灰の傭兵と光の園 〈RF各機、メカイラストあり〉 作:青羽 イオ
空き缶を蹴ると、コンクリートの床で乾いた音がした。
高架下は、昼でも薄暗い。頭上の道路がときどき低く震え、そのたびに天井の継ぎ目から灰が落ちた。遠くには支線の白帯が白く走っている。そこだけは、汚れた街の中でも別の線のように見えた。
手前には木箱とパレット、穴の開いたテントが寄せ集められている。人が溜まる場所だった。俺の寝床も、その中にあった。
父を撃ったあと、俺はしばらくUDFの保護施設に入れられた。
同じ質問を、何度もされた。何を見たか。どこにいたか。なぜ拳銃を持ったのか。父が何をしていたのか。母は何を言ったのか。
俺が答えるたびに紙が増えた。
誰も怒鳴らなかった。殴られもしなかった。ただ、手順だけが続いていく。やがて、俺は「保護の枠には入らない年齢」だと言われ、施設の外へ出された。
その言葉の意味は、すぐに分かった。
行き先のない子どもが最後に流れ着くのが、この高架下だった。
腹が鳴った。
市場裏の路地へ行けば、売れ残りの野菜くずや、値がつかないパンの端が箱にまとめて捨てられている。食べられるものは少ない。それでも、何もないよりはましだった。
箱の中へ手を伸ばした瞬間、横から細い腕が先にそれをさらった。
「それ、俺が先に見つけた」
反射で声が出た。
相手は、俺と同じくらいか、少し下の年に見えた。痩せた顔に泥がついている。目だけが鋭かった。
「先に手ぇ出したほうのもんだろ」
そいつはパンの端を握ったまま逃げようとした。俺は腕をつかんだ。
揉み合いになった。箱が倒れ、路地に中身が散らばる。相手も必死だった。けれど、そのころには俺のほうが少しだけ力が強かった。
肩を押さえ、パンの端だけをもぎ取る。
相手は舌打ちして手を離し、すぐ別のゴミ袋へ走っていった。怒鳴る暇も、殴り返す暇もない。腹が減っているときは、恨むより先に次を探すしかなかった。
口に入れたパンは固く、少し酸っぱかった。
それでも、腹は黙った。
こういう小競り合いは珍しくない。数日前まで見かけた子どもが、翌週には消えていることもあった。連れて行かれたのか、倒れたのか、誰かに売られたのか。確かなことは誰も知らない。
噂だけが増えていく。
日雇いの荷運びで小銭が入る日もある。けれど、いつも仕事があるわけじゃない。拾えるものは拾う。奪われる前に取る。
それしかなかった。
その日も、俺は拾えるものを探して歩いていた。
午後、白帯の支線の少し外側で、妙な音がした。
低い破裂音と、高い金属音。
集積地の騒がしさとは違う。人の流れがざわつき、何人かが「またか」と言いながら高架下の陰に潜った。遠くで煙が上がる。
ハブの外れで車列が攻撃されたのだと、すぐに分かった。
灰膜の向こうにいる化け物じゃない。人間同士の撃ち合いだ。
撃ち合いの最中には近づかない。流れ弾が飛んでくる。誰がどちらを撃っているのか分からないうちは、近づいたやつから死ぬ。
でも、終わったあとには残るものがある。
散った荷物。置き去りの道具。壊れたケース。運がよければ、武器。
日が傾き始めたころ、銃声が途切れた。短いサイレンが二度だけ鳴る。この街の連中は、それで「ひとまず終わり」と判断する。
俺も、様子を見に行った。
細い路地と倉庫の隙間を抜けると、焦げた匂いが鼻に入った。広い道路に出た先が、さっきまで車列の通っていた場所だった。
UDFのマークが入った武装トラックが横倒しになっている。タイヤが一つ外れ、道路の端まで転がっていた。RF輸送用のトレーラーも側面に穴を開けられ、まだ煙を噴いている。
道路には箱、袋、金属ケースが散らばっていた。中身が飛び出しているものもある。
人も転がっていた。
呻いている者と、動かない者。
周りの大人たちは目を逸らしながら、まだ生きている者だけを引きずっていく。だが、手が足りていない。封鎖線を張る余裕もなかった。
俺は、その間を縫うように歩いた。
狙いは、落ちている袋と、ひっくり返った箱の中身。倒れた人間の装備も見る。怒鳴られたら、「何も取ってない」と言って走ればいい。
そうやって生きてきた。
うつ伏せの兵士のそばに、黒い金属が落ちていた。
見慣れた形だった。
拳銃。
息が一度、浅くなった。
周りを見回す。今この瞬間、ここをちゃんと見ている大人はいない。俺は近づいて、それを拾い上げた。
まだ少し温かい。
煤と擦り傷がついた金属が、手の中で重く沈む。握っただけで分かった。これはすぐ撃てる。安全が入っていない。
足元に弾倉も落ちていた。同じ型だ。
拾ってズボンのポケットに押し込む。
売れば金になる。食べ物にも替えられる。武器そのものを渡せば、どこかの仕事に入れてもらえるかもしれない。
そう思って、うつ伏せの兵士のポケットへ手を伸ばした。
その瞬間、手首をつかまれた。
肩が跳ねた。
兵士はまだ息をしていた。顔の半分が血で汚れ、片方の目だけがこちらを睨んでいる。
「てめえ……」
かすれた声だった。
兵士は俺の体を乱暴につかみ、引き寄せた。
「敵か。てめえらか」
言葉は途切れていた。痛みと混乱で、半分はうわごとのように聞こえた。それでも、握る力だけは異様に強かった。
肩口に拳が飛んだ。
視界が揺れる。
アスファルトに押しつけられた瞬間、古い記憶が戻ってきた。
父の腕の重さ。
床に叩きつけられたときの息苦しさ。
母の喉に食い込んだ指。
あの目。
息が詰まる。
兵士の手が首のあたりまでずり上がり、力を込めようとしていた。
「やめろ」
声にならなかった。
喉の奥がひりつく。視界の端が暗くなる。
手には拳銃が残っていた。
離していなかったことに、そのとき気づいた。
逃げ場はない。殴り返す力もない。押し返そうとしても、体が動かない。
だから、指が動いた。
撃った瞬間の音は覚えていない。
手のひらに残った熱だけが、やけに鮮明だった。
すぐそばで何かがはじけ、兵士の体から力が抜けた。首を押さえていた手が外れ、重みだけが横へ崩れる。
兵士の顔は、もう動かなかった。
自分の周りだけが切り取られたように感じた。
あたりでは、まだ叫び声がしている。負傷者を呼ぶ声も、車両の警告音も続いていた。けれど、耳が勝手にそれを遠ざけていた。
また撃った。
父のときと同じように、指だけが先に動いた。
握った手が震え始める。
離そうとしても、指が固まってうまく動かない。
横合いから、荒い足音が一気に近づいてきた。
泥で汚れた装甲ジャケット。重いブーツ。肩にはUDFの徽章がある。その下に、見慣れない小さな部隊章もついていた。
数人が散って動く。互いの間隔を崩さない。銃口の向け方も、声の出し方も、さっきまで道路にいた連中とは違っていた。
「武装したガキだ!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間、数丁の銃口が俺へ向いた。
「武器を捨てろ!」
体が固まった。
撃たれる、と思った。
「待て」
低い声が割り込んだ。
道路の先から、別の男が歩いてきた。
深い色のコートを着ている。胸にはUDFの徽章。内側の装備にも、同じ部隊章が見えた。肩幅が広く、歩き方に無駄がない。
目だけが、周囲をよく見ていた。
「大尉、こいつが発砲した可能性が高い。武装も――」
「見れば分かる」
大尉と呼ばれた男は、足元の兵士と、俺の手にある拳銃を一度ずつ見た。
顔色は変わらない。
銃口はまだ、こちらへ向けられていた。
「その武器を捨てろ」
命令なのか、確認なのか、考える余地はなかった。
逆らえば終わる。
俺は手の中を見下ろした。指を一本ずつ開くのに時間がかかった。拳銃を地面に置くと、近くの隊員が少しだけ銃口を下げた。
完全には下がらない。
それで十分だった。
「ここで死にたいか」
大尉の言葉は、そのままの意味に聞こえた。
責めているわけでも、助けようとしているわけでもない。
今ここで撃たれて終わるか。まだ先へ行くか。
選べと言われているのだと分かった。
「立て」
大尉は続けた。
「立てないなら、ここで終わる」
乱暴な理屈だった。
けれど、この街のやり方に近かった。パンを取り合うのも、倒れた人間の装備を探るのも、ここでは同じだった。動けるやつだけが次の場所へ行く。
俺は足元を見た。
血で濡れたアスファルト。さっきまで、パンの欠片を探して歩いていた地面。
ここで倒れて終わるか。
知らない場所へ連れて行かれるか。
俺は顔を上げた。
「行く」
声はかすれていた。
大尉は軽く顎を動かした。
「手を見せろ。動くな」
近くの隊員が拳銃を拾い上げ、俺の手の届かない位置へ遠ざける。別の隊員が俺の腕をつかんだ。乱暴だったが、殴るための手つきではなかった。
「余計な動きをしたら終わりだ」
大尉は低いまま言った。
「ついてこい。話はあとで聞く」
俺は足を動かした。
膝が震えている。それでも、止まらなかった。
車列の残骸の向こうに装甲車が見えた。特務部隊の隊列が、当たり前のようにそこにある。壊れた道路と死体の間で、そこだけが別の規則で動いているように見えた。
「名前は」
歩き出して少ししてから、大尉がふと尋ねた。
口を開こうとして、止まった。
名前が喉で引っかかった。
言えば、また失う気がした。父と母のいた部屋に戻される気がした。あの目で見られた子どもに戻る気がした。
沈黙が続いた。
大尉は、それ以上追及しなかった。
「いらないなら、無理に思い出すな」
男は前を見たまま言った。
「ここで必要なのは名前じゃない。番号で足りる」
番号。
その言葉だけが、耳に残った。
そうして俺は、UDF特務部隊の装甲車へ押し込まれた。
扉が閉まる。
外の叫び声が遠のき、焦げた匂いだけが最後まで鼻の奥に残っていた。