、渓谷での別れを思い出した。

 

 

 

ルセが腕を組んで俺の前に立っていた。傷は治りかけていたけれど、包帯がまだ腕に巻かれていた。

 

「あたしは王都に呼ばれてる。勇者がどうとかって——面倒だけど」

ルセが顔をしかめた。心底面倒そうだった。

「仕方ないでしょ、断れないし。英雄戦争の立役者とか言われてるらしいし。・・・あたしだけじゃなかったのに」

「ルセ」

「何」

「似合うと思う。勇者」

 

ルセの耳が赤くなった。「は? 何言ってんの。・・・別に嬉しくないし」

 

嘘だ。分かりやすい。

 

ルセが俺を見た。いつもの強い目。でも少しだけ柔らかかった。

 

「フェズ。次会う時、覇者になってなかったら怒るから」

「・・・善処する」

「善処じゃなくてなれって言ってんの」

 

ルセが鼻を鳴らした。それから——ほんの一瞬だけ、笑った。すぐに背を向けて歩き出した。振り返らない。ルセはいつもそうだ。

 

カシルが手を挙げた。朗らかな顔。いつも通りだ。傷だらけでも、笑顔は変わらない。

 

「また会おう、フェズ。今度は戦場じゃない場所で」

「・・・うん」

「約束だぞ」

 

カシルが笑って去っていった。何でもないみたいに。でも俺は知っている。カシルは軽く言うほど約束を重く守る人だ。

 

ミストは少し離れた場所に立っていた。いつも通り腕を組んで、視線を逸らしている。

別れの言葉なんて言いそうにない人だった。七年間、影から一人で戦い続けた人が、別れの挨拶なんて。

 

「・・・達者でな」

 

短かった。ほとんど聞こえないくらい低い声だった。

でも——ミストが別れの言葉を言った。それだけで十分だった。

 

ラリサが最後だった。嵐の精霊を肩に乗せて、ぶんぶん手を振っている。

 

「わたしは先にグラーヴェに戻ってます! トルニオ師匠に報告しないと。フェズさんたちはゆっくり来てくださいね。カルンちゃんの回復が第一ですから!」

「ラリサ」

「はい?」

「ありがとう」

 

ラリサが目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。「お礼を言うのはこっちですよ! ・・・でも、ありがとうございます!」

 

嵐の精霊がラリサの肩の上でぽんと跳ねた。カルンが俺の手の中から光を揺らした。精霊同士の挨拶みたいだった。

 

 

 

回想が途切れて、目の前にグラーヴェの丘が広がっている。

 

カルンが俺の肩から飛び立って、丘の上をくるくると旋回した。光が午後の陽を受けて輝いている。元気だ。本当に元気になった。

 

「カルン。最後の祠だ」

 

カルンが振り返った。空中で静止して、俺を見ている。

 

「トルニオの祠。火の祠。・・・旅の始まりに、お前を守れないって言われた場所に戻る」

 

言葉にすると、胸の奥がざわついた。期待と、少しだけ不安。トルニオに認められるかどうか。あの人の目に、今の俺はどう映るのか。

 

カルンが旋律を鳴らした。短い、穏やかな音。不安の色はない。一緒に行く、という音だ。隣にいる、という音だ。

 

「・・・うん。行こう」

 

 

 

グラーヴェ市が近づいてきた。

 

堅牢な城壁。石造りの建物が連なる屋根の稜線。一年前、買い出しに来た街だ。あの時は一人だった。村長に頼まれた荷物を背負って、誰とも話さずに市場を回って、日が暮れる前に帰った。

今はカルンがいる。肩の上で光を揺らしながら、街の景色を物珍しそうに眺めている。一年前にも通った場所なのに、あの時は俺の胸元に隠れていた。怯えて外が見れなかったから。今はきょろきょろと首を巡らせている。

 

門を通って街に入った。人の賑わい。石畳を歩く足音が重なっている。商人が声を張り上げて、子供が走り回って、荷車が軋んでいる。

 

俺に気づく人はほとんどいない。当たり前だ。嘆きの渓谷で蛇の目を倒したのは勇者ルセ。世間的にはそういうことになっている。フェズという名前を知る人はいない。無名の巡祠者のまま。

 

それでいい。俺は英雄になりたかったわけじゃない。

 

石畳の街路を歩いていると、向こうから巡祠者らしい男が歩いてきた。腰に剣を差して、腕に祠印をぶら下げている。二つ。水と風か。

男が俺を見た。俺の腰の剣と、肩の上のカルンを。

 

「おい、兄ちゃん。火の祠に挑むのか?」

「・・・そのつもり」

「やめとけとは言わねぇが、気をつけろよ。あそこは厳しいぞ。トルニオはこの大陸で一番容赦がない祠の主だ。俺は三回挑んで三回叩き返された」

 

男が苦笑した。経験者の顔だ。

 

「知ってる」

「へえ。噂で聞いたか?」

「師匠だから」

 

男が目を丸くした。口が半開きになっている。

 

「・・・マジか」

 

返事はしなかった。軽く頭を下げて、そのまま歩き過ぎた。背中に男の視線を感じたけれど、振り返らなかった。

 

カルンが俺の首筋で小さく旋律を鳴らした。からかうような、明るい音。

 

「笑うなよ」

 

カルンが跳ねた。笑っている。絶対笑っている。

 

 

 

グラーヴェ市を抜けて、近郊の丘を登る。

 

見覚えのある道。苔の生えた石垣。踏み固められた土の小道。一年前、ラリサに肩を借りてふらふらと辿り着いた道だ。あの時は精霊ハンターに追われた後で、体中が痛くて、景色を見る余裕なんてなかった。

今はちゃんと見える。丘の斜面に野草が揺れている。風が涼しい。空が高い。

 

坂を上りきると——見えた。

 

質素だけれど頑丈な石造りの住居。苔の這った石壁。几帳面に積まれた薪。玄関の横の水瓶。一年前と何も変わっていない。

 

門の前に、人影があった。小柄で、長い髪が風に揺れている。

 

ラリサだった。

 

門に背を預けて立っていたラリサが、こちらに気づいた。目が大きく見開かれて、それから——ぱっと笑顔になった。

 

「フェズさん!」

 

走ってきた。相変わらず子供みたいな走り方だ。嵐の精霊使いと呼ばれる最強格が、転びそうな勢いで駆け寄ってくる。

 

「フェズさん! おかえりなさい!」

 

足が止まった。

 

一年前と同じだ。同じ場所で、同じ人が、同じ言葉を言っている。

 

あの時は——言葉に詰まった。おかえりと言われて、何を返せばいいか分からなかった。帰る場所なんてないと思っていたから。喉の奥が詰まって、声がかすれて、カルンに背中を押されてようやく「ただいま」と絞り出した。

 

今は。

 

「ただいま、ラリサ」

 

詰まらなかった。自然に出た。当たり前みたいに。ここが帰る場所だと、もう知っているから。

 

ラリサが嬉しそうに笑った。目が潤んでいる。泣くほどのことじゃないのに。でもラリサはそういう人だ。人の帰りを、心の底から喜べる人。

 

「元気そうですね、フェズさん。それにカルンちゃんも——」

 

カルンが俺の肩から飛び立った。ラリサの嵐の精霊めがけて一直線に突っ込んでいく。嵐の精霊がびくっとして——それからカルンを受け止めた。二匹の精霊がぐるぐると絡まりながら庭の上を飛び回る。光と風が混ざって、小さな旋風が起きた。

 

「あはは、カルンちゃん元気! すっかり元気ですね!」

 

ラリサが笑いながら二匹を見上げた。精霊同士のじゃれ合いだ。一年前、同じ庭で同じことがあった。あの時よりずっと元気に飛び回っている。

 

住居の扉が開いた。

 

トルニオが出てきた。石造りの壁を背に立っている。大柄な体。硬い顔。いつも通りだ。一年前と何も変わっていない。表情が読めない。

フェズを見ている。カルンを見ている。それからもう一度、フェズの目を見た。

 

「来たか」

 

二文字。それだけ。声に抑揚がない。いつも通りの、端的な言い方。

でも——「来たか」だ。「何の用だ」じゃない。「来たか」。待っていた、というニュアンスが、短い言葉の底に沈んでいる。

 

「来ました。——最後の祠を、受けに来ました」

 

トルニオの目が俺を真っ直ぐ見ている。長い沈黙。

 

庭の上で精霊がじゃれ合う音がする。風が吹いている。草が揺れている。トルニオは何も言わない。ただ見ている。

 

一年前のことを思い出す。「お前では守れない」。あの硬い声。あの突き放す目。カルンを手放せと言われて、足が震えた。

今、同じ人が同じ場所に立っている。でもあの目じゃない。突き放す目じゃない。何を見ているのか分からない。ただ——冷たくはない。

 

「明日だ。今日は休め」

 

それだけ言って、背を向けた。住居の中に戻っていく。振り返らない。いつも通りだ。言葉は最小限。余計なことは言わない。

 

でも、分かった。トルニオの背中が——少しだけ柔らかかった。肩の力が、ほんの僅かに抜けていた。一年前の、張り詰めた背中じゃない。

 

ラリサが俺の横に並んだ。小声で囁いてくる。

 

「フェズさん、師匠、フェズさんが来るの昨日からそわそわしてたんですよ。何度も門の方見て」

「・・・嘘だろ」

「本当です。わたし見ましたから。でも本人に言ったら怒られるので内緒ですよ」

 

ラリサがいたずらっぽく笑った。

 

カルンが庭から戻ってきて、俺の肩に着地した。嵐の精霊がラリサの肩に戻った。二匹とも満足そうに光を揺らしている。

 

空を見上げた。夕方の光が丘を橙に染めている。一年前と同じ空。同じ場所。同じ人たち。

 

でも俺が違う。

 

明日、火の試練。全てが始まった場所で、最後の祠に挑む。

トルニオが待っている。あの日「お前では守れない」と言った師匠が。

 

今度は——自分の答えを、見せに行く。

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