いつかかえるところ   作:くろまめのにまめ

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十二話

ショッピングモールの広大な吹き抜け、そのガラス天井から春の陽射しが柔らかく差し込み、床の上に光の模様を描いている。

壁際の展示棚に並ぶ、真新しい木製のテーブル。

そっと指先を滑らせ、その木の感触を確かめた。

さらりと手触りが良く、汚れが目立ちにくいという機能性。

一人暮らしには少し大きすぎるサイズだが、これから先のことを考えれば、このくらいがちょうどいいのかもしれない。

――とはいえ、自分の部屋に誰かを招くような機会が、そうそう訪れるとは思えなかったが。

小さく苦笑し、自嘲気味な息を吐き出した。

 

新生活の準備。

引っ越し業者が段ボールの山を置いていった翌日から始まったこの作業は、思っていたよりもずっと心を充実させていた。

狭いアパートで最低限の家具だけで暮らしていた頃とは違い、自分の意思で部屋を整えていく自由。

それはまるで、知らない街を歩き回るような、静かなワクワク感に似ていた。もちろん、財布の中身と相談しながらの買い物ではあるのだが。

 

モールの一角にあるカフェコーナーで、注文したブレンドコーヒーを啜る。

深い焙煎の香りが漂う中、テーブルの上のスマートフォンが短く震えた。

液晶画面に浮かび上がったのは、【咲良さん】からのメッセージ。

 

『凪くん!おつかれさま。本社での検査のときに持っていって欲しい書類があるんだ!』

『当日の詳細も詰めたいから、今日か明日にでも研究室まで来れるかな?』

 

ポンポンとテンポよく届くメッセージに目を通しながらカップを置いた。

新生活の予定は大まかに決まっている。

検査を先延ばしにする理由はないし、書類も早めに受け取っておいた方が動きやすい。

 

『了解です。明日の午前中でいいですか?』

 

送信するとすぐに既読がつき、弾けるような速度で返信が戻ってきた。

 

『了解!じゃあ明日10時に研究室に来てね!社員証も忘れずにお願いね!それじゃあよろしくね~』

 

語尾に添えられたのは、デフォルメされたウサギが敬礼している可愛らしいスタンプ。

その無邪気なアイコンの裏側で、彼女が日夜世界の裏側に触れるような過酷な解析を行っているのだと思うと、なんだか不思議な感覚になる。

凪は思わず笑みを浮かべつつも、その背後にある任務の重大さを改めて実感していた。

 

冷めかけたコーヒーを飲み干し、ガラス窓の向こうへ視線を移す。

外では、夕方の冷たい風がモールの外壁をそっとなぞり、陽射しが淡いオレンジ色へと変わり始めていた。

この穏やかな日常が、ずっと続くわけではない。

 

今、自分の身に起きているナニカ。

本社での検査で分かるかもしれないという興味。

反面、問題が起きているかもしれないという恐怖。

そんな相反する感情に、胸の奥が冷たく締めつけられるような鋭い緊張が走る。

けれど、新居のために家具を選ぶというこのありふれた日常のひとときが、その不安をかろうじて和らげてくれていた。

 

「明日……咲良さんに会うか」

 

残りの買い物リストに視線を落とし、静かに席を立った。

家具を買うことも、検査を受けることも、すべては明日を迎えるための準備だ。

そうした日常を積み重ねていく中で、確実に何かが変わりつつある――その予感だけが静かに揺らめいていた。

 

カードキーを通すと短く電子的な応答音が鳴り、研究室の重い扉が滑らかにスライドした。

室内に満ちているのは、いつものように薬品と精密機械の混じり合った匂い。

どこか異界じみていて、生活感を削ぎ落とした特有の空気が肌をなぞる。

咲良さんはデスクに腰掛け、液晶のライトに照らされながら操作していたが、こちらに気づくと顔を上げた。

白衣の袖口が心なしかくたびれて見える。

 

「あ! 凪くん!」

 

弾かれたように立ち上がり、彼女が小走りで駆け寄ってくる。

 

「時間ぴったりだね! さ、座って座って」

 

促されるままソファーに腰を下ろした。

咲良さんは背後の書類ケースから一枚の地図を取り出し、デスクの上で広げる。

それは、神楽カンパニーの神楽坂本社ビルまでの路線図と周辺地図だった。

 

「これが本社。住所と、地下鉄からのアクセス方法をまとめておいたから」

 

咲良さんが細いペン先で、駅から伸びる経路をなぞりながら説明を添える。

地図を見ると、本社ビルは神楽坂の川沿い――大通りから少し入った、静かな一角に位置しているようだった。

駅から歩いてもそう遠くはない、都心の風景が頭に浮かぶ。

 

「社員証、持ってきてくれた? カードキーの権限を更新しないと、本社のエントランスは通れないからね」

 

促されて差し出した社員証を、咲良さんは慣れた手つきで受け取る。

専用の端末に接続し、キーボードを叩く乾いた音が室内に響いた。

画面の奥でいくつかの認証が進み、数秒ののち、静かにカードが排出される。

戻ってきた社員証を指先でつまみ、裏表を返してみたが表面には何の変化もなかった。

 

「よし、これで本社のゲートが開くはずだよ。エントランスの受付にその社員証を提示すれば、すぐに『関係者』だって分かってもらえるから。そのまま地下の検査場まで案内してもらえるよ」

 

咲良さんの言葉に短く頷き、カードを財布の奥へとしまい直す。

すると彼女は、机の引き出しからさらに、ずんぐりとした厚みのある茶封筒を取り出した。

開口部には厳重な梱包テープが何重にも貼られ、その上から社章のスタンプが押されている。

 

「この中に、この間のデータと書類が入ってる。向こうの担当者の空木(うつぎ)さんに渡せば分かってもらえると思うから、忘れないで持って行ってね」

 

差し出された封筒を受け取る。

掌に載った紙の塊は、見た目以上のずしりとした重さを持っていた。

まるで、これからの選択の重みがそのまま形になったかのような確かな重み。

 

中身についての具体的な説明は、咲良さんの口からは語られなかった。

けれど、手元に残るその重さだけが明日受ける検査の重要性を凪の胸に静かに伝えていた。

 

「あ、そうだ。明日は11時から検査開始らしいから遅刻しないようにね」

 

咲良さんがにっこりと笑う。

 

「ちなみに前乗りして向こうのホテルに泊まってもいいよ? 初めての場所だし、迷子になるのも困るでしょ? こういうのは経費で落まえるしね」

 

確かに初めて行く場所で迷ったら厄介だ。

当日慌てて移動するよりも、前日のうちに現地に入っておいた方が余裕を持って行動できる。

 

「では……お言葉に甘えてそうさせてもらいます」

 

「うんうん、そのほうが絶対いいよ」

 

咲良さんが満足げに頷く。

ちょうどそのときドアがノックされ、有栖さんが顔を覗かせた。

手には数枚の書類ファイルを抱えている。

 

「失礼します。あら、ちょうどよかったです」

 

彼女は小さく一礼して部屋に入ってきた。

 

「凪さん。明日の検査への同行許可が下りました。私も付き添いますね」

 

思いがけない申し出に、思わず目を丸くした。

咲良さんが楽しそうに笑い声を上げる。

 

「いいね! 有栖ちゃんがいれば凪くんも安心でしょ!」

 

有栖さんは少し気恥ずかしそうに目を伏せ、言葉を続けた。

 

「何かあってもすぐ対応できますし、それに――道に迷う心配もないでしょう?」

 

茶目っ気を含んだその言葉に、緊張がふっと解ける。

知らない土地へ一人で向かう不安が、彼女の同行によって綺麗に消し去られていくのを感じた。

 

「ありがとうございます。すごく助かります」

 

「では、資料と旅程についてはこれで」

 

有栖さんが手際よく書類をまとめると、咲良さんはうんうんと頷き、最後にデスクの上の封筒を見つめた。

 

「検査結果は必ず詳細を教えてね! 結果が良くても悪くても、すっごく気になるんだからさ!」

 

突き動かされるような好奇心と、凪を思いやる力強い念押し。

その言葉に応えるように深く頷くと、咲良さんは満足そうに微笑んだ。

有栖さんも軽く微笑み、こちらを振り返る。

 

「では、急ぎ出発の準備をしましょうか。今の時間なら新幹線に乗れば夜には向こうに着きます。近くに手頃なビジネスホテルがあると葵さんから聞いていますから、そこを押さえましょう」

 

「わかりました。じゃあ急いで準備しますね。出発は何時にします?」

 

「そうですね……」

 

有栖さんが腕時計の文字盤に視線を落とし、小さく考える素振りを見せる。

 

「十五時台の新幹線があります。それなら十八時前には向こうに着きますから、ホテルのチェックインも問題ないでしょう」

 

「了解です。じゃあ、一度部屋に戻ってすぐ支度してきます」

 

咲良さんに視線で別れを告げながらソファーから立ち上がると、彼女はひらひらと軽快に手を振った。

 

「それじゃ、明日がんばってね! 結果報告、楽しみにしてるよ!」

 

研究室を出ると、廊下のひんやりとした空気が肌を刺した。

有栖さんはすっと先に立って歩き出す。

 

「新幹線のチケットは駅で買いましょう。念のため二、三泊分くらいの準備をしておいてくださいね」

 

「分かりました。何時くらいに待ち合わせますか?」

 

「そうですね……では二時間後に社宅のエントランスにしましょう。私はこのまま荷物を取りに事務所へ寄ってから向かいます。凪さんはどうしますか?」

 

「俺はこのまま部屋に帰って支度します」

 

「わかりました。では、またあとで」

 

新幹線の窓から流れる景色が都市圏の灯りへと変わるにつれ、胸の奥に微かなざわめきが生まれていた。

隣の席では有栖さんが静かに資料をめくっている。

車内アナウンスが次の停車駅を告げるたび、少しずつ目的地へと近づいている事実が、冷たい現実味を帯びて肌に迫ってきた。

 

東京という大都市の規模感が、まだ肌で理解できていない。

地方出身の自分にとって、人の流れも建築物の密度もすべてが非日常の領域に見えた。

ましてや神楽カンパニーという巨大企業の中枢――そこに自分が関わることへの実感は、正直なところまだ追いついていない。

座席のシートに身体を沈めながら、窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。

その表情は我ながらどこか硬かった。

果たして自分の中に宿るこの「ナニカ」は、一体何を意味しているのか。

明日になれば、何かしらの答えが得られるだろうか。

 

有栖さんもまた、この本社へ赴くことに対して一定の緊張を抱いているようだった。

彼女ほどの実力者であっても、組織の中心部へ近づくとなれば意識の切り替えが必要なのだろう。

時刻を追うごとに資料を閉じ、静かに目を瞑る姿は、普段の冷静さとはまた異なる種類の静けさを湛えていた。

 

その横顔を盗み見て、ふと思う。

――彼女も、緊張しているんだろうか。

思えば、有栖さんにとっても神楽坂本社訪問は今回が初めてだと言っていた。

普段は見せることのない僅かな揺らぎが、その輪郭にほんのりと漂っている気がした。

 

列車がホームに滑り込む。

目的地までの乗り継ぎの途中で耳にした、飯田橋という駅名。

地理に疎い自分にとっては、いまいちピンとこない響きだ。

神楽坂の本社ビルに向かうのに、最寄り駅が飯田橋というのも少し不思議な感覚だった。

そんな些細な疑問を口にすると、有栖さんはくすりと小さく笑った。

 

「駅名というのは行政区画や歴史的な経緯で決まるものですからね。名前と実際の所在地が少しずれていることは、東京ではよくあることですよ」

 

その説明は理に適っていて、けれど彼女の声のトーンはどこか柔らかな響きを孕んでいた。

 

地下の改札を抜けると、急に賑やかな空気が押し寄せてきた。

地上へ続く階段を上るたびに、視界が光とともに押し広げられていく。

そびえ立つビル群と、交差点を行き交う無数の人々。

都会の息吹という言葉がぴったりと嵌まる、混沌とした熱気。

 

「すごいな……人が多い」

 

思わず零れた感嘆に、有栖さんが隣で苦笑する。

 

「慣れるまでは圧倒されますよね。私も初めて東京に来たときは、似たようなものでしたよ」

 

本社の場所を確認するため歩き始めると、街路樹の枝葉が夜風にそよぎ、空気には微かな春の匂いが漂っていた。

ビル群の合間に見える桜の枝はまだ三分咲き程度だろうか。

ちらほらと開いた花弁が、街灯の白い光にぼんやりと浮かび上がっている。

お上りさんのようにキョロキョロと周囲を見渡したとき、川沿いに聳(そび)え立つ巨大な建造物が視界に飛び込んできた。

 

あれが神楽カンパニーの本社ビルか……。

夜の闇の中にそびえ立つその圧倒的な威容に、一瞬だけ身体が気圧される。

有栖さんは足を止め、遠くを見やりながら目を細めた。

 

「向こうに見えていますね。思ったより近いようです」

 

そのまま道沿いに進むと、開けた河川敷に隣接する敷地で、視界を埋め尽くすようなビルの全景が現れた。

全面ガラス張りの外壁が都市の夜景を一面に映し出し、まるで無数の星を散りばめたような幻想的な色彩を作り出している。

けれどその白昼夢のような印象は、近づくにつれて実体を持ったコンクリートの重量感へと取って代わられた。

そこには、紛れもない現実の壁が存在している。

 

「……大きいですね」

 

呟きにも似た言葉が口を突いて出た。

有栖さんは小さく頷く。

 

「巨大企業の中枢ですから。全国、いえ、全世界から人や物資、そして情報が集まる場所です。――私たちの身に備わった、あの『力』も含めて」

 

彼女の声音には、淡い畏敬と一抹の感慨が混ざり合っていた。

周辺には多くの大学や施設があるのか、学生服姿の若者や流行りのショップが並び、完全に夜を迎えた街は帰宅を急ぐ人々の喧騒に満ちている。

けれどその日常の中に置かれてなお、あのビルだけが世界から一線を画しているように思えてならなかった。

 

有栖さんが予約してくれたビジネスホテルは、そこから歩いてすぐの場所にあった。

シンプルな外観だが、内装は機能的で落ち着いている。

フロントでチェックインを済ませると、隣り合うシングルルームが2つ割り当てられた。

エレベーターホールへ向かう廊下は静かで、外の賑わいとは綺麗に隔絶されている。

上昇する密室の箱の中で、有栖さんから静かに提案された。

 

「朝食のレストランは七時から開くようです。よかったらご一緒しませんか?」

 

「いいですね。なら、ちょっと前にレストラン前にいるようにしますよ」

 

明日の約束が決まり、割り当てられたホテルの部屋に入ってベッドに腰を下ろす。

窓の外を見やると、眼下に広がる街路は本格的な帰宅の波に彩られ、行き交う車の赤いテールランプが夜の深まりを告げるように光の川となって流れていた。

カーテンを閉め、この先に待つことについて思考を巡らせる。

果たして明日の検査が、自分の力を解き明かす鍵となるのか。

それとも、また別の悩みが生まれてしまうのか。

 

問いを投げかけても、思考はただ同じ場所を堂々巡りするだけだった。

答えを見つけられぬまま夜が更けていく。

備え付けのテレビをつけては消し、窓の外に見える無機質な夜景を眺めて時間を潰した。

そんな思索に耽る間に、ホテルの部屋はしんとした夜色に沈み、時計の針の音だけが耳の奥で静かに時を刻み続けていた。

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