いつかかえるところ   作:くろまめのにまめ

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十三話

白いブラインドの隙間から、朝の薄い光が細く差し込んでいた。

ホテルのレストランは、昨夜の喧騒が嘘のように穏やかな空気に包まれている。

カトラリーが触れ合うかすかな金属音と、カップがソーサーに落ち着く微かな陶器の響き。

それだけが静かなBGMのように、冷えた空間をそっと満たしていた。

向かいに座る有栖さんは、焼きたてのクロワッサンを一口大にちぎり、ゆっくりと口に運んでいる。

バターの甘い香りが、かすかに鼻腔をくすぐった。

 

「昨日はよく眠れましたか?」

 

ふいに投げかけられた問いに、コーヒーを口に運ぼうとした手が一瞬だけ止まる。

 

「そうですね……まだ少しだけ、緊張は残っていますが。それなりには眠れました」

 

本当は、深夜までさまざまな思考が脳裏を巡り、ベッドの中で何度も寝返りを打っていた。けれど、不思議と今は心が凪いでいる。真っ白なテーブルクロスに落ちる朝の柔らかな影と、目の前に並ぶありふれた朝食の色彩が、妙な現実感を与えてくれているせいかもしれない。

サラダの瑞々しいレタスにフォークを差し入れながら答えると、有栖さんは小さく微笑んだ。

 

「それならよかったです。今日はきっと長い一日になるでしょうから、しっかり食べておきましょう」

 

彼女の言葉に頷き、まだ温かいパンを口に運ぶ。

シンプルな塩味と小麦の香ばしさが舌に心地よく、胃の奥へと温かな満足感が落ちていった。

 

食事を終えると、部屋に戻って手早く荷物をまとめ、チェックアウトのためにロビーへと降りた。

清掃の行き届いたフロアはひんやりと冷たく、大理石の床が朝日に照らされて鈍く光っている。

ガラス越しに見える外の景色は、これから始まる「世界の裏側」の出来さを隠すように、ひどく白々しくどこか無機質に澄み切っていた。

 

「それでは、向かいましょうか」

 

有栖さんの声に頷き、スーツケースを転がしながらホテルを後にする。

一歩外へ出ると、冷たく澄んだ空気が直に肌を刺した。東京の朝は、想像していたよりもずっと乾燥している。雲ひとつない冬の空はどこまでも青く、その清々しさに反比例するように、周囲を取り囲む巨大なビル群が冷徹な威圧感を放っていた。

 

昨夜と同じルートを辿りながら、再び神楽カンパニーの本社ビルへと近づいていく。

川沿いに聳え立つガラスの塔は、陽光を乱反射させて白銀に輝いていた。昨夜の闇に紛れていた姿とは違い、剥き出しになったその圧倒的な質量は、近づくにつれてこちらの呼吸をじわじわと圧迫してくるような錯覚を覚えさせる。

 

「やはり、大きいですね」

 

隣を歩く有栖さんが、ぽつりと呟いた.

いつもなら泰然としている彼女の横顔に、かすかな緊張が滲んでいる。この巨大な組織の中枢に対して、彼女も何か特別な感情を抱いているのかもしれない。

 

自動ドアをくぐりエントランスに足を踏み入れると、外の乾燥した風が遮断され、空調の効いた静謐な空気に包まれた。磨き上げられた大理石の床は、行き交うスーツ姿の職員たちと私たちの姿を、鏡のようにくっきりと映し出している。

 

そのとき、背筋に微かな違和感が走った。

どこかちりちりとした、奇妙な熱。魂喰の瘴気とは違うけれど、どこか通じるものがある微弱な気配――まるで、遠くの方で小さな火の粉が燻っているかのような、消えそうで消えない残滓がうっすらと漂っている気がした。

 

「凪さん? どうかしましたか?」

 

有栖さんの声に、張り詰めていた意識がふっと現実に戻る。彼女はこちらの様子を窺うように、静かに見上げていた。

 

「……いえ。なんだか、ほんの少しだけ、嫌な気配がした気がして。魂喰とは違うんですけど、似たような……」

 

有栖さんは小さく目を細め、周囲の空気を探るように視線を巡らせた。

 

「……特に私は何も感じませんが」

 

有栖さんは首を傾げつつ、声を潜めて言葉を継いだ。

 

「でも……たとえば、魂喰)に対する対策研究や、実験なんかをここで進めている可能性はありますね。高度な設備があれば、擬似的な気配のようなものが漏れ出すこともあり得るかもしれないですね」

 

言われてみれば合点がいく。

この巨大な組織なら、秘密裏にあの化け物を解析するための研究施設を備えていても不思議ではない。

納得すると同時に、先ほどまで背筋をちりちりと刺激していた微かな気配への恐怖は和らいでいった。

研究施設なら管理された安全な空間なのだという、裏返しの安心感さえ芽生えてくる。

 

「さて、受付に行きましょうか」

 

有栖さんに促され、円を描くように配置されたローカウンターへと向かう。

広く静かなロビーに、私たちの足音が規則正しく冷たく響いた。

デスクの一つには、若い女性の受付嬢が座っていた。

紺色の制服に身を包み、髪を後ろできっちりと纏めた姿は、いかにも大企業の受付らしい洗練された隙のなさがある。

一歩前に出て挨拶を交わしながら、ポケットから支給されていた社員証を取り出した。

 

「失礼します。本日アポイントを取らせていただいた黒須と申します」

 

「おはようございます。社員証をお預かりいたします」

 

彼女は丁寧な手つきでそれを受け取ると、端末を操作しながらスキャナーへと通した。

淡い青色のランプが点滅し、液晶画面に私の情報が映し出される。その瞬間、それまで機械的に張り付けられていた彼女の穏やかな笑みが、ガラスに細い亀裂が入るように、一瞬だけ鋭く引き締まった。

 

「……黒須凪様、東雲有栖様ですね。お話は伺っております。案内の者が参りますので、少々お待ちください」

 

「はい、ありがとうございます」

 

深く頷くのと同時に、隣の有栖さんが静かに会釈を返す。

促されるまま、壁際に設置された待合エリアへと足を運んだ。半個室のようにパーテーションで区切られた空間には、天井の間接照明がぼんやりとした温かな光を落としている。中央には低反発の黒い革張りソファが置かれ、その向かいでは小ぶりな観葉植物が静かに佇んでいた。

 

 

 

しばらくの静寂。

ソファの背もたれに浅く体を預けながら、手にした鞄の取っ手に指先を滑らせる。

冷たい革の感触が、焦りをわずかに紛らわせてくれた。

有栖さんは隣で姿勢を一切崩さず、静かに目を閉じていた。

時折かすかに聞こえる遠くのタイピング音や、職員たちの規則正しい足音。

それらがフィルターにかけられたように少しずつ遠ざかり、周囲の気配だけが濃くなっていく。

そのとき。

コッ、と硬質な靴音が待合スペースの前で止まった。

 

「お待たせしました」

 

低く落ち着いた男の声。

ゆっくりと視線を上げると、四十代半ばほどの男性がそこに立っていた。

痩身で、仕立てのいい地味なスーツを着こなしている。

顎髭はきれいに剃り整えられ、額には深く細い皺が刻まれていた。

派手さは微塵もないが、老獪な鋭さを秘めた目がまっすぐにこちらを捉えている。

 

「神楽カンパニー本社、第三特殊研究部門の室長、空木句一と申します」

 

無駄のない動作で右手が差し出され、握手を求められる。

 

「咲良環の上司――というより、昔から面倒を見ているようなものでしてね。君たちの話も、彼女から時折耳にしております」

 

「初めまして。黒須凪です」

 

「東雲有栖です」

 

一拍置いて、有栖さんが凛とした声で名乗る。

空木さんは小さく満足そうに頷いた。

 

「では早速、研究所の方へ行きましょうか」

 

無駄のない動作で踵を返し、廊下の奥へと歩き出す。

 

「ところで黒須くん、環から書類とデータを預かっているかい?」

 

「ええ、これです」

 

手渡した封筒の切り口を、空木さんは歩きながら指で裂いた。

厚手の紙が軋む音が、静かな廊下に小さく反響する。

中から取り出された書類の束を、彼は立ち止まることなく目で追っていく。

エレベーターホールのボタンを押す間も、視線は紙面に落とされたままだ。

 

「ふむ……」

 

小さく唸り、空木さんが顔を上げた。細められた目が、こちらと有栖さんの間を往復する。

 

「この数字通りなのであれば──確かに、この短期間で身につけるには異常だね」

 

「自分でも、驚いています」

 

率直な言葉が口をついて出た。

力が引き上げられている自覚はあったが、客観的にそれがどれほどの異常事態なのかまでは計り知る術がなかった。

 

「肉体的なトレーニングは続けているんですよね?」

 

「はい、毎日欠かさず」

 

答えると空木さんは満足そうに頷き、隣の有栖さんへと視線を移した。

 

「東雲くん、具体的なトレーニング内容を教えてもらってもいいかな?」

 

「はい」

 

有栖さんは鞄から手際よくタブレットを取り出し、スクリーンを空木さんへと向ける。

画面には、日々のメニューが整然と記録されていた。

ウェイトトレーニングやランニングの数値だけでなく、彼女の監修による特殊な体幹トレーニングや柔軟性の向上プログラムまで詳細に網羅されている。

 

「基礎的な体力づくりを中心に、戦闘におけるバランス感覚や瞬発力を養うメニューにしています。特に意識しているのは、力と身体運動の同期率を高める部分ですね」

 

「なるほど……」

 

空木さんはページをスクロールしながら、低く声を漏らした。

到着を告げる電子音が鳴り、エレベーターの重い扉が左右に開く。

三人で無言のまま乗り込むと、密閉された空間にわずかに残る誰かの香水の匂いとエアコンの微風が漂った。

 

ドアが閉まり、ふっと浮くような感覚とともに下降が始まる。

まるで日常の層を一枚ずつ剥ぎ取っていくような静かな沈下の中で、空木さんが再び口を開いた。

 

「先日の魂喰戦では、具体的にどのような変化がありましたか?」

 

わずかに視線を上げ、あの瞬間の感覚を記憶の底から手繰り寄せる。

いつもより頑強に感じられた盾の厚み。

魂喰の爪を、まるでプラスチックの玩具でも弾くように容易く退けた手応え。

空間を強引に圧壊するかのような、異常なほどに強固な拘束。

 

「盾の頑強さが、桁違いになっていました。魂喰の攻撃を簡単に受け止めることができましたし……拘束に関しても、これまでとは比べ物にならない強度でした」

 

隣から、有栖さんが落ち着いたトーンで補足を入れる。

 

「見ていた限りでも、変化は著しかったです。特に魂喰の動きを封じる速度と強度は、以前の数倍はあったかと思います」

 

「ほう……」

 

空木さんは顎に手を当て、考え込むように目を細めた。

やがてエレベーターが低く唸りながら停止し、重い金属扉が左右に開く。

目の前に広がったのは、ひんやりとした人工的な空気が滞留する、薄暗い廊下だった。

 

「ここから先は研究区画です。くれぐれも、無闇に壁や機器に触れないようにね」

 

空木さんの警告に応じるように、背筋に心地の悪い緊張感が走る。

壁面に這う複雑な配管や一定の間隔で並ぶ無機質なインジケーターが、この場所の特殊性を無言で物語っていた。

やがて、無骨なステンレスの扉の前に立ち止まる。

そこには小さなプレートが掲げられていた。

 

《特別第一研究室》

 

カードキーをかざす電子音に続いて、ドアが静かにスライドする。

室内には大型のサーバーラックや各種計測器が整然と並び、天井からはカメラを兼ねた複数のセンサーがこちらを見下ろすように吊り下げられていた。

空木さんは手近なデスクに書類の封筒を置くと、無造作に置かれた小型冷蔵庫からペットボトルを取り出した。

 

「悪いね。こんなものしかないんだが」

 

差し出されたのは、コンビニで見かけるようなごく普通のお茶のペットボトルだった。

受け取ると、冷やされたプラスチックの結露が指先にじんわりと染みる。

空木さんは自分のボトルのキャップを軽い音を立てて開け、喉を鳴らして一口飲んだ。

そのあまりに生活感のある音が、精密機器の駆動音だけが満ちる静かな室内に妙に浮いて聞こえる。

 

促されるまま、有栖さんと並んで革張りのソファに腰を下ろした。

視界の端で、計測機器の待機ランプが赤や緑の冷たい光を放ちながら、等間隔で明滅を繰り返している。

 

「つい先日の魂喰(こんじき)だが」

 

空木さんはペットボトルを握ったまま尋ねた。目は手元の端末に向けられたままだ。

 

「ステージは何だったのかな?」

 

反射的に眉が顰(ひそ)む。聞き慣れない単語だった。

 

「ステージって……どういう意味ですか?」

 

すかさず横から、有栖さんの補足が入る。

 

「魂喰の等級のことです。一相(いっそう)で間違いありません」

 

空木さんはタブレットを操作しながら、少し呆れたような、短い溜息を漏らした。

 

「環から説明されていなかったのかい?」

 

「すいません。初耳でした」

 

率直に答えると、隣の有栖さんが小さく俯いた。

 

「申し訳ありません」

 

その声に含まれる悔恨の重さを敏感に感じ取りながらも、穏やかに言葉を繋ぐ。

 

「入社からずっと色々ありすぎましたから。もう少し落ち着いてから説明するつもりだったんだと思います」

 

空木さんはペットボトルをデスクに置き、丁寧に整えられた顎髭を指先で擦った。

 

「なるほど……確かに一気に色々言われても頭がパンクするだけだ。かえって良かったかもしれないね」

 

その言葉に含まれる妥協と微かな優しさが、室内の張り詰めた空気をわずかに和らげてくれた。

 

空木さんが壁面の大型モニターを起動すると、青白い光が部屋を払い、彼の横顔に冷たい陰影を落とす。画面には幾何学的な図形と、魂喰の輪郭を捉えた不鮮明なスケッチが重ね合わされていた。

 

「ステージというのは簡単に言えば、魂喰の進化段階だ」

 

差し出されたタブレットの画面には、三つの円が同心状に配置され、それぞれに数字と簡潔な注釈が添えられている。

 

「一相。最も原始的な段階だ。言語能力はなく、知性も獣並み。衝動的に獲物を追い、喰らう。先日倒したのは、こいつだ」

 

深く頷く。あの夜の記憶が脳裏をかすめた。咆哮と爪、そして鼻を突く血の匂い。理屈ではなく本能だけで動いていた、あの圧倒的な巨躯。

 

「だが、二相になると事情が変わる。知性が芽生え、行動パターンや外見にも個性が出てくる。狡猾さが増して自分の欲求のまま行動することがほとんどだが、ある程度の意思疎通ができる。中には──」

 

空木さんはわずかに言葉を切り、

 

「──特殊な力を操るものもいる」

 

その視線が、眼鏡の奥で鋭く光った。スクリーン上で赤いグラフィックがゆらめき、牙のような器官が捻じ曲がって、人の形をした影に重なっていく。

 

「三相に至っては目撃例すらほとんど無い。知能は人間を超え、独自の文化圏を築くという噂さえある。何十年か前に、とある山岳地帯で目撃されたらしいが……」

 

空木さんはそこで言葉を切り、タブレットを置いてデスクに肘をつく。

彼の指先が、無意識に机の角を小刻みに叩いていた。

規則正しく、メトロノームのように刻まれるその音が静寂の中で妙に重く響く。

 

「つまり現状、遭遇する可能性が高いのは一相のみだ。けれど安心するには危険すぎる。調べた結果、奴らは捕食すればするほど進化していく」

 

有栖さんが隣で静かに顎を引いた。

彼女もまた、この知識を当然の前提として戦ってきたのだろう。

 

部屋の換気扇が、低い唸りを上げ続けている。

一瞬、天井の照明がぱちりと爆ぜるように瞬き画面の明暗が切り裂かれた。

網膜に残るその残像の中で、そっと息を吸い直す。

 

「──まぁ」

 

空木さんが、ふっと口調を緩めた。

 

「出会ったのが一相だけだったのは、幸いだったと言えるだろう。それでも、君の異常な成長速度を考えると将来的に二相や三相と遭遇する可能性はゼロじゃない」

 

再びデスク上の封筒が開かれ、白いデータシートが引き抜かれる。

 

「さて、前置きはこれぐらいにして──改めて始めようか」

 

ゆっくりとソファから立ち上がると、身体が冷たい重力を帯びているようで背筋にぴりりとした緊張が走る。

 

「君の潜在能力がどこから来るのか。そしてそれがどれだけの力になり得るのか──それを確かめようか」

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