灰の傭兵と光の園 〈RF各機、メカイラストあり〉   作:青羽 イオ

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第八章 名前のない兵士
第36話 化け物を見る目


 皿が壁に叩きつけられ、白い破片が床に散った。

 

 乾いた音が狭い部屋に残る。酒の匂いと、安い惣菜の油の匂いが混じっていた。テーブルの上ではコップが倒れ、こぼれた酒がゆっくり広がっていく。

 

「誰のせいだと思ってる!」

 

 父の怒鳴り声が、薄い壁にぶつかって返ってきた。

 

 母が何か言おうとした。謝ろうとしたのか、なだめようとしたのか、今となっては分からない。けれど、その言葉が出るより先に、父の手が母の腕をつかんだ。

 

 母の背中が板壁にぶつかる。鈍い音がした。

 

「痛い、やめて」

 

「口答えするな!」

 

 振り上げられた手が、母の頬を打った。母の体が横へ傾き、椅子が倒れる。

 

 十二歳のアキヒトは、テーブルの陰からそれを見ていた。

 

 喉の奥が熱い。息はできているのに、胸の中だけが詰まっている。足の裏は床に貼りついたようで、前に出ようとしても動かなかった。

 

「やめろよ」

 

 自分の声だと、すぐには分からなかった。

 

 かすれた声が部屋に落ちた瞬間、父の視線がこちらへ向いた。赤く濁った目だった。

 

「ガキは黙ってろ!」

 

 襟首をつかまれ、床へ引きずり出される。次の瞬間、顔に重い衝撃が走った。床が近づき、頬が板にぶつかる。

 

 蹴られるたびに息が止まった。吸い込もうとすると、胸の奥で変な音が鳴る。痛いというより、体の使い方が分からなくなっていく感じだった。

 

 母の悲鳴が聞こえた。

 

「やめて! この子は関係ない!」

 

 アキヒトは顔を上げた。

 

 父の手が、母の喉をつかんでいた。床に倒れた母の首へ太い指が食い込み、母の体が小さく震えている。

 

「謝ればいいってもんじゃねえんだよ」

 

 父の顔は赤く、目の焦点が合っていなかった。母は両手でその指を剥がそうとしている。けれど力が足りない。声はもう言葉にならず、細い息だけが漏れていた。

 

 顔色が変わっていく。

 

 床に手をつき、立とうとした。膝が震えて、うまく力が入らない。それでも目だけは逸らせなかった。

 

 部屋の隅に、父のコートがかかっている。

 

 その下に、黒い金属が見えた。

 

 拳銃だった。

 

 父が外の仕事に行くとき、腰に下げていたものだ。酔った父が一度だけ、得意げに見せたことがある。冷たくて、重くて、握っただけで体が固まる道具だった。

 

「これがあれば黙らせられる」

 

 父はそう言って笑っていた。

 

 どうやってそこまで動いたのか覚えていない。気づいたときには、コートを引きはがし、その下にあった拳銃をつかんでいた。

 

 手のひらに、重さが沈む。

 

「やめろ」

 

 声が震えた。

 

 父は振り向かない。母の喉を締める指に、さらに力を込めている。

 

「やめろって言ってるだろ!」

 

 叫ぶと、喉が痛んだ。

 

 父の肩越しに、母の目が見えた。涙で濡れているのに、声は出ていない。助けを求めていたのか、止めようとしていたのか、それすら分からない。

 

 両手で拳銃を持ち上げた。

 

 腕が震える。狙いなんてなかった。父と母の体が重なって見えて、どこへ向ければいいのかも分からない。ただ、あの手を離させなければいけないと思った。

 

 指が引き金に触れていた。

 

 どの指だったのか、どれだけ力を入れたのかは覚えていない。全身で握り込んだ。それだけだった。

 

 音だけが、記憶から抜け落ちている。

 

 気づいたときには、父の体が母の上から崩れていた。

 

 床へ倒れ込む振動が足もとに伝わる。母の喉を締めていた手は力を失い、指がゆっくり開いていった。

 

 拳銃の先から、薄い煙が上がっていた。

 

 耳の奥が妙に静かだった。遅れて、白い耳鳴りのようなものが戻ってくる。

 

 手の中の重さと、指先の感覚だけが残っている。撃った。自分が撃った。そのことだけは分かった。

 

 母がこちらを見た。

 

 喉を押さえ、息を吸い込もうとしながら、何かを言おうとしている。けれど、言葉にはならなかった。

 

 助けてくれた。

 

 よくやった。

 

 そんな色は、どこにもなかった。

 

 母は、倒れた父ではなく、拳銃を持った自分を見ていた。

 

 怖れている。

 

 近づけてはいけないものを見る目だった。

 

 その視線が、胸の奥に刺さった。父の怒鳴り声よりも、拳銃の重さよりも、ずっと深く残った。

 

 そこから先の記憶は、途切れ途切れだ。

 

 ドアを叩く音。誰かの叫び声。廊下を走る足音。

 

 UDFの制服を着た大人たちが部屋に入り、父の体をどかして母に処置をしていた。拳銃はすぐに取り上げられ、透明な袋に入れられた。

 

 何を聞かれて、何と答えたのかは思い出せない。

 

 ただ、同じ質問が何度も繰り返され、自分も同じ説明を繰り返したことだけが残っている。

 

 しばらくして、知らない建物へ連れて行かれた。

 

 白い壁の部屋だった。簡単なベッドと机があり、窓の外には別のアパートの壁しか見えない。そこに入れられてから、外へ出ることはなかった。

 

 二週間ほど、同じような日が続いた。

 

 担当だという大人が入れ替わりで来る。紙を書かされ、話を聞かれる。誰も怒鳴らない。誰も殴らない。ただ、決められた手順を一つずつ進めているように見えた。

 

 父の葬式がどうなったのかは知らされなかった。

 

 母がどこにいるのかも、その間は教えてもらえなかった。

 

 ある日、担当の人に呼ばれて、小さな応接室へ通された。

 

 向かいの椅子には、いつもよりきちんとした服の大人が座っていた。机の上には封筒が一つ置かれている。

 

「落ち着いて聞いてほしい」

 

 その人は、先にそう言った。

 

 落ち着けるわけがない、と思った。けれど、口には出さなかった。

 

「お母さんは亡くなった。自分で命を絶った」

 

 言葉は耳に入った。

 

 けれど、意味にはならなかった。

 

 大人は少し間を置き、続けた。

 

「使われたのは、君のお父さんの拳銃だ。家の中に、もう一つ残っていたものが見つかった」

 

 父の拳銃。

 

 あの日、自分の手の中にあったもの。

 

 回収されたはずのそれとは別に、家のどこかにもう一つ残っていた。父が隠していたのか、置きっぱなしにしていたのか、大人たちは細かいことを言わなかった。ただ、父のものだった、とだけ説明した。

 

 そして母は、それを使った。

 

 父がいなくなったから。

 

 自分が撃ったから。

 

 あの日、あの場で、自分が引き金を引いたから。

 

 もし撃たなかったら。

 

 母の喉は潰れていたかもしれない。もっと殴られて、もっとひどいことになっていたかもしれない。

 

 それでも、撃たなければ、あんな目で見られなかったかもしれない。

 

 撃ったから、あの目で見られた。

 

 撃ったから、母は自分の前からいなくなった。

 

 誰もそうは言わなかった。

 

 担当の大人は、「君のせいではない」と繰り返した。「お母さんは追い詰められていた」とも言った。

 

 たぶん、それは間違っていない。

 

 でも、正しい言葉を並べられても、母は戻ってこなかった。

 

 頷けば、その場は終わる。頷かなければ、同じ説明が続くだけだ。大人たちは、責めない。責めない代わりに、中に残ったものも取り上げてはくれなかった。

 

 父の腕の太さ。

 

 倒れたときの振動。

 

 拳銃の重さ。

 

 そして、あの一瞬だけこちらをまっすぐ見た母の目。

 

 それだけが、何度も浮かんで消えなかった。

 

 あれは、自分を見ていた。

 

 父を止めた息子としてではない。

 

 男を撃った子どもとして。

 

 もう元には戻らないものとして。

 

 自分の指を見つめた。何も持っていないのに、まだ冷たい重さが手の中に残っている気がした。

 

 自分が引き金を引いた。

 

 そのあとで、母は自分の世界を壊した。

 

 だからこれは全部、自分のせいだ。

 

 そう決めつけるしか、残された形がなかった。

 

 全部、俺のせいだ。

 

 

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