灰の傭兵と光の園 〈RF各機、メカイラストあり〉 作:青羽 イオ
街の中の空気は、外とまるで違っていた。
ゲートをくぐった途端、灰のざらつきが消えた。舌に残っていた粉っぽさも薄くなり、息を吸うのが少し楽になる。
でも、楽になっていいのは私じゃない。
ストレッチャーの上で、ユウタは酸素マスク越しに細い息をしていた。私はその胸の動きだけを見ながら、白い廊下を進んだ。
「こちらです」
医療班の女性が先を歩く。
天井には監視カメラがあり、壁の扉はカードや手のひらで開く。扉をひとつ通るたび、空気の音が変わった。
「灰膜関連の区画は、外の空気が混ざらないようにしています」
「ずいぶん厳重だな」
「患者を守るためでもあります」
嘘ではないのだろう。けれど、それだけでもない気がした。
厚い扉が開き、白い診察室に入る。中央にはベッドがあり、その周りに丸い機械やモニターが並んでいた。どれも新しく、同じ色をしている。
ユウタがベッドに移され、指先に小さなセンサーをつけられる。モニターに数字が並んだ。
意味は分からない。
すぐに医師が入ってきた。白衣の下に灰色のシャツを着た、細い男だった。眼鏡の奥の目は疲れているのに、こちらを見る力だけは強い。
「灰膜クリニック担当のトギです。……歓迎という状況ではありませんが、間に合ってよかった」
「この子が、ユウタです。さっきから息が苦しくて」
「記録は見ています。イズミ医師の処置も、悪くありません」
トギはそう言って、ユウタの顔をのぞき込んだ。
「ユウタくん、聞こえるかな。ここは灰の少ない場所だよ。匂いは変だけど、薬と消毒の匂いだから大丈夫。すぐ楽にする」
ユウタが、かすかにまばたきをした。
「まず肺を見ます。難しいことはしません。大きな聴診器みたいなものです」
丸い機械がユウタの胸の上をゆっくり動く。低い音がして、モニターに肺の映像が出た。
白と灰色の中に、細い糸のような影がいくつも見えた。
「……これが?」
「灰膜過敏症E型です」
トギは画面を指した。
「普通は、灰に傷つくうちに体が鈍くなる。でもこの子は逆です。傷つくたびに、反応が強くなる。肺がずっと怒っているような状態ですね」
「治せるんですか」
「今より楽にできます。ここなら、この子に合わせて薬を調整できます」
トギは透明な吸入器を手に取った。中には、色のない薬液が入っている。
「彼の肺の反応に合わせた薬です。まずは少しだけ使います」
できるんですか、と聞こうとして、私はやめた。
ここにはできる機械がある。できる人がいる。グレイランスでは手が届かなかったものが、白い部屋に当たり前のように並んでいる。
ふと、壁の向こうがガラス張りになっているのに気づいた。
別室で、何人もの白衣がこちらを見ていた。大きな画面には、ユウタの肺の映像が映っている。声は聞こえにくい。でも、いくつかの言葉だけがこちらまで届いた。
「E6因子……」
「施設外育ちのサンプルか」
「この数値、論文になるぞ」
サンプル。
論文。
ここでは、ユウタは助けるべき子どもである前に、珍しい数字なのかもしれない。
横を見ると、アキヒトもガラスの向こうを見ていた。顔は変わらない。でも、目だけが冷たかった。
「……数字の話ばかりだな」
小さな声だった。
トギがこちらへ向き直る。
「サキさん、と言いましたね」
「はい。光の園の保育士です」
「あなたはそばにいてください。この子には、安心できる人が必要です。薬だけで全部が決まるわけではありません。始めますよ」
吸入器から、見えにくい霧が出る。
「ユウタくん、少し苦いかもしれない。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて」
「ユウタ、いつものやつだよ」
私は自然に数え始めていた。
「吸うの、いち、に、さん、し。吐くの、いち、に、さん、し」
最初は浅かった呼吸が、少しずつ深くなる。
胸の動きが落ち着き、マスクの曇り方もゆっくりになった。モニターの数字が九十二から九十四、九十五へ上がる。
私は息を止めていたことに気づき、そこでようやく吐いた。
「いい反応です」
トギが言う。
「薬が合っています。急に全部抑えると負担になるので、少しずつ慣らします」
よかった。
そう思った。
けれど、安心しきることはできなかった。
ガラスの向こうでは、まだ白衣たちが画面を見ていた。誰かが端末に何かを打ち込み、別の誰かがユウタの肺の映像を拡大している。
ここでは命が助かる。でも同時に、命が数字にもされる。
「さき、せんせい……」
かすかな声がした。
「ここにいるよ。どこにも行かない。ちゃんとグレイランスに帰ろうね」
ガラスの向こうでどんな名前をつけられても、私にとってはユウタだった。
灰の中で一緒に歩いて、吸う息と吐く息を数えてきた、七歳の男の子。
白い部屋の機械は静かに動き続けている。
その中で、私はユウタの手だけを離さなかった。