目が覚めた瞬間、体中が痛かった。
いや、正確には違う。痛くなるのはこれからだ。昨日はただ到着しただけで、まだ何もしていない。なのに緊張で全身がこわばっている。窓の外はまだ薄暗い。朝日が城壁の向こうから顔を出しかけている。
カルンが俺の胸の上で丸くなっていた。光はほとんど消えていて、寝息みたいにかすかに明滅している。
「・・・おはよう」
小声で言った。起こすつもりはなかったのに、カルンがぴくっと動いた。のそのそ起き上がって、俺の顔を覗き込む。
「まだ早いよ。もう少し寝てていい」
カルンは無視して、俺の鼻先に顔を寄せた。寝起きの顔を検分するみたいに、じっと見てくる。それから満足したのか、ふわりと浮き上がって窓枠に移動した。
階下から物音が聞こえた。重い足音。トルニオだ。
胃がきゅっと縮んだ。
今日から始まる。走り方、立ち方、剣の持ち方。全部やり直し。何もできていないと言われた俺の、一からの訓練。
扉が叩かれた。
「フェズさーん! 朝ですよー!」
ラリサの声だ。元気だ。こんな早朝なのに、もう全力で元気だ。
「・・・起きてる」
「よかったです! 着替えたら庭に来てください! トルニオ師匠がもう待ってますから!」
足音が遠ざかる。弾むような足音。ラリサは朝から走っているのか、それとも普段からあの調子なのか。
着替えた。といっても、動きやすい麻の上下に替えただけだ。カルンが肩に乗った。光がまだぼんやりしている。まだ眠いらしい。
「ごめん。今日から忙しくなる」
庭に出ると、トルニオが腕を組んで立っていた。その手に木剣が二本。一本を俺に向かって放り投げた。
慌てて受け取った。ずしりと重い。本物の剣より太くて短い。
「振ってみろ」
トルニオが言った。それだけ。構え方も何も教えない。ただ、振れと。
木剣を両手で握って、上から振り下ろした。
風を切る音すらしなかった。手首がぐらついて、剣先がぶれた。地面に当たる前に腕の力が抜けて、情けない角度で止まった。
「もう一回」
振った。今度は力を入れすぎて体がよろけた。
「もう一回」
三回目。肩に変な力が入って、振り下ろした瞬間に手がしびれた。
「・・・話にならんな」
トルニオが言った。表情は変わらない。怒っているのでも呆れているのでもない。ただ事実を述べている。
「腕の力で振るな。足から腰、腰から肩、肩から腕。順番に力を伝えろ。剣は体の延長だ」
「足から・・・」
「考えるな。体で覚えろ。百回振れ。今日中に」
百回。
十回で腕が震え始めた。
二十回で汗が目に入った。
三十回でまともに握れなくなった。
「・・・っ」
木剣が手からすべり落ちた。指が開かない。握力が消えている。
トルニオが木剣を拾い上げて、俺の前に差し出した。
「拾え」
「・・・はい」
手が震えている。握り直した。指の皮がひりひりする。
「続けろ」
四十回目あたりで、右腕が上がらなくなった。左手だけで振ろうとしたけれど、木剣が重すぎてまっすぐ下ろせない。
「フェズさん、水飲みますか?」
ラリサが水筒を持って駆け寄ってきた。トルニオが片手で制した。
「まだだ」
「でも師匠、フェズさん初日ですよ?」
「だから何だ」
ラリサが口をつぐんだ。トルニオを睨んでいるけれど、それ以上は言わない。師匠と弟子の間に、俺が口を挟める空気はなかった。
結局、百回にたどり着いたのは昼過ぎだった。
最後の十回は、振っているのか落としているのか自分でも分からなかった。腕が棒みたいに硬くなって、感覚がない。カルンが心配そうに俺の周りを飛び回っていた。光がちかちか不安定に揺れている。
「・・・百回」
「五十三回は型になっていない。明日もう一度百回だ」
トルニオが背を向けた。
「午後は走り込みと体幹だ。食ったら庭に出ろ」
ラリサが駆け寄ってきて水筒を押しつけた。
「はい、飲んでください! 一気にじゃなくて少しずつですよ!」
水を飲んだ。喉を通る冷たさが、干上がった体に染み込んでいく。
「ラリサ・・・いつもこうなの」
「師匠の訓練ですか? こうです。私も最初は泣きましたよ。三日目に木剣投げつけて逃げました」
「逃げた」
「追いかけてきませんでした。でも次の朝、庭に木剣が置いてあったんです。もう一本増えてました」
ラリサが苦笑いした。
「逃げてもいいけど、戻ってくるなら付き合ってやる。たぶん、そういうことだと思います」
カルンが俺の膝に降りてきた。小さな手で俺の指に触れる。震えている指を、ぎゅっと握るみたいに。光が柔らかい。大丈夫、と言っている。
「・・・うん。大丈夫」
午後の走り込みは、素振りより地味できつかった。拠点の周りを走るだけ。ただ走るだけ。それなのに三周目で足がもつれた。
「遅い」
トルニオが並走している。息ひとつ乱れていない。
「腕を振れ。足だけで走るな」
「は・・・っ、はい・・・」
「返事はいい。走れ」
五周で限界だった。膝から崩れ落ちた。土の上に突っ伏して、息ができなかった。視界がぐるぐる回っている。
「明日は七周だ」
嘘だろ。
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三日目に、受け身の練習が始まった。
トルニオが俺を投げる。俺が地面に叩きつけられる。それだけの練習。
「力で耐えるな。受け流せ」
言っている意味は分かる。でも体がついていかない。投げられた瞬間に全身が硬直して、地面にまともにぶつかる。
「もう一回」
投げられた。背中を打った。息が止まった。
「もう一回」
「・・・っ」
「体を丸めろ。頭を守れ。最初に地面につくのは肩だ。分かるか」
「はい・・・」
「分かったなら、できるまでやれ」
十回投げられて、十回全部失敗した。十一回目で、少しだけ肩から落ちることができた。
トルニオは何も言わなかった。ただ、十二回目を投げた。
---
一週間が過ぎた。
朝は素振り。昼は走り込み。午後は受け身と体幹。夕方はラリサとの共鳴訓練。
共鳴の練習は、剣の訓練とはまた別の辛さがあった。
「フェズさん、目を閉じてください。カルンちゃんの存在を感じるところから始めます」
ラリサが俺の正面に座っている。カルンは俺の膝の上。
「共鳴って、精霊と心を繋げることです。フェズさんは前に一度カルンちゃんと共鳴してますよね? あの時のことを思い出してみてください」
あの時。精霊ハンターに追い詰められて、カルンが俺の手に触れた瞬間、体中に音が流れ込んできた。一瞬だけ。すぐに途切れた。
「あれは偶発的な共鳴です。カルンちゃんが危険を感じて、本能的にフェズさんと繋がった。でも今日からは、フェズさんの方から繋ぎに行く練習をします」
「俺の方から・・・」
「そうです! 精霊の側から繋がるのは簡単なんです。でもそれだと精霊任せになっちゃうので、使い手が意識して共鳴を開始できないとダメなんです」
ラリサがカルンに笑いかけた。カルンはまだラリサに少し警戒していて、俺の膝の上でじっとしている。でも目はラリサを追っている。怖いけど気になる。いつもそうだ。
「カルンちゃんに手を置いてください。それで、カルンちゃんの中にある音を探す感じです。聞こえなくても大丈夫です。感じようとすることが大事なので」
手をカルンの背に置いた。温かい。精霊の体温は人間より少し高い。
目を閉じた。カルンの音を探す。
何も聞こえない。
「焦らなくていいですよ、フェズさん。最初は誰でもそうです」
五分。十分。何も起きない。カルンの温かさは感じる。でもそれだけだ。あの時みたいに音が流れ込んでくる気配はない。
「・・・全然、分からない」
「大丈夫です! 初日からできる人なんていませんから! もう少し力を抜いて・・・そう、カルンちゃんに話しかけるみたいに」
話しかける。心の中で。
カルン。聞こえるか。
何も返ってこない。でも、カルンの体がほんの少し震えた。光がちらりと揺れた。
「今、何か感じましたか?」
「・・・分からない。カルンが少し動いた気がする」
「それです! それが入り口です! カルンちゃんもフェズさんを感じようとしてるんです。お互いが近づこうとした時に、共鳴の道ができるんです」
もう一度。意識を集中した。カルンの温かさに、こちらから手を伸ばすみたいに。
ぶわっと音が来た。
一瞬だけ。頭の中に高い音が鳴って、体が熱くなって——
「——っ!」
鼻から何か垂れた。手で触ると赤い。鼻血だ。
「フェズさん! 無理しすぎです!」
ラリサが慌てて布を差し出した。カルンが驚いて俺の肩に飛び退いている。光が激しく点滅している。心配しているのか、怖がっているのか。
「大丈夫・・・一瞬だけ、聞こえた。音が」
「聞こえたんですか? すごいですよフェズさん、一週間で共鳴の兆しが出るのはかなり早いです! でもダメです、体が追いつかないうちに無理すると壊れます!」
カルンが俺の首筋に顔を押しつけた。ぶるぶる震えている。それから、ふっと何かが抜けた感覚があった。共鳴の残り香みたいなものが、カルンの方から断ち切られた。
「・・・カルンが切った?」
「うん、カルンちゃんが自分から共鳴を切ったんです。フェズさんの体が危ないって分かったんですよ。賢い子ですね、カルンちゃんは」
ラリサがカルンに手を伸ばしかけて、やめた。まだ触れるのは早いと分かっている。
カルンが俺をじっと見ている。光が揺れている。怒っているのとは違う。たぶん、心配と、怖さ。俺が壊れるのが怖い。
「・・・ごめん、カルン。無理した」
カルンがぷいっと顔を背けた。でも俺の肩から離れない。
「今日はここまでにしましょう、フェズさん。体が共鳴に慣れるまでは、毎日少しずつです。無理をしたら師匠に怒られますよ」
「トルニオに?」
「共鳴の訓練で倒れたら、私が怒られるんです。フェズさんの体を壊すなって」
ラリサが困ったように笑った。でも目は笑っていない。本気で心配している。
「ラリサ。ありがとう」
「お礼はまだ早いです! 共鳴が安定するまで、毎日やりますからね!」
---
二週間が過ぎた。
素振りの回数が増えた。最初は三十回で限界だったのが、五十回まで続くようになった。トルニオは何も言わない。ただ回数を数えて、足りなければ「もう一回」と言うだけだ。
走り込みも七周から十周に増えた。最後の二周は歩いているのとほとんど変わらない速度だけれど、足が止まらなくなった。
受け身は、十回に三回ぐらい、まともに受けられるようになった。背中を打つ回数が減った。
「肩が先だ。いいか、肩が先だ」
トルニオが投げる。俺が転がる。起き上がる。
「遅い。敵は待たない」
トルニオが蹴りを放った。咄嗟にしゃがんだ。風が頭の上を通り過ぎた。
「・・・今のは」
「避けられただろう。体が覚え始めている」
それだけ言って、トルニオは背を向けた。褒められたわけじゃない。でも、「体が覚え始めている」という言葉が残った。
三週間目に入った頃、気づいたことがある。
カルンが、訓練中に近くにいるようになった。
最初の頃、カルンは俺が素振りをしている間、部屋の窓枠から覗いているだけだった。庭まで降りてこない。トルニオが怖いのか、木剣の音が怖いのか。離れた場所から、じっと見ているだけ。
それが一週間目の終わりには、庭の端の石塀に座るようになった。
二週間目には、訓練場の柵の上。
そして今は、俺が走っている横を、ふわふわと飛んでついてくる。
「カルン、危ないから離れてろ」
カルンは聞いていない。俺の周りをくるくる回って、光をちらちら揺らしている。応援しているのか、からかっているのか。
素振りの合間に水を飲んでいると、カルンが俺の膝に降りてきた。
「疲れた?」
カルンが首を傾げた。俺が疲れたのか、自分が疲れたのか分からないという顔。
「俺が。疲れた」
カルンがぽんぽんと俺の膝を叩いた。小さな手で。がんばれ、みたいな。
「・・・ありがとう」
カルンがぷいっと顔を背けた。でも膝からは降りない。
ラリサが遠くから見ていて、にこにこしている。
「カルンちゃん、フェズさんのこと応援してるんですね」
「・・・どうだろう。からかわれてるだけかも」
「違いますよ! 最初はあんなに離れてたのに、今はくっついてるじゃないですか。カルンちゃん、フェズさんのこと信頼し始めてるんです」
信頼。そうだといい。
共鳴の訓練も、少しずつ変わった。最初は一瞬しか繋がらなかった共鳴が、三秒、五秒と延びている。まだ鼻血は出る。頭が痛くなることもある。でも、カルンの音が聞こえる時間が、確実に長くなっている。
「フェズさん、今日は七秒続きましたよ!」
「七秒・・・」
「すごいですよ! 普通は一ヶ月かかるところを三週間で七秒です! カルンちゃんとの相性がいいんですね」
ラリサが嬉しそうに言う。俺は鼻を押さえながら、カルンを見た。カルンの光が少し明るい。嬉しいのか、疲れているのか。
「・・・カルン、大丈夫?」
カルンが小さく頷いた。光が揺れた。大丈夫、と。
夜、部屋で素振りの復習をしていると、カルンが窓枠から俺を見ていた。
「寝なくていいのか」
カルンが首を振った。俺を見ている。木剣を振る俺を、じっと。
ふと、鼻歌が出た。村にいた頃、時々口ずさんでいた歌。誰に教わったのかも覚えていない、簡単な旋律。
カルンの光が揺れた。
俺の鼻歌に合わせるみたいに、ゆらゆらと。明るくなったり、暗くなったり。拍子を取るみたいに。
歌をやめた。カルンの光も止まった。
「・・・今、合わせてた?」
カルンが首を傾げた。自分でも分かっていないのかもしれない。
でも、なんだか嬉しかった。言葉は通じない。会話はできない。でもカルンは俺の音を聞いている。それだけで、もう少し頑張れる気がした。
「・・・明日もよろしく、カルン」
カルンが飛んできて、俺の胸元に潜り込んだ。光がゆっくり暗くなっていく。眠りに落ちていく。
体中が痛い。腕も脚も背中も。筋肉がついてきたと自分では思うけれど、トルニオには「まだ話にならん」と言われ続けている。
でも、最初よりはマシだ。木剣が手から落ちなくなった。走って膝から崩れなくなった。投げられて息が止まらなくなった。
小さい進歩だ。誰が見ても大したことない。トルニオの百分の一にも届いていない。ラリサの背中すら見えない。
それでも、昨日の自分よりは前にいる。
たぶん、それでいい。今は。
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四週間目の朝。いつも通り庭に出ると、トルニオが木剣を持っていなかった。
代わりに、外套を羽織っている。
「支度しろ。出かける」
「出かける? どこに」
トルニオが門の方を顎で示した。
「基礎はできた。次は実戦だ」
背中に冷たいものが走った。カルンが俺の肩の上で、ぎゅっとしがみついた。
トルニオが歩き出す。振り返らない。
ラリサが玄関から顔を出した。いつもの笑顔ではなく、少しだけ引き締まった表情。
「行ってらっしゃい、フェズさん。・・・気をつけて」
トルニオの背中が遠ざかる。ついて行かなければ。
足が動いた。
基礎は終わった。ここからが本当の始まりだ。