歌姫と共に   作:ぶるうず

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祠印

トルニオが振り返った。

 

どれくらい経ったのか分からない。数秒か、数分か。炎の揺らめきの中で、時間の感覚が曖昧になっていた。カルンが俺の肩の上で静かに光を揺らしている。待っていた。二人で、ずっと。

 

トルニオの目が俺を捉えた。

 

「フェズ」

 

心臓が跳ねた。

 

名前だ。トルニオが——俺の名前を呼んだ。

 

この人は、ずっと「お前」だった。修行を始めた日から、旅立ちの朝も、昨日の再会でも。「来たか」「見せてみろ」「まだ足りない」。いつだって「お前」だった。一度も名前で呼ばれたことがない。

 

今、呼んだ。

 

背筋を伸ばした。カルンの光が微かに震えた。俺の緊張が伝わっている。

 

「お前に言ったことを覚えているか」

 

トルニオの声が、闘技場に響く。低くて、硬くて、いつも通りの声だ。でも——少しだけ、違う。何かを噛み締めているような。

 

「『無理だと判断したら精霊を取り上げる』」

 

覚えている。忘れるわけがない。

 

あの日——グラーヴェの街で、トルニオに初めて会った日。カルンを胸に抱えて、精霊ハンターに追われて、ボロボロだった俺に、トルニオが言った言葉。

 

お前の力では精霊を守れない。無理だと判断したら、精霊は取り上げる。

 

あの時の俺には、何もなかった。剣の基礎もない。体捌きも知らない。共鳴すらまともにできない。ただカルンを抱えて逃げることしかできなかった。

トルニオの言葉は正しかった。あのままなら本当に守れなかった。カルンは奪われて、俺は一人で——空っぽのまま、どこかで終わっていた。

 

「覚えてる」

 

声が震えないように、奥歯を噛んだ。

 

トルニオが俺を見ている。真っ直ぐ。逸らさない。

 

「あの約束は——」

 

間。

 

長い間。闘技場の炎が微かに揺れている。火の大精霊が、息を潜めている。

 

トルニオの表情が——動いた。

 

ほんの僅かだ。口元が。硬い、いつも何を考えているか分からないあの顔の、口元が——

 

「もう取り上げる必要はない」

 

息が止まった。

 

目が熱くなった。泣くな、と思った。泣くな。ここで泣くな。師匠の前で泣くな。

 

でも——駄目だった。もう駄目だった。

 

取り上げる必要はない。トルニオがそう言った。あの日の約束を、トルニオ自身が——撤回した。

 

お前の力では守れないと言った人が。無理なら取り上げると言った人が。

もう取り上げなくていい、と。

 

カルンが俺の頬に触れた。光が温かい。嬉しい、と言っている。カルンも分かっている。この言葉がどれだけ重いか。あの日の約束がどれだけ俺たちの上にのしかかっていたか。

 

旅の間、ずっとあった。心のどこかに。

 

もし俺が弱いままだったら。もしカルンを守れなかったら。トルニオがカルンを取り上げる。引き離される。それが怖くて、怖くて——だから強くなりたかった。

でも本当は、怖さだけじゃなかった。

 

トルニオに認められたかった。この人に。俺の師匠に。お前は大丈夫だと——言ってほしかった。

 

カルンの光が俺の頬の涙を照らしている。温かい。柔らかい。カルンも泣いているのか。精霊は涙を流さない。でも、光の揺れ方が——泣いている時の揺れ方だ。嘆きの渓谷で、俺が倒れかけた時と同じ揺れ方。でもあの時とは違う。悲しいんじゃない。嬉しいんだ。

 

嬉しくて、揺れている。

 

 

トルニオが懐に手を入れた。

 

取り出したのは——小さな金属片だった。

 

赤い。炎の色だ。闘技場の炎よりもずっと深い、暗い赤。金属なのに、温もりが見える。火の大精霊の魔力が込められた金属片。

 

祠印だ。

 

トルニオが俺の前に立った。手を差し出した。掌の上に、祠印が載っている。

 

「5つ目だ。これですべてが揃った」

 

手を出した。震えていた。情けないくらい震えていた。でも構わなかった。

 

トルニオの掌から、祠印を受け取った。

 

熱い。

 

火傷はしない。でも熱い。じんわりと、掌から腕へ、腕から胸へ、熱が広がっていく。祠印の温もりだ。火の大精霊の——祝福の温もり。

 

手のひらの上の赤い金属片を見た。

 

これで五つ。

 

水紋の谷で得た、水の祠印。透き通った青い金属片。試練の中で環境を利用する戦い方を認めてもらった。

セルペ高原で得た、風の祠印。銀色に光る薄い金属片。速さと判断力を——一人で戦う孤独の中で磨いた力を認めてもらった。

テッラ盆地で得た、地の祠印。赤い土の色をした重い金属片。カルンの旋律が「歌う剣士」の萌芽を見せた場所。

アリア山脈で得た、空の祠印。何の色もない、透明な金属片。精神世界で自分自身と向き合って——カルンとの関係を作り直した場所。

そして今、火の祠印。赤く熱い、師匠の祠の印。

 

五つ揃った。

 

闘技場の炎が——燃え上がった。

 

一斉に。すべての炎が。天井に届くほどの高さで。壁の古代文字が炎に照らされて赤く浮かび上がった。

 

熱くない。

 

炎に包まれているのに、熱くない。むしろ——温かい。焚き火に当たっている時のような、心地いい温もり。

 

火の大精霊が——

 

声が聞こえた。声じゃない。炎を通じた意志。言葉じゃない。感覚だ。炎の揺らめきが伝える、巨大な存在の意志。

 

認めた。

 

それだけだった。たった一つの意思表示。言葉を持たない大精霊の、最も明瞭な答え。

 

認めた。お前を。

 

祠印を握りしめた。掌の中で、火の祠印が脈打つように熱を放っている。生きているみたいだ。

 

巡祠の覇者。

 

この大陸で十数人しかいない。すべての祠に挑み、すべての大精霊に認められた者だけが名乗れる称号。

 

俺が——巡祠の覇者に。

 

カルンが跳ねた。

 

嬉しくて跳ねた。俺の肩から飛び上がって、頭の上をぐるぐる回って、光を弾ませて、また肩に戻って、また跳ねて。こんなに元気なカルンを見たのはいつぶりだ。嘆きの渓谷の前はずっと疲れていた。その前もずっと戦いの中にいた。こんなふうに何の心配もなく跳ね回るカルンは——旅を始める前、トルニオの拠点の庭でラリサの精霊と遊んでいた時以来かもしれない。

 

笑った。泣きそうな顔のまま、笑った。涙が止まっていないのに口元が上がる。情けない顔だと思う。でもどうでもいい。

 

カルンが俺の鼻先に触れた。光がぱちぱち弾けている。嬉しい嬉しい嬉しい。カルンの感情が共鳴で流れ込んでくる。こんなに真っ直ぐな喜びを感じたのは初めてだ。

 

「・・・やった」

 

声が掠れた。小さな声。カルンにしか聞こえない声。

 

「やったよ、カルン」

 

カルンが旋律を鳴らした。短い、明るい音。うん、と言っている。やった、と言っている。二人で。

 

 

火の祠を出た。

 

洞窟の暗さから、自然の光へ。目を細めた。眩しい。赤い光に慣れた目に、太陽の白い光が刺さる。

 

空が——青かった。

 

雲が少しだけ浮かんでいる。風が山肌を撫でていく。涼しい。祠の中の熱気とは全然違う、清々しい空気。

 

深く息を吸った。胸いっぱいに。山の空気が肺を満たす。カルンが風に吹かれて、嬉しそうに光を揺らしている。

 

トルニオが後ろから出てきた。祠の出口の横で、立ち止まった。

 

振り返った。俺を見ている。

 

「最初に会った時——お前の目は空っぽだった」

 

空っぽ。

 

そうだ。空っぽだった。

 

リトルネッロ村で何もなかった。居場所もなかった。目的もなかった。毎日を過ごすだけで、明日のことなんて考えたこともなかった。グラーヴェの街に買い出しに行く時も、誰かに会いたいとか、何かを見たいとか——何も思わなかった。

 

空っぽだった。目も、心も。

 

「守るものを見つけて」

 

カルンと出会った。

 

「失いかけて」

 

ヴェーノにカルンを奪われかけた。

 

「壊れかけて」

 

カルンを守ろうとして、共鳴を酷使して、カルンの核を傷つけた。二人とも壊れかけた。

 

「それでも立って——」

 

空の祠で自分と向き合った。カルンの本当の気持ちを知った。守るんじゃない。隣を歩く。対等に。

 

「今、お前の目は空っぽじゃない」

 

トルニオが——笑った。

 

小さく。ほんの僅かに口元が上がった程度。他の誰かが見たら気づかないくらい。でも俺は分かった。

 

この人が笑ったのを見たのは、初めてだ。

 

修行の三ヶ月間、一度も笑わなかった。ラリサが冗談を言っても、俺がへまをしても、黒斑病の精霊を倒した後でも。硬い顔のまま、いつも硬い顔のまま。

 

今——笑っている。

 

「よくやった。——巡祠の覇者」

 

喉が詰まった。

 

答えようとした。声が出なかった。口を開いたのに、何も出てこなかった。目が熱い。もう我慢できなかった。涙が頬を伝っていく。

 

カルンが俺の目元に触れた。涙を拭うように。柔らかい光が涙の跡を辿っていく。温かい。

 

「・・・ありがとう、ございます」

 

絞り出した。息が詰まって途切れた。情けない声だった。

 

「師匠」

 

初めてそう呼んだ。

 

今までずっと「トルニオ」だった。心の中では師匠だと思っていた。でも口に出したことはなかった。なんとなく、気恥ずかしくて。それに——認められていないのに師匠と呼ぶのは、違う気がしていた。

 

今は違う。今なら呼べる。

 

トルニオの目が僅かに見開かれた。一瞬。本当に一瞬だけ。すぐに戻った。いつもの硬い表情に。

 

「行け。ラリサが待っている」

 

背を向けた。歩き出した。振り返らない。

 

その背中が——少しだけ、揺れていた。肩が。微かに。

 

この人も喉が詰まっているのだ、と分かった。何も言わない。振り返らない。でも——背中が語っている。この不器用な人の、不器用な感情が。

 

カルンが俺の肩の上で、小さな旋律を鳴らした。穏やかで、温かい音。

 

トルニオの背中を追って、歩き出した。

 

祠印を握った手は、まだ温かかった。五つ目の祠印の熱が、掌の中で静かに脈打っている。

 

空が、青い。風が吹いている。

 

火の祠の山を下りる道は、登った時と同じ道のはずだった。でも——景色が違って見えた。岩肌も、木々も、空の色も。何も変わっていないのに。

 

変わったのは俺の方だ。

 

巡祠の覇者。トルニオの笑顔。師匠の祝福。全部、胸の中にある。カルンと一緒に歩いてきた一年間の全部が、胸の中にある。

 

カルンが旋律を鳴らしている。穏やかな音。歩く速さに合わせた、ゆっくりした旋律。鎮魂の歌でもない。戦いの歌でもない。ただ——歩いている時の音。

 

俺も、下手な鼻歌を合わせた。不協和音。いつもの。でも——悪くない。

 

トルニオの背中が山道の先を歩いている。大きくて、硬くて。でも今日だけは——少し柔らかく見えた。

 

山の下に、グラーヴェの街並みが見える。トルニオの拠点の屋根が見える。あの門の前で、きっとラリサが待っている。おかえりなさい、って言いながら。

 

帰る場所がある。待っている人がいる。隣に、カルンがいる。

 

下りの山道を、歩いていく。師匠の後ろを。あの日と同じように。でも——あの日とは全然違う足取りで。

 

五つの祠印を胸に。巡祠の覇者として。

 

晴れた空の下、フェズとカルンは山を下りていく。

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