朝の光で目が覚めた。
窓から差し込む陽射しが寝台を白く染めていて、一瞬どこにいるのか分からなかった。天井の石壁が見えて、木の長卓の匂いがして——ああ、トルニオの拠点だ。
カルンが俺の胸元で丸くなっている。光が穏やかに明滅していて、まだ少し眠たそうだ。
起き上がると、カルンがふわりと浮き上がった。目を擦るみたいに光を揺らして、俺の肩にとまる。
「おはよう」
カルンが小さく旋律を鳴らした。おはよう、と返しているのだと分かる。共鳴が流れている。意識しなくても、カルンの気配が体の中にある。呼吸のリズムと同じぐらい自然に。
一年前は違った。
初めてカルンと共鳴した時は、一瞬の閃光みたいだった。繋がって、弾けて、途切れた。俺の体が共鳴に耐えられなかった。あの時の感覚は今でも覚えている。力が流れ込んできて、すぐに溢れて、何も掴めなかった。
今は——何も掴もうとしていない。ただ、ここにある。カルンの存在が、体温みたいに俺の中に溶けている。共鳴は力じゃない。一緒にいること、それ自体が共鳴なんだと、今なら分かる。
階下に降りると、ラリサがもう起きていた。食卓の上にパンと干し果物が並んでいる。
「おはようございます、フェズさん! 早いですね」
「ラリサの方が早いだろ」
「えへへ、見送りたくて」
ラリサが笑った。嵐の精霊がラリサの肩で風を揺らしている。カルンがぴょんと跳ねて、嵐の精霊に体当たりした。昨日と同じだ。二匹がじゃれ合いながら食卓の上を飛び回る。
トルニオは——いなかった。
「師匠は?」
「朝早くに出ていきました。祠の方だと思います。何も言ってなかったですけど」
いつもの人だ。何も言わない。でも、いないこと自体が、たぶん——送り出し方なんだろう。この不器用な師匠の。
昨夜の言葉を思い出す。「覇者になっただけだ。これからの方が長い」。あれが、この人なりの「行ってこい」だった。
パンをかじった。昨日のトルニオの料理より味がある。ラリサが焼いたらしい。
「フェズさん、リトルネッロ村に行くんですよね」
「ああ。報告だけ」
「分かってます。フェズさんの帰る場所はここですからね」
さらっと言った。ラリサはいつもそうだ。大事なことを、何でもないみたいに言う。
「・・・うん」
否定しなかった。
「それと——フェズさん」
ラリサが食卓に両手をついて、身を乗り出した。真剣な目。
「次に会う時、もっと強くなっておきますから。わたしも、まだまだですから」
「ラリサ、お前は十分——」
「十分じゃないです! 兄弟子がやっと覇者になったんですよ? 同じ覇者同士、弟子が負けてたらかっこ悪いじゃないですか」
ラリサが拳を握って力説している。嵐の精霊がそれに呼応して、食卓の上の干し果物が微かに浮いた。
「・・・それ、俺の方がかっこ悪い立場にならないか」
「なりませんよ! 一緒に強くなるんです!」
カルンがラリサの嵐の精霊と一緒に、浮いた干し果物の周りをくるくる回っている。楽しそうだ。
「ラリサ」
「はい?」
「ありがとう。色々、本当に」
ラリサが一瞬止まって——それから、にっと笑った。
「フェズさん、前より『ありがとう』上手くなりましたね。昔はもっとこう・・・死にそうな顔で言ってました」
「そんなに酷かったか」
「酷かったです。今は普通です。普通がいいんですよ」
ラリサが手を振った。「行ってらっしゃい、フェズさん! カルンちゃんも!」
カルンがラリサの嵐の精霊にぶつかって——最後のじゃれ合いをして、俺の肩に戻ってきた。光がぱちぱち弾けている。楽しかった、と言っている。
門を出た。振り返ると、ラリサが大きく手を振っていた。
「次はもっとゆっくり来てくださいね! 師匠にもそう言っておきます!」
手を振り返した。旅に出る前は——こんなこと、できなかった。振り返ることさえ怖かった。
リトルネッロ村への道は、見慣れた道だった。
土の道。道端の石。草の匂い。一年前と何も変わっていない。グラーヴェ市とリトルネッロ村を繋ぐこの道は、子供の頃から何十回も歩いた。
でも今日は違う。
カルンが俺の肩の上で、周りをきょろきょろ見ている。道端の野花に反応して体を乗り出す。鳥の影にびくっとして——いや、びくっとしなかった。鳥を目で追って、首を傾げただけだ。
一年前のカルンは違った。何にでも怯えていた。人間に追われ続けた記憶が体に染みついていて、鳥の影にすら身を縮めた。
今のカルンは穏やかだ。花を見て光を弾ませ、風を受けて旋律を鳴らし、俺の肩の上で世界を楽しんでいる。
「・・・お前、前にもこの道通った時、花に反応してたな」
カルンが俺を見上げた。覚えている、と光が揺れる。
「あの時は、紫の花だった。すごく身を乗り出して」
カルンがぴょんと跳ねた。覚えている。初めてこの道を歩いた時のこと。村から出て、トルニオの拠点に向かった日のこと。
あの日、カルンは怖がりながらも好奇心を抑えきれなくて、花を覗き込んでいた。今も花を覗き込んでいる。でも怖がっていない。ただ、楽しんでいる。
同じ道を、違う足で歩いている。
リトルネッロ村が見えてきた。
変わっていなかった。木の柵。泥道。質素な家々。畑の向こうに村長の家の屋根。煙突から煙が上がっている。
一年前にここを出た時と、同じ景色だ。
村の入口を通った。すれ違った村人に声をかけた。
「おはようございます。戻りました、少しだけ」
水汲みのおばさんが足を止めた。俺の顔を見て、少し目を丸くした。
「あら、フェズ。帰ったの。・・・なんだか、大きくなったねぇ」
「・・・そうですか」
「精悍になったっていうの? 前はもっと細くて、頼りなかったけど」
おばさんが水瓶を抱え直して、通り過ぎていった。一年前は、「そう。大変だったね」の一言で終わった人だ。今日は二言多い。それだけで——何かが変わっている。
カルンが俺の肩の上で、村の風景を見回していた。光が安定している。一年前は、この村に来ると光が不安定になった。俺の暗い感情に反応して、ぐらぐら揺れていた。
今は揺れていない。俺が揺れていないから。
村長の家に向かった。相変わらず畑にいた。白い髪が少し増えた気がするけれど、腰は曲がっていない。しゃがんで苗を触っている姿は一年前と同じだ。
「村長」
顔を上げた。俺を見た。
「おう。戻ったのか」
「ああ」
「祠巡りはどうなった」
「巡祠の覇者になった」
村長の手が止まった。
しばらく俺を見て——立ち上がった。膝の土を払って、一度だけ頷いた。
「そうか。大したもんだ」
初めて言われた言葉だった。
この人は俺を褒めたことがなかった。叱ったこともなかった。義務として養い、義務として送り出し、それ以上でも以下でもなかった。
「大したもんだ」は、この人にとって最大級の賛辞なんだろう。
「・・・ありがとうございます。今まで、世話になりました」
一年前は、この言葉が喉に引っかかった。何に感謝するのか分からなくて、「お世話になりました」としか言えなかった。
今は違う。感謝している。義務だったとしても、この人は俺を放り出さなかった。それだけで十分だ。
村長は頷いた。「達者でな」と、一年前と同じ言葉を言った。
でも今日は——ほんの少しだけ、口元が緩んだ気がした。
村を歩いた。
薪を割っていたおじさんに声をかけた。「旅から帰りました。少しだけ」
「おう、フェズか。元気そうだな」
今度は目が合った。一年前は薪に向いたままだった。
井戸のそばを通った。洗い物をしていたおばさんが顔を上げた。
「あら、フェズ。旅はどうだった?」
「いい旅でした」
「そう。良かったわね」
それだけだ。でも「良かったわね」と言ってくれた。一年前は「気をつけてね」で終わった。
広場では——同年代の子供たちがいた。もう子供じゃない。俺と同じぐらいの年齢になっている。一年で、みんな少し背が伸びていた。
一人が俺に気づいた。目が合った。
一年前は——すぐに逸らされた。声はかからなかった。
今日は、逸らされなかった。じっと俺を見て、それから——小さく頷いた。何も言わなかったけれど、目を逸らさなかった。
それでいい。俺もこの村で誰かと深い関係を築いたことはない。でも、目を逸らされなくなっただけで——何かが違う。
カルンが俺の肩の上で、子供たちを眺めていた。一年前は光が不安定に揺れていた。俺の痛みに反応して。
今日の光は、穏やかだった。
自分の部屋を——自分の部屋だった場所を、覗いた。
別の子が使っている形跡があった。寝台の上に毛布が二枚重ねてある。壁に木彫りの飾りがかかっている。窓辺に小さな花瓶が置いてある。紫の花が一輪、活けてあった。
俺の痕跡は、完全になくなっていた。
一年前、この部屋を出る時に思ったことを覚えている。「明日にはもう、この部屋は空き部屋だ」。本当にそうなった。空き部屋どころか、誰かの部屋になっている。俺がいた証拠なんて何も残っていない。
一年前は——「こんなものか」と思った。諦めだった。何年もいたのに荷物が革袋ひとつ分しかなくて、部屋に何の跡も残せなかった自分が、少し惨めだった。
今は——痛くない。
「・・・前は、ここに何もないのが怖かった」
声に出した。カルンが光を揺らして、聴いている。
「自分が何もない証拠みたいで。この部屋に何も残せなかった俺は、どこにも何も残せない人間なんだって」
カルンが俺の頬に触れた。温かい光。聴いている。ずっと聴いている。
「でも今は——何もなくても大丈夫だ。俺の居場所は、ここじゃなくてもある」
カルンが穏やかに跳ねた。そうだ、と言うように。知っている、と言うように。
共鳴が流れている。カルンの気持ちが伝わってくる。嬉しい。安心している。フェズが大丈夫だから、カルンも大丈夫。
意識していない。意識しなくても、カルンの感情が分かる。カルンも俺の感情を感じている。共鳴はもう、力を引き出すための回路じゃない。呼吸と同じだ。ただ、ここにある。
初めて共鳴した時——一瞬の閃光で途切れた、あの共鳴が。今は、こんなにも穏やかに、当たり前のように、俺たちの間を流れている。
部屋から離れた。花瓶の紫の花が、窓からの光に照らされて揺れていた。
村の出口に立った。
一年前と同じ場所。木の柵の外に続く、土の道。グラーヴェ市への道ではない。反対側。まだ歩いたことのない方角。
振り返った。
一年前も、振り返った。期待していなかったのに振り返ってしまった、と思ったのを覚えている。あの時、村は普段通りで、俺が出て行ったことに気づいていなかった。
今日も——村は普段通りだった。煙突から煙が上がっている。畑で人が働いている。子供たちの声が風に乗って聞こえる。
でも今日は、「普段通り」が嫌じゃなかった。
この村は俺の帰る場所じゃない。それは一年前に分かっていた。でも一年前は、それが寂しかった。今は——ただの事実だ。寂しくない。帰る場所は別にある。ここにはここの暮らしがあって、俺には俺の道がある。
それでいい。
前を向いた。
知らない方角。まだ見たことのない土地。地図の端っこの、何も描かれていない場所。
風が吹いた。穏やかな風。空が——青い。雲が白い。晴れている。今日は、晴れている。
「カルン」
カルンが光を揺らした。
「行こう」
カルンが跳ねた。大きく。一番嬉しい時の跳ね方。肩から飛び上がって、俺の頭の上を一回転して、また肩に戻ってきた。光がぱちぱち弾けている。
嬉しい。まだ一緒にいられる。旅が続く。フェズと一緒に。
共鳴で流れ込んでくる感情が真っ直ぐだった。不安なんてない。ただ——嬉しい。
歩き出した。
カルンが旋律を鳴らし始めた。穏やかで、明るい音。鎮魂の歌じゃない。戦いの歌でもない。力を引き出すための共鳴でもない。
ただの——旅の歌。一緒に歩くための音楽。隣にいるための旋律。
俺が鼻歌で合わせた。下手な鼻歌。音程は怪しいし、リズムもずれている。嘆きの渓谷でアポピスを鎮めた時の歌とは比べものにならない。
でも——カルンの旋律と、俺の鼻歌が重なった。不協和音。合っていない。全然合っていない。
でも、それが心地よかった。
二人にしか聞こえない、二人だけの音楽。力じゃない。魔法でもない。ただ一緒にいるための音。
道が続いている。土の道。まだ足跡のついていない道。どこに繋がっているのか分からない。でも、繋がっている。どこまでも。空の下に。
空が青かった。雲が白かった。風が穏やかに吹いていた。
最終章に相応しい——とか、そういうことは考えなかった。ただ、いい天気だと思った。歩くにはいい日だと思った。
カルンの旋律が風に乗って、空に溶けていく。俺の鼻歌がそれを追いかける。追いつかない。いつも追いつかない。でも追いかけ続ける。
一年前——空っぽだった。
リトルネッロ村には何も残さなかった。何年もいたのに、荷物は革袋ひとつ分だった。名前を呼んでくれる人もいなかった。帰る場所もなかった。
今は——空っぽじゃない。
帰る場所がある。名前を呼んでくれる人がいる。隣に歩いてくれる誰かがいる。
それだけあれば、歩ける。どこまでも。
フェズとカルンの旅は——続く。
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