灰の傭兵と光の園 〈RF各機、メカイラストあり〉   作:青羽 イオ

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第18話 ふたりとも連れて帰ってこい

 子ども区画の天井灯は、夜間モードのまま薄く光っていた。

 

 寝台が並ぶ中で、ひとつだけ毛布が小さく動いている。寝返りではなかった。短い間隔で、胸のあたりが上下している。

 

 サキは足を止めた。

 

「ユウタ?」

 

 返事はない。

 

 毛布をめくると、ユウタは前髪を汗で額に貼りつかせていた。口を少し開け、浅く、速く息をしている。息を吸うたびに、喉の奥で細い音が鳴った。

 

「ユウタ、聞こえる? サキだよ」

 

 ユウタのまぶたが少し動いた。けれど、目は開かない。

 

 サキは枕元の吸入器を取った。小さなカートリッジの窓を確認する。昨日の夜、残量は見たはずだった。少なくとも、朝までは持つと思っていた。

 

 けれど、窓の中にはほとんど薬液が残っていなかった。

 

「嘘でしょ……昨日、ちゃんと見たのに」

 

 声が少し裏返った。サキはすぐに飲み込み、ユウタの肩に手を添えた。

 

「ユウタ、いつもの吸える? すうって吸って、ゆっくり吐くやつ。できる?」

 

「っ……っ、は……」

 

 ユウタはうなずこうとした。けれど、その途中で咳き込んだ。小さな体が折れ、胸の中から笛のような音が漏れる。

 

 サキは吸入器のスイッチを押した。

 

 緑のランプは点いた。けれど、出てきた霧はほんの少しだった。いつもの白い霧ではない。頼りない煙のようなものが一瞬だけ出て、すぐに弱くなる。

 

「だめ……これじゃ足りない」

 

 寝ていた子どもが一人、毛布の中で身じろぎした。サキは反射的に声を落とした。

 

「イズミ先生のところへ行こう。すぐ行こうね。大丈夫、抱っこするから」

 

 スリッパに足を入れ、ユウタを抱き上げる。

 

 熱かった。

 

 服越しでもわかる熱が、サキの腕に移ってくる。ユウタの手は力なく垂れ、指先だけがサキの袖を弱く握った。

 

「うん、握ってていいよ。離さなくていい」

 

 サキは寝台の間を抜けた。毛布の山がいくつも並んでいる。みんな起こしたくなかった。けれど、急がないわけにもいかない。

 

 廊下に出ると、艦内の夜の音が聞こえた。遠くの送風音、床の下を通る機械の低い振動、誰かの足音。それらがいつもより大きく感じた。

 

 医務室のドアを開ける。

 

 夜勤用の白い灯りの中で、イズミが顔を上げた。

 

「サキさん? どうしたの」

 

「ユウタが……息が。吸入器の薬が、もうなくて。さっきまで寝てたんです。でも、急に」

 

 言葉が散らばる。自分でも順番がおかしいとわかった。

 

 イズミは聞き返さなかった。

 

「こっち。診察台に寝かせて」

 

 サキはユウタを下ろした。離すのが怖くて、最後まで背中に手を添えたままにする。

 

 イズミは額に手を当て、すぐに体温計を差し込んだ。表示が出るまでの数秒が長かった。

 

「三十八度九分。高いわね」

 

 聴診器がユウタの胸に当てられる。イズミは位置を変えながら、息の音を聞いた。右、左、背中。聞くたびに、眉間のしわが深くなる。

 

「いつから?」

 

「昼は、少し咳が出るくらいでした。ご飯も少し食べて、寝る前も、いつもより静かだなって……でも、苦しそうには見えなくて。吸入器も、まだ大丈夫だと思ってて」

 

 言いながら、サキは吸入器を握りしめた。

 

「私、ちゃんと見たつもりだったんです」

 

「サキさんのせいじゃない」

 

 モニターが小さく鳴る。血中酸素の数字は九十二。サキにも、いい数字ではないとわかった。

 

「これは普通の喘息発作だけじゃないわ」

 

「普通じゃないって……どういうことですか」

 

「灰を長く吸ってきた子に出ることがあるの。肺の奥と気道の内側が荒れて、少しの粉じんや熱でも腫れる。吸入薬が効く部分もあるけど、効きにくい部分もある。今は、その効きにくいところが強く出てる」

 

 イズミは酸素マスクを取り出し、ユウタの口と鼻に当てた。ボンベの栓を開けると、乾いた音がして空気が流れ始める。

 

「ここでできるのは、酸素と解熱、それから症状を少し抑える薬だけ」

 

「それで治るんですか」

 

 聞いた瞬間、サキは答えを知りたくないと思った。

 

 イズミは一拍置いてから言った。

 

「今の状態を軽くすることはできる。でも、根本的な治療には足りない」

 

「根本的な治療って、何をするんですか」

 

「肺の中を詳しく診て、その子に合った薬を作る。灰に反応して腫れている場所を、直接落ち着かせる薬よ。配合も量も、その子の状態に合わせないといけない」

 

「それは、ここでは」

 

「できない。機械も薬もない」

 

 きっぱりした言葉だった。

 

 サキはユウタの手を握った。小さな指は熱く、汗で湿っていた。

 

「じゃあ、どこなら」

 

「アストレイアの企業都市。灰災の後に作られた医療区画がある。灰膜の検査機も、子ども用の呼吸治療設備もそろっているはずよ」

 

「そこに行けば、助かるんですか」

 

「助かる可能性は上がる」

 

 イズミは言い切らなかった。

 

 それでも、サキにはその言葉しか残らなかった。

 

「じゃあ、行きます。私が連れて――」

 

「歩いて行くのは無理」

 

 イズミはすぐに止めた。

 

「距離がある。今夜は灰霧も濃い。この子を抱いて外を歩いたら、着く前に悪化する。途中で発作が強くなったら、その場で何もできない」

 

「でも、このままじゃ」

 

「わかってる」

 

 イズミは壁の時計を見た。針の音はしないのに、サキには時間が削られていくように見えた。

 

「それに、グレイランスは動かせない。さっき艦橋から連絡があった。今この艦は、UDFの補給線と白帯の部隊をつなぐ前線補給拠点になっている。ここを離れると、周辺の部隊が動けなくなる」

 

 サキは言葉を失った。

 

 艦が動けば行ける。さっきまでは、どこかでそう思っていた。けれど、それもできない。

 

「じゃあ、この子は……ここで、待つしかないんですか」

 

「今は、ここでできることを全部やる」

 

「解熱剤と点滴を入れて、酸素で少しでも楽にする。時間を稼げれば、次の手が出せるかもしれない」

 

 そのとき、医務室のドアが開いた。

 

「イズミ、何があった」

 

 アキヒトだった。整備服の上に簡易ベストを着ている。袖口には油の跡があり、近くに来る前から、かすかに機械油の匂いがした。

 

 アキヒトは診察台のユウタを見た。酸素マスク、点滴の準備、イズミの顔。それから、サキの手元にある空の吸入器へ視線を移した。

 

 そこで足が止まった。

 

「……重いのか」

 

「灰膜過敏。普通の発作とは違うわ。肺の中がかなり荒れてる。ここでは根本治療ができないの。アストレイアの企業都市まで行けば……」

 

 イズミが短く説明する。

 

 アキヒトはサキを見た。

 

「行きたいんだな」

 

 サキはすぐには答えられなかった。行きたい、と言うのが怖かった。言えば、誰かが危ないことをするのではないかと思った。

 

 けれど、ユウタの手が指先で袖を握っている。

 

「……行きたいです」

 

 声が小さくなった。

 

「でも、艦は動けないって。歩いて行くのも無理だって。私ひとりじゃ、どうにもできなくて」

 

「分かった」

 

 アキヒトは一度だけうなずいた。

 

「だったら、別の方法を考える」

 

 それだけ言って、彼は医務室を出ていった。

 

 サキは追いかけそうになったが、ユウタの手がまだ自分の袖を握っていた。だから、その場に残った。

 

 *

 

 しばらくして、サキも作戦室へ呼ばれた。

 

 作戦室の中には、灰色の地図が大きく映し出されていた。

 

 白帯を示す白い線。その周りに、いくつもの印がついている。南の旧市街地には赤い点が集まっていた。そこには今、VOLKの半分が出ていると聞かされていた。

 

 テーブルの周りに、ジル、ヒロ、ポチ、ナロア、イズミがいた。アキヒトは入口近くの壁にもたれている。

 

 スピーカーから、UDFの声が割れながら入る。

 

『こちら第3補給中隊。灰霧が想定より濃い。進行が遅れている。到着は、早くても八時間前後になる。そちらの防衛状況を確認したい』

 

 八時間。

 

 サキはその数字を聞いた瞬間、ユウタの呼吸を思い出した。マスクの中で曇っては消える、あの短い息。

 

 ジルが端末を見てから、顔を上げた。

 

「整理する。いまグレイランスに残っているRFは三機だけだ。ヒロのヴァルケンストーム、アキヒトのストレイ・カスタム、ポチのブレイン・モール。残り三機は南の請負任務に出ている」

 

 サキは一つずつ頭の中で数えた。

 

 三機。思ったより少ない。

 

 ナロアが腕を組んだまま続ける。

 

「予備フレームは一基ある。でも脚をばらして、部品をほかへ回してる。今から組み直しても、動作確認まで間に合わない。艦の近くをゆっくり歩かせるくらいならできるかもしれないが、灰原に出したら途中で止まる」

 

「つまり、予備は使えないんですね」

 

 サキが思わず言うと、ナロアは少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「ごめん。今夜だけは、使えるって言えない」

 

 イズミがユウタのカルテを開いた。

 

「ユウタは、一晩持つかどうかの瀬戸際よ。酸素と薬で少し落ち着かせているけど、治療ではなく時間稼ぎに近い。熱が下がらなければ、呼吸の負担がさらに増える」

 

 サキはカルテの端を見た。数字と医療用語が並んでいる。全部はわからない。けれど、良くないことだけはわかった。

 

 ジルが地図の東側を指した。

 

「アストレイアの医療施設まで、直線で四十キロ前後。道を選ぶと、もう少し長くなる」

 

「四十キロ……」

 

 サキの声が漏れた。

 

 子どもを抱いて歩ける距離ではない。ユウタでなくても無理だ。

 

「徒歩は不可能。UDF側にも救急車両の余裕はない。こっちのシャトルも、燃料を補給任務に回している。今飛ばせば、別の場所が止まる」

 

 スピーカーから、UDFの声が低く入った。

 

『こちらの衛生車は、負傷者搬送で埋まっている。灰膜専門の設備もない。申し訳ないが、こちらで受けるのは難しい』

 

 部屋の中が少し静かになった。

 

 誰かが悪いわけではない。

 

 それが、余計に苦しかった。

 

 アキヒトが壁から体を離した。

 

「艦は動かせない。トラックも出せない。歩くのも無理。UDFの到着は八時間後。だったら、ここで朝まで様子を見るって選択肢は消える」

 

 ヒロが目を細めた。

 

「消える、という言い方は簡単だな。代わりの手はあるのか」

 

「RFで行く」

 

 アキヒトは迷わず言った。

 

「ストレイで白帯の外側を走る。アストレイアのゲートまでユウタを運ぶ。コクピットは狭いが、大人ひとりと子どもひとりなら固定できる」

 

 サキは一瞬、意味がわからなかった。

 

 RFのコクピットに、自分とユウタが乗る。

 

 あの巨大な機体の中に。

 

「待て」

 

 ヒロの声が低くなった。

 

「相手はアストレイアだ。契約も通さずにRFでゲートまで行けば、向こうの警備が銃を向けてもおかしくない。医療案件です、で済む相手じゃないぞ」

 

「済ませるしかない」

 

「アキヒト」

 

「グレイランスの識別を出す。クレイヴ・アクトの身分証も出す。白帯護衛中の子どもが死にかけていると通告する。向こうは白帯が止まることを嫌う。子どもを門前で死なせた話が広がるのも嫌うはずだ」

 

 言葉は落ち着いていた。けれど、サキには、それが安全な話には聞こえなかった。

 

 ヒロも同じだったらしい。小さく息を吐いた。

 

「ずいぶん相手の良心を信用してるな」

 

「良心じゃない。面倒を嫌う性質だ」

 

 ポチが端末を操作しながら、口を挟んだ。

 

「アストレイアの外縁ゲートなら、医療搬送のログは残せると思う。こっちから先に信号を投げれば、いきなり撃たれる確率は下がる。ゼロにはならないけど」

 

「ゼロじゃないのかよ」

 

 ヒロがぼそりと言う。

 

「ゼロって言ったら嘘になるからさ」

 

 ポチは肩をすくめた。

 

 アキヒトは地図の白い線を指した。

 

「外側を沿って走る。戦闘は避ける。撃つとしても、進路をふさぐ相手だけだ」

 

「キーテラが出たら?」

 

「止まらず抜ける。無理なら足を落として進む」

 

 ヒロはしばらく黙った。

 

 サキはその沈黙の間、ユウタのことを考えた。知らない場所が苦手な子だった。人の多いところでは、肩を縮める。粉じん計の数字を読み上げるときだけ、少し得意そうにする。

 

 あの子を一人で医療施設に渡す。

 

 その想像だけで、胸が詰まった。

 

「私も行きます」

 

 声が出ていた。

 

 全員の視線がサキに向く。

 

 膝が少し震えた。けれど、言い直すつもりはなかった。

 

「ユウタは、知らない場所が怖い子です。知らない人ばかりのところに置かれたら、それだけで息が苦しくなるかもしれません。私がそばにいます。手を握って、呼吸の仕方を言います。いつもそうしてるんです」

 

 ヒロが何か言いかけた。

 

 けれど、その前にイズミがうなずいた。

 

「サキが一緒に行くのは医学的にも意味がある。ユウタの発作には不安も関係している。信頼している大人が近くにいるだけで、呼吸が少し安定することがある」

 

「医者のお墨付きか」

 

 ヒロは額に手を当てた。

 

「そう言われると、反対しにくいな」

 

「反対してもいいです」

 

 サキは言った。

 

 自分でも、少し驚いた。

 

「でも、私は行きます。怖いです。正直、RFの中に乗るのも、外に出るのも怖いです。でも、ユウタをここで見ているだけのほうが、もっと怖いです」

 

 部屋の空気が変わった。

 

 アキヒトはサキを見たが、すぐに何かを言わなかった。その沈黙が、少しだけありがたかった。

 

 ジルが地図を見たまま口を開いた。

 

「グレイランスとしては、艦を動かさない前提なら許可できる。ただし、ストレイ・カスタムが離れる分、ここに残る戦力は薄くなる。補給車護衛はUDF側と、南から戻る部隊に寄せる」

 

「危険は増えるな」とヒロ。

 

「増える。でも、ここで子どもひとりを切り捨てれば、あとで部隊の中が壊れる。少なくとも、私はそう見る」

 

 ジルの声は静かだった。

 

 ヒロは目を伏せた。

 

 長い沈黙ではなかった。けれど、サキには十分に長かった。

 

 やがて、ヒロがアキヒトを見た。

 

「VOLK-6として命令は出さない」

 

 サキの胸が小さく沈んだ。

 

 けれど、ヒロは続けた。

 

「これは隊長命令じゃない。ただの仲間としての頼みだ。アキヒト、お前が自分で決めて行け。途中で判断が変わったら、自分で引き返せ。誰かの命令だったから、なんて逃げ道は作らない」

 

 アキヒトはうなずいた。

 

「分かってる」

 

「それと」

 

 ヒロは少し間を置いた。

 

「二人を連れて帰ってこい。できれば、ストレイも壊さずにな。整備班が泣く」

 

 ナロアが苦い顔をした。

 

「もう半分泣いてるよ。今からコクピットに固定ベルト増やすんだから」

 

 ポチが小さく笑った。

 

「泣くのは帰ってからでいいでしょ。まずは通信経路を作る。アストレイアに門前払いされたら、こっちで記録を全部残す」

 

「助かる」

 

 アキヒトは短く返したあと、サキの方を見た。

 

「サキ、コクピットは揺れる。音も大きい。ユウタを抱いたまま、固定ベルトで体を止めることになる。途中で降りる場所はない。それでも行けるか」

 

 サキはすぐに返事をしようとして、できなかった。

 

 怖い。

 

 言葉にしなくても、手のひらが冷えている。

 

 でも、医務室のユウタは今も息をしている。浅く、速く、苦しそうに。

 

「行きます」

 

 今度は、ちゃんと言えた。

 

「揺れても、音がしても、ユウタの耳をふさぎます。息の数も数えます。だから……連れていってください」

 

 アキヒトは一度だけ深くうなずいた。

 

「分かった」

 

 ナロアが立ち上がる。椅子が床をこすって、小さく鳴った。

 

「コクピットの後ろに固定具を増やす。酸素ボンベも積むなら、揺れ止めがいる。イズミ、ボンベのサイズを教えて」

 

「すぐ持っていく。薬も一式まとめる」

 

「ポチ、アストレイアへの事前通告を頼む」

 

「やるよ。文章は硬くする? それとも、子どもが死にかけてますって、最初から強めに行く?」

 

 ヒロが答えた。

 

「最初から強めでいい。あいつらは遠回しに言うと、読んでないふりをする」

 

「了解。嫌な相手に詳しいね、ヒロ」

 

「褒めるな。気分が悪い」

 

 そのやり取りを聞きながら、サキはカルテを胸元に寄せた。

 

 迷いは消えていない。怖さも、不安も、全部ある。それでも、足は動いた。

 

 アキヒトがドアへ向かう。

 

「行くぞ、サキ。まず医務室だ。ユウタを運ぶ」

 

「はい」

 

 サキはその後ろを追った。

 

 廊下の灯りは、さっきより少し明るく見えた。たぶん、気のせいだ。何も解決していない。ユウタの息も、まだ楽になったわけではない。

 

 それでも、立ち止まっている時間は終わった。

 

 サキはカルテを握り直し、医務室へ急いだ。

 

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