いつかかえるところ   作:くろまめのにまめ

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七話

車は、夕闇の中を滑るように走っていた。

窓の外では、まだ残照が地平線の端を焼きながら、ゆっくりと夜へと傾いていく。

二月の空気は冷たく、街灯がひとつ、またひとつと灯り始める頃合いだった。

 

エンジン音の奥で、有栖さんは無言のまま前方を見据えている。

その横顔は黄昏の陰影に沈み、表情までは読み取れない。

俺もまた、流れていく街並みに視線を預けていた。

ただ、眺めているだけなのに、どこか遠く――深い海の底を覗き込んでいるような、そんな感覚があった。

 

不意に、電子音が静寂を破った。

所長の声が、端末越しに淡々と響く。

 

「現時点では魂喰の直接確認には至っていないわ。ただ、周辺地域の一般人に対する避難誘導は完了済みよ。結界による遮断も済んでいるから、結界内部へ侵入して対象を探してほしい」

 

抑揚の少ない声だった。

それでも、その奥に張りつく緊張だけは端末越しでもはっきりと伝わってくる。

 

「逃げ遅れた人はいないんですか?」

 

声は、思っていたよりも低く落ちていた。

言葉はそのまま、静かな空気の中へと沈んでいく。

 

「現時点では不明ね。先行部隊にそれほどの戦闘能力はないの。足止めするので精一杯よ。結界内で活動を押し留めているだけで、それ以上を求めるのは酷だわ」

 

「そうですか……」

 

画面の向こうで、所長は静かに言葉を閉じた。

そのまま、通信は途切れる。

 

車内に、再び沈黙が落ちた。

夕闇が深まるにつれて、胸の奥に微かなざわめきが残る。

気づけば、指先に力が入っていた。

膝の上で組んだ手が、わずかに軋む。

 

――まだ着かないのか。

 

そんな考えがよぎった瞬間、視線に気づく。

有栖さんが、こちらを見ていた。

 

「気持ちは分かりますが、逸らないでください」

 

静かな声だった。

抑えられているはずなのに、不思議とまっすぐ芯に触れてくる。

 

「……落ち着いて」

 

わずかな間を含んだその一言が、胸の奥へと静かに落ちていく。

何かを返そうとしたが、言葉になる前に車は川沿いの道へと滑り込んだ。

 

灰色に霞んだ水面が、視界の端に滲む。

夕暮れに沈む大地は、いつの間にか淡い藍を帯びはじめていた。

うまく切り離せず、抱えたままここまで来てしまった。

 

不意に、カチッと小さな音がした。

運転手がサイドミラーを調整しただけの、些細な音。

それだけが、黄昏の静けさにわずかな波紋を広げる。

 

やがて車は、舗装の途切れる手前で静かに止まった。

ドアを開けた瞬間、川の匂いを含んだ空気が頬を撫でる。

二月の風は、まだ冬の冷たさを手放していない。

 

結界の境目――そこに、いくつかの人影が浮かんでいた。

防護服に身を包んだまま、無言で装置を操作している。

近づくと、そのうちの一人が顔を上げた。

 

「東雲さん……お待ちしておりました」

 

息を整えながら、有栖に向けて頭を下げる。

 

「申し訳ありません。我々では維持するだけで精いっぱいでした。このままだと……」

 

言葉は静かだったが、その奥にある焦りだけは隠しきれていないように見えた。

有栖さんが頷き、こちらを見る。

 

「凪さん、交代をお願いできますか」

 

「任せてください」

 

咲良さんから託された金属のキューブを取り出す。

既にある結界の外側から重ねるように意識を向けた。

集中し力を込めていくと、淡い光の膜が現れそのまま包み込んでいく。

 

「……これで、大丈夫そうですか」

 

先遣隊が息を吐き、装置を停止させる。

額には汗が滲んでいた。

維持し続けるだけでも、相当な負荷がかかっていたのだと思う。

咲良さんが言っていた『安定』という言葉の意味を、今更のように理解する。

 

「ありがとうございます……これで何とかなります」

 

「――内部に、人の反応はありますか?」

 

有栖さんの声が、わずかに鋭さを帯びる。

一人が探知装置を指さした。

 

「非常に微弱ですが……反応があります。生存者の可能性は高いです」

 

反応があると聞き、じっとしていられなくなる。

一刻の猶予もない。

踏み入るしかないように思えた。

 

「環さんから借りてきた道具は、持ってきましたか?」

 

歩みを止めないまま、有栖さんが問いかける。

 

「渡された中にあったよ」

 

「中に入ったら、すぐにそれを使って生存者を探しましょう。おそらく、凪さんが使った方が精度が高いはずです」

 

「……分かった」

 

「行きますよ、凪さん」

 

言葉と同時に、結界へ踏み込んだ。

 

 

 

黄昏はすでに色褪せ、夜が来ていた。

冷気が皮膚を切り、暗がりが視界を狭める。

河川敷は暗く沈み、頼りとなるのは月明かりのみ。

探知器を探る指先が、かすかに震えていた。

だが、止まってはいられない。

生きてほしいと願うことだけで、ここまで来たのだから。

 

探知機に意識を向けると、波紋が広がっていく。

水面に落ちた一滴のように、感覚だけが遠くへ伸びる。

 

やがて、反応が返ってくる。

二つ。

一つは大きく、不規則に大きく脈打つ――何か。

もう一つは小さく、細く、かすかに揺れている――人間。

 

「……二つ、反応があります。おそらく魂喰と、人間です」

 

「どのあたりです?」

 

「河川敷の奥、川に近いところ……」

 

有栖さんが頷き、歩を速めた。

急ぎその後を追う。

 

枯れた土を踏む音だけが、静けさの底に沈んでいく。

月光は薄く滲み、地面の凹凸をかろうじて浮かび上がらせていた。

やがて、視界の端にわずかな違和感が差し込む。

 

菜の花だった。

冬の中に取り残されたように、蕾のまま群れている。

その奥で、何かが揺れた。

 

「――待って」

 

有栖さんが短く制止の声を上げる。

次の瞬間、影が躍り出た。

小さな影だった。

泥にまみれた少年。まだ幼い。

 

「たすけて! パパとママをたすけて!」

 

叫びが掠れ、夜の空気を震わせる。

有栖さんが一瞬だけ動きを止める。

その隙に、視線が交わった。

 

「凪さん、私が前を行きます。貴方はその子を」

 

迷いのない声だった。

咲良さんから渡されていた装置――障壁を展開するためのものを握る。

子供を抱え直し、そのまま奥へと足を踏み出した。

有栖さんは先に進み、ときおり振り返る。

そのたびに、視線だけが確かめるように触れてきた。

菜の花の列へ踏み込む。

湿った茎が腕に触れ、わずかな冷たさを残した。

 

そして。

 

闇の奥に、それはいた。

あの夜と同じ白い巨躯。

口のような裂け目から、ぬめる液体が滴っている。

その足元に、人影が倒れていた。

 

父と母らしき二人。

動いているようには見えなかった。

だが、距離があるせいで判然としない。

鉄錆のような匂いが、風に混じってかすかに届いた。

腕の中で子供が倒れている両親の方へ行こうと必死にもがく。

反射的に、腕に力が入った。

 

「パパぁ! ママぁ!」

 

泣き叫ぶ声が鼓膜を貫く。

腕の中で、子供の体が強く震えていた。

体温はひどく冷たく、離せば消えてしまいそうな錯覚がよぎる。

反射的に、障壁のデバイスを起動する。

淡い蒼の膜が展開し、俺たちを包み込んだ。

それでも叫びは途切れない。

耳元で暴れる声が、思考を削っていく。

 

その中で、有栖さんの気配が変わる。

有栖さんが刀の鞘を投げ捨てた。

月光が刃を鈍く照らす。

息を殺したまま、地を蹴る。

 

白濁した顔面――眼孔のないそれが、こちらを向いた。

刹那、有栖さんの姿が霞む。

 

銀閃が弧を描く。

空気を裂きながら踏み込み、そのまま一度斬り抜けた。

 

初撃は空を切る。

直後、魂喰の巨体が跳ねた。

地面ごと押し潰すように尾のような部位が振るわれる。

空気が歪み、圧が押し寄せる。

有栖さんはその軌道を見切り、地を蹴って横へ逃れる。

着地と同時に体勢を崩さず、そのまま次の間合いへ滑り込んだ。

 

「左!」

 

声と同時に、障壁の角度を切り替える。

子供の揺れに合わせて、展開をわずかに追従させる。

 

魂喰の意識が一瞬だけこちらへ流れたように感じた。

――息が止まる。

だがすぐに有栖さんが動く。

踏み込みは直線ではなく、半円を描くように地を滑る。

距離を潰しながら、もう一度刃を振るう。

今度は動きそのものを断つ軌道。

 

斬撃。

 

魂喰の上体がわずかに遅れて揺れた。

だが止まらない。

傷口から赤黒い靄が噴き出し、形を保とうと蠢いた。

肉が逆流するように盛り上がり、傷を塞ごうとする。

 

「再生速度が早い……!」

 

呟くのと同時に、有栖さんは一歩引いた。

攻撃の形が変わる。

斬り伏せるのではなく、崩すための連撃へ。

 

踏み込み、斬る。

引いて、次の角度へ。

 

魂喰の攻撃を誘いながら、その起点だけを潰していく。

俺は障壁越しにそれを見ていた。

魂喰の咆哮が空気を震わせるたびに、地面が揺れる。

重い圧だけが積み重なっていく。

 

その中で、腕の中の重さだけが現実だった。

子供は嗚咽を漏らしながらも、目を離さない。

倒れたままの両親を見つめ続けている。

俺にできるのは、この障壁を維持することだけだ。

時間の感覚が薄れていく。

 

一瞬、空気が止まる。

その刹那。

視界から、有栖さんの姿が消えた。

次に見えたときには、すでに間合いの中にいる。

刃が走る。

 

一閃。

 

その軌跡は、まるで落ちる星のようだった。

白い巨躯が遅れて歪む。

首筋から胸へ、斜めに裂けるように傷が走る。

赤黒い流体が噴き上がり、形が崩れていく。

抵抗するように蠢いた肉体は、やがて力を失い、夜へ溶けるように崩れ落ちた。

 

終わった――

そう思った瞬間、身体の奥に、微かな違和感が走った。

 

何かが流れ込んでくる。

 

液体でも粒子でもない。

ただ、形のない“気配”のようなもの。

意識の境界が、わずかに揺らぐ。

 

「―――」

 

言葉にならない感覚。

熱でも冷たさでもない。ただ“在る”という実感だけが残る。

やがて、それも薄れていく。

魂喰が消えたあとの夜気は、異様なほど静かだった。

鼓動だけが、やけに大きく響いている。

腕の中の子供の嗚咽も、遠く感じる。

それでも、ここにいる。

生きている。

 

有栖さんが刀を納め、こちらへ戻ってくる。

その顔には汗が浮かんでいたが、動揺はない。

 

「無事ですか?」

 

その声で、現実に引き戻される。

 

「……ああ、なんとか」

 

頷いたが、体の奥の違和感はまだ残っていた。

正体は分からない。

だが今は、それを考える余裕はない。

守るべきものは守った。それだけは確かだった。

 

障壁を解除する。

子供を改めて抱き直した。

 

「大丈夫。もう大丈夫だよ」

 

言葉は、思ったよりも自然に出ていた。

夜は深く沈み、結界の外では変わらない日常が続いているはずだった。

この河川敷には、静けさだけが残っていた。

そして、倒れたままの二人と、俺たち三人。

有栖さんが鞘を拾い上げる。

 

「行きましょう。まずはこの子を保護します」

 

その言葉に、足が動きかけて――止まる。

視線が、倒れたままの二人に向いた。

 

「……あの二人は?」

 

問いは短く落ちた。

有栖さんは一瞬だけ言葉を選び、そして目を伏せる。

それ以上は、何も言わなかった。

 

気づけば、子供の泣き声は止んでいた。

腕の中で、浅い呼吸だけがかすかに上下している。

覗き込むと、蒼白な瞼は閉じていた。

睫毛の端に残った涙が、月明かりを細く反射している。

指先に残る微かな震えだけが、この現実を繋ぎ止めていた。

ポケットから小型端末を取り出し、所長へ通信を入れる。

 

「黒須です。討伐完了しました」

 

「お疲れ様。二人とも無事?」

 

「有栖さんも私も問題ありません。ただ、子供を一名保護しています」

 

わずかな間のあと、返答が落ちる。

 

「そう……。念のため、周囲の反応をもう一度確認して」

 

言われるままに探知を起動する。

波紋が広がった。

だが今度は、何も返ってこない。

魂喰の気配も、人の反応も、もう残っていなかった。

 

「……反応ありません」

 

そう告げる自分の声だけが、妙に乾いて響いた。

 

「分かったわ。復旧班を向かわせる。あとは任せて戻ってきて」

 

「了解です」

 

短く応じて、通信を切る。

報告をしたことで、ようやく終わったのだと実感が追いついてくる。

 

「片付けは彼らに任せましょう。戻りましょうか」

 

その言葉に頷きかけて――一度だけ、背後を見る。

月光に照らされた河川敷。

そこには、二つの人影が横たわっていた。

 

父と母。

 

距離のせいか、動いているのかどうかも分からない。

ただ、そこに在ることだけが、やけに鮮明だった。

短く目を閉じる。

抱えていた子供の体が、かすかに動いた。

 

「行きましょう」

 

誰に向けるでもなく、そう呟く。

 

 

 

結界の外へ。

夜気がわずかに冷たくなる。

外の時間が、何事もなかったかのように流れている。

その感覚だけが、妙に現実的だった。

外には先遣隊が待機していた。

報告を伝えると、隊長格の男が静かに頭を下げる。

 

「ありがとうございます。生存者は……」

 

「保護しました」

 

腕の中の子供を見せると、男は短く息を呑み、黙って頷いた。

 

「結界を閉じてもらえますか」

 

有栖さんが、小さく促す。

それに応じるように、金属のキューブを握り直した。

ひやりとした感触が、指先から意識を引き寄せる。

ゆっくりと、結界へ向けていた感覚を手繰り寄せる。

その瞬間、繋がっていた何かが、静かにほどけた。

次の瞬間には――

境界は、最初から存在しなかったかのように消えていた。

 

残された静けさの中で、視線が自然と腕の中の子供へと移る。

意識を失ったまま、それでも離すまいとするように、制服の裾を強く握りしめている。

指先に込められた力だけが、かろうじて現実に繋ぎ止めているように見えた。

 

「無理に外すのはかわいそうですよね……」

 

有栖さんの声が、かすかに揺れる。

視線は、握りしめられたままの指先へ向いた。

その力の入り方だけで、どれだけ必死なのかが伝わってくる。

無理に引き剥がすべきではない。

せめて今だけは、そのままでいさせてあげたい。

ふと、視線が合う。

有栖さんが、小さく息を吐いた。

 

「……事務所へ連れていきましょう。所長に相談します」

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