歌姫と共に   作:ぶるうず

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歌う剣士

膝をついたまま、カルンの音を聴いた。

 

戦いの音じゃない。攻撃の合図でもない。カルンが俺に——歌いかけている。大丈夫、と。ここにいる、と。

 

短い旋律。穏やかで、温かくて、何の力も込めていない音。

 

嘆きの渓谷で鎮魂の歌を紡いだ時とも違う。ヴェーノとの戦闘で交わした対話型の共鳴とも違う。もっと前だ。もっと最初の——カルンと初めて出会った頃の。

俺がカルンを胸に抱えて逃げ回っていた時。カルンが震えながら、それでも小さな旋律を鳴らしてくれた時。あの時と同じ音だ。

 

怖い。でも、隣にいる。だから大丈夫。

 

その音を聴いた瞬間、思い出した。

 

俺が持っているのは、剣だけじゃない。

 

 

目を閉じた。一瞬だけ。カルンの旋律に、呼吸を合わせた。

 

吸って。吐いて。カルンの音が胸の奥に沁み込んでいく。力みが消えていく。握り締めていた剣の柄を、少しだけ緩めた。

 

目を開けた。トルニオが見ている。構えたまま。動かない。次に何を見せるのか、待っている。

 

俺は——歌い始めた。

 

声に出して。下手な歌。いつもの調子外れの鼻歌。テッラ盆地からアリア山脈を越えた夜、焚き火の前でカルンに聴かせた歌。嘆きの渓谷に向かう道中、緊張を誤魔化すために口ずさんだ歌。上手くない。音程も怪しい。でも、俺の歌だ。

 

カルンが応えた。

 

旋律が変わった。戦闘の合図じゃない。武器でもない。カルンの旋律が俺の鼻歌に重なっていく。不協和音。いつもの不協和音。でもそれが——心地いい。

 

二人の音が重なる。

 

体が動いた。考えて動いたんじゃない。音に合わせて、自然に。足がカルンの旋律に乗った。踏み込みのリズムが変わった。剣を持つ手が柔らかくなった。力で振るんじゃない。音楽のリズムで動く体が、剣を導いていく。

 

トルニオが目を細めた。

 

踏み込む。

 

一歩目はカルンの旋律に乗せて。二歩目は俺の鼻歌のリズムで。三歩目は二人の音が重なった瞬間に。

 

剣が振り下ろされた。上から。トルニオが受け止める。

次。カルンの旋律が横に流れた。俺の体が旋律に引かれるように横に動く。剣の軌道が変わる。横薙ぎ。トルニオが受ける。

次。下から。カルンの音が跳ねた。足が跳ねた。突き上げるような斬撃。トルニオが弾く。

 

「——」

 

トルニオの表情が変わった。微かに。眉が動いた。

 

読めない。

 

今の動きが、トルニオには読めなかった。

 

「これは、教えたことがない」

 

トルニオの声が低い。確認じゃない。驚きだ。抑えているけど、分かる。一年間師匠の下にいたから分かる。今の声は——初めて見るものを見た時の声だ。

 

俺の動きが「技術」じゃなくなっている。

 

体捌きじゃない。地形利用でもない。共鳴の戦術でもない。カルンの旋律に乗って動く体は、トルニオの経験則では予測できない軌道を描いている。次に何をするか、俺自身にも分かっていない。カルンの音が行く先を示して、俺がそれに応える。カルンも俺の鼻歌に応えて次の音を紡ぐ。どこに行くか分からない即興の旋律。

 

音楽だ。剣と旋律が一つになっている。

 

 

カルンの旋律が闘技場に広がっていった。

 

壁に反響する。天井に昇っていく。洞窟全体がカルンの音で満たされていく。

 

炎が——揺れた。

 

周囲の炎が、カルンの旋律に合わせて揺れている。右に。左に。旋律のうねりに引かれるように、炎が踊っている。

 

火の大精霊が反応している。

 

姿は見えない。声も聞こえない。でも、気配が膨れ上がっている。闘技場の空気がびりびり震えている。大精霊が——聴いている。カルンの旋律を、聴いている。

 

俺の歌とカルンの旋律の共鳴が深まる。音楽の魔法が空間に溢れていく。

 

剣にカルンの旋律が宿った。

 

刃を伝って、音が走る。かすかに光っている。カルンの光と同じ色だ。テッラ盆地の地の祠で生まれた「音の刃」——あの時は一瞬だった。今は違う。途切れない。カルンの旋律が続く限り、俺の剣は歌い続ける。

 

歌う剣士。

 

地の祠で大精霊が呼んだ名前だ。あの時は原型だった。萌芽だった。ここで——完成する。

 

トルニオに向かって踏み込んだ。旋律に乗せて。鼻歌を口ずさみながら。下手くそな歌と、カルンの美しい旋律と、光を纏った剣。

 

トルニオの剣が迎え撃つ。

 

金属の音。

 

弾かれた。でも——力負けじゃない。トルニオが受け流した。俺の剣を真正面から受け止めずに、流した。

さっきまでは全部真正面から弾いていた。力の差を見せつけるように。余裕を持って。

今は違う。受け流している。そうしないと受け止められないからじゃない。受け流す方が正しいと判断したからだ。俺の剣が——変わったことを認めている。

 

もう一撃。

 

カルンの旋律が高くなった。俺の鼻歌も合わせて上がる。剣が斜めに走る。トルニオが受ける。音が弾ける。続けて横に。カルンの音が低く沈んだ。俺の体も沈む。下段からの切り上げ。

 

トルニオの剣が弾いた。でも、少し遅い。さっきまでの完璧なタイミングじゃない。読み切れていない。

 

カルンの旋律が変わるたびに俺の動きが変わる。俺の鼻歌が変わるたびにカルンの旋律が変わる。互いが互いを導いて、行き先が決まっていない。

 

音楽には楽譜がない。即興だ。二人の間で生まれて、二人の間で消えていく音。

トルニオの経験も、観察力も、「師匠だから分かる」という圧倒的な読みも——楽譜のない音楽は、読めない。

 

「——」

 

トルニオが、後退した。

 

一歩。小さな一歩。でも、この試練が始まってから——トルニオが初めて下がった。

 

受け止めなかった。避けた。俺の斬撃を。

 

心臓が跳ねた。見逃すな。この一瞬を。

 

トルニオが一歩退いた間合い。そこにできた隙間。一瞬だ。トルニオはすぐに立て直す。この人はそういう人だ。一瞬の崩れを次の一瞬で取り戻す。

 

だから——この一瞬しかない。

 

カルンの旋律が一際高く鳴った。

 

俺の知らない音だった。カルンが今この瞬間に生み出した音。こんな音は聴いたことがない。でも体が反応した。カルンの音に、体が応えた。

 

踏み込んだ。

 

全部を乗せた。旅で積み上げた全部を。水紋の谷で学んだ環境利用を。セルペ高原で磨いた速さを。テッラ盆地で得た防御の感覚を。アリア山脈で見つけた自分自身を。嘆きの渓谷で歌った鎮魂の歌を。

そして——カルンと一緒に歩いてきた、一年分の全部を。

 

剣が走った。

 

トルニオの頬を——掠めた。

 

一筋の赤い線。血。トルニオの頬に一太刀。

 

闘技場が静まった。

 

炎が凪いだ。さっきまで旋律に合わせて踊っていた炎が、一斉に動きを止めた。天井から漏れる溶岩の赤い光だけが、静かに二人を照らしている。

 

カルンの旋律が——ゆっくりと消えていく。最後の音が洞窟の壁に反響して、遠くなって、消えた。

 

静寂。

 

俺は肩で息をしていた。全身から汗が噴き出している。膝が笑っている。剣を持つ手が震えている。立っているのが、やっとだった。

 

トルニオが頬に手を当てた。指先に、赤い線が付いた。自分の血を見ている。

 

長い沈黙。

 

闘技場の炎が微かに揺れた。火の大精霊の気配が——穏やかになっている。見守っている。二人を、静かに。

 

 

トルニオが剣を下ろした。

 

俺を見ている。長い間。顔は相変わらず読めない。硬い表情のまま。でも——さっきまでとは違う。何かが変わっている。目の奥の光が、違う。

 

「・・・聞いたことのない剣だ」

 

トルニオの声が、静かに響いた。

 

「俺の知らない剣だ」

 

胸が震えた。聞いたことのない剣。知らない剣。トルニオがそう言った。トルニオの教えを全部身につけた上で、トルニオが教えなかったもので斬りかかった。それを——トルニオが認めた。

 

「カルンと——一緒に、見つけた剣です」

 

声が少し震えた。でも、言い切った。

 

トルニオがカルンを見た。カルンが俺の肩の上で光を揺らしている。さっきまでの激しい旋律が嘘みたいに、穏やかな光だ。でも消耗している。カルンも全力を出し切った。

 

「精霊の名を、呼んだな。お前は」

「・・・はい」

 

当然のように答えた。カルンの名前を知っている。共鳴した時に流れ込んできた名前。あの日——初めてカルンと共鳴した時に、頭の中に響いた名前。あの時から、ずっと呼んでいる。

 

トルニオの目が俺を射抜いた。

 

「精霊の名を知るということは——その精霊の存在を丸ごと受け入れるということだ」

 

声が重い。トルニオが言葉を選んでいる。この人は多くを語らない。だからこそ、今語っていることに重みがある。

 

「力だけではない。弱さも、恐れも、意志も。名を呼ぶ者と呼ばれる者は——対等になる」

 

対等。

 

その言葉が、胸の深いところに落ちた。

 

カルンを見た。カルンが俺を見ている。光が穏やかに揺れている。

 

対等。俺とカルン。名前を呼ぶ者と、呼ばれる者。

 

最初は違った。俺はカルンを守りたかった。カルンは俺に縋っていた。守る者と守られる者。それが俺たちの関係だった。

でも旅の中で変わった。カルンは守られるだけの存在じゃなくなった。自分の意志で動いて、自分の旋律で戦って、俺の隣に立つようになった。

そして俺も変わった。カルンを守ることだけが自分の存在意義だと思っていた。でも空の祠でカルンの記憶が流れ込んだ時——カルンが本当に望んでいたのは「隣を歩くこと」だと知った。

 

名前を知るということは、存在を丸ごと受け入れるということ。

 

カルンの強さも。弱さも。怯えも。好奇心も。俺のそばにいたいという意志も。全部。

そして俺の空っぽも。弱さも。不器用さも。それでも歩き続けようとする意志も。全部。

 

カルンが受け入れてくれた。俺がカルンを受け入れた。名前を呼び合う。ただそれだけのことが——対等になるということだった。

 

カルンが小さく跳ねた。嬉しそうに光を揺らした。分かっている。俺が何を感じているか、共鳴で伝わっている。カルンも同じことを感じている。

 

「精霊使いは多い」

 

トルニオが続けた。

 

「だが——名を呼び、名に応えられる関係を築ける者は、少ない」

 

トルニオの目が俺を真っ直ぐ見ている。硬い表情のまま。でも——目の奥に、何かがある。

 

怒りじゃない。失望でもない。品定めでもない。

 

もっと——温かいものだ。

 

言葉にはしない。トルニオはそういう人だ。口では何も言わない。でも目が語っている。

 

俺の頬を掠めた一太刀。カルンとの対等な関係。トルニオが教えなかった剣。

 

試練の答えは——出たのか。

 

トルニオが口を閉じた。背を向ける。

 

いや、まだだ。トルニオの答えが、まだ出ていない。「一撃を入れろ」——入れた。でもトルニオが何も言っていない。認めたのか。認めていないのか。まだ分からない。

 

カルンが俺の肩の上で微かに旋律を鳴らした。穏やかな音。待とう、と言っている。

 

俺も待った。静かに。カルンと二人で。

 

トルニオの背中を見ている。火の祠の赤い光に照らされた、大きな背中。この背中を一年前も見ていた。追いかけていた。遠くて、硬くて、何を考えているか分からない背中だった。

 

今も、分からない。

 

でも——怖くない。待てる。トルニオの答えを、待てる。

 

闘技場の炎が微かに揺れた。火の大精霊が——まだ、見ている。

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