翌朝、エレベーターを降り、静まり返った廊下を進む。
B1のトレーニング場は白い照明に満たされていた。
その奥、すでに壁際でストレッチを始めている有栖さんの姿があった。
いつもと変わらないはずの動きなのに、黒い髪が揺れるたび、その流れだけがやけにくっきりと目に残る。
「おはようございます」
声をかけると、彼女はわずかに視線を向けた。
「おはようございます。疲れは取れましたか?」
「はい、大丈夫だと思います」
そう答えながら、実際のところ体の調子は悪くないと感じていた。
昨日の疲れも抜けているらしく、重さはほとんど残っていない。
いつも通り、準備運動に移る。
「今日も基礎から始めましょう。まずはランニングからですね」
有栖さんの声に頷き、立ち上がる。
軽く足の感触を確かめてから、トレーニング場の楕円コースへと向かった。
走り出す。
最初は意識的にペースを整える。呼吸を一定に保ち、足運びを揃える。いつも通りの手順で、体を慣らしていく。
脚が軽い。
地面を蹴るたび、身体は自然に前へと運ばれる。無理に力を込めている感覚はない。ただ、動きに対して結果が素直についてくる。
腕の振りも滑らかで、呼吸は安定していた。
空気が皮膚を撫でていく感触が、心地いい。
ペースを上げたつもりはない。
それでも、周囲の流れが普段より速く感じられる。
一周を終えても、息は乱れない。
むしろ、まだ余裕があると自然に思えた。
このくらいなら問題ない。
そう判断して、同じ調子で走り続ける。
「凪さん……」
背後から有栖さんの声がかかる。
振り向くと、彼女はわずかに足を止め、こちらを見ていた。驚きはあるが、それ以上に様子を測るような視線だった。
「ペース、上がりすぎです。逸る気持ちは分かりますが、無理に走っても怪我をするだけです」
そう言われても、すぐには腑に落ちなかった。
確かに足はよく動いている。だが、苦しさはない。それどころか、まだ余裕すらある感覚だった。
「ごめん。でも……いつも通りに走っているつもりなんだ」
言葉にしながら、自分でも確かめるように呼吸を整える。
息は早い。肺は忙しく動き、心臓も強く打っている。
それでも、不思議ときつさはなかった。
まだ走れる。
ただ、それだけの感覚だった。
有栖さんは、しばらくこちらを見ていた。
その視線は静かで、何かを確かめるようだった。
やがて、小さく息をつく。
「わかりました」
「無理をしているようには見えないので……一度そのままで試してみましょう。ですが、何か変化を感じたら必ず止まってくださいね」
頷き、再び走り出す。
コースを周回するごとに、脚の運びがさらに軽くなっていく。
息が早くなる。血管が脈打ち、汗が額を伝う。
それでも、きつさはなかった。むしろ身体はよく動き、どこまでも続けられそうな感覚がある。
このまま、もう少し走ってみようと思った。
無理をしている感じもない。
そう判断して、そのまま足を動かし続けた。
最終周を終え、有栖さんの傍で足を止める。
息は肩で上下するほど荒く、心臓も速く打っている。
それでも、まだ余裕はあった。
「……タイム、計っていました」
有栖さんがストップウォッチに目を落としたまま言う。
その声には、わずかな戸惑いが混じっていた。
「今までのベストは1kmで4分32秒でした。今のタイムは……2分56秒です」
「え?」
思わず声が漏れる。
これまで積み上げてきたタイムが、一気に縮まっていた。
感覚としては、そこまで無理をした覚えはない。
息は上がっているが、限界というほどでもなかった。
「気のせいかもしれませんが……何か能力が発現した感覚はありますか?」
有栖さんは、落ち着いた声でそう問いかけた。
「……そんな感覚はないかな」
俺は首を振った。
意図的に何かをした覚えはない。
道具を通してしか力を使えないし、感覚としても何かが働いた実感はなかった。
理由は分からない。
ただ、さっきまでの感覚だけが、わずかに残っている。
息は落ち着きつつあるのに、身体はまだ軽いままだった。
換気扇の低い唸りと、遠くの作業音だけが、かすかに響いている。
「――他のトレーニングでも試してみましょう。筋力系でも数値が変わるかを確認すれば、原因の糸口が見えるかもしれません」
有栖さんに続き、器具の並ぶエリアへ向かった。
最初はベンチプレス。
バーに80kgをセットし、息を整えてから肩で受け止める。
重さは、いつも通りに感じる。
だが――押し返す動きがやけに滑らかだった。
一度、二度と挙げるうちに気づく。
身体の軸がぶれない。余計な力が逃げていかない。
引っかかる感覚のないまま、すっと持ち上がる。
次は懸垂。
バーを握り、身体を引き上げる。
回数を重ねても、腕だけが先に限界に近づく感覚がない。
背中全体で支えているような、均等な動きが続く。
気づけば、これまで止まっていた回数を越えていた。
腹筋はマットの上でクランチを行う。
一回ごとの動きがぶれず、同じリズムのまま続いていく。
無理に数をこなしている感覚はないのに、気づけば回数が伸びていた。
他にも色々とトレーニングを試していく。
その結果を有栖さんはデータシートに記録しながら、何度かペンを止めた。
「異常です」
最後のセットを終えたところで、有栖さんがそう言った。
「通常、肉体の変化には相応の時間がかかります。一晩でここまで数値が変わるのは……」
そこで言葉が途切れる。
わずかな間を挟み、結局その先は語られなかった。
「……いったん、道具を使った力のトレーニングは控えましょう」
視線を落とし、静かに続ける。
「原因がはっきりしないまま力を使うのは、リスクが高すぎます。当分は体の基礎固めとしましょう」
迷いのない判断だった。
俺は小さく頷く。
はっきりしたものじゃない。
ただ、今までより身体が動く――それだけは確かだった。
それだけで、ほんの少しだけ気が楽になる。
これなら、前よりは――と思いかけて、そこで止める。
理由は分からない。
思っていた以上に動けているのも事実だ。
けれど、だからこそ無理はしない方がいい。
有栖さんの判断は、素直に受け入れられた。
「……咲良さんに、一度伝えておいた方がいいかな?」
そう言うと、有栖さんはわずかに視線を落として考える。
「そうですね。この変化が一時的なものかどうかも含めて、共有しておく価値はあります」
短く頷き合い、端末を取り出す。
簡単に現状をまとめ、連絡を入れようとしたところで、通知が目に入った。
不在。
数日間、外部調査で研究所を空けるとのことだった。帰還予定は未定。
画面を見つめたまま、指が止まる。
通常なら、戻るのを待てばいいだけの話だ。
けれど今回は、そう割り切れない。
胸の奥に、わずかに引っかかるものが残る。
「メニューの組み直しも必要ですから、環さんが戻るまでは無理のない範囲で訓練を続けましょう」
有栖さんの提案に、俺は頷く。
今は様子を見るしかなかった。
一度、気持ちを切り替える。
トレーニングを終わらせた後、有栖さんに社宅の場所を案内してもらうことになった。
場所は神社の裏手、静かな住宅街の一角にある。
築十年ほどの鉄筋マンションで、外観は落ち着いた印象だった。
「研究所の職員たちも利用している物件です」
簡潔な説明を受けながら中へ入る。
部屋はワンルーム。白を基調とした内装は無機質だが、きちんと整えられている。
バルコニーに出ると、境内の杉木立が目に入った。
「環境としては悪くないと思います」
有栖さんの言葉に、俺は小さく頷く。
荷物の少ない身には、十分すぎる広さだった。
朝は基礎トレーニングをこなし、
午後は湊くんの顔を見にひだまり庵へ向かい、
夜は引越しの準備に手を取られる。
そんな日々が続くうちに、暦は二月から三月へと移り変わっていった。
街路樹の芽吹きが目に付き、風もどこか柔らかい。
桜はまだ固い蕾のままだが、桃の枝先には淡い紅が差し始めている。
土の匂いに、日差しの温もりが混ざる。
冬の名残を残したまま、季節は静かに次へ移ろうとしていた。
そんな頃だった。
この日も俺は、ひだまり庵の庭で子どもたちと遊んでいた。
年少組の鬼ごっこに付き合っていると、いつの間にか役割が決まる。
「凪お兄ちゃんが鬼ね!」
拒否権はないらしい。
軽く頷き、芝生を駆け出す。
子どもたちの笑い声が風に乗って弾む。
ふと、視線がそこに向いた。
庭の奥、裏林へと続く細い影。
その先に、古びた平屋がひっそりと建っている。
これまで気に留めたことはなかったはずなのに、なぜかその一角だけ前から知っている場所のように目に馴染んだ。
剥げかけた屋根瓦。苔むした煉瓦塀。
陽を弾かず、ただそこに沈んでいるような佇まい。
――気づけば、足がそちらへ向いていた。
背後で弾んでいたはずの歓声が、ゆっくりと遠のいていく。
代わりに、葉擦れと小さな羽音だけが耳に残る。
外の空気は確かに春に近づいていたはずなのに、林の中はわずかに冷えていた。
頬を撫でる風だけが、どこか別の場所のもののように感じる。
不思議と、不安はなかった。
ただ、足だけが自然に前へ出る。
意志とは別に、進むべき先を知っているかのように。
やがて、木立の向こうに古ぼけた建物が現れた。
外壁には蔦が絡みついているが、荒れている印象はない。
壁に沿うように静かに広がり、長い時間をかけてそこに落ち着いた形をしている。
窓は淡く曇り、外の光をやわらかく受け止めている。
内側の様子はうかがえないが、崩れた様子もなく、ただ静かに閉ざされていた。
周囲の木々はわずかに揺れているのに、その前に立つと風の流れが途切れたように感じる。
音も遠く、ここだけが切り離されているような静けさがあった。
玄関先へ足を踏み入れた瞬間、わずかに温度が落ちる。
乾いた冷たさが、肌の表面だけを撫でていく。
木製の玄関扉は古びているが、歪みもなく、きちんと形を保っている。
長く触れられていないはずなのに、不思議と脆さは感じられなかった。
まるで、ここだけ時間が置き去りにされているかのように。
扉の前に立つ。
初めて来たはずなのに、不思議と見覚えがある。
懐かしい、というほどはっきりしたものじゃない。ただ、ここに立つこと自体に違和感がなかった。
確かめる必要も、踏み込む覚悟もいらない。
次に何をするかは、考えるまでもなく決まっている。
気づけば、手が持ち上がっていた。
ゆっくりと、迷いなく取っ手へと伸びていく。
――その瞬間、噛み合っていたはずの何かがずれた。
弾かれたわけじゃない。拒まれた感覚もない。
ただ、内側で別の流れが重なってきて、身体の感覚と噛み合わなくなる。
視界がわずかにぶれる。
足元の位置が曖昧になり、立っている感覚が急に遠くなる。
踏みとどまろうとしても、力がうまく入らない。
自分の身体のはずなのに、動きが遅れる。
内側で何かが戻ろうとしているのに、それに身体が追いつかない。
その違和感を捉えきれないまま、意識が静かに沈み始める。
沈み込んでいく意識の底で、ぼんやりと何かが浮かんだ。
輪郭は曖昧で、どこか現実感に欠けている。
それでも、かすかに形を保ったまま揺れている。
差し出された手のように見えた。
はっきりとは分からない。
確かではないのに、それが自分へ向けられているという感覚だけは不思議と残っている。
ゆっくりと指先が動く。
自分の意思かどうかも曖昧なまま、わずかに持ち上がった
届くはずの距離なのに、どこか遠い。
そのわずかな隔たりを埋めきれないまま――――意識が途切れた。
意識が浮かび上がる感覚とともに、背中へやわらかな衝撃が返ってきた。
触れているのは芝生だった。
陽を含んだやわらかな感触が、服越しにゆるやかに伝わってくる。
かすかに残る冬の名残も、冷たさというよりは穏やかな重みになっていた。
視界に広がる空は淡く青く、白い雲がゆっくりと流れている。春の光がやさしく降り注ぎ、空気そのものがどこか和らいでいた。
どうやら、いつの間にか寝転がっていたらしい。
瞼を透かして差し込む春の陽射しが、まだ焦点の定まらない視界に淡く滲む。
「あらあら」
やわらかな声が、上から聞こえる。
視線を向けると、高原さんがこちらを覗き込んでいた。
桃色のカーディガンを肩に掛け、長い髪がさらりと垂れている。
その表情は穏やかで、柔らかかった。
「お昼寝なんて、お疲れなのかしら?」
「え……」
掠れた声が漏れる。
どうして自分がここにいるのか、すぐに出てこなかった。
何かをしていたはずなのに、その手前で記憶が途切れている。
思い出そうとすると、そこだけがぼんやりと霞んだ。
「まだ小さい子どもたちも多いですし、一緒に遊んでいると、ついつい力を使ってしまいますからね」
高原さんはくすりと笑い、ゆっくりと身を起こした。
木洩れ日が差し込み、その横顔をやわらかく縁取る。
「さ、もう少し遊んでくださいますか? それとも何かご予定は?」
促されるまま、身体を起こす。
不思議と気分は悪くない。
ただ、頭のどこかに小さな空白が残っている。
けれど、その違和感も高原さんの穏やかな声音に触れているうちに、深く意識するほどのものではなくなっていく。
「いや、まだ遊んできますよ」
軽く膝を払って立ち上がる。
芝の匂いがふっと鼻をかすめた。
春はまだ始まったばかりで、風も穏やかだ。
子どもたちの笑い声が、変わらず庭に広がっている。
その輪へと駆け寄っていく背中を、しばらく静かに見つめていた。
やがて――
その表情から、やわらかな気配だけがすっと抜け落ちる。
残ったのは、底の見えない静かな眼差しだった。
わずかに唇が動く。
「――今は、これでいいでしょう」
その声音は風に溶け、誰の耳にも届かないまま消えていった。