「うざイうざイうざイうざイうざイうざイうざイうざイッ!!!」
耳をつんざく甲高い悲鳴が夜空の結界を這うように響き渡った。
霧という隠れ蓑を奪われ、濃藍色の闇の中にその全容が浮かび上がる。実体のまま固定されたその肌は濡れたように光り、鱗が不気味にうごめいていた。頭部の角と長い尾は蛇を思わせながら、どこか人に似た歪な輪郭を持っている。空間の輪郭すら眩ます幻惑的な気配を纏う異形。その金色の眼球がギラギラとこちらを射抜いていた。
「すぐ逃げる弱虫のくせニ、邪魔なんだヨォ!」
魂喰が地面を爆砕するように蹴った。先ほどまでの霧とは違う。質量と圧倒的な速度を伴った圧迫感が夜風を切り裂いて迫ってくる。頬を刺す殺意に思わず足がすくみそうになる。
掌を反射的にかざす。意識を込めるのは一瞬。夜空の領域と自身の内側を繋ぎ、内なる力をそのまま外へと押し出す。
「――壊れロッ!」
魂喰の硬質化した爪が見えない障壁へと叩きつけられた。嫌な音が夜の静寂を打ち破る。しかし障壁は軋みも凹みもしない。深い群青の光を帯びた障壁は静かに波紋を広げ、その破壊力を余さず弾き返した。
「――っ!?」
爪を弾かれた魂喰の顔に明確な驚愕が走る。直後、それは猛烈な憤怒へと塗り変わった。狂ったように爪を振り下ろし、障壁を叩き続ける。地面が砕け飛び散り、小石が頬を掠める。それでも自分が張った壁は揺らぎさえしなかった。
「なんデ!? なんで壊れないノォッ!」
叫びとも悲鳴ともつかない怒号。その大きな隙を有栖さんが見逃すはずはなかった。
―― 一閃。
銀の軌跡が夜空に一筋の閃光を刻む。無駄のない踏み込みから繰り出された刃が魂喰の腹部を斜めに断つ。だが刃が肉を断つ気配はなかった。斬りつけた先から身体が液体のように解け、刃を受け流してしまう。まるで攻撃の瞬間だけ身体が水のようになっていて、斬撃がまったく通っていないかのようだった。
「――アハッ」
魂喰が歪な笑みを浮かべた。水のように波打った腹部がすぐさま元の形を取り戻していく。有栖さんが即座に繰り出した追撃の斬撃も、重みのある濁流を薙ぐようにただ空を切るだけだった。確かな実体を持たぬまま魂喰はゆらりと空中で不気味に体を躍らせた。
「やっぱり僕は強いじゃないカァ」
幼児のような無邪気さと底知れぬ狂気が混ざり合った声。有栖さんの踏み込みが僅かに鈍る。左腕の傷が痛むのか、その身こなしからは冴えが失われつつあった。魂喰は低く喉を鳴らし、その凶器の矛先を変える。
「じゃア、お前が先ダ」
「有栖さん!」
叫びが夜風に溶ける。魂喰の爪が薄明かりを照り返し有栖さんの肩口へ向けて振り下ろされた。彼女は間一髪で刀の腹を滑り込ませるが、強烈な質量の濁流に押し負けアスファルトの上を滑るように弾き飛ばされた。
「……っ」
短い呼気が漏れる。膝をつき呼吸を詰まらせながらも有栖さんは必死に刀を構え直した。包帯の巻かれた左腕から再び暗い赤が滲み出していく。
ふと傍らから声が届いた。
「おい、黒須」
九条だ。夜空の薄明かりを受けてもなお、その眼光は変わらず鋭い。
「夜空にある星もただの飾りじゃねぇだろ。試してみろ。あの魂喰を抑え込むくらいなら、いけるはずだ」
見上げた天穹で、ひとつひとつの光が静かに呼吸しているのを感じた。自身の脈動と重なり合うような淡く確かな存在感。道具を通すまでもなく、この夜を支える力そのものが自分の内側に満ちている。何ができるのか――それは思考を挟む間もなく、感覚として理解できた。
立ち込めていた霧は晴れ、頭上からは優しく光が降り注ぐ。すべてを覆い守る領域。そして――敵を穿つ力。
間合いを仕切り直すように有栖さんが魂喰から大きく距離を取った。一瞬の静寂が空間を支配する。その無音の隙間を切り裂いて、背後から低い声が届いた。
「――今だ」
九条の声は指示というよりも、そっと背中を押すような優しさがあった。その声に促されるように、全身の力を一気に巡らせる。意識を澄ませ、まっすぐに差し伸べた手を静かに引き下ろした。
「――ッ!」
喉の奥から切迫した息が漏れる。内側から溢れ出す力の波紋に、身体が微かに震えた。頭上の星々が一斉に揺らぎ、極限まで凝縮された光が降り注ぐ。数多の銀糸が束となり、魂喰めがけて一直線に放たれる。無数の白銀の刃が敵の四肢を深く貫き、そのまま地面へと縫い留める。
「――ア゙ッ!?」
魂喰が絶叫した。縫い留められた四肢を強引に引きちぎらんばかりに身をよじり、激しい抵抗に鱗の擦れ合う音が響く。しかし肉体を貫く光の槍は一ミリの揺らぎすら与えない。
その千載一遇の隙を、逃すはずがなかった。
「――有栖さん!」
彼女はすでに踏み込んでいた。影のように地面を滑り、跳躍する。夜風を断ち切る刃の音。有栖は魂喰の正面へと肉薄した。その尋常ざる速度に、敵の金色の瞳が一瞬だけ惑う。抵抗しようと指先を蠢かせるも、幾本もの光の槍に貫かれた両腕は地面に縫い留められたまま虚しく震えるばかりだ。
そのとき何かを掴んだ。夜空の領域全体へ、水面に滴が落ちたような波紋を感じる。領域を満たす光の粒が円状に脈打ち、跳ね返ってきた振動が敵の内部に隠された核の位置を指し示していた。歪な拍動の波紋を感じ取り、反射的に声を張り上げた。
「――首元! 顎のすぐ下です!」
有栖の瞳が一瞬だけこちらを捉えた。迷いのない眼差しで深く頷くと、彼女は瞬時に刀身を翻す。白銀の軌跡が夜空に閃光を刻む。
「――ッ!」
魂喰が必死に身をよじる。貫かれた四肢を強引に引きちぎらんばかりに暴れるが、刺さったままの光の槍は一糸の緩みもなく地面に縫い留め続けていた。
肉を断つ鈍い感触とともに、鋭い一撃が核を深く穿つ。核を貫かれた瞬間、魂喰の体が大きく弓なりに仰け反った。
「――――――ッッ!」
声にならない悲鳴。光の槍が弾けて消えると同時に、刺し貫かれていた巨躯がそのままアスファルトの上へドサリと崩れ落ちた。核を失った肉体は硬直した骸となってその場に横たわっている。静けさが夜を包み込んでいった。
――ドクンッ。
胸の奥で、自分の鼓動が大きく鳴り響いた。足元の地面が揺れたような錯覚に襲われ、思わず胸を押さえて俯いた。心臓が跳ねる音が耳の奥で暴れ回る。痛みではない。何かが流れ込んでくる感覚。熱いような冷たいような、形容しがたい混濁したものが血管を駆け巡る。
「……なんだ……?」
指先が微かに震え、冷や汗が背中を伝う。顔を上げられないまま、自分の中で渦巻く感覚の波に飲まれそうになる。
「おい。平気か?」
九条さんの声が届いた。冷静で鋭い声色。少し離れた場所に立ち、この状況を静かに観察している気配がする。飄々とした雰囲気は薄れ、慎重な眼差しでこちらの様子を捉えているのが分かった。
ついで、有栖さんの足音が駆けてきた。砂利を踏みしめる、硬く切迫した響き。
「凪さん――! 大丈夫ですか?」
左腕の包帯から血が滲んでいることも構わず、彼女は傍らに膝をついた。心配そうに顔を覗き込まれる。そっと差し出された掌の温もりが微かに触れる。息を整えようとしたが、漏れる吐息は不規則に震えていた。
「……なん……か……が……入ってきて……」
「ゆっくり深呼吸して落ち着いてください」
有栖さんが静かに囁く。
「異常はありますか? 痛みは……苦しいですか?」
首を横に振る。痛みはない。けれど見知らぬ異物感と、制御できない熱量が胸の奥で重く渦を巻いている。
九条さんは離れた場所からその様子を観察していた。眉を微かにひそめ、危険と興味が混ざり合った眼差しをこちらへ向けている。
深く息を吸い込み、冷たい夜気を肺の奥まで満たした。胸の内で渦巻いていた熱が、時間をかけて徐々に静まっていく。指先の震えも収まり、掌に残っていた粘つくような感触が薄れていった。夜空の結界が脈打つ力も、今は穏やかな残響を残すのみだ。
「……もう、大丈夫です」
掠れた声で告げると、有栖さんは安堵したように肩の力を抜いた。差し出されていた手をそっと引き、それでもなお心配そうにこちらを見つめてくる。その瞳が、夜の静けさの中で揺れていた。
視線を移せば、少し離れた場所で九条さんが腕を組んで立っていた。ジャケットの襟を微かに揺らし、鋭い視線でこちらを捉えている。
「……ありがとうございました」
深く頭を下げると、有栖さんも隣で同じように礼を取る。
「貴方がいなければ、私も……凪さんも危うかったです」
九条は僅かに眉を上げ、肩をすくめた。
「いや、見ていただけで悪かったな。まあ、手伝う必要もなさそうだったが」
皮肉めいた言い回しだったが、声には確かな称賛の色が混じっていた。
「お前ら、存外面白い組み合わせだ」
顔を上げると、九条の眼差しは相変わらず底が見えないものの、どこか受け入れてくれているような温かみがあった。
「俺は部外者だから深入りせんが――力ってのは使う人間次第だ。人が変われば、自ずと使い方も変わっていく。捉え方もな……。覚えておくといい」
淡々とした口調だったが、それ以上を語る気はないとばかりに視線を逸らした。
「さて……俺の役目は終わりだ」
九条は踵を返す。
「また縁があったら会おう。せいぜい長生きしな」
肩越しに手を挙げ、振り返ることもなく暗闇の中へ溶けていく。街灯に照らされたアスファルトの上で長身の影が小さくなり、やがて夜の暗がりへ完全に消えていった。
「……行ってしまいましたね」
有栖さんが呟く。左腕の包帯が月明かりを浴びて白く浮かび上がっていた。
「私達も、帰りましょう」
彼女は微笑み、刀を鞘に納めた。金属の擦れる澄んだ音が夜気に吸われていく。
「――ええ」
応じながら、頭上に広がる夜空の結界に意識を向けた。天穹を覆っていた濃藍色が、ゆっくりと内側へ折り畳まれていく感覚。星々の光が砂時計の砂のように細かく砕け、静かに地上へと降り注ぐ。目に見えない微細な粒子が身体を通り抜けるたび、乱れていた鼓動がひとつずつ整っていった。
夜空が完全に消え、周囲の景観が本来の色彩を取り戻す。張り詰めていた緊張が解け、ただ静かな夜の街並みだけがそこに残された。
遠くから隊員たちの呼ぶ声が聞こえる。安堵の混じったその声を聞きながら、有栖さんと並んで歩き出した。街角を曲がり、結界外の救護班が待つ場所へと向かう。舗装された路面が靴底に小気味よい響きを返した。濃霧は完全に晴れ渡り、空には淡い月が佇んでいる。夜の帳に包まれた街は静かで、どこか柔らかな呼吸をしているように感じられた。
「――有栖さん」
歩みを揃えながら、小さく声をかける。
「どうしました?」
「……今日の件、本当にありがとうございました」
率直な気持ちだった。彼女がいなければ、自分がここに立っていることはなかった。有栖さんはわずかに目を伏せ、唇の端を和らげる。
「こちらこそ。貴方がいなければ……私だけでは無理でした」
互いに労う言葉はそれ以上必要なかった。共に戦った時間の濃さが、言葉よりも深く胸に沁みていた。
救護陣地が近づく。隊員たちはまだ緊張を解いていない様子だったが、こちらの姿を認めるとホッとした表情で駆け寄ってきた。
「ご無事で!」
リーダー格の術者が息を切らせて立ちはだかる。汗と埃にまみれた顔が街灯の光に浮いていた。
「魂喰は討伐しました。結界班の方々も被害はありませんでしたか?」
「はい! 我々も何とか持ち堪えました。――お二人のおかげです。ありがとうございました!」
彼らの瞳には深い疲弊が残っていたが、その奥に確かな安堵が滲んでいた。
自分は小さく頷き、有栖さんと視線を交わす。彼女も微かに頷き、口を開いた。
「本部に連絡を。任務終了です。後、処理班の派遣を要請してください」
通信機を受け取り短く伝える彼女の横顔は、戦いの名残で僅かに紅潮していたものの、どこまでも凛としていた。ふと夜空を見上げる。霧はもうどこにもない。けれど掌にはまだ、あの結界の重みが残っている気がした。
撤収の手続きが始まる中、有栖さんが隣で小声で囁く。
「――また明日から、分析と検証の日々ですね」
「そうですね。でも……今日はもう十分です」
「ええ。今はゆっくりと休みましょう」
互いに微かな笑みを交わし、冷たい夜風を深く吸い込んだ。隊員たちに見送られながら、自分たちはゆっくりと歩き出す。街灯の光が伸びる道を、ひとつ先の未来に向かって。