朝が来た。
窓の外が白んでいる。トルニオの拠点の客間で目を覚ました時、すでに体が起きていた。眠れなかったわけじゃない。ただ、体が分かっていた。今日だ、と。
カルンが俺の枕元で微かに光っている。起きているのか眠っているのか分からないが、俺が動くとすぐに浮き上がった。
「起こしたか」
カルンが小さく旋律を鳴らした。起きてた、という音。待ってた、という音。
身支度を整えて外に出ると、トルニオが玄関の前に立っていた。腰に剣を差している。もう準備ができている。
「ラリサは?」
「先に行ったと言っていた」
それだけの会話だった。トルニオは背を向けて歩き出した。俺もその後を追う。カルンが肩の上で周囲を見回している。
門の前にラリサがいた。いつもの笑顔で立っている。嵐の精霊が肩の上で寝ぼけたように揺れていた。
「フェズさん、おはようございます! 師匠、おはようございます!」
「ラリサ。お前は残れ」
トルニオの声に温度がない。いつもの命令口調だ。
ラリサが小さく頷いた。「はい。——これはフェズさんの試練ですから」
覚悟していたような顔だった。ラリサは分かっている。火の祠の試練がどういうものか。
ラリサが俺を見た。目が少し潤んでいる。泣くほどのことじゃないのに。でもラリサはいつもそうだ。
「フェズさん。頑張ってくださいね」
「・・・うん。行ってくる」
「あの、フェズさん」
ラリサが俺の袖を掴んだ。力が入っている。震えてはいない。でも、伝えたいことがある顔だった。
「わたし、ずっと見てました。フェズさんが師匠の下で修行してた時から。・・・最初はどうなるかって心配してました。正直に言うと」
「・・・知ってる。弱かったから」
「違います。弱いんじゃなくて、不器用だったんです。でも——今のフェズさんは違います。カルンちゃんと一緒に、ちゃんと自分の道を歩いてる。だから、大丈夫です」
ラリサの目がまっすぐ俺を見ていた。嵐の精霊使い。この大陸で最強格と呼ばれる天才。その目に嘘はない。
「・・・ありがとう、ラリサ」
ラリサがカルンに手を伸ばした。カルンがその指先にちょんと触れる。光が一瞬だけ強く揺れた。
「カルンちゃんも、頑張ってね。フェズさんのこと、よろしくね」
カルンが跳ねた。大きく。任せろ、という跳ね方だった。
グラーヴェ近郊の山道を登っている。
トルニオが前を歩き、俺がその後を追う。一年前、修行のために同じ道を歩いたことがある。あの時は何もかもが初めてで、トルニオの背中が途方もなく遠く感じた。
今も遠い。背中の幅も、歩幅も、佇まいも。でも——ついていけないほどじゃない。
岩肌がむき出しの地形に変わってきた。木々が減って、赤みを帯びた岩が増える。登るにつれて空気が変わった。熱い。乾いた熱気が下から這い上がってくる。
地面の裂け目から白い蒸気が噴き出す場所があった。温泉の匂い。硫黄と鉄の混じった匂いが鼻を突く。
火の精霊の領域だ。
岩の表面が赤い。触ったら火傷しそうな色をしている。空気が揺らいでいる。陽炎みたいに。
トルニオは無言で歩き続けている。振り返らない。話しかけてこない。いつも通りだ。
俺も黙っている。話すことがないわけじゃない。聞きたいこともある。トルニオが火の祠の試練に何を用意しているのか。俺に何を期待しているのか。でも——今は黙って歩くのが正しい気がした。トルニオとはそういう関係だ。必要なことは、必要な時に言う。
カルンだけが俺の肩の上で忙しなく動いている。左を見て、右を見て、上を見て。蒸気が噴き出すたびにびくっと揺れて、でもすぐに落ち着いて、また周りを見回す。
「カルン。緊張してるか」
小声で聞いた。
カルンの光が揺れた。少し。でも——揺れ方が穏やかだ。怯えてはいない。
一年前だったらこうはいかなかった。知らない場所で、強い精霊の気配に囲まれて、カルンは俺の胸元に潜り込んで震えていただろう。
今は肩の上にいる。俺の隣に。落ち着いている。俺がいるから、じゃない。俺が隣にいることを知っているから。
「・・・大丈夫。一緒に行こう」
カルンが小さく旋律を鳴らした。うん、という音だった。
山腹に、巨大な岩の裂け目があった。
高さは人の三倍ほどもある。幅は二人が並んで通れるくらい。裂け目の奥が暗い。でも暗闇じゃない。赤い光が奥から漏れている。
熱を感じた。岩壁から滲み出る熱気。肌がじりじりする。炎の気配。五つの祠の中で最も厳しいと言われる場所——その入口が、目の前にある。
トルニオが足を止めた。裂け目の前で振り返る。
「入るぞ」
俺は頷いた。
裂け目を通り抜けると、視界が開けた。
広い。天然の洞窟だが、人の手が加わっている。壁に古代の文字が刻まれている。読めない。でもその文字自体が赤く発光している。
天井が高い。見上げると岩の隙間がある。そこから赤い光が差し込んでいる。溶岩だ。天井の向こう側に溶岩が流れている。その光が洞窟全体を赤く染めている。
空気が熱い。呼吸するたびに肺が焼けるような感覚がある。汗が額から顎に伝って落ちた。
中央に、円形の平らな岩場があった。
闘技場だ。直径は三十メートルほど。天井から注ぐ赤い光がその岩場を真っすぐ照らしている。岩場の周囲に炎が揺らめいていた。松明でも焚火でもない。岩から直接、炎が噴いている。消えない炎。精霊の炎だ。
その中央にトルニオが歩み出た。足音が洞窟に響く。硬い岩を踏む、重い足音。
俺は入口の近くに立ったまま動けなかった。
気配がある。巨大な気配が。
火の大精霊だ。
洞窟全体に満ちている。空気の中に、岩の中に、炎の中に。姿は見えない。形がない。ただ——存在感だけが、ここにいるすべてを押し潰すほどに充満している。
水の大精霊とも、風の大精霊とも、地の大精霊とも違う。空の大精霊の静かな気配とも違う。火の大精霊は——熱い。存在自体が熱い。意志が燃えている。
カルンが俺の肩の上で身を固くした。大精霊の気配に圧されている。でも——逃げない。じっと、俺の肩にしがみついている。
トルニオが円形の岩場の中央で振り返った。赤い光を背に受けて立っている。大柄な体。硬い顔。腰の剣に手をかけている。
「火の祠の試練は、他の祠とは違う」
トルニオの声が洞窟に反響した。低くて硬い声だ。いつも通りの、感情を消した声。
俺は黙って聞いた。
「水の祠では水の大精霊が試練を行う。風も、地も、空も同じだ。大精霊が直接、巡祠者を試す」
知っている。俺はその四つを、全部経験してきた。
「だが火の祠は違う。火の大精霊は——管理者に試練を委ねている」
トルニオの目が俺を捉えた。真っ直ぐに。逃がさないように。
「この祠では——俺がお前の試練だ」
心臓が跳ねた。
分かっていた。予想していた。火の祠の試練がトルニオ自身だということは、なんとなく感じていた。
でも、言葉にされると違う。目の前の師匠が「試練」だと宣言されると、背筋に冷たいものが走る。
トルニオの強さを知っている。
一年前。修行が始まったばかりの頃。黒斑病にかかった精霊が暴走して、手がつけられなくなった。中級の獣型精霊が森の木をなぎ倒しながら暴れ回った。——トルニオが一人で制圧した。
一歩踏み込んで、剣を一振り。それだけだった。精霊の暴走を力で押さえ込んで、鎮めた。
あの時見た背中を、今も覚えている。あれが火の祠の主だ。この大陸で一番容赦がない祠の主。
そのトルニオが——俺の試練。
「ルールは一つ」
トルニオが剣を抜いた。金属が鳴る音が洞窟に響いた。赤い光を受けた刃が鈍く光っている。
「俺に一撃を入れろ。それだけだ」
「一撃・・・?」
思わず聞き返していた。一撃。たった一撃でいい。それだけ?
でも——トルニオの顔を見て分かった。「それだけ」が、どれほど重いか。
「倒す必要はない。俺を超える必要もない」
トルニオの声が、ほんの僅かに——柔らかくなった。気のせいかもしれない。でも、聞こえた。
「お前の成長を——お前の剣を、見せてみろ」
トルニオの目が真っ直ぐ俺を見ている。硬い表情。いつも通り。読めない顔。でも——あの日と同じ目じゃない。一年前、「お前では守れない」と言った時の、突き放す目じゃない。
何を見ているのか分からない。でも——待っている目だ。俺の答えを、待っている。
剣を抜いた。腰から引き抜くと、柄が手に馴染んだ。旅の中で何度も握った感触。あちこちで傷がついて、刃は一年前より少し薄くなっている。でも、俺の剣だ。
カルンが俺の肩から離れた。ふわりと浮き上がって、俺の頭上に移動する。そこで静止した。光が安定している。揺れていない。
戦闘態勢だ。
一年前は、こうじゃなかった。一年前のカルンは俺の腕の中で震えていた。外に出ることすらできなかった。今は——自分の位置を取っている。俺の頭上。共鳴に最適な距離。自分で考えて、自分で動いている。
「——行きます」
声が出た。震えていなかった。
トルニオが構えた。剣を正面に。足を肩幅に開いて。
その瞬間、闘技場の炎が一斉に揺れた。ごう、と音がした。炎が膨らんで、天井に向かって伸び上がった。火の大精霊の気配が一段強くなる。
見ている。大精霊が——この試練を見ている。
空気が震えている。赤い光が明滅している。炎の熱気が肌を焼く。
トルニオが動かない。構えたまま、待っている。俺が来るのを。
一撃を入れろ。
単純だ。たった一撃。トルニオの体に剣を届かせるだけ。
単純で——途方もない。
この大陸で最も容赦のない祠の主に、一撃を入れる。旅で積み上げたすべてを使って。
俺の旅のすべてが、ここで試される。
深く息を吸った。熱い空気が肺を満たした。汗が背中を伝っていく。炎の音が耳の奥で鳴っている。
カルンの光が頭上で安定している。俺たちの準備はできている。
踏み出した。