歌姫と共に   作:ぶるうず

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師匠の剣

トルニオの最初の一歩で、空気が変わった。

 

足が止まった。体が覚えている。この圧力。一年前、黒斑病の精霊を一人で制圧した時の——師匠の本気。

 

速い。

 

トルニオの踏み込みが見えなかった。気づいた時には目の前に剣がある。反射で受ける。金属がぶつかる音が洞窟に跳ね返った。

腕が痺れた。たった一合だ。たった一合で、握力が半分になった気がする。

 

「——っ」

 

二撃目。横薙ぎ。体を沈めて避ける。髪が数本、切れて落ちた。

三撃目。上から。剣で受け止める。重い。膝が沈む。地面に亀裂が入った。腕が軋む。

 

弾かれた。

 

体ごと後ろに飛ばされて、岩の地面を三歩分滑った。足の裏が熱い。闘技場の岩が火の精霊の力で焼けている。

 

トルニオが追ってこない。元の位置に立っている。構えを崩していない。息も乱れていない。

 

今のが——手加減だと分かった。

 

一年前、黒斑病の精霊を一撃で制圧した時。あれでも手加減していたのだと、今になって分かる。トルニオの本気はもっと上にある。今もまだ、全力じゃない。

 

「来い」

 

短い一言。トルニオの声に感情はない。試練の声だ。

 

踏み込んだ。

 

右から斬りかかる。トルニオの剣が待っている。弾かれる。左に切り替える。読まれている。下から突く。躱される。

 

当たらない。

 

フェイントを混ぜる。上を見せて下を狙う。一年前、トルニオの下で覚えた技術だ。体の重心を偽って、相手の視線を誘導する。

 

トルニオの剣が正確に下段を弾いた。見てすらいない。体の動きだけで見切っている。

 

「俺が教えた体捌きだ」

 

トルニオの声が降ってきた。

 

「俺に通じると思ったか」

 

分かってる。分かってたんだ、そんなことは。

 

トルニオの技術で、トルニオは超えられない。師匠が教えたものを、師匠に返しても意味がない。位置取りも、間合いの取り方も、フェイントの入れ方も——全部、この人が俺に叩き込んだものだ。

でも、まずはこれしかない。基礎から始める。トルニオに教わった基礎を全部出して、その上で次を見つける。

 

闘技場の地形を使った。

 

岩の凹凸を利用して間合いを外す。水紋の谷の水の祠で学んだ環境利用だ。あの時、水に半分沈んだ空間で戦った経験が、足場の選び方を変えた。高低差を使って、トルニオの視線の角度をずらす。

 

トルニオが一歩踏み込んだ。俺の意図を読んで、高い位置を取った。上から剣が落ちてくる。

 

横に跳んだ。セルペ高原の風の祠で磨いた速さだ。あの常に吹き荒れる風の中で足を動かし続けた経験が、体に刻まれている。足を止めない。動き続ける。止まったら終わる。トルニオの間合いに入ったまま止まったら、一合も持たない。

 

剣を振る。低い軌道。トルニオの足を狙う。

受け止められた。軽く。片手で。

 

「速くはなった」

 

トルニオの剣が払われる。俺の剣ごと、体が流される。

 

「だが——」

 

トルニオが踏み込んだ。一歩。たった一歩で俺の懐に入ってくる。

 

「足を動かしているだけだ。速さと動きは違う」

 

修行の時にも言われた言葉だ。一年経っても、まだ同じことを言われている。

 

剣の腹で胸を突かれた。刃じゃない。峰打ちだ。殺す気はない。でも、衝撃で体が浮いた。背中から地面に叩きつけられる。

 

「がっ——」

 

息が詰まった。肺の中の空気が全部出た。背中が熱い。焼けた岩の上に叩きつけられて、服越しに肌がじりじりする。

 

すぐに転がって起き上がる。止まるな。倒れたままでいるな。

 

立ち上がった。息を整える暇がない。トルニオがもう目の前にいる。

 

剣を合わせた。三合。四合。五合。全部弾かれる。手首が痛い。腕が上がらなくなってきている。

 

右に動いた。トルニオが先回りしている。

左に逃げた。追いつかれる。

跳んだ。待ち構えている。

 

どこに動いても、トルニオがいる。俺が次にどこに行くか、全部分かっている。当たり前だ。この体捌きを教えたのはトルニオだ。俺の癖も、判断の傾向も、追い込まれた時にどちらに逃げるかも——全部知っている。

 

師匠だから。

 

 

息を整えた。距離を取っている。トルニオが追ってこない。待っている。まだ見せるものがあるなら見せろ、という間合いだ。

 

カルンに意識を向けた。頭上に浮かぶ光に、心を繋げる。共鳴を開始する。

 

カルンが応えた。旋律が流れ込んでくる。体の芯が温かくなる。力が満ちる感覚。カルンの音が俺の中に広がっていく。

 

嘆きの渓谷でヴェーノと戦った時と同じだ。対話型共鳴。カルンが自分で判断して音を出す。俺がそれに応える。命令じゃない。会話だ。

 

カルンの旋律が変わった。低い音。地を這うような振動。

 

カルンが——トルニオの足元を狙っている。

 

衝撃波。音が岩を震わせた。トルニオの足元の地面が一瞬揺れる。

 

トルニオが体勢を崩した。ほんの僅かに。半歩分だけ、バランスが傾いた。

 

今だ。

 

踏み込む。カルンの旋律に合わせて。上から——

 

トルニオが立て直した。

 

速い。一瞬の揺らぎを、次の一瞬で取り戻している。トルニオの足が岩を踏み直した音が聞こえた。まるで揺れたことすらなかったみたいに、剣が俺を迎え撃つ。

 

剣が噛み合った。

 

カルンが短い旋律で「上」と伝えてきた。跳躍する。上から斬りかかる。トルニオが受け止める。

 

力比べは不利だ。体格が違う。筋力が違う。でも——

 

カルンの旋律が俺の剣に乗った。音の力が刃を通じてトルニオの剣に伝わる。押し込む。トルニオの腕が僅かに沈んだ。

 

「——ほう」

 

トルニオの声が近い。顔が近い。目が合った。硬い表情の中に、何かが光った。驚き——じゃない。確認だ。精霊の力を戦闘に使えるようになったか、という確認。

 

トルニオが弾いた。力で。純粋な膂力で。カルンの音を乗せた剣ごと、俺の体が吹き飛ばされた。

 

地面を転がった。二回転して、手をついて止まる。膝が岩にぶつかって痛い。

 

すぐに立ち上がる。

 

トルニオは元の位置に戻っている。息が乱れていない。

 

「精霊の力を戦闘に使えるようになったか」

 

やっぱりそうだ。確認していた。

 

「だが——まだ足りない」

 

トルニオの目が俺を射抜いている。冷たい目じゃない。品定めの目でもない。見ている。俺の全部を、見ようとしている。

 

もう一度。

 

カルンに意識を合わせた。共鳴を深める。カルンの旋律が鮮明になっていく。

 

カルンが音を出した。高い旋律。右からの攻撃を促す音。俺はその音に乗って右から斬りかかる。

 

トルニオの剣が、俺の剣を弾いた。

 

タイミングが——完璧だった。カルンが音を出した瞬間に動いている。音が鳴ってから俺が動くまでの間を、正確に読んでいる。

 

もう一度。カルンが低い音を鳴らす。下への攻撃。俺が下段を狙う。

弾かれた。同じだ。カルンの旋律の「間」を突いてくる。音が鳴る。俺が動く。その間にトルニオが動いている。

 

カルンの旋律が右を告げた。フェイントだ。実際は左に——

 

トルニオの剣が左を弾いた。

 

読まれている。カルンの旋律のパターンまで。

 

三手先を読まれている。カルンが音を出す。俺が応える。その流れの全部を見切っている。共鳴のタイミングも、カルンの旋律の傾向も、俺がどう応えるかも。

 

師匠だから。

 

教えた相手の動きは読める。カルンとの共鳴の使い方だって、見れば分かる。トルニオはそういう人だ。一度見たら、次はもう対応している。

 

何を出しても——通じない。

 

カルンの光が一瞬、強く揺れた。悔しさだ。カルンも分かっている。自分の旋律のパターンが読まれていることを。でもカルンは旋律を止めない。変えようとしている。必死に、次の音を探している。

 

俺もだ。

 

もう一度踏み込んだ。カルンが今までと違う旋律を紡いだ。短い。鋭い。即興だ。パターンにない音。

 

トルニオの剣が——やっぱり弾いた。即興だろうが何だろうが、カルンの音を聴いてから俺が動くまでの間がある限り、トルニオにはその間で対応する余裕がある。

 

共鳴を「武器」として使う限り、この壁は超えられない。

 

 

膝をついた。

 

息が上がっている。肺が燃えている。炎の熱気が体力を奪い続けている。汗が目に入って滲みる。手の甲で拭った。剣を握る手が震えている。

 

何度仕掛けたか分からない。基礎は見切られた。共鳴も読まれた。地形利用も先回りされた。水の祠で学んだ環境利用も、風の祠で磨いた速さも、地の祠で得た防御の感覚も。全部出した。全部——届かなかった。

 

トルニオはほぼ無傷だ。汗一つかいていない。息も乱れていない。立っている位置すらほとんど変わっていない。最初に立った場所から、五歩と動いていないんじゃないか。

 

格が違う。

 

一年の旅で積み上げた全部が、トルニオの前では——足りない。

 

膝の上に手をついた。顎から汗が滴り落ちる。岩に落ちた汗が一瞬で蒸発した。それくらい、地面が熱い。

 

周囲の炎が揺れている。火の大精霊の気配が変わらずそこにある。見ている。この試練を、ずっと見ている。

 

カルンが俺の横まで降りてきた。頭上じゃない。横だ。戦闘態勢を解いて、俺の隣に来ている。

 

光を揺らしている。心配している。でも——怯えてはいない。旋律は途切れていない。かすかに鳴り続けている。まだやれる、と言っている。俺を見て、待っている。俺が立ち上がるのを。

 

一年前のカルンだったら、こんな時は俺の胸元に潜り込んで震えていた。今は俺の横にいる。隣にいて、自分の旋律を鳴らしている。

 

一年前だったら、ここで折れていた。

 

トルニオに「お前では守れない」と言われた時のように。何もない自分に突き戻されて、動けなくなっていた。カルンを守りたいのに守れない。強くなりたいのになれない。そういう絶望に、膝から崩れていた。

 

今は違う。

 

膝をついている。でも、折れてはいない。

 

届かないことは分かった。トルニオの教えたもので、トルニオは超えられない。基礎も、応用も、共鳴の戦術も——全部、師匠の手の中だ。

 

なら。

 

トルニオが教えなかったもので応えるしかない。旅の中で。カルンと一緒に。俺だけが掴んだ何かで。

 

立ち上がった。

 

膝が笑っている。腕が重い。剣を持ち上げるのがやっとだ。でも、立っている。

 

トルニオが俺を見ている。動かない。待っている。剣は構えたまま。でも、追い打ちはかけてこない。まだ見せるものがあるなら——見せろ、と。

 

トルニオの顔は、相変わらず読めない。怒っているのか、失望しているのか、それとも別の何かなのか。硬い表情のまま、ただ俺を見ている。

 

カルンが俺の頭上に戻った。光が揺れている。心配と、信頼が混ざった揺れ方だ。大丈夫。まだ終わってない。

 

「一撃を入れろ」——まだ入れてない。

 

でも、何かが変わり始めている。

 

体の奥で、何かが動いている。トルニオの教えとは違う何か。剣の技術でも、体捌きでも、共鳴の戦術でもない。もっと奥にある——カルンと一緒に歩いてきた時間の中で、知らないうちに育っていた何か。

 

まだ形にならない。でも、ある。確かに、ある。

 

カルンの旋律が耳に触れた。さっきまでの戦闘の音とは違う。短い、穏やかな旋律。

 

大丈夫、と言っている。

 

俺は剣を構え直した。

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