歌姫と共に   作:ぶるうず

76 / 81
火の祠

朝が来た。

 

窓の外が白んでいる。トルニオの拠点の客間で目を覚ました時、すでに体が起きていた。眠れなかったわけじゃない。ただ、体が分かっていた。今日だ、と。

 

カルンが俺の枕元で微かに光っている。起きているのか眠っているのか分からないが、俺が動くとすぐに浮き上がった。

 

「起こしたか」

 

カルンが小さく旋律を鳴らした。起きてた、という音。待ってた、という音。

 

身支度を整えて外に出ると、トルニオが玄関の前に立っていた。腰に剣を差している。もう準備ができている。

 

「ラリサは?」

「先に行ったと言っていた」

 

それだけの会話だった。トルニオは背を向けて歩き出した。俺もその後を追う。カルンが肩の上で周囲を見回している。

 

門の前にラリサがいた。いつもの笑顔で立っている。嵐の精霊が肩の上で寝ぼけたように揺れていた。

 

「フェズさん、おはようございます! 師匠、おはようございます!」

「ラリサ。お前は残れ」

 

トルニオの声に温度がない。いつもの命令口調だ。

 

ラリサが小さく頷いた。「はい。——これはフェズさんの試練ですから」

 

覚悟していたような顔だった。ラリサは分かっている。火の祠の試練がどういうものか。

 

ラリサが俺を見た。目が少し潤んでいる。泣くほどのことじゃないのに。でもラリサはいつもそうだ。

 

「フェズさん。頑張ってくださいね」

「・・・うん。行ってくる」

「あの、フェズさん」

 

ラリサが俺の袖を掴んだ。力が入っている。震えてはいない。でも、伝えたいことがある顔だった。

 

「わたし、ずっと見てました。フェズさんが師匠の下で修行してた時から。・・・最初はどうなるかって心配してました。正直に言うと」

「・・・知ってる。弱かったから」

「違います。弱いんじゃなくて、不器用だったんです。でも——今のフェズさんは違います。カルンちゃんと一緒に、ちゃんと自分の道を歩いてる。だから、大丈夫です」

 

ラリサの目がまっすぐ俺を見ていた。嵐の精霊使い。この大陸で最強格と呼ばれる天才。その目に嘘はない。

 

「・・・ありがとう、ラリサ」

 

ラリサがカルンに手を伸ばした。カルンがその指先にちょんと触れる。光が一瞬だけ強く揺れた。

 

「カルンちゃんも、頑張ってね。フェズさんのこと、よろしくね」

 

カルンが跳ねた。大きく。任せろ、という跳ね方だった。

 

 

グラーヴェ近郊の山道を登っている。

 

トルニオが前を歩き、俺がその後を追う。一年前、修行のために同じ道を歩いたことがある。あの時は何もかもが初めてで、トルニオの背中が途方もなく遠く感じた。

今も遠い。背中の幅も、歩幅も、佇まいも。でも——ついていけないほどじゃない。

 

岩肌がむき出しの地形に変わってきた。木々が減って、赤みを帯びた岩が増える。登るにつれて空気が変わった。熱い。乾いた熱気が下から這い上がってくる。

地面の裂け目から白い蒸気が噴き出す場所があった。温泉の匂い。硫黄と鉄の混じった匂いが鼻を突く。

 

火の精霊の領域だ。

 

岩の表面が赤い。触ったら火傷しそうな色をしている。空気が揺らいでいる。陽炎みたいに。

 

トルニオは無言で歩き続けている。振り返らない。話しかけてこない。いつも通りだ。

俺も黙っている。話すことがないわけじゃない。聞きたいこともある。トルニオが火の祠の試練に何を用意しているのか。俺に何を期待しているのか。でも——今は黙って歩くのが正しい気がした。トルニオとはそういう関係だ。必要なことは、必要な時に言う。

 

カルンだけが俺の肩の上で忙しなく動いている。左を見て、右を見て、上を見て。蒸気が噴き出すたびにびくっと揺れて、でもすぐに落ち着いて、また周りを見回す。

 

「カルン。緊張してるか」

 

小声で聞いた。

 

カルンの光が揺れた。少し。でも——揺れ方が穏やかだ。怯えてはいない。

 

一年前だったらこうはいかなかった。知らない場所で、強い精霊の気配に囲まれて、カルンは俺の胸元に潜り込んで震えていただろう。

今は肩の上にいる。俺の隣に。落ち着いている。俺がいるから、じゃない。俺が隣にいることを知っているから。

 

「・・・大丈夫。一緒に行こう」

 

カルンが小さく旋律を鳴らした。うん、という音だった。

 

 

山腹に、巨大な岩の裂け目があった。

 

高さは人の三倍ほどもある。幅は二人が並んで通れるくらい。裂け目の奥が暗い。でも暗闇じゃない。赤い光が奥から漏れている。

熱を感じた。岩壁から滲み出る熱気。肌がじりじりする。炎の気配。五つの祠の中で最も厳しいと言われる場所——その入口が、目の前にある。

 

トルニオが足を止めた。裂け目の前で振り返る。

 

「入るぞ」

 

俺は頷いた。

 

裂け目を通り抜けると、視界が開けた。

 

広い。天然の洞窟だが、人の手が加わっている。壁に古代の文字が刻まれている。読めない。でもその文字自体が赤く発光している。

天井が高い。見上げると岩の隙間がある。そこから赤い光が差し込んでいる。溶岩だ。天井の向こう側に溶岩が流れている。その光が洞窟全体を赤く染めている。

空気が熱い。呼吸するたびに肺が焼けるような感覚がある。汗が額から顎に伝って落ちた。

 

中央に、円形の平らな岩場があった。

 

闘技場だ。直径は三十メートルほど。天井から注ぐ赤い光がその岩場を真っすぐ照らしている。岩場の周囲に炎が揺らめいていた。松明でも焚火でもない。岩から直接、炎が噴いている。消えない炎。精霊の炎だ。

 

その中央にトルニオが歩み出た。足音が洞窟に響く。硬い岩を踏む、重い足音。

 

俺は入口の近くに立ったまま動けなかった。

 

気配がある。巨大な気配が。

 

火の大精霊だ。

 

洞窟全体に満ちている。空気の中に、岩の中に、炎の中に。姿は見えない。形がない。ただ——存在感だけが、ここにいるすべてを押し潰すほどに充満している。

水の大精霊とも、風の大精霊とも、地の大精霊とも違う。空の大精霊の静かな気配とも違う。火の大精霊は——熱い。存在自体が熱い。意志が燃えている。

 

カルンが俺の肩の上で身を固くした。大精霊の気配に圧されている。でも——逃げない。じっと、俺の肩にしがみついている。

 

トルニオが円形の岩場の中央で振り返った。赤い光を背に受けて立っている。大柄な体。硬い顔。腰の剣に手をかけている。

 

「火の祠の試練は、他の祠とは違う」

 

トルニオの声が洞窟に反響した。低くて硬い声だ。いつも通りの、感情を消した声。

 

俺は黙って聞いた。

 

「水の祠では水の大精霊が試練を行う。風も、地も、空も同じだ。大精霊が直接、巡祠者を試す」

 

知っている。俺はその四つを、全部経験してきた。

 

「だが火の祠は違う。火の大精霊は——管理者に試練を委ねている」

 

トルニオの目が俺を捉えた。真っ直ぐに。逃がさないように。

 

「この祠では——俺がお前の試練だ」

 

心臓が跳ねた。

 

分かっていた。予想していた。火の祠の試練がトルニオ自身だということは、なんとなく感じていた。

でも、言葉にされると違う。目の前の師匠が「試練」だと宣言されると、背筋に冷たいものが走る。

 

トルニオの強さを知っている。

 

一年前。修行が始まったばかりの頃。黒斑病にかかった精霊が暴走して、手がつけられなくなった。中級の獣型精霊が森の木をなぎ倒しながら暴れ回った。——トルニオが一人で制圧した。

一歩踏み込んで、剣を一振り。それだけだった。精霊の暴走を力で押さえ込んで、鎮めた。

 

あの時見た背中を、今も覚えている。あれが火の祠の主だ。この大陸で一番容赦がない祠の主。

 

そのトルニオが——俺の試練。

 

「ルールは一つ」

 

トルニオが剣を抜いた。金属が鳴る音が洞窟に響いた。赤い光を受けた刃が鈍く光っている。

 

「俺に一撃を入れろ。それだけだ」

 

「一撃・・・?」

 

思わず聞き返していた。一撃。たった一撃でいい。それだけ?

 

でも——トルニオの顔を見て分かった。「それだけ」が、どれほど重いか。

 

「倒す必要はない。俺を超える必要もない」

 

トルニオの声が、ほんの僅かに——柔らかくなった。気のせいかもしれない。でも、聞こえた。

 

「お前の成長を——お前の剣を、見せてみろ」

 

トルニオの目が真っ直ぐ俺を見ている。硬い表情。いつも通り。読めない顔。でも——あの日と同じ目じゃない。一年前、「お前では守れない」と言った時の、突き放す目じゃない。

何を見ているのか分からない。でも——待っている目だ。俺の答えを、待っている。

 

剣を抜いた。腰から引き抜くと、柄が手に馴染んだ。旅の中で何度も握った感触。あちこちで傷がついて、刃は一年前より少し薄くなっている。でも、俺の剣だ。

 

カルンが俺の肩から離れた。ふわりと浮き上がって、俺の頭上に移動する。そこで静止した。光が安定している。揺れていない。

 

戦闘態勢だ。

 

一年前は、こうじゃなかった。一年前のカルンは俺の腕の中で震えていた。外に出ることすらできなかった。今は——自分の位置を取っている。俺の頭上。共鳴に最適な距離。自分で考えて、自分で動いている。

 

「——行きます」

 

声が出た。震えていなかった。

 

トルニオが構えた。剣を正面に。足を肩幅に開いて。

 

その瞬間、闘技場の炎が一斉に揺れた。ごう、と音がした。炎が膨らんで、天井に向かって伸び上がった。火の大精霊の気配が一段強くなる。

 

見ている。大精霊が——この試練を見ている。

 

空気が震えている。赤い光が明滅している。炎の熱気が肌を焼く。

 

トルニオが動かない。構えたまま、待っている。俺が来るのを。

 

一撃を入れろ。

 

単純だ。たった一撃。トルニオの体に剣を届かせるだけ。

 

単純で——途方もない。

 

この大陸で最も容赦のない祠の主に、一撃を入れる。旅で積み上げたすべてを使って。

俺の旅のすべてが、ここで試される。

 

深く息を吸った。熱い空気が肺を満たした。汗が背中を伝っていく。炎の音が耳の奥で鳴っている。

カルンの光が頭上で安定している。俺たちの準備はできている。

 

踏み出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。