「よし、こんなところかな」
空木さんが端末の画面を閉じ、満足げに息を吐いた。
記録の終了を告げる小さな電子音が、夜空の中に溶けていく。
星々は淡い輝きを残しながらも次第にその密度を減らしていき、いつの間にか試験場は人工照明の白い光へと戻っていた。
手の中の感覚がふっと軽くなり、流していた力を完全に手放す。
「お疲れさまです」
有栖さんがそっと囁き、小さく肩をすくめて微笑んだ。
張り詰めていた糸が、静かに緩んでいく。
空木さんは手早くセンサーパッドを回収しながら、言葉を続けた。
「データの収集は十分だよ。詳しい解析は明日以降になるけれど、今日の分はひとまずこれで終わりだ。少し早いけれど、今日はこれで解散にしよう」
「分かりました」
有栖さんと短く視線を交わすと、彼女も小さく頷いた。
帰り支度を始めていると、空木さんがポケットからスマートフォンを取り出した。
「せっかくだから、連絡先を交換しておこうか。解析の進捗や次の予定については、リアルタイムで共有したいからね」
三人の画面が互いに認識し合い、小さな通知音とともに情報が交わされていく。
「それから、もう一点」
空木博士がスマートフォンを仕舞い、こちらへ真っ直ぐな視線を向けた。
「今回のデータを解析して、さらに反映させたいんだ。君が環から預かっている、あの専用に調整された道具を、一度僕に貸してもらえるかい?」
「あ……これですね」
懐に手を伸ばし、取り出したのは調整済みのキューブ。
手のひらに載せると、その硬質で冷たい手触りが肌に伝わる。
「解析をした上で、次のアップデートを施すよ。もちろん、安全性の担保には最大限配慮するから安心してほしい」
それを手渡した途端、空木さんの表情がほんの少しだけ引き締まった。
そこに宿ったのは研究者としての純粋な執着なのか、それとも義務感なのか。
その境界線は、まだ自分には容易に見分けることができなかった。
入れ替わるように、それまで静観していた社長が一歩前に出た。
天井の人工照明が彼の細身のスーツに鋭い影を落とし、その輪郭を冷徹に際立たせる。
地下の閉ざされた空間。
それなのに、彼の瞳の奥を見つめていると、光の届かない底知れない闇を静かに湛えているような、奇妙な錯覚に囚われそうになる。
「黒須くん」
「はい」
「君のような人間が来てくれて嬉しく思うよ。期待している」
簡潔な言葉だったけれど、なんだか不思議な重みがあった。
思わず、小さく息を呑む。自分がどのくらい役に立てるのかなんて、自分ではまだよく分からない。
それでも、この大きな会社のトップから一人の人間としてちゃんと認められたような気がして、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「……精一杯、努めます」
もう一度深く頭を下げると、社長は満足そうに微笑みを浮かべ、それ以上は何も言わずに手を振って見送ってくれた。
空木さんや社長に挨拶を済ませ、有栖さんと共に実験場を後にする。
重い防音ドアを通り抜け、静まり返った廊下を歩いてエレベーターホールへと向かった。
エレベーターの扉が静かに閉まると、先ほどまで張り詰めていた緊張が身体の奥から急速に解けていくのが分かる。
ステンレスの壁に映る自分の顔を見ると、予想以上に疲れの色を帯びていた。
ふっと頬の筋肉を緩め、視線を自然と足元へ落とす。
「お疲れさまでした」
有栖さんが横から声をかけてくれる。彼女もまた、いつもの綺麗な姿勢から僅かに肩の力を抜いていた。
「はい……いや、本当に緊張しました」
短く返す言葉の間にも、エレベーターは静かに上昇を続ける。
閉ざされた空間の中で、機械の低い唸りだけが規則正しく響いていた。
地下から地上へ。
非日常から日常へ。
数秒の間に、その境界を越えていく感覚があった。
「空木さん……あんなに熱中するタイプだとは思いませんでした」
「環さんと同じ空気を感じましたよ」
有栖さんの声には苦笑が混じっていた。
同意するように頷く。
あの冷静な研究者が、結界を目前にしたときに見せた子どものように輝く瞳。
それは初めて出会った時の環さんを同じに見えた。
「環さんに似ているのか、環さんが似ていたのか。研究職の方って、皆さんああいう熱量を持っているのかもしれませんね」
「そうかもしれませんね」
短い会話を交わすうちに、エレベーターは目的の階へと到着した。チーン、と静かな電子音が鳴り、ドアが開くと眩しい光が視界を覆う。
地下の無機質な青白さとは異なる、昼下がりの穏やかな陽射しがガラス越しに差し込む、見慣れたオフィスの白色。広々としたフロアには、大勢の働く人々のざわめきが遠くで渦巻いていた。
立ち並ぶデスクや、壁際に整然と書類が並ぶ棚。その一角には大きなパネルが掲げられ、精密な注射針の写真と「ZeroPain」の文字が躍っている。国内だけでなく海外でも話題の超低侵襲注射技術だ。その隣には最新の抗炎症薬のポスターも貼られており、有機化学の公式のような分子構造式の前で、社員の一人が熱心に説明を続けているのが見えた。
白衣姿のスタッフやスーツ姿の社員が通路をせわしなく行き交い、電話に応対する声や仕事をするキーボードの音が、控えめながらも確かな活気を醸し出している。病院や研究機関向けのメディカルソリューションを扱う、営業部門のフロア。空木さんや環さんのいる世界とは、まさに表と裏だった。
「こっち側は……普通の会社ですね」
我ながら陳腐な感想だとは思ったけれど、胸の内に確かな安堵が広がっていく。
けれど同時に、先ほどまでの非日常――夜空の結界、そして潮見社長の底知れない視線――それらがまだ網膜の裏側に焼き付いたまま離れなかった。
表向きは何も変わらない、どこにでもある綺麗なビル。
しかしその足元には、おそらく誰も想像し得ない領域が静かに潜んでいるのだ。
「本当に……普通の会社ですよね」
有栖さんの方を振り返ると、彼女も同じ感慨を抱いているようだった。
いつもは凛としている横顔に、珍しく放心したような柔らかい笑みが浮かんでいる。
二人はそのままフロアを抜け、ロビーへと向かう。
ガラス越しに差し込む光は暖かそうに見えたけれど、肌をなぞる空気には、春を前にしたこの時期特有の微妙な冷たさが残っていた。
「何か飲まれていきますか?」
エントランスへ続く自動販売機コーナーの前で、有栖さんがふと足を止めた。
「いえ……今日はもう、ホテルに戻ろうと思います」
そう応じる自分の声が、自覚している以上に掠れていた。
さっきまでは、単なる緊張の反動による疲れだと思っていた。
けれど、地下空間から離れるにつれて身体の奥底から鉛を流し込まれたような、得体の知れない重苦しさがじわじじわと這い上がってくる。
手足の先が、嫌な汗をかいたように冷たい。
普段の寝不足や疲労とは明らかに違う、自分の身体が自分のものではないかのような異様な倦怠感と、ゾクゾクとする悪寒が背筋を奔る。
結界を張っただけのはずなのに、なぜこんなに消耗しているのだろう。
何かいつもと違うことでもしただろうか。
いくら思考を巡らせても、今の朧げな頭では明確な答えなど出るはずもなかった。
ただ、早く横になりたいという本能的な欲求だけが、急速に強くなっていく。
有栖さんは自分の顔色の悪さに気づいたのか、小さく眉をひそめ、いたわるように優しく頷いてくれた。
「分かりました。今日は予定よりもかなり早く終わりましたし、ゆっくり休んでくださいね。私は……少し身体を動かしたいので、トレーニングルームに行ってきます」
「また明日、ですかね」
「はい。明日は空木さんからお話を伺うだけだと思うので、今日ほどは気疲れしないと思いますよ。流石に連日、社長がいらっしゃることもないでしょうし」
「そうだと嬉しいですね……」
「では、ご自愛ください」
「ありがとうございます」
有栖さんはそう言って綺麗に微笑むと、踵を返してフロアの奥へと歩き去っていった。
彼女の背中が角を曲がって見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
自動ドアの開閉する音が遠ざかり、オフィスの雑踏がぼんやりと鼓膜の奥で掠れていく。
帰りの記憶はほとんどない。
ただ、タクシーを呼び行き先を指定して、薄れていく意識をなんとか繋ぎ止めていたことだけを覚えている。
ホテルの部屋にたどり着き鍵を閉めた瞬間、限界を迎えた身体が崩れ落ちるようにベッドへと倒れ込んだ。靴を脱ぐ気力すら湧かない。視界が急速に暗転していく中、泥のような深い眠りへと、ただただ引きずり込まれていった。
ふと目が覚めたとき、部屋はしんと静まり返っていた。
スマートフォンの画面を点けると、有栖さんから「明日は13時に本社の受付前で集合しましょう」というメッセージが届いている。
短い睡眠のつもりだったけれど、カーテンの隙間からは静かな月光が差し込み床の上に淡い白の模様を描いていた。
冷蔵庫に備え付けのペットボトルの水をのどに流し込んだ。
なんとなくカーテンを開き、窓越しに遠くの夜景を眺める。
地上百メートルから見下ろす都市の明かりは、冷たい夜気の中でまるで星空のように優しく揺らいでいた。
翌朝。
薄曇りの灰色の雲が、重く空に垂れ込めていた。
ホテルの洗面台で冷水を何度も顔に叩きつけ、首筋に残るしつこい倦怠感を無理やり押し潰す。
鏡に映る自分の顔は、隠しきれない疲れ色を帯びていた。
手のひらを何度か握ったり開いたりしてみる。
まだ皮膚の奥に、微かな疼きのような違和感が残っていた。
あの検査の副作用だろうか。
それとも、昨日展開したあの夜空の結界が、何かしらの新たな負荷を引き起こしたのだろうか。
どちらとも判然としないまま、冷水では埒が明かないと熱いシャワーを浴び、身体を強制的に目覚めさせる。
朝食を摂る気にはどうしてもなれず、ルームサービスを断って、自販機で買ったカフェオレとヨーグルトだけを口にする。
冷たい酸味が舌を刺す感触だけが、妙に現実感を呼び起こしてくれた。
約束の少し前、本社ビルのロビーへ足を踏み入れる。
平日のフロアは昨日と同じように、特有の活気と賑わいに満ちていた。
行き交う社員たちのビジネスライクな会話が波のように重なり、革靴の足音が大理石の床を規則正しく叩いている。
広い受付へと向かうと、そこにはすでに有栖さんの姿があった。
「凪さん、おはようございます。昨日はよく眠れました?」
「おはようございます。正直、ぐっすりというほどではなかったですが……なんとか最低限のリセットはできたと思います」
「無理はしないようにしてくださいね? 受付は済ませておきましたので、参りましょうか。もうそろそろ約束の時間です」
有栖さんに促されるまま、並んでエレベーターに乗り込む。
地下三階のボタンが押されると、独特の重力感と共に視界がゆっくりと薄暗がりへと没していった。
静かに開いた研究室の扉の向こうでは、昨日と少しも変わらない空木さんの笑顔が出迎えてくれた。
白衣の襟を軽く直し、促されるままに椅子に腰掛ける。
壁面の大きなスクリーンには、すでに大量のグラフや難解な数値群が映し出されていた。
けれど、空木さんはそれらを一瞥もせず、卓上に温かいコーヒーのカップをふたつ静かに置いた。
「待っていたよ、二人とも。さっそく、昨日の検査結果を共有しようか」
空木さんがスイッチを入れると、室内の照明が一段落とされた。
壁面のスクリーンが発する青白い光が、彼の顔の陰影を深く彫り込んでいく。
「結論から言おうか。君の魂魄バランスは、当初のデータよりも大きくズレている」
「ズレ……ですか」
空木さんは頷き、指先を画面に滑らせた。
二本のグラフが重なり合い、黄緑色の曲線が橙色のラインを大きく凌駕している。
『魂』と『魄』、それぞれの項目の横に並ぶ数値だ。
「魂側に傾きすぎているんだ。本来、両者の流れは双方向で拮抗するべきものだが、君の場合、魂の容量が増えている一方で魄が追いついていない状態だ。ここまでは環から聞いているかな?」
「そうですね……魂寄りに比重が寄っている、とは。ただ、具体的なことは聞いていなくて、メリットとデメリットがある、ということくらいしか……」
「では、改めて説明しよう。魂側が過剰になると、魄が受け止めきれないエネルギーが体内に蓄積され、感覚のズレが起きたり、重度になると神経系や筋骨格に麻痺を引き起こす可能性がある。逆に魄ばかり強すぎると、蓄えられたエネルギーを発散できないまま蓄積され、力が暴発してしまうリスクを抱えることになる。まさに『暴走』だね」
眉のあたりが、自然と険しくなる。
暴走という言葉が、嫌に鋭く耳を刺した。
「今回、君の場合は『魂』に寄りすぎている。だから『魂喰』に感知されやすく、狙われる。彼らは生命体の乱れた波動に惹かれる傾向があるからね」
言葉が喉の奥で淀んだ。
今まで漠然としていたリスクが、急に生々しい現実の輪郭を得た感覚。
無意識に右手で左の拳を握り締めると、骨の軋むような感覚が微かに伝わってきた。
「だが、この『魂寄り』の状態がなければ、おそらく先日のような強力な結界も展開できなかっただろう。諸刃の剣と言うべきか」
空木さんは短く息をつき、手元のコーヒーに口を付けた。
その一連の動作には焦燥も愉悦も見えず、ただ淡々とした学者の姿勢があるだけだった。
「そして――あの夜空の結界。この『落ち着く』という感覚についてだが……」
キーボードを叩く乾いた音が響き、新たなデータがスクリーンに表示される。
脳波計、筋電図、ストレスホルモンの値。
画面の端から端まで視線を走らせるが、見る限りはいずれも有意な変化は認められなかった。
「数値的には、何も異常は出なかった。感じ取っているのは現段階で君、有栖くん、環、そして社長のみ。全員が共通して『自分の家にいるような安心感がある』と言っている。だが、その原因も関連性も現時点では不明だ」
室内に、重い沈黙が落ちる。
静けさの中、サーバーの駆動音のような低い唸りだけが鼓膜をかすめていった。
結界に閉じ込められた、あの夜空。
その非現実的な美しさと、有栖さんが口にしていた居心地の良さを思い出す。
「結界の効果自体は判明しているよ。強度としては標準結界の上位互換だが、特に偏った指向性はない。良くも悪くも『力の方向性がない』と言える。防御としては理想的かもしれないけれど……使い手としては、扱いが難しいね」
「方向性がない……」
反芻するように、その言葉を小さく呟いた。
有栖さんが椅子に座り直し、空木さんの方を真っ直ぐに見つめる。
「ちなみに、有栖くんの能力は雷だったよね?」
空木さんの問いに、有栖さんは静かに頷いた。
「ええ。正確には、体内の電気信号を制御して反応速度や運動神経を高めるものです。私は凪さんと逆で魄寄りに比重がズレていますから、訓練しても直接的な攻撃出力の具現化などはできませんでした」
「なるほど。体への負荷が大きい技だ。だから君は、あんなに鍛錬に時間をかけていたんだね」
有栖さんは小さく頷きながらも、どこか寂しげに微笑んだ。
「有栖くんの力は尖っていて限定的だけど、凪くんの結界は……あまりにもフラットだ」
空木さんはタブレットの画面に触れ、数字の羅列を呼び出す。
「すべての属性が均等に存在し、術者の手が離れてもそこにあり続ける。半面、閉じるときは即座に閉じるし、展開範囲も通常の結界とは桁違いだ。言い換えれば“万能”。……悪く言えば、ただの“器用貧乏”かな」
その言葉に胸の奥が少しだけ、つんと冷たくなった。
自分が特別な才能を持っていると思い上がっていたわけではない。
それでも、目の前の専門家から「器用貧乏」と評されるのは、かすかな失望を伴うものだった。
空木さんは小さく苦笑し、コーヒーカップを机に置いた。
「おっと、ちょっと例えが悪かったかな? まあ落ち着いて聞いてほしい。このフラットさだからこそ、見えてくるものがある。いいかい。結界は本来、道具を使って発動しない限り、術者の“性質”が最も強く反映されるものなんだ」
空木さんが指先でテーブルをトントンと叩く。その硬い音が室内に響いた。
「例えば雷属性なら結界自体が帯電し、炎属性なら熱を帯びる。しかし、君のは違う。どれか一つに偏ることがないんだ」
口元に笑みを浮かべてはいるものの、眼鏡の奥の瞳は、決して冗談を言っている風ではなかった。
「だからこそ、大きな疑問が残る。“なぜこんなにもフラットなのか?” そして、“その効果の本質は、一体どこにあるのか?”」
息を呑み、無意識に喉を上下させた。
「本質……」
「まぁ、これ以上の精査にはまだまだ時間がかかりそうだね」
空木さんはそう言いながら、手元のタブレットをパタンと閉じた。
デジタルの明かりが消え、研究室を照らすのは蛍光灯の薄い白さだけになる。
わずかに肩を落とする自分に向けて、空木さんはそっと手を挙げて見せた。
「焦らないで。答えは必ず見つけてあげる。ただ……君自身がそれを掴み取ることが、一番の近道かもしれないけれどね」
冷めかけたコーヒーの湯気が、微かに揺れていた。
その白い靄の向こうで、有栖さんが静かな案じるような視線をこちらに投げかけていた。