灰の傭兵と光の園 〈RF各機、メカイラストあり〉 作:青羽 イオ
食堂の扉を押すと、最初に空気の重さが変わった。
格納区にあった油と焼けた金属の匂いではない。湯気と、紙椀の湿り気と、人の体温が室内に溜まっている。床には薄い養生材が敷かれ、靴音を吸っていた。いつもの食堂より、音が少ない。
増設された簡易テーブルに紙椀を抱えた人々が座っていた。大人の背中に混じって、小さい影が目立つ。泣き声は聞こえない。泣く力が残っていないのか、泣かずに済む場所だとまだ分かっていないのか、ヒロには判断がつかなかった。
足元で、紙コップが転がった。
反射的にかがみ、拾い上げた。顔を上げると、若い女が子どもを片腕で抱えたまま立っていた。もう片方の手には、空になりかけた紙椀を持っている。
視線がまっすぐヒロに来た。
その目は一瞬、彼の戦闘服と袖口の灰を見た。それから、すぐに柔らかくほどける。
「すみません。ありがとうございます」
女は小さく頭を下げた。
紙コップを渡すと、受け取る指先が触れた。女の手は湯気で少し湿っていた。自分の手がまだ冷えていることに、そこで気づく。
袖口には灰が残ったままだった。食堂へ入る前に払ったつもりだったが、取り切れていない。
「……落ちていた」
言わなくてもいいことを、短く付け足した。
女は少しだけ笑った。
「助かりました。この子、握っていないとすぐ落とすんです」
腕の中の子どもは、目だけを動かしてこちらを見ていた。泣きはしない。ただ、小さな指で女の服を掴んでいる。
ヒロは親指を立て、すぐにその場を離れた。うまく言葉を返せそうになかった。
女の目が子どもへ戻るのが、視界の端に見えた。
食堂の端へ歩きながら、簡易テーブルと毛布の山が目に入る。配食口の横には、追加の紙椀が箱ごと積まれていた。壁際には医療班の簡易キット。折り畳み式の寝袋。水のパック。どれも本来、ここに置くものではない。
別任務から戻るあいだに、艦内の段取りはもう避難民を受け入れる側へ切り替わっていた。
整備確認も報告書もこれからだ。機体の右脚も開けなければならない。明日の弾薬残量も、まだ誰も正確には出していない。
天井のスピーカーが小さく鳴った。
「白帯沿い、杭灯の照度を一段上げる。外縁、確認しやすくなる」
細長い観測窓の向こうで、遠くの白い道が少し明るくなった。グレイランスの低い唸りは変わらない。だが灰の中に伸びる白帯だけが、先ほどよりわずかにはっきり見える。
戦闘服の内側に下げた小さな金属片へ指を滑らせ、縁をなぞった。
冷たい。
その冷たさを確かめてから、食堂を出た。
*
通路の突き当たりに、ジルが立っていた。
端末を片手に、壁際へ寄せた肩はほとんど動かない。顔はいつもの仕事の顔だった。だが目だけが忙しく動いている。画面の文字を追い、廊下の人の流れを見て、また画面へ戻る。
通信長であり、主計長でもあるジル・ハートマンは、こういう顔をしている時が一番危ない。
足音に気づき、ジルが顔を上げた。
「UDFから通達。避難ハブ第七は、今夜ぶんで満杯だそうだ」
ガンモが後ろで、嫌そうに息を吐いた。
「その言い方、絶対ろくでもない続きがあるやつだろ」
「ある」
ジルは端末を上げ、画面が全員に見える角度へ傾けた。
時刻。到着予定。搬送手段。収容人数。どれも薄い余白の上に無理やり詰め込まれている。
「UDFの軍用トラックも、列車も、到着は明朝。それまでの間、グレイランスで民間人を一時収容。子ども優先の専用区画を設けろ、だとさ」
「はい出たよ。思いつきの丸投げ」
ガンモが背もたれのない簡易椅子に腰を落とし、わざとらしく脚を伸ばした。椅子が小さくきしむ。
「こっちはさっきまで外で命張ってたってのに、戻ったら今度は保育所ごっこか? 整備も当直も組み直しだろ。どこにそんな余裕が――」
「余裕がないから、こっちに飛んできたんだろ」
ポチが腕を組んだまま、端末を睨んでいた。
「で、そのぶんのお代は? 追加契約、ちゃんと取るんだろうな。スープもベッドも、空気清浄フィルターもタダじゃないぞ」
「だから腹が立ってる」
ジルは肩をすくめた。
「契約書のどこを見ても、今夜の避難民保護なんて項目はない。こっちで計上はする。請求書も作る。だが、実際に払わせるまでが仕事だ。その間、艦内運用は丸ごと組み替えになる」
「子ども専用区画ねえ」
ガンモが天井を見上げた。
「なんでまた、そこだけ急に丁寧なんだよ。大人と一緒に寝かせときゃいいだろ」
ジルの口元から、軽さが消えた。
「向こうの書類では、子どもはもう“資源”として数えられている。だから最優先だ」
冗談がそこで切れた。
ガンモは天井を見たまま、しばらく黙っていた。やがて、鼻で小さく笑う。
「へっ。金と契約と資源で守られる命ってのも、妙な話だな」
「妙でも、守られないよりはましだ」
ポチが低く言った。
その声には、いつもの軽さが少しだけ足りなかった。
ヒロは黙ったまま、全員の顔を順に見た。ガンモ。ポチ。ジル。廊下の向こうで足を止めている整備兵。誰も答えを待っているわけではない。だが、誰かが決めなければ、それぞれが勝手に動き始める。
「決まったことなら、やるしかない。白帯に子どもを置いたままで夜は越せないだろ」
ガンモが顔をこちらへ戻す。
「隊長、綺麗なこと言ってるようで、要するに俺たちが寝る時間を削るって話だぞ」
「そうだ」
「否定しろよ、少しは」
「否定しても時間は増えないぞ」
ポチが小さく笑った。
「あー、隊長が正論モードに入った。これ、もう無理なやつだ」
「専用区画は生活区の空きと食堂側の予備スペースをつなげる。毛布と簡易ベッドは子どもを優先。大人は交代で床を使ってもらう」
ジルがすぐに入力する。
「医療班は?」
「最初の二時間だけ常駐。その後は呼び出し。警備はVOLKで持ち回り。整備予定は六時間ずらす」
ジルの指が止まった。
「六時間?」
声が一瞬だけ硬くなる。
「明日の出撃準備が間に合わなくなるぞ」
「間に合わせる」
「それ、命令として聞けばいいのか、願望として聞けばいいのか」
「両方だ」
ヒロは言い切ってから、少しだけ間を置いた。
「今夜、子どもを寝かせてからでも整備はできる。機体は文句を言わない。人間は、寝かせられるうちに寝かせたほうがいい」
ジルはヒロの顔を見た。
数秒だけ、何も言わなかった。
それから端末へ視線を戻す。
「了解。整備班に伝える。……文句は出るぞ」
「出していい。作業が止まらない範囲ならな」
「範囲の指定が雑だ」
「おまえなら分かる」
「そういう丸投げも、あまり感心しない」
それでもジルの指は動き始めていた。
ヒロはガンモとポチへ目を向ける。
「お前たちはローテの一枠に入る。まず整備と飯。そのあと避難区画の見回りだ。文句は、朝になって全員生きていたら言え」
「はいはい。生きてから文句、ね」
ガンモが頭をかきながら苦笑した。
「その言い方、地味にひどくないか」
「事実だ」
「事実って便利だよな。人のやる気を削るのに向いてる」
ポチは肩をすくめ、口元を少しだけゆがめた。
「ま、せめて保育料は請求しといてくれよ。俺たちの弾と飯と、あと精神的被害もかかってるんだからな」
「精神的被害は通らない」
ジルが即答した。
「じゃあ、夜間特別警備費」
「それは通す」
「お、言ってみるもんだな」
ジルは端末に指を滑らせ、作業フラグを立てていく。
「今夜の分は全部、“UDF要請による契約外作業”にまとめる。スープ一杯の粉まで計上する」
「紙コップもな」
ガンモが言った。
ジルは画面から目を離さずに頷く。
「紙コップもだ」
ヒロは短く頷き、扉の方へ体を向けた。
「じゃあ決まりだ。ガンモ、ポチ。まず整備と飯。そのあと避難区画の見回り。子どもの前では、いつもの三割増しで優しくしろ」
「三割で足りるか?」
ポチが横目でガンモを見る。
「俺を見るな。俺は普段から優しい」
「その自己申告がもう怖いんだよ」
「おい、隊長。割増請求は?」
ポチのぼやきに、ガンモの笑い声が重なった。
ヒロは答えず、生活区へ続く廊下を歩いた。
廊下の空気は食堂より冷えていた。壁際には、急いで運ばれた毛布の束が積まれている。誰かが貼った紙には、手書きで「子ども優先」とだけ書かれていた。文字が少し曲がっている。急いで書いたのだろう。
簡易ベッドが並ぶ区画の前で、ヒロは足を止めた。
扉の隙間から、子どもたちの寝息が聞こえる。まだ深い眠りではない。ときどき小さく身じろぎする音があり、誰かが毛布を掴み直す気配がする。
予定外だった。
契約外で、準備不足で、明日の整備を圧迫する。正しい手順だけを見れば、どこにも余裕はない。
それでも、今夜はここを守る。
ヒロは戦闘服の内側を、掌で軽く押さえた。そこにある小さな金属片の形を、布越しに確かめる。
短く、一度だけ。
それから廊下の灯りを背に、静かに扉を閉めた。