天音かなたと雪花ラミィがねんねする話

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魂の聖痕

 頰に風、甘さが混じるピアニッシモの香りでラミィは目を覚ました。

 だるさが残る体を起こすと、タオルケットが素肌を滑り落ちる。『ああ、そっか』と逃げようとするそれを捕まえて、胸元に当てながら窓を見る。そこには銀の髪をした女が、夜の帷を背景にこちらに小さな背を向けて立っていた。開け放たれた窓から入る風は、夏の終わりにふさわしい冷たさを感じる。女が左手を動かす。指に挟まれた細く小さな白は風に煽られて、先端から赤い火種を覗かせていた。

 ラミィは一度目を閉じて、息を吸い直す。不意な光景につい見惚れてしまった。だが、それを悟られるのは本意ではない。

 

「かなたん」

 

 目を開いて名前を呼ぶ。女は肩から上だけでこちらを振り返った。

 

「ごめん、起こしちゃった?」

 

 最低限の下着とオーバーサイズのTシャツだけを纏った彼女――天音かなたは薄い月明かりの下、穏やかに微笑んだ。

 サイズが大きいのはそれの本来の持ち主が違うからだ。

 

「シャツ、借りちゃった」

「うん。いいよ」

 

 交わす言葉は少なく。行為の後、何を喋ればいいのか、ラミィの中で未だに正解は得られていない。

 ただ澱のように暗く苦しい、ドロドロとした後悔のような何かが胸中を埋め尽くす。

 

「またタバコ吸ってる」

「たまにだけだし、もう人前で歌うこともないから」

 

 ラミィは知っている。彼女が紫煙を吹くのは『行為』の後だけだということを。まるで、自分を罰するかのように、その煙で何かを隠すように燻らせるのだ。昔の同僚たちが見たら目を剥くだろう。

 

――へい民にはとても言えないな。

 

 なんて不謹慎なことが頭によぎった。

 

 

※※※

 

 

 スタジオからの帰り道、ラミィの頭にいつも同じことがよぎる。

 ラミィの知らぬ間に、天音かなたはアイドルを降りる決意をした。

 限界だった。底穴の空いたバケツに水を注ぎ続けるような無謀さを持って、かの天使は駆け抜け続けたのだ。

 無理を重ねた傷だらけの心と体。いつしか、ファンの声は遠い汽笛のように散り散りに乱れ、憧れた輝かしいステージは蜃気楼のように揺らいで見えた。

 それでも。と、努力を地層のように重ねて、才能を勾玉のように磨いた。

 その研鑽の果てに、『彼女の夢の舞台』がある。いや、あった。

 動かなくなりそうな小さな羽で、それでも羽ばたき続けなければならなかった彼女は、その羽が折れる瀬戸際、ついに一つの選択を迫られた。

 その結果は、全てを過去に追いやることだった。

 もし過去に戻れたとして、何を変え、如何に違えば、どう未来が変わったというのか。無限にも渡る自責と悔恨はしかし、ラミィにとって慰め以上の意味を決して持たなかった。

 絶望とは黒に散りばめられた星の光をさす。もはや届くことの叶わない輝きは、イカロスの翼を溶かす陽の光とも同義だ。

 ふとした夜、彼女の声が響かない世界に、訪れなかった空っぽの未来に、押し潰されそうになる。

 カバンの中のスマホがラミィを呼ぶように振動する。

 機器の向こうから、彼女の声。あれこれ聞いた後に一瞬の間、その後に続く言葉はいつも同じ。

 

――会いたい。

 

 帰路を急ぐ。もしかしたら、その後悔を持つのは彼女も同じなのかもしれない。

 

 

 

「ごめん、ラミィ」

 

 ドアを開けると、彼女が倒れこむように抱きつきながら、短く謝罪の言葉を吐く。これも、いつものこと。

 

「……いいよ。謝らないで」

 

 彼女の甘い香りに満たされながら、頭を優しく撫でる。囁きを耳元に落として、頭を前から後ろに撫で付け、そのまま首筋を柔くくすぐる。

 

「……ンぁ…」

 

 それだけで、絞り出すように響くミルクのような声。耳朶から直接脳髄を通り過ぎ、背筋が痺れた。

 

「ラミィも、今日は寂しかったから」

 

 それが何の欲によるものかなんて、本人にすらわからなかった。

 

 

 

 

 

 かなたから向かう時もあれば、ラミィから行く時もある。きっかけがなんだったかは、もう覚えていない。

 ベッドの上で向かい合って、身を乗り出す。受け入れるようにかなたは目を瞑った。

 お互いが持つ心の間隙を埋めるためだけの自傷行為。想いの代わりに肉欲を、悲鳴の代わりに嬌声を、行き場のない鬱屈した灰色をただぶつけ合うだけの行為に、名前なんて付けたくもない。

 唇が触れる。表面積からすれば、わずか数%程度しかないこの接触に、人はなぜこうも『欲』を煽られるのだろうか。かなたの唇はいつも柔らかい。派手なリップなどつけた試しはないのに手入れだけは怠っていない。それが誰のためなのか、聞くことができなかった。

 

「ンッ……」

 

 触れ合うものから啄むものへ。口元だけで、お互いの柔らかな赤を口に含んでは吸い付いていく。

 

「ンあ……っ…」

 

 好き、好きなのに、好きだから…。酸欠に霞む頭で、貪りに理由をつける。言い訳ばかり重ねても、最初の二文字は何も変わりはしないのに。

 かなたは口付けの最中は目を閉じている。対象的に、ラミィは観察をするように凝視した。整った顔、長いまつ毛、透き通る肌。その全てが彼女を彩る記号に過ぎない。彼女の最大の煌めきはその内側に宿る孤高だ。

 今、その孤高に分厚い影が刺さっている。誰にも抜けないその影を、なぞるように手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 行為の後、先に寝てしまうのはいつもかなただ。ラミィは全身を巡る甘い痺れを余韻に感じながら、一糸纏わぬ姿で童女のように隣で眠るかなたを見つめる。

 

「……み……んな……ごめん……ね…」

 

 うっすらと寝言が聞こえた。本当に謝りたい誰かのこと。眠る目尻に光るものが見えた。後悔なのか、懺悔なのか。その想いを彼女は決して口にしない。ラミィも彼女の本当の想いを聞いたことは一度もない。しかし、誰よりも隣で見てきたラミィは当然気付いている。天音かなたが抱いている本当の夢を。

 

 

――ずっと、隣にいてあげるから。

 

 

 自分で決めたはずの道なのに、本当に夢見ているのは違うもの。かの天使が持つ本来の輝きは、ステージ上でこそ映える。それを自分は一番よく知っている。

 知っている、はずなのに。

 自嘲で顔が歪みそうになる。

 その躊躇いにつけ込んで、何もできなかった自らの鬱憤を当の本人に晴らしてるのは誰だというのか。

 かなたもラミィも、互いに甘えている。抱えなくてもいいものを大事に持って、満たされないと泣いて騒いでいるだけだ。後に戻れないところまでやってきて、迷子になったと泣く子どもだ。

 その短い後ろ髪を引かれるぐらいなら、一切合切をかなぐり捨てて、取るべき未来があるだろうに。

 

 

――しかしそれでも、天音かなたは立ち上がる。

 

 

 ラミィが隣にいなくても、きっと。

 眠るかなたの頬を撫でる。みじろぎ一つ、ただ、人と同じ温みだけが指先に残った。

 

 




寂しいぜ、かなたん

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