祠を降りてトルニオの拠点に戻ると、ラリサが門の前で待ちきれない顔をしていた。
「フェズさん、どうでした!?」
答える前に、カルンが俺の肩から跳ねた。ぴょん、と大きく飛び上がって、光をぱちぱち弾かせながらラリサの周りをぐるぐる回る。
それだけで十分だった。
ラリサの目が見開かれて——次の瞬間、涙が溢れた。
「やりましたね、フェズさん! やりましたね!」
ラリサが両手を握り締めて、泣きながら笑っている。嬉しくて仕方ない、という顔。俺が祠に入る前、「これはフェズさんの試練ですから」と見送ってくれた時の緊張した顔とは全然違う。
「あ、いや——うん。やった・・・らしい」
照れる。褒め言葉に弱いのは相変わらずだ。嘆きの渓谷でアポピスを鎮めた時も、ルセに「やるじゃん」と言われて何も返せなかった。褒められることに慣れていない。たぶん一生慣れない。
カルンがラリサの嵐の精霊に突っ込んでいった。ぶつかるように体当たりして、じゃれ合う。嵐の精霊が風をまとって応戦する。二匹の精霊が庭の上空をぐるぐる追いかけ合って、光と風の渦を作っている。
ラリサが泣きながら笑いながら、鼻を啜った。
「巡祠の覇者です。フェズさんも。わたしの兄弟子も・・・!」
「兄弟子って言われると、なんか、すごくむず痒い」
「だって本当のことですもん!」
ラリサは嬉しいと止まらない。知ってる。修行時代もそうだった。俺が初めてカルンとの共鳴を戦闘で使えた日、ラリサは「すごいですすごいですすごいです」と三回言った。今日は何回言うんだろう。
後ろから、トルニオが黙って歩いてきた。
ラリサが慌てて涙を拭く。「し、師匠! お疲れさまです!」
トルニオは何も言わなかった。ラリサの横を通り過ぎて、住居の中に入っていく。
ラリサが首を傾げる。俺も首を傾げる。
しばらくして——トルニオが出てきた。両手に酒瓶と食材を抱えている。
ラリサの目が丸くなった。
「え、師匠が自分から!?」
トルニオの顔は硬い。いつも通り。何を考えているか分からない顔。でも——その手には、確かに酒と野菜と干し肉がある。
「黙って手を動かせ」
「は、はいっ!」
ラリサが弾かれたように走り出す。水を汲みに行くらしい。カルンと嵐の精霊が追いかけていく。
トルニオが庭の隅にある竈に火を入れ始めた。慣れた手つきだった。薪を組んで、火打ち石を打つ。一発で火がつく。さすがだと思う。火の祠の主は火の扱いも一流だ。
「・・・手伝います」
「座ってろ。客だ」
「客って、俺は——」
「今日は客だ」
それだけ言って、トルニオは野菜を刻み始めた。
言い返せなかった。トルニオがそう言うなら、今日は客なんだろう。弟子でも巡祠者でもなく、客。この不器用な人なりの——もてなし方。
石段に座った。カルンが戻ってきて、俺の膝の上に降りた。温かい光が膝を照らす。祠印を握った掌がまだほんのり熱い。
ラリサが水桶を抱えて走って戻ってきた。
「フェズさん、師匠が自分からお酒出すなんて初めてですよ! わたしが覇者になった時だって出してくれなかったのに!」
「・・・聞こえているぞ、ラリサ」
「聞こえてます!」
ラリサは怖いもの知らずだ。トルニオ相手に一歩も引かない。この人が師匠の弟子なんだと、改めて思う。俺にはこの度胸はない。
食卓は簡素だった。
木の器に盛られた煮込み。干し肉と根菜の素朴な味。でもうまい。トルニオの料理は味付けが必要最低限で、素材の味がそのまま出る。修行時代もそうだった。
「師匠の料理って、いっつも同じ味ですよね」
「文句があるなら自分で作れ」
「文句じゃないです! 好きですこの味! ・・・でも、たまには塩以外の調味料も使ったらいいんじゃないかなって」
「塩で十分だ」
ラリサが頬を膨らませる。トルニオが黙って煮込みを口に運ぶ。この二人のやり取りは、修行時代と何も変わっていない。安心する。
カルンが器の縁に止まって、煮込みの湯気を眺めている。精霊は食べない。でも匂いや温もりには反応する。嵐の精霊がカルンの隣に並んで、二匹で仲良く湯気を浴びている。
酒が注がれた。トルニオが自分の杯に、ラリサの杯に。俺の前には——お茶が置かれた。
「まだ早い」
「・・・はい」
ラリサがくすっと笑った。「フェズさん、巡祠の覇者なのにお酒は駄目なんですね」
「年齢の問題だろ」
「わたしフェズさんより年下ですけど」
「・・・それは師匠に言ってくれ」
トルニオが無言で酒を飲んだ。この人の基準はよく分からない。
食事が進むにつれて、ラリサが身を乗り出してきた。
「フェズさん、嘆きの渓谷のこと聞かせてください! ヴェーノとの戦い、アポピスのこと。全部聞きたいです!」
「全部って・・・長いぞ」
「大丈夫です! 今日は時間たっぷりあります!」
仕方ない。少しずつ話した。
ヴェーノとの決着。あいつが最後に見せた顔。精霊を失った空白を、別の精霊で埋めようとして——結局、埋まらなかった男の話。
ラリサが真剣な顔で聞いていた。「ヴェーノさんも・・・つらかったんですね」
「・・・たぶん。でも、俺がそれを言う資格があるかは分からない」
アポピスの話。封印が破れて、災厄の咆哮が大陸を覆った。カシルの言葉——「倒すのではなく鎮める」。鎮魂の歌。
「カルンがアポピスの旋律を見つけたんだ」
ラリサの目が輝いた。
「カルンちゃんがアポピスの旋律を!? すごい・・・音楽の精霊にしかできないことです! 災厄の叫びの奥から元の旋律を聴き分けるなんて、並の精霊では絶対に無理です!」
カルンが照れたように光を揺らした。ラリサに褒められると、いつもこうなる。嬉しいけど照れる。俺と似てるな、と思った。
「カルンちゃん、本当にすごいんですよ? 自覚してください!」
カルンが嵐の精霊の後ろに隠れた。嵐の精霊が呆れたように風を揺らす。
「隠れても駄目ですー!」
ラリサが笑う。トルニオは黙って聞いていた。口は挟まない。杯を傾けながら、静かに。でも——聞いている。フェズの旅のすべてを、一言も漏らさず。
酒が進んだ。ラリサの頬が赤くなってきた。
「あのですね、フェズさん」
ラリサが指を立てて、少し酔った声で言った。
「師匠の修行、フェズさんの時は優しかったんですよ? わたしの時なんて、三日三晩走らされたんですから!」
「三日三晩!?」
「しかも嵐の精霊と共鳴しながらです! 共鳴の持続訓練だって言って! 三日目には足の感覚なくなりました!」
トルニオが杯を置いた。「覚えてないな」
「嘘です! わたし泣きながら走ってたじゃないですか! 師匠、途中で水だけ置いて帰りましたよね!?」
「・・・覚えてないな」
「絶対覚えてます!」
笑った。自然に。
ラリサが怒っているようで怒っていなくて、トルニオが覚えていないふりをしていて、カルンと嵐の精霊が庭で追いかけっこをしていて。
ここに自分の居場所がある。
あの日——初めてこの拠点に来た時、ラリサに「おかえりなさい」と言われて言葉に詰まった。帰る場所なんてなかったから。おかえりと言われる意味が分からなかったから。
今は分かる。ここが——帰る場所だ。リトルネッロ村じゃない。トルニオの拠点が、俺の帰る場所になっている。不愛想な師匠と、明るすぎる姉弟子と、二匹の精霊がいる場所。
「フェズさん、笑ってますよ」
ラリサが指さした。
「うん」
否定しなかった。笑ってる。自覚がある。
「いい笑顔です。前はもっと・・・なんていうか、遠慮してましたよね。笑う時も、申し訳なさそうに笑ってて」
「・・・そうだったか」
「そうでしたよ! 今は違います。いい顔してます、フェズさん」
照れる。やっぱり照れる。でも——嬉しい。
夜が更けた。
ラリサが食卓に突っ伏して寝息を立てている。酒に強くないのに飲みすぎたらしい。嵐の精霊がラリサの頭の上で、微かな風を送っている。涼しくしてやっているのだろう。
トルニオが黙って食器を片付けている。俺も手伝おうとしたら「客だと言った」と追い返された。
庭に出た。夜空を見上げた。
星が——綺麗だった。
グラーヴェ近郊の空は、山が近い分だけ空が広い。嘆きの渓谷で見上げた星空よりも穏やかで、アリア山脈で見た凍てつく星空よりも温かい。
風が涼しい。火の祠の熱気が嘘みたいだ。昼間、あの闘技場で師匠と剣を交えていたことが、もう遠い昔のように感じる。
カルンが俺の肩の上に降りた。微かに旋律を鳴らし始めた。穏やかな音。戦いの合図でもない。警戒の旋律でもない。ただ——夜に溶ける、静かな音楽。
「覇者になった」
カルンに話しかけた。声は小さい。隣に誰もいない。カルンだけに聞こえればいい。
「・・・これで、お前を狙う奴はいなくなる。たぶん」
巡祠の覇者。すべての大精霊に認められた証。その称号を持つ者の精霊に手を出す人間は——普通はいない。覇者に喧嘩を売るのは、大精霊に喧嘩を売るのと同じだ。
蛇の目はもういない。ヴェーノもいない。アポピスは鎮められた。カルンを脅かすものは——もう、ほとんどない。
カルンの光が揺れた。
嬉しいような——少し寂しいような。
共鳴で感情が伝わってくる。嬉しい。安心している。でも、ほんの僅かに——不安がある。
分かる。何が不安なのか。
旅の目的が達成されたら。覇者になったら。もう守る必要がなくなったら。
——離れてしまうのではないか。
カルンはそれを怖がっている。
「カルン」
名前を呼んだ。カルンの光が揺れた。聴いている。
「旅は終わりじゃない」
カルンの旋律が止まった。
「・・・まだ行きたい場所がある。見たいものがある。お前と一緒に」
カルンが跳ねた。ぴょん、と。大きく。嬉しい時の跳ね方。肩から飛び上がって、俺の頭の上を一回転して、また肩に戻ってきた。光がぱちぱち弾けている。
嬉しい。まだ一緒にいられる。旅が続く。
共鳴で流れ込んでくる感情が——真っ直ぐだった。嘆きの渓谷の前みたいな、不安まじりの喜びじゃない。空の祠の後に取り戻した、対等な関係から生まれる純粋な喜び。
「明日——村に寄っていこう。リトルネッロ村に。一応、報告しないと」
カルンの光が揺れた。覚えている。あの村。俺が育った場所。カルンと出会う前の、空っぽだった場所。
旅の最初の頃は、村の名前を聞くと光が不安定になった。俺が暗い顔をするのを、カルンは敏感に感じ取っていたから。
でも今は——光は安定している。
「大丈夫。帰る場所はもう、あそこじゃないから」
カルンが小さく旋律を鳴らした。うん、と言うように。知ってる、と言うように。
帰る場所はここだ。トルニオの拠点。ラリサが「おかえりなさい」と言ってくれる場所。不愛想な師匠が、黙って酒を出してくれる場所。
そしてどこにいても——カルンが隣にいる場所。
夜風が吹いた。涼しくて、気持ちいい。カルンの旋律が風に乗って、夜空に溶けていく。
穏やかだった。
戦いも、恐怖も、焦りもない。ただ——静かで、温かい夜。
こういう夜を、ずっと知らなかった。旅を始めてからは、いつも何かに追われていた。蛇の目に、ヴェーノに、自分自身の弱さに。安心して夜空を見上げる余裕なんてなかった。
今夜は——ある。
カルンの旋律が小さくなっていく。眠いのかもしれない。精霊も疲れるのだ。今日は俺の試練を、ずっと一緒に戦ってくれた。
「ありがとう、カルン」
光が微かに揺れた。どういたしまして、ではない。当たり前のことだ、と言っている。
俺たちは——そういう関係になった。
守る者と守られる者じゃない。使う者と使われる者でもない。隣に立って、一緒に歩く。同じ道を、同じ速さで。
背後で物音がした。
振り返ると、トルニオが住居の入口に立っていた。片付けを終えたらしい。手を拭きながら、こちらを見ている。
「・・・入らないのか」
「もう少しだけ」
トルニオが頷いた。それだけで、引っ込もうとする。
「師匠」
足が止まった。
「・・・ありがとうございました。今日だけじゃなくて。全部」
修行の三ヶ月。基礎を叩き込んでくれた。体捌きを教えてくれた。弱い俺を見捨てないでくれた。旅に送り出してくれた。そして今日——認めてくれた。
トルニオは、しばらく黙っていた。
「礼を言うのは早い」
「え?」
「覇者になっただけだ。これからの方が長い」
それだけ言って、住居の中に消えた。
・・・そうだ。
そうだった。この人はこういう人だ。褒めない。甘やかさない。でも——「これからの方が長い」と言った。それは、これからも見ている、という意味だ。きっとそうだ。
この不器用な師匠は、「頑張れ」とも「応援している」とも言わない。ただ「まだ先がある」と言う。それがこの人のやり方だ。
カルンが小さく鳴いた。眠い。
「そうだな。寝よう」
立ち上がった。星空を一度だけ見上げた。星が、まだ光っている。明日もきっと晴れる。
明日はリトルネッロ村に寄って。そして——また旅に出る。カルンと一緒に。
住居に入る前に、もう一度だけ庭を振り返った。精霊たちが追いかけっこした跡が、微かに光の粒として残っている。嵐の精霊の風がそれを散らしていく。
穏やかな夜だった。
戦いの後の、静かな夜。覇者になった夜。師匠に認められた夜。
忘れない、と思った。この夜のことは——ずっと忘れない。