灰の傭兵と光の園 〈RF各機、メカイラストあり〉   作:青羽 イオ

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第5話 灰の寝息

 食堂の扉を押すと、最初に空気の重さが変わった。

 

 格納区にあった油と焼けた金属の匂いではない。湯気と、紙椀の湿り気と、人の体温が室内に溜まっている。床には薄い養生材が敷かれ、靴音を吸っていた。いつもの食堂より、音が少ない。

 

 増設された簡易テーブルに紙椀を抱えた人々が座っていた。大人の背中に混じって、小さい影が目立つ。泣き声は聞こえない。泣く力が残っていないのか、泣かずに済む場所だとまだ分かっていないのか、ヒロには判断がつかなかった。

 

 足元で、紙コップが転がった。

 

 反射的にかがみ、拾い上げた。顔を上げると、若い女が子どもを片腕で抱えたまま立っていた。もう片方の手には、空になりかけた紙椀を持っている。

 

 視線がまっすぐヒロに来た。

 

 その目は一瞬、彼の戦闘服と袖口の灰を見た。それから、すぐに柔らかくほどける。

 

「すみません。ありがとうございます」

 

 女は小さく頭を下げた。

 

 紙コップを渡すと、受け取る指先が触れた。女の手は湯気で少し湿っていた。自分の手がまだ冷えていることに、そこで気づく。

 

 袖口には灰が残ったままだった。食堂へ入る前に払ったつもりだったが、取り切れていない。

 

「……落ちていた」

 

 言わなくてもいいことを、短く付け足した。

 

 女は少しだけ笑った。

 

「助かりました。この子、握っていないとすぐ落とすんです」

 

 腕の中の子どもは、目だけを動かしてこちらを見ていた。泣きはしない。ただ、小さな指で女の服を掴んでいる。

 

 ヒロは親指を立て、すぐにその場を離れた。うまく言葉を返せそうになかった。

 

 女の目が子どもへ戻るのが、視界の端に見えた。

 

 食堂の端へ歩きながら、簡易テーブルと毛布の山が目に入る。配食口の横には、追加の紙椀が箱ごと積まれていた。壁際には医療班の簡易キット。折り畳み式の寝袋。水のパック。どれも本来、ここに置くものではない。

 

 別任務から戻るあいだに、艦内の段取りはもう避難民を受け入れる側へ切り替わっていた。

 

 整備確認も報告書もこれからだ。機体の右脚も開けなければならない。明日の弾薬残量も、まだ誰も正確には出していない。

 

 天井のスピーカーが小さく鳴った。

 

「白帯沿い、杭灯の照度を一段上げる。外縁、確認しやすくなる」

 

 細長い観測窓の向こうで、遠くの白い道が少し明るくなった。グレイランスの低い唸りは変わらない。だが灰の中に伸びる白帯だけが、先ほどよりわずかにはっきり見える。

 

 戦闘服の内側に下げた小さな金属片へ指を滑らせ、縁をなぞった。

 

 冷たい。

 

 その冷たさを確かめてから、食堂を出た。

 

 *

 

 通路の突き当たりに、ジルが立っていた。

 

 端末を片手に、壁際へ寄せた肩はほとんど動かない。顔はいつもの仕事の顔だった。だが目だけが忙しく動いている。画面の文字を追い、廊下の人の流れを見て、また画面へ戻る。

 

 通信長であり、主計長でもあるジル・ハートマンは、こういう顔をしている時が一番危ない。

 

 足音に気づき、ジルが顔を上げた。

 

「UDFから通達。避難ハブ第七は、今夜ぶんで満杯だそうだ」

 

 ガンモが後ろで、嫌そうに息を吐いた。

 

「その言い方、絶対ろくでもない続きがあるやつだろ」

 

「ある」

 

 ジルは端末を上げ、画面が全員に見える角度へ傾けた。

 

 時刻。到着予定。搬送手段。収容人数。どれも薄い余白の上に無理やり詰め込まれている。

 

「UDFの軍用トラックも、列車も、到着は明朝。それまでの間、グレイランスで民間人を一時収容。子ども優先の専用区画を設けろ、だとさ」

 

「はい出たよ。思いつきの丸投げ」

 

 ガンモが背もたれのない簡易椅子に腰を落とし、わざとらしく脚を伸ばした。椅子が小さくきしむ。

 

「こっちはさっきまで外で命張ってたってのに、戻ったら今度は保育所ごっこか? 整備も当直も組み直しだろ。どこにそんな余裕が――」

 

「余裕がないから、こっちに飛んできたんだろ」

 

 ポチが腕を組んだまま、端末を睨んでいた。

 

「で、そのぶんのお代は? 追加契約、ちゃんと取るんだろうな。スープもベッドも、空気清浄フィルターもタダじゃないぞ」

 

「だから腹が立ってる」

 

 ジルは肩をすくめた。

 

「契約書のどこを見ても、今夜の避難民保護なんて項目はない。こっちで計上はする。請求書も作る。だが、実際に払わせるまでが仕事だ。その間、艦内運用は丸ごと組み替えになる」

 

「子ども専用区画ねえ」

 

 ガンモが天井を見上げた。

 

「なんでまた、そこだけ急に丁寧なんだよ。大人と一緒に寝かせときゃいいだろ」

 

 ジルの口元から、軽さが消えた。

 

「向こうの書類では、子どもはもう“資源”として数えられている。だから最優先だ」

 

 冗談がそこで切れた。

 

 ガンモは天井を見たまま、しばらく黙っていた。やがて、鼻で小さく笑う。

 

「へっ。金と契約と資源で守られる命ってのも、妙な話だな」

 

「妙でも、守られないよりはましだ」

 

 ポチが低く言った。

 

 その声には、いつもの軽さが少しだけ足りなかった。

 

 ヒロは黙ったまま、全員の顔を順に見た。ガンモ。ポチ。ジル。廊下の向こうで足を止めている整備兵。誰も答えを待っているわけではない。だが、誰かが決めなければ、それぞれが勝手に動き始める。

 

「決まったことなら、やるしかない。白帯に子どもを置いたままで夜は越せないだろ」

 

 ガンモが顔をこちらへ戻す。

 

「隊長、綺麗なこと言ってるようで、要するに俺たちが寝る時間を削るって話だぞ」

 

「そうだ」

 

「否定しろよ、少しは」

 

「否定しても時間は増えないぞ」

 

 ポチが小さく笑った。

 

「あー、隊長が正論モードに入った。これ、もう無理なやつだ」

 

「専用区画は生活区の空きと食堂側の予備スペースをつなげる。毛布と簡易ベッドは子どもを優先。大人は交代で床を使ってもらう」

 

 ジルがすぐに入力する。

 

「医療班は?」

 

「最初の二時間だけ常駐。その後は呼び出し。警備はVOLKで持ち回り。整備予定は六時間ずらす」

 

 ジルの指が止まった。

 

「六時間?」

 

 声が一瞬だけ硬くなる。

 

「明日の出撃準備が間に合わなくなるぞ」

 

「間に合わせる」

 

「それ、命令として聞けばいいのか、願望として聞けばいいのか」

 

「両方だ」

 

 ヒロは言い切ってから、少しだけ間を置いた。

 

「今夜、子どもを寝かせてからでも整備はできる。機体は文句を言わない。人間は、寝かせられるうちに寝かせたほうがいい」

 

 ジルはヒロの顔を見た。

 

 数秒だけ、何も言わなかった。

 

 それから端末へ視線を戻す。

 

「了解。整備班に伝える。……文句は出るぞ」

 

「出していい。作業が止まらない範囲ならな」

 

「範囲の指定が雑だ」

 

「おまえなら分かる」

 

「そういう丸投げも、あまり感心しない」

 

 それでもジルの指は動き始めていた。

 

 ヒロはガンモとポチへ目を向ける。

 

「お前たちはローテの一枠に入る。まず整備と飯。そのあと避難区画の見回りだ。文句は、朝になって全員生きていたら言え」

 

「はいはい。生きてから文句、ね」

 

 ガンモが頭をかきながら苦笑した。

 

「その言い方、地味にひどくないか」

 

「事実だ」

 

「事実って便利だよな。人のやる気を削るのに向いてる」

 

 ポチは肩をすくめ、口元を少しだけゆがめた。

 

「ま、せめて保育料は請求しといてくれよ。俺たちの弾と飯と、あと精神的被害もかかってるんだからな」

 

「精神的被害は通らない」

 

 ジルが即答した。

 

「じゃあ、夜間特別警備費」

 

「それは通す」

 

「お、言ってみるもんだな」

 

 ジルは端末に指を滑らせ、作業フラグを立てていく。

 

「今夜の分は全部、“UDF要請による契約外作業”にまとめる。スープ一杯の粉まで計上する」

 

「紙コップもな」

 

 ガンモが言った。

 

 ジルは画面から目を離さずに頷く。

 

「紙コップもだ」

 

 ヒロは短く頷き、扉の方へ体を向けた。

 

「じゃあ決まりだ。ガンモ、ポチ。まず整備と飯。そのあと避難区画の見回り。子どもの前では、いつもの三割増しで優しくしろ」

 

「三割で足りるか?」

 

 ポチが横目でガンモを見る。

 

「俺を見るな。俺は普段から優しい」

 

「その自己申告がもう怖いんだよ」

 

「おい、隊長。割増請求は?」

 

 ポチのぼやきに、ガンモの笑い声が重なった。

 

 ヒロは答えず、生活区へ続く廊下を歩いた。

 

 廊下の空気は食堂より冷えていた。壁際には、急いで運ばれた毛布の束が積まれている。誰かが貼った紙には、手書きで「子ども優先」とだけ書かれていた。文字が少し曲がっている。急いで書いたのだろう。

 

 簡易ベッドが並ぶ区画の前で、ヒロは足を止めた。

 

 扉の隙間から、子どもたちの寝息が聞こえる。まだ深い眠りではない。ときどき小さく身じろぎする音があり、誰かが毛布を掴み直す気配がする。

 

 予定外だった。

 

 契約外で、準備不足で、明日の整備を圧迫する。正しい手順だけを見れば、どこにも余裕はない。

 

 それでも、今夜はここを守る。

 

 ヒロは戦闘服の内側を、掌で軽く押さえた。そこにある小さな金属片の形を、布越しに確かめる。

 

 短く、一度だけ。

 

 それから廊下の灯りを背に、静かに扉を閉めた。

 

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