灰の傭兵と光の園 Ⅰ 〈RF各機、メカイラストあり〉   作:青羽 イオ

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第5話 灰の寝息

 食堂の扉を押すと、空気が違った。油の匂いではなく、薄い湯気と紙椀の湿りが室内にたまっている。床が柔らかく、靴音を吸う。

 

 増設された簡易テーブルに、紙椀を抱えた人々が座っていた。列は二本に分かれ、背中の小さい影が目立つ。泣き声はない。代わりに、呼吸の音と、椀を持つ紙の擦れがやけに大きかった。

 

 ヒロは立ち止まり、視線だけで空きを探した。ぶつからない動線、通れる隙間を、無意識に数えてしまう。

 

 足元に紙コップが転がっていた。反射で腰を落として拾い上げると、誰かの手が伸びかけて、引っ込んだ。

 

 顔を上げると、若い女がいた。小さな子どもを腕に抱え、力が入っている。視線がまっすぐ来て、すぐに柔らかくほどけた。礼だけを残すような、小さな会釈だった。

 

「ありがとうございます」

 

 紙コップを渡すと、受け取る指先が触れた。相手のかすかな反応で、自分の手がまだ冷えていると知る。外の温度が抜けていない。袖口の灰も、そのままだ。

 

 ヒロは言葉を探さなかった。親指を立てる。通じるかどうかはともかく、ここで長く立ち続けるのは違う気がした。

 

 女の目が一瞬だけ揺れ、すぐ子どもへ戻った。子どもの背中が小さく上下している。抱え直す腕の動きが慎重だった。

 

 ヒロは視線を外した。コップを渡しただけで、距離は変えない。食堂の端へ歩き出すと、背中に室内の音がまだ貼りついたままだった。

 

 紙コップを渡した手を下ろし、ヒロは食堂を見渡した。簡易テーブル、紙椀を抱えた小さな影、通路の向こうに積み上げられた毛布の山。

 別任務から戻ったら、艦が避難所になっていた。整備確認も報告書もこれからなのに、艦内だけが先に切り替わっている。

 

 天井のスピーカーが小さく鳴り、観測席の声が流れた。

 

〈観測〉『杭灯、照度プラス一』

 

 白帯沿いの明るさが変わる。グレイランスの低い唸りは変わらないが、遠くの白い道が少し見えやすくなった。

 

 ヒロは戦闘服の内側に下げた金属片に指を滑らせ、縁をなぞった。それから食堂を出た。

 

 *

 

 通路の突き当たりに、ジルが立っていた。端末を片手に、壁際へ寄せた肩が微動だにしない。顔は仕事の顔のままなのに、目だけが忙しく動いている。通信長であり主計長、ジル・ハートマン。

 

 足音で気づいたジルが顔を上げる。

 

「UDFから通達。避難ハブ第七は、今夜ぶんで満杯だ」

 

 端末が上がり、画面が全員に見える角度へ傾けられる。ヒロは文字列を追った。時間。到着予定。搬送手段。どれも薄い余白の上に乗っている。

 

「UDFの軍用トラックも、列車も到着は明朝。それまでの間はグレイランスで民間人を一時収容。子ども優先の専用区画も作れ、ってさ」

 

 空気が一拍だけ止まる。ヒロの耳に入ったのは言葉より、誰かが息を吸う音だった。

 

「はい出たよ、思いつきの丸投げ」

 

 ガンモが背もたれに体を預け、わざとらしく椅子をきしませた。

 

「こっちはさっきまで外で命張ってたってのに、今度は保育所ごっこか? 整備も当直も組み直しだろ。どこにそんな余裕が――」

「余裕がないから、うちに飛んでくるんだろ」

 

 ポチは腕を組んだまま、端末を睨む。

 

「で、そのぶんのお代は? 追加契約、ちゃんと取るんだろーな? スープもベッドもタダじゃない」

「だから腹が立ってる」ジルが肩をすくめる。「契約書のどこを見ても、今夜の避難民保護の料金なんて項目はない。こっちで計上はするが、実際に払わせるまでが仕事。その間、艦内の運用は丸ごと組み替えだ」

 

 ガンモが鼻で笑う。

 

「子ども専用の区画? なんでそんな面倒くせぇことするんだよ」

「子どもはもう、“資源”として数えられてる。だから最優先だ」

 

 冗談が切れて、ガンモは天井を見上げた。

 

「へっ。金と契約で守られる命ってのも、妙な話だな」

 

 ヒロは黙ったまま、全員の顔を順に見た。誰かの不満を拾う前に、決めなければならないことがある。椅子から立つ。

 

「だが、その命があるから“次”が続く」声は揺れなかった。「決まったことなら、やるしかない。白帯に子どもを置いたまま夜を越せない」

 

 端末の画面へ目を落とし、スケジュールを開く。線を引く場所は決まっている。

 

「専用区画は生活区と一緒に詰めろ。警備はVOLKで持ち回り。整備の予定を六時間ずらす」

「六時間?」ジルの声が一瞬だけ硬くなる。

「明日の出撃準備が間に合わなくなるぞ」

「間に合わせる。やるしかない」言い切ってから、もう一つだけ足す。「今夜、子どもを寝かせてからでも整備はできる。明日の戦闘は、そのときに考える」

 

 ジルはヒロの顔を見て、端末へ視線を戻した。

 

「了解。整備班に伝えておく」

 

 ヒロはガンモとポチへ目を向ける。

 

「お前らはローテの一枠だ。文句は、朝になって全員生きてたら言え」

「はいはい。生きてから文句、ね」

 

 ガンモが頭をかきながら苦笑する。ポチは肩をすくめ、口元を少しだけゆがめた。

 

「ま、せめて“保育料”は請求しといてくれよ。俺たちの弾と飯がかかってんだからな」

「わかってる」

 

 ジルが端末に指を滑らせ、作業フラグを立てる。

 

「今夜の分は全部、“UDF要請による契約外作業”にまとめる。スープ一杯の粉までな」

 

 ヒロはうなずき、扉のほうへ体を向けた。

 

「じゃあ決まりだ。ザクレロ兄弟は、まず整備と飯。そのあと避難区画の見回り。子どもの前では、いつもの三割増しで優しくしろよ」

「え、割増請求は?」

 

 ポチのぼやきに、ガンモの笑い声が重なる。

 

 ヒロは生活区の廊下を歩き、簡易ベッドが並ぶ区画の前で足を止めた。

 扉の隙間から、子どもたちの寝息が聞こえる。予定外だが、今夜はここを守る。

 

 戦闘服の内側を、掌で軽く押さえる。短く。

 

 ヒロは廊下の灯りを背に、静かに扉を閉めた。

 

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