結界の外では、生き残った隊員たちが慌ただしく動き回っていた。
ひとりが駆け寄り、荒い息を吐きながら有栖さんの前に膝をつく。
開かれた医療用の箱から、滅菌済みの包帯や止血剤、消毒液が無造作に取り出された。
ツンと鼻腔を突く、消毒液の匂い。
有栖さんは「お願いします」と、淡々と左腕を差し出した。
切り裂かれた傷口は深く、黒い制服の袖口から伝い落ちた血が足元のアスファルトに暗い染みを作っていく。
「……痛みますか」
胸の奥を締めつけられるような思いで尋ねると、有栖さんは静かに首を振った。
額には細かな脂汗が浮かんでいるというのに、その声はどこまでも平然を保っている。
「大したことはありません。それよりも今は、次の一手を考えるべきです」
治療を受け入れながら、彼女は遠くへと視線を結んだ。
澱んだ濃霧の向こうに潜む悪意を静かに見据えるような眼差し。
「——霧化している間こそこちらの攻撃を透過させますが、こちらへ攻撃を仕掛けてくる『その瞬間』だけは必ず実体を得ています。——なら、手はひとつしかありません。攻撃の出鼻を挫く、カウンターを狙うしかないでしょう」
有栖さんの声は、驚くほど落ち着いていた。
感情を交えず、淡々と状況を分析していく口調。
その理路整然とした言葉の重みが、静かにのしかかる。
「ですが……有栖さん」
喉が乾ききり、掠れた声しか出ない。
「左腕がそんな状態で、これ以上戦うなんて……本当に、動けるんですか?」
「戦わなければなりません」
彼女は一筋の迷いもなく言い切った。
隊員に巻かれた包帯の上から左腕をそっと曲げ伸ばし、動作に支障がないかを確かめるように手指をほぐす。
「凪さん、障壁はまだ張れますか」
突然投げかけられた問いに、ポケットの中へ手を入れた。
触れたスフィア型の道具は冷たく、その表面には痛々しいヒビが入っていた。
手の中で鈍い光沢を失っている。
意識を集中させ力を流し込もうとしても、道具はただ静まり返るばかりで何も反応がなかった。
「……駄目みたいです。発動する気配がありません」
答えを聞くと、有栖さんは静かに目を伏せ小さく息を吐き出した。
「――なら、凪さんはここに残ってください」
その言葉は低く、けれど拒絶の意を明確に含んでいた。
「なんで……っ!」
思わず抗議の声が跳ね上がる。
自分でも驚くほど感情的になっているのが分かった。
鼓動が早まり、握り締めた指先がかすかに震える。
「大変申し訳ないのですが――」
有栖さんの声は、いっそう淡々としたものになった。
「今の状態で凪さんを守りながら戦うのは、極めて困難です。カウンターを狙うにしても、凪さんが標的になった瞬間、私は後手に回ってしまう。ご自身を守る手段を失ってしまった以上、中へ連れていくわけにはいきません」
言葉に詰まり、自分は黙って地面に視線を落とした。
有栖さんの言っていることは何一つ間違っていないし、ぐうの音も出ないほど正しい。
理屈ではちゃんと分かっている。
――けれど、その正論を素直に受け入れられない自分が、どうしようもなく歯痒かった。
「――ちょっといいか?」
頭上から、不意に声が降りてきた。
低く、無造作で、やけに落ち着いた声色。
自分と有栖さんは、同時に顔を上げた。
街灯の薄暗い影から姿を現したのは、背の高い男だった。
刈り揃えられた短い髪に、使い込まれた革のジャケットを羽織っている。
神楽カンパニーの隊員たちが身につけているような制服も、整然としたバッジや徽章の類も一切ない。
男は微かに口角を上げ、こちらの様子を伺うように視線を投げてきた。
「俺は九条玄。空木博士から要請を受けてな、臨時で手伝いに来た。――まぁ、野良の助っ人とでも思ってくれればいい」
直前の通信では一言も助っ人の存在に触れていなかった空木さんの名。
その唐突さに一瞬の引っかかりを覚えつつも、助っ人という言葉に無意識に強張っていた肩の力がわずかに抜けた。
有栖さんも警戒を完全には解かぬまま軽く目礼し、静かに名乗りを返す。
「東雲有栖と申します。こちらが――」
「黒須凪です」
名を名乗りながら立ち上がると、九条はこちらを上から下まで品定めするように一瞥し、「ふーん」と鼻を鳴らすように呟いた。
何もできないまま逃げ帰り、足留めを食らった直後の身には、その何気ない眼差しすらどこか耳の奥が痒くなるような居心地の悪さがあった。
自分から何かを言い返す間もなく、彼は言葉を繋ぐ。
「盗み聞きしたようで悪いんだが……お嬢ちゃん一人で戻るってのは本気か?」
有栖さんは小さく、けれど迷いなく頷いた。
「——ええ。現時点では、それしか方法がなさそうです」
「じゃあ、にいちゃんはこのまま指を咥えて見送るつもりだったのか?」
その言葉に胸の奥が不快にざわつく。
「そんなわけ……ないじゃないですか。でも、自分の身すら守れずに足を引っぱるくらいなら……」
言葉が濁り、詰まる。
図星を突くような言い草なのに、彼の声には不思議と責めるような色がない。
それが余計に、自分の情けなさを際立たせた。
その眼孔の奥には、情や同情とは無縁のどこか不思議な静けさが宿っている。
「じゃあ、もし戦える手立てがあるなら――にいちゃんも行くんだな?」
「もちろんです。でも……」
ポケットの奥に突っ込んでいた壊れたスフィアを取り出し、手の中で見せた。
微かに感じられていた温かな拍動は完全に途絶え、痛々しくひび割れている。
鈍い金属光沢を返すだけのただのモノだ。
「障壁を張るための道具が、もう……」
九条はその破片へ不躾に視線を落とすと、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま呆れたように肩をすくめた。
「突然なんだが、俺は『眼』が良くてね」
話の脈絡が掴めず、自分と有栖さんは顔を見合わせた。
九条はそのまま淡々とした口調で説明を続ける。
「もちろん単純な視力が良いって話でもあるんだが……俺の眼は、人間が持っている力の器や、魂の『輪郭』がそのまま見える。――要するに、その人間に今どんな力が秘められているかが分かるってことだ」
九条は人差し指を一本立て、煙のように漂う夜気に向けてみせた。
「道具を使って能力を使うのは間違いではない。ただ、道具っていうのは補助輪みたいなもんだ。もちろん人によっては、道具がないと力を発現できない人間もいる。だが――お前は違う」
その眼は、自分の奥底を見透かすようだった。
「俺に、出来るんですか?」
思わず尋ねると、九条は口元を歪めてニヤリと笑った。
「いいか、イメージしろ。何物をも防ぐ障壁を。道具に力を注ぎ込むんじゃない――力の流れにイメージを載せて、外に出すんだ。外に作るんじゃない。自分の中からそれを表に出すんだ」
「自分の中から……」
九条の言葉を反芻しながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
冷たい夜気が頬を撫でるのを感じながら、意識のすべてを手のひらへ集中させる。
指先から掌を通じて、体内に眠る“力”を探り当てる。
血管の隅々を流れる仄かな熱。
それを掬い上げる。
形を作るのではない。
外へ。
息を止め、目を開く。
眼前には、半球状の淡い光の膜が浮かんでいた。
薄く透けるその膜は、夜の闇を柔らかく押し返している。
苦労も、抵抗もなかった。
拍子抜けするほどあっさりと――まるで最初からそこに散らばっていたピースを、ただ元の形に組み直しただけのような感覚。
拍動ひとつ分にも満たない短い時間で完成してしまった現実に頭が追いつかない。
「ほう……やれるじゃねぇか」
九条が感嘆混じりに口笛を吹く。
背後で有栖さんが呼吸を詰める気配がした。
左腕の包帯が血で黒ずんでいるのも忘れ、彼女は目を見開いてその膜を見つめている。
いつも冷静な彼女には珍しく、微かに唇を震わせている。
「凪さん……それ、道具を使わずに……?」
自分の掌を見下ろした。
淡い光の膜は、まだそこに留まっている。
冷たくも熱くもない。
ただ確かな存在感を伴って、周囲の空気の質をガラリと変えていた。
道具を介して発動させる障壁とは、明らかに異質だった。
膜の内と外で世界が分断されているような感覚。
揺らぎも不安定さもなく、打たれても容易には砕けそうにない。
「ついでだ」
九条が割って入る。
ジャケットの襟を立て直し、結界の薄明かりの中で鋭い眼光を放った。
「嬢ちゃんは結界を張れるか?」
「いえ……得意ではありません」
有栖さんが首を振る。
「じゃあにいちゃんはどうだ。結界を張れるか?」
「一応は……ただ、まだ検証が済んでいなくて――」
「検証? 張れないわけじゃないんだな?」
「はい」
答える間、喉の奥が微かに引きつった。
自分で言っておきながら自信があるわけではない。
だが否定もできなかった。
隣で有栖さんが小さな息を吐き出す。
「凪さんの張る結界は、普通の結界と仕様が違うんです。どういった効果があるのか、まだ詳細を調べきれていなくて……」
「――ついでだ。俺が観てやる」
九条の声が低く響く。
「部隊の人間と交代しろ。あいつらもそろそろ限界だぞ」
視線の先では、疲弊した隊員たちが肩で荒い息をついていた。
結界を維持し続けていた術者は、顔を土気色に染めている。
「分かりました」
有栖さんが頷き、三人で結界班の方へ歩き出す。
地面を蹴る自分たちの足音だけが、やけに響いた。
「さっきと同じ要領だ」
九条が隣で囁く。
「外に作るんじゃない。自分の中から表に出す感覚でやってみろ」
深く頷き、倒れかかっていた隊員の横に立った。
震える肩に手を添えると、相手の身体が強張った後安堵したように緩む。
――結界の核(かなめ)を委ねられるのを感じる。
意識を集中させる。
さっきと同じ流れ。
胸の内に灯る何か。
それを形にするのではなく、ただ外へ。
空間そのものへ。
――瞬間、暗い霧が裂けた。
空が変わる。
雲も星もない、ただ深い群青。
そこから舞い降りる無数の淡い光。
それは「夜空」だった。
膜ではなく、天穹そのものが広がっていく。
結界という概念を、まったく違う枠組みに置き換えていくかのように。
九条が短く息を吐いた。
「――ほう」
「霧が……」
有栖さんが呟く。
彼女の左腕に巻かれた包帯が、夜空の薄明かりを受けて白く浮かび上がる。
結界が押し広げられるにつれ、立ち込めていた濃霧は急速に薄まり空気が澄み渡っていく。
霧の奥深くで、おぞましい叫びが上がった。
『アァッ……!?』
魂喰の声だ。
苛立ちと混乱が入り混じった狂乱の叫び。
空間が強烈に震え、足元の地面が共鳴する。
だが、夜空は自分の予想すら超えて広がり続けた。
意識の端に引っ掛けていた範囲感覚が、引きちぎられた綱のようにどこまでも伸びていく。
五十メートル、百メートル――いや、それどころではない。
結界班が必死に維持していた膜を丸ごと呑み込み、その遥か外側まで。
水面に滲む墨のように、濃藍色が地面を建物の壁を這い、飲み込まれていく。
「うわっ……!?」
「な、何だこれ……!?」
隊員たちの悲鳴が交錯した。
自らの結界が消滅し、代わりに圧倒的な存在に取り囲まれたことを気づいた術者たちが息を詰まらせて硬直している。
あまりの威容に、何者かに捕らえられたかのような純粋な恐怖を抱いたのだ。
「皆さん、落ち着いてください!」
有栖さんが鋭く制した。
「これは敵ではありません! 安全ですから、一旦結界の外へ避難を!」
左腕の包帯を引き摺るようにしながら、彼女は結界の境界線へと走る。
自分も肩で呼吸を荒げながら、パニックに陥る術者たちを出口へと誘導した。
濃霧は「夜空」の範囲に触れた先から、煙のごとく掻き消されていく。
隊員たちは頭上の夜空を仰ぎ見ながら後ずさり、冷たい夜風の中で呆然と震えていた。
振り返ると――九条が呆然としていた。
両腕を下げたまま立ち尽くし、広大な夜空を食い入るように見上げている。
見開かれた眼の縁に、夜の影が深く落ちていた。
声も発さず、ただ圧倒されたように動きを止めている。
「九条さん……?」
声をかけると、彼は小さく肩を揺らした。一度ゆっくりと瞬きをし、荒っぽく顎髭を撫で回す。
「……ああ、すまん」
絞り出すような声だった。
「観た限りじゃ、問題ねぇ。問題ねぇどころか――結界としては完璧に近い」
思わず息を呑んだ。
「え……?」
「崩れる気配すらねぇよ。今まで観てきたどんな術者の結界よりダントツに安定してる。力の込め方も、場の固定も完璧だ。こんなの、そう簡単には破れねぇ」
九条は顎をしゃくり、夜空の一角を示した。
視線の先では霧が完全に払われ、雲ひとつない濃藍色が広がっている。
街灯も、街路樹も、ビルの陰影すらも。
そのすべてが、夜空の中に静かに収まっていた。
「じゃあ……このまま、いけるんですね」
九条は深く、重々しく頷いた。
「ああ。いける」
その瞬間、夜空の中央から地鳴りのような呻き声が轟いた。
霧を奪われた魂喰が、その禍々しい巨躯を露わにし始めている。
牙を剥いた怒号が鼓膜を打ち、本能が警鐘を鳴らす。
だが、この結界は微動だにしない。
自分の中で脈打つ力も、未だ枯れる気配はなかった。
「――行きましょう」
有栖さんが刀の柄に手をかける。
傷ついた猛禽のように鋭いその佇まいが、夜空の下で静かに銀光を放っていた。