軽口ばかりの魔術師が、私を救う白銀の守護獣だったなんて〜婚約破棄された聖女は、死に戻りの果て、人外の彼に溺愛される〜 作:鈍色シロップ
「まったく……聖女とラグレイン家を排除するのに使えるかと思って、あなたを利用してみたけれど……まさかここまで愚鈍だとは」
「メルディア、なにを……」
「まだわかりませんの? ……あなたはもう、用済みですわ。王太子になにかあった時の、代わりでしかないあなたに期待したのが……そもそも間違いでしたわね」
「ッ……」
セオドリクの顔があからさまに歪む。
「……君だけが、私を見てくれていたと……わかってくれていたと……」
ぶつぶつとうわごとのように呟く彼に目もくれず、メルディアは背後のフェルに声をかける。
「ほら、ラグレイン家の魔術師さん。私はもう、殿下の新しい婚約者でもなんでもありませんので……そろそろ自由にしてくださらない?」
フェルは微笑んだまま、彼女の肩を押さえる力を緩めなかった。
「王子様のこと、もう見限るんだ。彼は君のために、危ない橋を渡ろうとしていたのに」
「私のため、ねぇ……聞こえはいいですけれど、私にすべて押しつけていると、あの人は本気でわかっていないのかしら」
(……そそのかしたのは、あなたでしょうに)
勝手なことを言うメルディアに、さすがに気分が悪くなる。
もちろんセオドリクのことは許せない。
聖女である私とラグレイン家を、偽りの罪で切り捨てようとした彼は、公の場で裁かれるべきだ。
それでも、いま止めなければならないのは、災いの一部であるメルディアのほうだ。
私とフェルが一緒に生き残るためなのはもちろん、これ以上、この国の人々に危害が及ぶ前に。
(封印の力は……どれくらいメルディアに注ぎ込めたのかしら)
フェルが何食わぬ顔でメルディアを引き留めてくれているけれど、それもいつまでもつか。
彼女は筋書きが崩れると、この場ごとすべて壊そうとしてくる。
そうなれば、これまでと同じように災いの病を撒き散らされる。
私は息を詰め、メルディアから目を離さないようにした。
「とにかく……こうなってしまっては、もうなにもできませんわ。私はただ、神託を伝えるだけの存在ですもの。大人しくこの場を去りますから、それでよいでしょう?」
「さすがにそれは……残された王子様が可哀想だよ。このあと、彼がどうなるかくらい、君にもわかるだろう? 最後にもう少し、なにか言葉をかけてあげてもいいんじゃないかな」
「……あなたさっきから、私を離そうとする気がないのかしら。まるで、なにか――別の意図でもあるような」
メルディアの目がすぅっと細まる。
振り返ろうとするように、首だけがゆっくりと動いた。
けれど、その首は……人の身体なら止まるはずの角度を越えて回った。
身体は前を向いたまま、顔だけが真正面からフェルを捉える。
周囲から、息を呑む音が次々と聞こえてくる。
「その金の瞳――忌々しい輝き。魔術師なんかじゃない……私、あなたを知っているような気がする」
(まずい……!)
そう思った時には、メルディアのまわりに黒いもやがにじんで見えた。
「フェル!」
叫ぶなり、ふたりのもとへ駆け出した。
私では、自分のなかの封印の力を自由に使えない。
そんなことも忘れて、ただ無心に足を動かした。
「やめなさい!」
メルディアの両手首を掴む。
彼女の身体がぶるりと震えた。
「……私に触れるな、聖女……ッ!」
耳の奥に突き刺さるようなおぞましい声。
地の底から響くような低さに、ガラスや金属を擦ったような甲高い音が混ざっている。
得体の知れない恐怖を感じながら、私もなんとか声を絞り出す。
「あっ……あなたの正体は、もうわかっているのよ。これ以上、好きにさせない……っ!」
私の指が、メルディアの細い手首にぎりと食い込んでいく。
いつ反撃されるかと思うと、息をするのも怖かった。
「ふん……不快ではありますけれど、あなたに初代ほどの封印の力はないのでしょう? 私の正体など、いまさら些細なことですわ。せっかくいい駒たちが手に入りそうだったのに、残念ですけれど……こうなっては仕方ありませんわよね?」
(やっぱり……この作戦でも、ダメなのかしら……)
災いの病を撒き散らされる……そう覚悟を決めたところで。
「――それはどうかな? エステアのなかの封印の力が、どれほどのものか……君はまだ、わかっていない」
「……なに?」
フェルの言葉に、メルディアが反応する。
少しでも時間を稼ごうと、私の封印の力を持ち出して、はったりをかけることにしたのだろう。
「確かに、大いなる災いそのものを封じるほどの力はない。けれど、その一部でしかない君なら……封じられる。そうだろう? エステア」
「えっ……ええ。もしあなたが、いまここで災いの病を振り撒くなら……その瞬間に、封印するわ。――メルディア」
本当にこれで通用するのか、不安に思いながらもフェルに合わせる。
私から見えるのは、不自然に振り返ったメルディアの後頭部だけ。
彼女がどんな反応をしているのか、さっぱりわからなかった。
「……」
メルディアはしばらく、黙り込んだ。
なにかを考えているのだろうか。
広間の誰もが、彼女の次の言葉を待っていた。
「……ふふっ」
鈴を鳴らすような声が、小さく響いた。
身体の芯から揺らされたような、不気味な感覚がした。
「封印を保つのがせいぜいだと思っておりましたけれど、どうやら……見当違いだったようですわね。それに、先代があまりにも早くいなくなってくれたものですから……ラグレイン家の聖女も、ずいぶん弱まったものとばかり」
「……えっ?」
先代とは、私の母のことだろう。
けれど、なぜメルディアがいまここで母のことを口にしたのか……理解が追いつかなかった。
「せ……先代が、なんの関係があるというの……?」
「あら、気づいていらっしゃらなかったの。……惜しかったのよ? 先代があなたを残す前に消えてくれていれば、当代の聖女など生まれなかったのに。もしくは、あなたも母君と同じように病弱だったのなら……ね」
「……まさか」
凍りついたような声は、フェルのものだった。
金の瞳が、大きく見開かれている。
メルディアは続ける。
「そうそう、魔術師さんのことも思い出しましたの。あの女のそばにいた……守り手気取りの、野蛮な獣。あなたたちに本体を封じられたあと、こうして力を蓄えるのに何百年もかかってしまって。そのあいだも……代々の聖女を、恨み続けましたわ」
ぞくりと、背筋が粟立った。
その恨みは私にも、そして――母にも向けられていた。
嫌な予感がした。
「私の恨みも、長い年月をかけて少しずつ力を増した。脆く生まれた先代は、その影響だけで十分だったのでしょうね。あっけなく逝ってしまって……つくづく、お可哀想に!」
高らかに笑うメルディアの声に、私は……全身の力が抜けそうだった。
「嘘……嘘よ……そんなの……」
メルディアの両手首を掴んでいた指の力が緩む。
するりと抜けた彼女の手が、今度は私の両頬を強く押さえた。
「痛っ……!」
背後のフェルを向いていたはずのメルディアの頭が、首だけでぐるりとこちらに向けられる。
私に触れる不快さに顔を歪めつつも、無理やり作った笑顔を張りつかせていた。
「滑稽ねぇ、聖女様。生ぬるいことを言わずに、とっとと私を封じていれば……残酷な真実を知らずに済んだものを。私が憎い? 殺したい? けれど、私が聖女に抱いてきた恨みは――その程度のものではなくてよ」
「っ……!?」
ついにメルディアの身体から、黒いもやがぶわりと噴き出す。
「エステア!」
フェルが叫ぶ。
同時に、メルディアに触れさせていた初代の髪飾りを握り直し、細い軸の先端を背後から突き立てた。
黒いもやの勢いが、わずかに鈍る。
噴き出しかけていたものが、内側へ押し戻されていくようだった。
「メルディア……君に気づかれないよう、初代の封印の力を少しずつ注ぎ込み続けた。このまま――僕が君を殺す」
「ふぅん……そういうこと。わざわざ初代の力を持ち出してくるなんて、やっぱり当代の聖女様には……私を封印するほどの力なんてなかったのね」
メルディアから漏れ出した黒いもやが、少しずつ薄れていく。
このまま待っていれば、完全に消えてしまいそうだった。
「はぁ……こんな結末、信じたくありませんけれど。これも神の思し召し、ということにしておきましょうか」
ため息を吐いたメルディアは、私の頬からゆっくりと手を離す。
「――だったら、せめて最期に」
メルディアの身体が、ぐにゃりと歪む。
フェルが髪飾りをさらに押し込もうとするけれど、それより早く……彼女は人の形を保つことをやめた。
「当代の聖女、エステア。あなたを……先代と同じところへ、ご案内して差し上げますわ」
褪せた金の髪が、ずるりと剥がれ落ちる。
乳白色の衣の下で、人の肌が黒く溶けていく。
そのまま、メルディアは私を正面から抱きしめた。
「なっ……」
冷たい。
黒く濡れた泥に、絡みつかれているようだった。
身体をよじっても、抜け出せない。
「ば……化け物……」
誰かが、震える声でぽつりと漏らした。
その言葉を皮切りに、張り詰めていた空気が一気に弾ける。
悲鳴が上がる。椅子が倒れる音や、逃げ惑う足音が広間に響いた。
「やめろメルディア! エステアを離せ!」
声を荒げたフェルが、メルディアの身体に突き立てたままの髪飾りを深く押し込む。
けれど、私を捕らえている腕は離れない。
それどころか、崩れた肌からにじむ黒いものが、ぎゅっと全身を締めつけてきた。
「うっ……うぁ……」
喉がじわりと熱くなる。
息を吸うたび、胸が軋んだ。
身体の内側に、焼けるような痛みが広がっていく。
「くそっ……!」
私に絡みつく黒い腕を引き剥がそうと、フェルが手を伸ばす。
途端に、メルディアの身体から、もやが爆ぜるように噴き出した。
フェルの腕が弾かれる。
握っていた髪飾りごと、彼の身体が大きく後ろへ飛ばされた。
「フェル……!」
視界の端で、白銀のローブが床へ叩きつけられるのが見えた。
(そんな……やっぱり、今回もダメなのかしら……)
私が死ねば、また巻き戻る。
けれど……母の死の真実を知ったまま、もう一度同じ朝に戻されたとして。
また同じように立ち向かえるか――自信がなかった。
喉が痛い。咳が出そうだ。
災いの病で死ぬ直前には、いつもこうだった。
止まらない激しい咳の予兆が、病床に伏せていた母の姿と重なる。
(お母様……)
あの時の母も、同じように苦しんでいたのだろう。
想像して、涙がにじむ。
(ごめんなさい、フェル……私、もう――)
――その時、ふっと身体が解放された。
膝から床に崩れ落ちる。
「ゲホッ……ゲホッ、ゲホッ……!」
首元を押さえながら、激しく咳き込んだ。
「メルディア……」
掠れた声が聞こえて、目の前を見上げる。
メルディアだった黒い身体の後ろに、セオドリクが縋りついていた。
抱きしめている――というよりも、逃がすまいとしがみついているようだった。
「私にはもう、君しかいないんだ……君の正体がなんであろうと、君が私をどう思っていようと……もう関係ない」
「――ァ」
拒絶するように、その身体から黒いもやがあふれ、セオドリクの腕に絡みついた。
「ぐっ……!」
災いの病が、セオドリクを蝕んでいるのだろう。
それでも、彼はメルディアを離さなかった。
「エステア!」
名を呼ばれたかと思うと、身体を後ろにぐいと引き寄せられた。
気づけば、フェルが私のそばに来ていた。
セオドリクたちから遠ざけながら、私をかばうように前に立つ。
その瞬間――セオドリクの片腕が、不自然にぐいと引っ張られた。
メルディアに縋りついていた身体が、黒い塊へさらに押しつけられる。
一拍遅れて、気づく。
(まじないの組紐越しに、力がかかっているんだわ……!)
私を背に庇ったまま、フェルが意識を向けたのだろう。
結果として、セオドリクの身体がメルディアの動きを押さえ込む形になった。
「エステア」
振り返ることなく、フェルが私の名を呼ぶ。
「もう一度、髪飾りを使う。君はここで、待っていて」
そう言って、彼は私から離れようとする。
「待って!」
とっさに、その袖を掴んだ。
「私も行く……封印の力が自由に使えなくても、フェルだけに背負わせたくないの」
(動揺している場合じゃない……私だって、母の仇を取るんだ……!)
フェルは一瞬だけ黙ったあと、短く頷いた。
「……わかった。行こう、エステア」
私たちは、メルディアだったものへ近づいた。
初代の髪飾りを握り直したフェルが、一歩踏み込む。
黒いもやが手に絡みついてきても、彼は退かなかった。
セオドリクの腕の隙間を縫うように、髪飾りの細い軸を――再び、黒い身体の奥へずぶりと突き立てた。
「フェル!」
私は、髪飾りを握る彼の手に、自分の両手を重ねた。
(お母様を苦しめたことも、ラグレイン家を貶めようとしたことも……絶対に許せない)
けれど、怒りだけで手を伸ばしたわけではなかった。
私は、この終わらない日を抜け出して……フェルと一緒に、その先へ進みたい。
手に力がこもる。
それに呼応するように……胸の奥で、なにかが強く脈打った。
(これは……)
自然と理解した。
きっと、私のなかで目覚めていた封印の力が――ついに応えてくれたのだ。
「メルディア……あなたを封じるっ……!」
広がった光が、メルディアの全身を包み込む。
黒い身体がびくりと震え、逃げようとするように大きく蠢いた。
フェルは髪飾りを握る手を緩めない。
私も、その手に重ねた両手へさらに力を込めた。
初代の髪飾りが、私たちの手のなかで小さく軋む。
――ぱきんと、澄んだ音がした。
髪飾りが砕ける感触が、確かに伝わってくる。
メルディアを包んでいた白い光が、その黒い身体ごと一気に縮んだ。
セオドリクの腕が、支えるものを失って空を抱く。
同時に、私たちの手元からも抵抗が消えた。
「……っ」
込めていた力のまま、身体が前へ傾く。
けれど、その勢いは――厚くあたたかなものに、そっと押し留められた。
フェルの腕ではない。
見慣れたローブでもない。
頬のすぐそばで、白銀の毛並みが揺れている。
「……フェル?」
息を呑んで、顔を上げる。
そこにいたのは――狼にも獅子にも見える、巨大な獣だった。
長い毛並みは白銀に輝き、光を受けて艶めいている。
しなやかな四肢も、広い背も、鋭い爪さえも、恐ろしいはずなのに……なぜか、ひどく美しいものに見えた。
ただそこにいるだけで、神殿の空気まで澄んでいくようだった。
(本当に……フェルなの……?)
それでも、その金の瞳は間違いようもなく、私の知るフェルのものだった。
彼の視線の先で、黒い塊はもう手のひらに収まりそうなほど小さくなっていた。
白銀の獣は、床の上のそれを迷わず一息に呑み込んだ。
これが――私が何度も迎えた死の先に、初めてたどり着いた結末だった。