歌姫と共に   作:ぶるうず

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実践

森に入って三十分もしないうちに、おかしいと気づいた。

 

木が折れている。それも一本や二本じゃない。太い幹が根元からへし折られて、道を塞ぐように倒れている。枝が散乱して、地面に深い爪痕みたいな溝が走っていた。

 

「トルニオ。これ・・・」

 

「黙ってついて来い」

 

トルニオが歩く速度を落とさない。外套の裾が朝露に濡れた下草を掠めていく。腰の剣に手はかけていないけれど、目が違う。いつもの訓練の時とはまるで別の目をしている。

 

カルンが俺の肩の上で身を縮めた。光がちかちかと不規則に揺れている。怖がっている。俺もだ。

 

「・・・カルン、大丈夫。俺のそばにいろ」

 

カルンが俺の襟元に顔を埋めた。小さな手が服を掴んでいる。

 

さらに奥へ進むと、折れた木の断面が見えた。切断面じゃない。ねじ切られたみたいにぐちゃぐちゃだ。人間の仕業じゃない。獣でもこんなことはしない。

 

トルニオが立ち止まった。

 

「フェズ。黒斑病を知っているか」

 

「黒斑病・・・? いや、聞いたことない」

 

「精霊が正気を失い暴走する病だ。原因は分かっていない。発症した精霊は知性を失い、見境なく周囲を破壊する。痛みも恐れも感じなくなる。ただ暴れ続ける」

 

トルニオが折れた木を一瞥した。

 

「普段は滅多に起きない。十年に一度あるかどうかだ。だが最近・・・」

 

言いかけて、トルニオが口を閉じた。背後を振り返る。

 

いつの間にかラリサが追いついていた。息を切らしている。走ってきたらしい。

 

「師匠! やっぱり・・・」

 

「ああ。間違いない」

 

トルニオとラリサが目を合わせた。一瞬だけ。でもその一瞬に、俺には分からない何かが交わされた。二人とも表情を変えていないのに、空気が重くなった。

 

「ラリサ、これ・・・増えてるの?」

 

「・・・最近、少し。でもフェズさん、今はそれより——」

 

ラリサの言葉が途切れた。

 

森の奥から、地鳴りみたいな音が聞こえた。低くて重い。腹の底に響く唸り声。木々が揺れている。風じゃない。何かがこっちに近づいてくる。

 

茂みが弾けた。

 

獣が飛び出してきた。狼よりも大きい。体長は俺の背丈を超えている。灰色の毛並みに、黒い斑点が浮かんでいた。あちこちに、墨を垂らしたみたいな不気味な黒。

 

目が合った。

 

知性がなかった。

 

精霊の目は、カルンでもラリサの嵐の精霊でも、どこかに意志の光がある。好奇心だったり、警戒心だったり、そういう「何かを考えている」色。でもこいつの目にはそれがない。濁った暗い色で、何も映していない。ただ暴れるための目だ。

 

「フェズ」

 

トルニオが俺の前に出た。

 

「手を出すな。見ていろ」

 

「でも——」

 

「手を出すな」

 

二度目は命令だった。逆らえない声。俺は足を止めた。カルンが俺の肩でぶるぶる震えている。

 

トルニオが剣を抜いた。鞘走りの音が森に響く。静かで、澄んだ音だった。

 

黒斑の精霊が吠えた。声というより衝撃波に近い。木の葉が吹き飛び、地面の土が跳ねた。

 

トルニオが動いた。

 

速い。

 

訓練で何百回と見た動きとは次元が違う。踏み込みの速度、剣の軌道、体の軸。全部が一段も二段も上だった。トルニオが本気で剣を振るのを、俺は初めて見た。

 

斬撃が精霊の横腹を捉えた。深い傷が走る。血——いや、精霊の体から漏れ出る光が散った。

 

でも精霊は止まらなかった。

 

傷を負ったまま突っ込んでくる。痛みを感じていない。トルニオの言った通りだ。正気を失った精霊は痛みも恐れもない。ただ破壊するだけの獣になる。

 

トルニオが横に跳んで躱した。剣を振り上げ、精霊の背に叩きつける。地面が割れた。精霊の体が沈む。

 

それでも起き上がる。

 

「・・・すごい」

 

思わず呟いた。トルニオがすごいのか、精霊がすごいのか、自分でも分からない。両方だ。トルニオの一撃は訓練で見るどの動きよりも重くて鋭い。なのに精霊はそれを受けても止まらない。

 

これが実戦か。

 

訓練場で木剣を振っていた日々が、遠い世界のことみたいに思えた。

 

精霊が大きく暴れた。尾が太い木の幹に叩きつけられ、幹がみしりと傾いた。根が土から引き剥がされる音。あの音は知っている。リトルネッロ村の近くで枯れ木を倒した時と同じ音だ。

 

木が倒れた。

 

ラリサがいる方向に。

 

「ラリサ!」

 

叫んだのは俺だった。ラリサは気づいている。身をかわそうとしたけれど、倒木が地面を叩いた衝撃で足元の土がぐずりと崩れた。ラリサの体が一瞬傾く。

 

一瞬だ。ラリサほどの実力なら立て直すのに数秒もかからない。

 

でもその一瞬、トルニオの意識がラリサに向いた。

 

精霊はそれを見逃さなかった。

 

知性はない。でも隙は本能で嗅ぎ分ける。黒斑の精霊が方向を変えた。トルニオでもラリサでもない。こっちだ。

 

俺に向かって突進してくる。

 

逃げろ。頭の片隅でそう叫んでいる。足は動く。後ろに下がれば、トルニオが追いつくまでの時間は稼げる。

 

逃げなかった。

 

代わりに、見た。

 

周りを見た。右斜め前に窪地がある。雨で削れたくぼみだ。深さは精霊の腰ぐらい。走り込めば足を取られる。頭上には太い枝が張り出している。倒れかけの木の枝。あと少し力を加えれば折れそうだ。

 

あの時と同じだ。精霊ハンターに追われた時、枯れ木を倒して道を塞いだ。力で勝てない相手を、地形で止めた。同じことをやればいい。

 

体が動いた。考えるより先に。

 

「こっちだ!」

 

叫んで窪地の方に走った。精霊が追ってくる。地面を蹴る衝撃が背中に伝わる。近い。ものすごく近い。息が荒い。獣の臭いが鼻をつく。

 

窪地の縁で急に止まった。振り返る。精霊が目の前に迫っている。

 

こいつは止まれない。痛みを感じないから、地形を警戒しない。そのまま突っ込んでくる。

 

精霊の前足が窪地に落ちた。体が前のめりに傾く。勢いが殺されて、もがくように四肢が空を掻いた。

 

今だ。

 

横の倒れかけの木に体当たりした。肩が軋んだ。痛い。でも構うものか。木が揺れる。根が軋む。枝がみしみしと悲鳴を上げて——

 

太い枝が折れた。

 

精霊の背中に落ちた。重い音が森に響いた。精霊が潰れるように動きを止める。完全に止まったわけじゃない。すぐに枝を跳ね除けるだろう。

 

でも数秒あればいい。

 

「トルニオ!」

 

叫ぶ必要はなかった。トルニオはもう動いていた。

 

剣が閃いた。精霊の首筋に一撃。今度は深い。精霊の体から光が溢れて、黒い斑点が薄れていく。もう一撃。精霊の動きが完全に止まった。

 

目の濁りが消えていく。最後の瞬間だけ、精霊の目にかすかな光が戻った。苦しかった、と言っているような。すまなかった、と言っているような。

 

それきり、精霊の体が光に解けて消えた。

 

森が静かになった。

 

俺は窪地の縁に座り込んでいた。膝が笑っている。手が震えている。心臓が喉まで上がってきたみたいにうるさい。

 

ラリサが駆け寄ってきた。

 

「フェズさん! 大丈夫ですか? 怪我は?」

 

「・・・大丈夫。たぶん」

 

「たぶんじゃダメです! ちゃんと見せてください!」

 

ラリサが俺の腕を取って確認し始めた。肩が赤くなっている。木に体当たりした時のだ。でも骨は折れていない。

 

「ラリサこそ・・・さっき足元が」

 

「あれぐらい平気ですよ! 私を誰だと思ってるんですか!」

 

ラリサが胸を張った。でも少しだけ、俺の手を握る指に力がこもっていた。

 

トルニオが歩いてきた。剣を鞘に収めている。精霊が消えた場所を一度だけ見て、それから俺を見下ろした。

 

沈黙が長かった。

 

「・・・判断は悪くなかった」

 

心臓が跳ねた。

 

トルニオが、初めて、俺を否定しなかった。話にならん、でも、遅い、でも、まだだ、でもない。悪くなかった。たったそれだけの言葉が、四週間分の木剣の素振りより重かった。

 

「ただし」

 

トルニオが俺を見据えた。目が冷たい。さっきの一瞬の温度は消えている。

 

「お前が止めた数秒がなくても、俺が対処していた。思い上がるな」

 

「・・・はい」

 

「お前の判断は正しかった。だが、お前がいなくても結果は変わらなかった。それを忘れるな。一度うまくいったからと言って自分を過信する奴は、次に死ぬ」

 

厳しい言葉だった。でも嘘じゃない。トルニオなら、俺が何もしなくてもあの精霊を倒していただろう。ラリサが体勢を崩した隙だって、トルニオにとっては一瞬のロスに過ぎなかったはずだ。

 

分かっている。俺がやったことは、全体の中ではほとんど意味がない。

 

でも。

 

ゼロじゃなかった。

 

精霊ハンターに追われた時、俺は逃げることしかできなかった。ラリサに助けられなければ死んでいた。トルニオに「お前では守れない」と言われて、何も言い返せなかった。

 

今日も、トルニオがいなければ終わっていた。それは同じだ。

 

でも「何もできなかった」ではなくなった。

 

自分の足で立って、自分の頭で考えて、ほんの数秒だけ場を繋いだ。たったそれだけ。でもそれだけが、四週間前の俺にはなかったものだ。

 

「・・・トルニオ」

 

「なんだ」

 

「ありがとうございます」

 

トルニオが怪訝な顔をした。

 

「何に対してだ」

 

「連れてきてくれたことに。・・・訓練だけじゃ、たぶん一生分からなかった。実戦がどういうものか」

 

トルニオは何も言わなかった。ただ背を向けて歩き出した。

 

「帰るぞ。日が暮れる前に戻る」

 

ラリサが俺の横に並んだ。小声で言った。

 

「フェズさん、すごかったですよ。あの状況であの判断、普通はできません」

 

「ラリサ・・・でも、トルニオの言う通りだ。俺がいなくても——」

 

「それはそれ、これはこれです! 師匠はああいう言い方しかできないんです。でも連れてきたってことは、フェズさんならやれるって思ってたんですよ。じゃなきゃ実戦に連れ出したりしません」

 

「・・・そうかな」

 

「そうです! 師匠を十年見てる私が言うんだから間違いないです!」

 

ラリサが拳を握って力説している。十年。ラリサは俺より年下なのに、もう十年もトルニオの弟子をやっているのか。

 

帰り道は来た時より静かだった。折れた木々が黒斑の精霊の爪痕として残っている。さっきまで暴れていた獣はもう跡形もない。光になって消えた。あの最後の一瞬、目に知性が戻ったように見えたのは気のせいだろうか。

 

「ラリサ。あの精霊、元に戻す方法は・・・」

 

「・・・ないんです。一度黒斑が出たら、もう。だから早めに見つけて、楽にしてあげるしかないんです」

 

ラリサの声が小さくなった。元気な敬語が消えている。

 

「人間と契約している精霊は発症しないって言われてます。だからカルンちゃんは大丈夫ですよ。フェズさんと一緒にいる限り」

 

カルン。

 

そういえばカルンは。

 

肩を見た。カルンがいない。さっきまでいたのに。

 

「カルン?」

 

俺の外套の中にいた。懐に潜り込んで、小さく丸まっている。光がほとんど消えていて、寝息みたいにかすかに明滅している。怖くて隠れたのだろうか。

 

「・・・出ておいで。もう大丈夫だから」

 

カルンが顔だけ出した。目がきょろきょろと周囲を見回して、精霊がいないことを確認している。それからのそのそと外套から這い出して、俺の肩に登った。

 

いつもと違ったのは、その後だ。

 

カルンが、俺の肩の上に座った。

 

今までは肩に乗っても、掴まっているだけだった。いつでも飛び立てるように、軽く足をかけているだけ。でも今は違う。ちゃんと座っている。俺の肩に体重を預けている。

 

小さな手が俺の首筋にそっと触れた。

 

カルンから触れてきたのは、初めてだった。

 

今までは俺がカルンに触れることはあった。背中に手を置いたり、膝に乗せたり。でもカルンの方から俺の体に触れることは一度もなかった。いつも俺が先で、カルンはそれを受け入れるだけだった。

 

それが今、カルンの方から俺に触れている。

 

光が柔らかい。安定している。怖がっているんじゃない。安心している。俺のそばにいることに、安心している。

 

「・・・カルン」

 

カルンが俺の首筋に額を押しつけた。温かい。精霊の体温は人間より少し高い。

 

何も言えなかった。言葉にしたら壊れそうで。

 

ラリサが横で何か言いかけて、口を閉じた。にこにこしている。でも何も言わない。分かっているのだろう。今この瞬間は、俺とカルンだけのものだと。

 

トルニオが振り返らずに言った。

 

「歩け。遅い」

 

「はい」

 

歩いた。カルンが肩の上で揺れている。光がゆらゆら、穏やかに。

 

一ヶ月半だ。トルニオの下に来てから、一ヶ月半が経った。

 

基礎は身についた。実戦も見た。自分に何ができて何ができないのか、少しだけ分かった。力ではかなわない。速さでもかなわない。でも、頭は使える。周りを見て、使えるものを使って、ほんの少しだけ状況を動かすことはできる。

 

まだ全然足りない。

 

でも次がある。

 

トルニオが見つけろと言った、俺自身の「剣」。力でも速さでもない、俺だけの戦い方。その輪郭が、今日ほんの少しだけ見えた気がする。

 

次は、それを形にする番だ。

 

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