通信機のボタンを押すと、雑音の向こうから空木さんの声が聞こえてきた。
『――黒須くんか。状況は?』
「魂喰は討伐できました。有栖さんと自分は、大きな怪我はありません」
短く報告する。掠れた声で報告しながら、通信機を握る掌の汗をそっと拭った。
『ご苦労さま。よくやってくれた。……詳しい報告は後日でいいから、一度こちらまで戻れるかい?不調がないかだけ確認させてほしい』
「はい、すぐ戻ります」
短く返事をして通信を切る。振り返ると、有栖さんが少し疲れた表情で佇んでいた。左腕の包帯は赤黒く染まったままだが、本人は意に介していない様子だ。足取りは確かで、背筋もまっすぐに伸びている。
「行きましょうか」
二人で撤収作業に入った隊列から離れ、救護班の陣地を後にした。アスファルトを叩く靴音が静けさにひどく響く。あれだけの戦闘の直後だというのに不思議と疲労感は軽く、身を撫でる夜風が心地よく感じられた。立ち込めていた霧の痕跡は完全に消え去り、空には澄み渡った月が静かに浮かんでいた。
手配された車で神楽本社ビルに着く頃には、時刻は午後八時を過ぎたところだった。
街はまだ宵の口で、街灯や沿道の店の明かりが華やかに路面を照らし、行き交う人々の雑踏が賑やかに響いている。だが、一歩神楽本社ビルの中へ足を踏み入れると、重厚なガラス扉に遮られて外の喧騒は一瞬で遠のいた。
ひんやりとしたエントランスホールを進み、受付を通り抜けると、白衣の裾を揺らして空木さんたちが迎えに出てきた。眼鏡の奥の目が、安心したように細められる。
「二人とも、お疲れ様。本当にありがとう」
「空木さん。出迎えていただいてすみません」
「いやいや、君たちの方が遥かに大変だったろう。――ひとまず怪我の状態を軽くチェックさせてもらえるかい? 大きな怪我がなくても、身体に負担がかかっているかもしれないからね」
「はい。あの……」
言葉を一度区切り、有栖さんの左腕へ視線を送った。
「有栖さんの腕を先に見てもらえませんか?自分は後で大丈夫なので」
有栖さんは目を丸くし、一瞬考えてから困ったように微笑んだ。
「あぁ、そういえば言っていなかったですね」
小さく苦笑しながら、有栖さんが左腕の包帯に手をかけた。白い布がゆっくりと解かれ、肌が露わになる。
思わず息を呑んだ。
包帯の下にあったのは、傷痕すら薄く残るだけのほぼ完治した左腕だった。赤黒く染まっていた布とは裏腹に、肌は滑らかで、痛々しかった裂傷の跡は微かな線として残るのみ。血の滲みも乾きすらもなかった。
「これは……」
「魄が発達しているせいか分かりませんが、傷の治りが異常に早いんです。だから大丈夫ですよ」
もう痛みもないですしと涼しい顔で言い、軽く肘を曲げて見せた。関節も滑らかに動いている。固まってしまった医療スタッフの驚きを、彼女は困ったような苦笑いで和らげるように制した。
「ですので、大きな処置は必要ありません。ただ念のため、消毒と表面の血を拭っていただけますか?」
スタッフは我に返ったように頷き、消毒液を含ませた清潔なガーゼで残った血痕を丁寧に拭き取っていく。有栖さんは素直に身を任せていた。その横顔は相変わらず端正で、疲労を滲ませつつもどこまでも凛としている。
「凪さんこそ大丈夫ですか?」
「え?」
「あんな力を発動して、違和感や負担はありませんか?」
「――いえ。疲れてはいますけど、特に違和感とかはないですよ」
「そうですか。でも、無理は禁物ですよ?」
「わかっています」
軽く視線を交わし、手当てを受ける。肌を清拭し、炎症がないかを確認する程度で済んだ。自分自身、多少の倦怠感以外に支障は感じていない。手当てを終え、椅子に腰かけたところで空木さんが声をかけてくれた。
「詳しいことは明日で構わないよ。ひとまずゆっくり休みなさい」
「ありがとうございます」
「ただ、私達は既にホテルをチェックアウトしてしまっていて……」
「そうか。それなら手狭で悪いが、ここの宿泊施設を使いなさい。こんな時間からホテルを探すのも面倒だろう?」
願ってもない提案に有栖さんと目を見合わせ頭を下げる。
「助かります」
「こちらこそ助けてもらったんだから当然だよ。それより今日は安静に。明日、目が覚めて体調に問題がなければ連絡してくれ。もし体調が優れなかったら即医務室だよ」
「わかりました」
「じゃあ案内してあげてくれ」
空木さんの指示で、スタッフが二人をエレベーターホールへ導く。地下1階のワンフロアが宿泊棟になっているらしく、長い廊下には最小限の照明しか灯っていない。
「それぞれお部屋をご用意しますので、自由にお使いください」
「ありがとうございます」
軽く会釈をし、有栖さんと隣り合った二室の扉を見比べた。
「じゃあ、また明日」
「ええ、おやすみなさい」
短い言葉を交わし、それぞれの部屋に入る。重いドアを閉めた途端、密閉された静寂がどっと圧し掛かってきた。一人になった安心感からか、張り詰めていた糸がふっと切れる。手当ての最中には意識していなかった重い倦怠感が、足元からじわじわと這い上がってくるのが分かった。思いのほか、自分も気を張っていたらしい。
シャワーを浴びる気力も起きず、吸い寄せられるようにベッドへ身を投げ出す。柔らかい枕が頭を受け止め、シーツが微かに衣擦れの音を立てた。遅れてやってきた疲労に身を委ねるように、意識は急速に深みへと沈んでいく。そのまま深い眠りの中へ落ちていった。
――夢を見た。
気がつくと、完璧な静寂と漆黒の中にいた。
暗く、何もない世界だった。
どこまでも続く闇の中に立ったまま、自分は無心で手を動かしていた。
手には、重く冷たい「棒」のような感触がある。
それが何なのかは分からない。ただ、足元の虚無に突き立て、ひたすらにかき混ぜ続けていた。
声もない。音もない。光もない。
ただぐるぐると、円を描き続ける。
どうして混ぜているのか、何をしようとしているのかも分からないまま、ただ手だけが動き続けていた。
不意に、背中に温もりを感じた。
何もない世界の中で、それだけが優しく胸の奥へ染み込んでくる。
胸が痛むほどの切ない親愛の情。この暗闇の中で、その温かみだけが自分をこの世界に繋ぎ止めてくれている気がした。
誰なのだろうと、その温もりの主を確かめるためにゆっくりと振り返ろうとする。
――その瞬間、目が覚めた。
ぱちりと瞼を開けると、灰色の天井と簡素な蛍光灯がぼやけて見えた。
白く四角い天井。宿泊棟の一室だ。耳をすませても、どこか遠くから小さな雑音が届くだけの静かな朝だった。
「……夢?」
掠れた声が唇からこぼれ落ちる。
寝台の上で身を起こすと、背中の骨が心地よく伸びた。
夢の中の暗闇も温もりも、もう泡のように静かに溶けていっていた。
けれど――胸の奥に微かに残る気配に、戸惑いを覚える。
戸惑いというよりは、記憶の底から滲み出てきたような懐かしさ。
背中に触れていた静かな温もりは、どこか有栖さんの纏う空気や、その佇まいの奥にあるものによく似ていた。
だが、何かが違う。見慣れているはずの彼女の雰囲気と、どこか決定的に重なりきらない違和感がある。
胸の奥の微かな引っかかりを振り払うように吐息を落とし、ベッドから脚を下ろした。
ふと、身体の軽さに気がつく。寝る前の重い疲労感はきれいさっぱり消え去り、むしろ爽やかなまでにすっきりとしていた。
身の回りを見渡し、壁にかけられた時計の文字盤を確認する。午前七時。思ったよりもしっかり眠れていたようだ。
空木さんに言われた通り、ひとまず体調を確かめる。腕を回し、首を傾け、深呼吸をひとつ。違和感は何もない。
端末の画面を見ると、有栖さんからの通知が入っていた。
『おはようございます。体調はいかがですか?』
『大丈夫です。有栖さんは?』
『こちらも問題ありません。朝食を取ってから向かいましょうか?』
『そうしましょう』
画面を閉じると、不思議なことに胸に残っていた夢の気配も、すっかり輪郭を失っていた。
「まあ、夢なんてそんなもんか」
ひとりごちて、洗面台に向かった。蛇口を捻ると冷水が勢いよく流れる。顔を洗いながら鏡を覗き込むと、そこにはいつも通りの自分が映っていた。寝癖のついた髪を指で梳かしながら、タオルで水分を拭う。濡れた鏡の中の姿は、少なくとも表面上は普段と変わりなかった。
支度を終えて部屋を出ると、廊下のベンチに有栖さんが腰掛けて待っていた。
「おはようございます。ちゃんと眠れましたか?」
「おはようございます。おかげさまで。有栖さんも?」
「ええ。昨日よりは随分良くなりました」
挨拶を交わし、二人で併設の食堂へと向かう。簡素ながら温かい朝食を二人で静かに摂り終える頃には、気持ちもすっかり落ち着いていた。
食堂を出て、エレベーターに乗り込む。静かに数字を減らしていく階層表示を見つめているうちに、目的のフロアへと到着した。
ドアが開くと、研究室前の廊下が広がっていた。目的の場所へ歩きながら見る研究所は薄暗く、コンピュータの冷却ファンの唸りだけが遠くから聞こえてくる。
「行きましょうか」
有栖さんがそう言って空木さんの部屋のドアに手をかけた。
室内へ足を踏み入れると、人工的な冷たい空気が頬を撫でた。照明は控えめで、壁際のモニターが青白い光を放っている。靴底が床のタイルを捉える静かな足音を立てながら、奥へと進んだ。
「来てくれたか。おはよう」
デスクから空木さんが顔を上げる。白衣の襟元が少し乱れており、どうやら徹夜だったようだ。
「おはようございます」
挨拶を返そうとした瞬間、視界の端で動くものがあった。ソファに腰掛けていた人影が、バネのように立ち上がる。
「環さん……?」
有栖さんが驚いたように声を漏らした。
「来た来た! 二人ともおはよーっ!」
環さんが手を振りながら小走りで近づいてくる。昨日までの白衣姿とは違い、今日は丸首のセーターに膝丈のスカート。その明るい佇まいは、薄暗い研究室の中で陽射しのように鮮烈だった。
「えっと……なんでここに?」
思わず尋ねると、環さんは胸元に抱えていたファイルをパタパタと振った。
「だってさ、二相が現れて二人が戦ったって聞いて……心配で来ちゃったよ! 怪我はない?大丈夫?」
彼女の目は心配と好奇心が半々で、自分と有栖さんの顔を交互に見比べてくる。ソファから立ち上がった空木さんが、小さくため息をついた。
「……と言いつつ、君は君で二相の研究素材が欲しかっただけだろう」
「うっ……バレたか〜。でも心配も本当だよっ!」
環さんはペロッと舌を出して誤魔化す。その無邪気さに、こちらの毒気も抜けてしまった。
「自分は……特に何とも。怪我もなく、すこぶる元気です」
苦笑しながら答えると、有栖さんが隣で頷いた。
「私も大丈夫です。ご覧の通り」
彼女が左腕を軽く回してみせる。包帯は既に外され、痛々しかった傷痕すらほとんど残っていない。環さんが目を丸くした。
「え、有栖ちゃんもう治ってるの!? でも無理は禁物だよ?」
「ええ。気をつけますよ」
短い言葉の応酬。二人の間に流れるのは、互いを思いやる柔らかな空気だった。
「――で。環の件は置いておいて」
元気な環さんに苦笑する空木さんはコーヒーカップをデスクに戻した。
「疲れているところすまないね。昨日の現場でのことが気になるんだ。ざっとで構わないから、何が起きてどう対処したのかを教えてもらえるかい?」