「現時点で、体への負担はどこまで出ていそうですか?」
有栖さんの声が、コーヒーの湯気とともに空木さんへ向けられた。
普段通りの冷静さを保っているように見えるけれど、膝の上に置かれた指先が微かに強張っている。
空木さんはタブレットの画面を見つめたまま、眉根に浅い皺を寄せている。
何か深刻な要素を見落とさないように、けれどどこか自分たちを思いやるような真摯な眼差しでデータに目を凝らしていた。
「現時点では、目立った自覚症状は出ていないはずだよ。しかし……通常の人間ならば、何かしらの異常が表面化していてもおかしくないレベルまで魂魄バランスが乱れているのは事実だね」
室内の空気が、急に冷え込んできたような錯覚を覚える。
椅子の背に寄りかかりながら、無意識に膝の上の手を握り締めた。
自分の内側で何かが静かに変質しているような、捉えどころのない不安が胸の奥を通り抜けていく。
昨夜ホテルで襲われたあの異様な虚脱感は、やはり気のせいではなかったのだ。
思考がそれ以上深くなるより早く、有栖さんが続けて質問を投げかける。
「凪さん本人は、どのように感じていましたか? 昨日の結界の後から、体調に何か変化はありましたか?」
こちらに向けられた彼女の視線には、いつもの物静かな佇まいの奥に微かな懸念が滲んでいた。
その瞳の柔らかな焦点に少し言葉を選んでから答える。
「結界を解いた後から、ちょっと尋常じゃない疲労感があって……正直、ホテルに戻ってからは倒れ込むようにして寝てしまいました。ただ、熱いシャワーを浴びたりして今朝にはある程度落ち着いたので、その時はただの気疲れだと思っていたんです。――でも、今思い返すと首筋の奥がずっと疼くような、妙な違和感が残っている気がします」
空木さんは顎に手を当て小さく頷いた。
「一晩休んで動けるまでになったということは、少なくとも魂魄バランスの不均衡による恒久的なダメージではないと考えられるよ。本当に手遅れなレベルの不調なら、肉体も精神も根幹から揺らぐし簡単には起き上がれなくなる。……とはいえ、油断はできないけどね」
有栖さんが小さく息を吐いた。
その呼気がほんの少しだけ震えているように見えて、彼女もまた不安を抱えているのだと伝ってくる。
自分も、喉の奥に引っかかっていた疑問を問いかけた。
「対策は、何かあるんでしょうか。このままにしておくのは……」
「君の場合、“魄”――つまり肉体の器を鍛えてバランスを取るのが、最も効率的だろうね」
空木さんはタブレットを閉じ、顔を上げた。
白衣の襟を軽く整えながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「しかし、データで見る限り君の『魂』は驚くほど成長の速度が速い。器を広げるのが先か、中身が膨むのが先か、といったところだね」
「有栖さんは……どうなんですか?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど低く掠れていた。
有栖さんの横顔を見やると、彼女は少しだけ目を丸くしてから静かに微笑んだ。
「私は、バランスが悪いといっても凪さんほど極端にズレているわけではありませんから。今は処方されている薬で調整すれば、普段の生活には問題ありません」
その言葉に安堵しかけた瞬間、有栖さんは視線を少しだけ手元へと落とした。
「ですが身体の特性なのか、私の場合は日常生活を送るためのごく普通の動きだけでも『魄』が育ちやすい性質で……。魂側を引き上げて均衡を取りたいとは思っているのですが、なかなか上手くはいきませんね」
小さな溜め息が、彼女の薄い唇から零れ落ちた。
淡々とした口調とは裏腹に、その声には抑えきれない淡い憂いが滲んでいる。
指先が制服の袖口を軽く摘まむ仕草。
いつも凛としている彼女の、繊細な隙間を覗き見てしまったような気がして思わず言葉に詰まる。
彼女だって、自分の身体のことでちゃんと悩んでいるのだ。
自分のことばかりに気を取られていた自分が、少しだけ不甲斐なく思えた。
「大丈夫ですよ、凪さん」
こちらの視線に気づいたのか、有栖さんは少し慌てた様子で顔を上げた。
「何か大きな問題が今すぐ起きているわけではないですし、環さんと相談しながらいろいろと試しています。私は本当に大丈夫ですから。それよりも――」
まっすぐな視線が、自分を射抜くように捉えた。
「今は、あなた自身のことです」
「そうだね」
空木さんがコーヒーカップを机に置き、苦笑混じりに頷いた。
「昨日預かった道具を調べていたらね、意図的なリミッターが設けられていた痕跡が残っていたんだよ。おそらく環が、君に無理をさせないよう施していたものだと思う。けれど……」
空木さんはタブレットを操作し、幾何学模様の断片が明滅するスクリーンを私たちに向けた。
「もう間に合わなかったのか、痕跡くらいしか残っていなかった。今となっては、ただのちょっと性能が良い道具でしかない状態さ」
静かな室内に、コーヒーカップの底とソーサーが微かに触れ合う音が響く。
隣に座る有栖さんは何も言わず、ただ静かに画面を見つめていた。
飄々とした態度の裏で、自分に降りかかる未知の力を案じ細工を施してくれていた環さんの顔が脳裏に浮かぶ。
その不器用な優しさが嬉しくもあり、同時にその気遣いすら追いつかなかった現在の重みが、じわじわと肩にのしかかってくるようだった。
「心配してくれていたんですね、あの人は」
気づけば口をついて出ていた言葉に、空木さんは薄く笑みを浮かべた。
「守ろうとしてくれていたんだよ。なら、君もその想いに応えなきゃね。ただ力を怖がっているだけでは勿体ない」
その言葉が、すとんと胸の奥に落ちる。
環さんもいっぱい頑張ったと言っていた。
コントロールできるようになるために毎日訓練していたとも。
自分の力を正しく知り、制御できるようにならなければいけないと静かに背中を押されたような気がした。
「正直に言うと、一から誂えない限りは、君の魂魄バランスのズレを完全に補助する道具は準備できそうにないんだ」
空木さんはそう言いながら、作業台の引き出しから小さな金属の箱を取り出した。
中には、微細な紋様が刻まれた二つの道具が収められている。
一つはビー玉のように綺麗なスフィア、もう一つは環さんから預かっていたキューブ。
「一応、簡易的なリミッターを付けたものを準備したけれど、あくまで一時的なものだと思ってほしい。多分数回も使えば、リミッターそのものが消し飛んでしまうからね。ほどほどに頼むよ」
「……わかりました」
頷くと、空木さんは小さく笑って肩をすくめた。
「障壁や拘束の道具に関しては、提出してもらったレポートを見る限りそのままで大丈夫そうだから、しばらくはそれを使っていてほしい。僕個人としても非常に興味が湧いてきたからね、いずれ君専用のものを新造してみるよ」
「ありがとうございます」
初対面のときはどこか掴みどころのない人だと思っていたけれど、その言葉の端々にある細やかな気遣いが、純粋に嬉しかった。
「分かっているとは思うけれど、くれぐれも力を流し込みすぎないように気をつけてね」
「はい」
短く返事をした、その瞬間だった。
突如として、室内にけたたましい警報が鳴り響く。
空気を切り裂くような低い唸りから始まり、急速に甲高く尖っていく電子音。
以前、事務所で聞いたものと全く同じ、非日常の到来を告げる旋律だった。
背筋に冷たい緊張が走り一瞬で頭が冴え渡る。
有栖さんが無意識に腰を浮かせ、その指先がカバンのストラップを強く握り締めていた。
空木さんは眉一つ動かさず、白衣のポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を一瞥し、すぐにタップして応答する。
「第一研究部門、空木だ。……築地か。規模は?」
短い沈黙の間、自分の鼓動が耳の奥で嫌にうるさく響いていた。
有栖さんと視線が交錯する。
彼女の瞳はいつもの静けさを保ちながらも、その奥には微かな鋭さが灯っていた。
「――了解した。こちらで対応チームを編成する。警戒レベルをBに引き上げてくれ」
通話を切り、空木さんは端末を卓上に置いた。
「築地跡地に魂喰出現の兆候あり、だ。直前のレーダー解析だと一相と推測されるけれど、若干高い波形出力が観測されているらしい」
空木さんの声は淡々としていたが、眼鏡の奥の瞳には隠しきれない真剣さが宿っていた。
「少し厄介な個体かもしれないね。――あいにく、君たちの他に動ける人員は皆出払っているんだ。行ってくれるかい?」
「分かりました」
「承ります」
頷くと同時に、有栖さんも冷静に応じる。
ふたりの迷いのない返答に、空木さんは短く息を吐いた。
「車はこちらで手配するよ。三十分以内には出発できるようにしておこう。――くれぐれも無理は禁物だ。君たちの実力は信頼しているつもりだけれど、今回は特に油断しないでほしい」
「はい」
言葉を交わす間も、室内にはまだ警報の残響が低く漂っている。
天井灯の冷たい光が、壁面の計器パネルに細かな影を落としていた。
結界の薄膜が、微かな振動を伴って辺りの空気を震わせていた。
淡い青白い光がドーム状に広がり、その中心に巨躯を佇ませた魂喰は不気味なほどに静まり返っている。
咆哮も、地を削る爪の音もない。
ただ肉塊のような巨大な身体を直立させ、ぼんやりと月がある方を静かに見上げていた。
「ひとまず、結界の中に閉じ込められはしましたが……」
隣に立つ先輩隊員が、額ににじむ汗を袖口で拭いながら押し殺した声で漏らした。
結界の維持には術者の持続的な消耗が伴う。
四半刻も経てば、精神の摩耗が肉体へと伝わり始めるだろう。
「本社の戦闘員は皆出払っていると聞きました。本当に大丈夫なんですかね」
不安を抑えきれずに呟いた問いに、一歩前で前線を見据える部隊長が感情の消えた声で応じた。
「他支部の戦闘員が、検査のためにちょうど本社へ来ているらしい。彼らに引き継ぐまでが、俺たちの仕事だ」
部隊長の背中はいつも通り硬く平坦だったが、その肩が微かに強張っているのが分かった。
このまま本当にこの怪物を抑え込み続けられるのか、そんな隠しきれない焦燥が冷たい空気の中へと静かに滲み出ている。
「早く来てくれればいいんですが。この規模を維持するのは骨が折れます……」
先輩が、重いため息をつく。
空の色は夕焼けの朱を完全に失い、底の深い瑠璃色へと移ろい始めていた。
春先とはいえ、陽光の温もりが消え去った跡地に肌を刺すような冷たい潮風が錆びた鉄と泥の匂いを運んでくる。
かつて人の往来で栄えた築地の古い倉庫街は、今はただ荒涼としたコンクリートの墓標のように静まり返っていた。
「それにしても、あいつは何を見ているんでしょう」
結界の奥を指差すと、部隊長がわずかに視線を動かした。
魂喰は、薄雲の隙間から顔を覗かせた青白い朧月へと首を長くもたげている。
目玉と呼べる器官はないはずなのに、その頭部の異様な隆起はたしかに月を凝視しているかのようだった。
「さあな。暴れないでいてくれるなら、こちらとしては好都合だ」
隊長が口にした、その一瞬の静寂。
月は淡く蒼褪め、ちぎれた雲に濾されて冷たい灰の色を帯びていく。
魂喰はなおも微動だにしない。
けれど、重苦しい静寂が津波のように辺りへ沈殿していった。
どれほどの時間が経っただろうか。
薄明の残光はとうに地平線の向こうへ没し、空は完全な瑠璃色に塗り潰されていた。
崩れかけた港の残骸が、墨絵のような闇に溶けて消える。
結界が放つ青白い光だけが、この世の境界を示す唯一の標灯だった。
そして……それは唐突に訪れた。
――ドクンッ。
地響きよりも重く、血脈の奥を直接掴まれたような悍ましい脈動が周囲を支配した。
鼓動。
まるで自分の心臓が胸郭を突き破り、外界の質量と同期したかのあるような巨大な搏動。
その音は結界の壁を透過し、鼓膜だけでなく全身の骨の髄までを暴力的に揺さぶる。
「く、あ……っ!?」
結界を維持していた術者のひとりが膝をつき、その手のひらが激しく震えた。
ドームの表面に、油膜のような不規則な波紋が走る。
魂喰自身は依然として動いていない。
だが、その巨躯から発せられる威圧感は一瞬にして数倍へと膨れ上がっていた。
「……いったい、何が起きている」
先輩の声が、喉の奥で擦り切れたように響く。
その問いに応じる者は、誰もいなかった。
ただ、奇妙なまでの静寂が先ほどまでの大質量を嘘のように隠蔽していく。
「隊長、あれ……!」
若い隊員の悲鳴に近い声が、張り詰めた闇を裂いた。
指し示された先、結界の中心へと全員の視線が一転に集まる。
魂喰が、変わり始めていた。
月を見上げていた肉塊が、不気味に変則的に震動を繰り返している。
その震えは、結界の内側に閉じ込められた強烈な反響音となり狂ったように速度を増していく。
ドクン、ドクンドクン、ドクンドクンドクン――。
まるで、硬い殻の中に閉じ込められた悍ましい生命が産声を上げるのを待ちきれないかのように。
激しく、混沌とした胎動が極限に達した瞬間、世界からすべての音が消失した。
次の瞬間、魂喰の背中が縦一文字に裂けた。
鱗に覆われた硬い表皮が爆ぜ、肉の裂ける鈍い音が響き渡る。
噴き出した黒い瘴気の合間から、粘つく液体がボタボタと大地を濡らした。
引き裂かれた巨躯の内側から蠢きながら這い出てきたのは、元の肉塊よりもひと回り小さな……だが形容しがたい圧を放つ影だった。
「……進化、だと」
部隊長の声が、戦慄に震えていた。
一相から、二相へ。
最悪の想定が、現実となって目の前に君臨する。
立ち上る瘴気の靄が引いた先、そこに佇んでいたのは怪物と呼ぶにはあまりに美しく、あまりに歪な『輪郭』を持った存在だった。
人間に近い、その一言に尽きる。
だが、その四肢は根本から人間を拒絶していた。
鈍く光る鱗が、首筋や手の甲を鎧のように覆い尽くしている。
その貌は人間に酷似していながら、額からは蛇の牙のような二本の角が天を突き、細く裂けた黄金の双眸が、爛々と暗闇に灯っていた。
また、腰から伸びる長くしなやかな尾が、退屈そうに大気をなぞるたび冷たい霧がその足元から湧き出す。
進化した二相は、しばし信じられないものを見るように己の鋭い爪を見つめ――それから、堰を切ったようにあどけない哄笑を上げた。
「キャハハハハッ!!」
純粋な悦びに満ちた、幼い子供が新しい玩具を手に入れたときのような無垢な響き。
けれどその声音は、鋼の針となって全員の鼓膜を容赦なく刺し貫いた。
「本部へ連絡! 対象、二相へ進化!」
「拘束班、射出を急げ!!」
夜空を引き裂くような怒声が飛び交う。
術者たちが新たな呪符を血眼で展開し、武装隊員が特殊ワイヤーの射出機を構えた。
金属の噛み合う鋭い音と、紙の擦れる音が闇を駆ける。
けれど、二相は捕らえられることすら楽しむかのように、ただ黄金の瞳を細めてこちらを見ていた。
放たれたワイヤーが閃光となって獲物の四肢を絡め取り、重層化された結界の膜がその上から覆いかぶさる。
――拘束、できました。
誰かが、短く安堵の息を漏らした。
その、刹那。
二相の貌から、無邪気な笑みが綺麗に消え失せた。
眉根に浅い皺が寄り、心底不愉快そうに薄い唇を尖らせる。
せっかくの遊びを台無しにされた子供のような、退屈と嫌悪の表情。
「……ウザい」
吐き捨てられた言葉と、同時だった。
パチン、と、石鹸の泡が弾けるような、拍子抜けするほど軽い音が響いた。
次の瞬間、強固に巻き付いていた鋼のワイヤーが、誰も触れていないはずなのに虚しく地面に崩れ落ちた。結界の薄膜も、まるで最初から存在しなかったかのように、一瞬で形を失う。
力尽くで引きちぎられたのではない。
拘束されていたはずのその姿が陽炎のようにブレたかと思うと、その場から消え去っていた。
「消え……た?」
誰からともなく、愕然とした声が漏れる。
物理法則を無視したあまりの不条理に、部隊員たちの間に凍りつくような困惑が広がっていく。
けれど、いつの間にか、男たちのすぐ背後で夜気が小さく渦を巻いていた。
気づいたときにはもう、そこに魂喰が立っていた。
いつからそこにいたのか、あるいは今そこで形を成したのかさえ分からない。
まるで最初から背後に佇んでいたかのような静けさで、二相は自由になった細い手首を回しながら獲物たちを見つめていた。
その黄金の瞳にあるのは憎悪ではなく、ただただ無邪気な残虐性だけだった。
「ねぇ、きみたち……遊びたかった?」
歌うように澄んだその言葉の意味を、脳が理解するよりも早く二相の右手がこちらにかざされた。
直後、手のひらから解き放たれたのは濁流のごとき水の奔流。
のたうつ大蛇のようにうねる水流は、瞬く間に最前列にいた隊員の胴体を正面から捉えた。
悲鳴を上げる隙すら与えられず、超高圧の水刃が肉を引き裂き骨を粉砕する。
噴水のように噴き上がった赤い鮮血が、夜空を暗く染め上げ血の雨となってコンクリートを叩いた。
その凄惨な赤の雨を浴びながら、二相は両手を広げ無邪気に嗤う。
「キャハッ! キャハハハッ!!」
それは血肉を伴った死の祝宴。
目の前に広がっていたのは、ただ飛び散った――つい先刻まで言葉を交わしていた先輩の、見る影もない肉片と、湯気を立てる鮮血の泥濘だけだった。