いつかかえるところ   作:くろまめのにまめ

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八話

彼女の提案に従い、車へ向かう。

後部座席に乗り込み、体勢を整えかけたところで、ふと動きが止まる。

上着の裾を、小さな手が掴んでいた。

 

車が静かに発進する。

夜の街を背に、風景が後ろへと流れていく。

隣では、有栖さんが窓の外を見つめていた。

その横顔に、声をかけることができない。

言葉を探すほど、遠ざかっていく気がした。

ただ、腕の中の鼓動だけが――確かなものとして伝わってくる。

 

先刻、魂喰を屠ったときの感触が、まだ残っている。

何かが内側へ流れ込んだ、あの感覚。

けれど今は、それよりも。

腕の中の重みだけが、現実だった。

 

視線を上げると、窓の外に灯りが流れている。

それが、ひどく遠く見えた。

 

やがて、車は静かに停まる。

エンジンの振動が途切れ、遅れて静寂が落ちてきた。

 

社務所の灯りが、やけに柔らかく見える。

廊下の奥から、かすかに甘い香りが漂っていた。

その香りに触れたとき、張り詰めていたものがわずかに緩む。

子供を抱えたまま、扉を押し開けた。

 

執務室では、所長がソファに身を預けていた。

こちらに気づくと、マグカップを置き、ゆっくりと顔を上げる。

 

「戻ったわね」

 

「はい。討伐は完了しました。ただ……」

 

「ええ、わかってる。子供……ね」

 

短く息を吐き、所長の視線が腕の中へと向かう。

 

蛍光灯の白い光の下、子供の顔は土と涙に汚れていた。

眠っているはずなのに、わずかな震えだけが残っている。

 

「……この子は」

 

言葉を継ごうとしたところで、所長は小さく手を上げて制した。

 

「報告は明日でいいわ。先に、その子を休ませてあげなさい」

 

端末に触れる指先は変わらず淡々としている。

それでも、その声だけはどこかやわらかかった。

 

「部屋はこちらで用意する。詳しくは――」

 

その言葉が途切れた瞬間、腕の中の小さな体がびくりと震えた。

瞼が揺れ、潤んだ瞳がゆっくりと開く。

 

焦点の定まらない視線が彷徨い、やがて俺を捉えた。

 

「……お兄ちゃん?」

 

掠れた声が、かすかに零れる。

次の瞬間、顔が歪んだ。

 

「ママぁ……パパぁ……どこぉ……」

 

しがみつく指先が、服を強く掴む。

涙が滲み、嗚咽が小さく漏れた。

答えようとして、口を開く。

けれど、声にはならなかった。

 

「……ごめん」

 

それしか言えなかった。

だが、その一言がひどく軽く感じられる。

 

「凪さん」

 

有栖さんがそっと隣へ屈み込み、俺の腕に手を添えた。

涙の跡をそのままに、わずかに笑う。

 

「抱っこ……代わりますね」

 

言葉の代わりに、子供を預ける。

有栖さんは壊れ物を扱うように抱き取り、背をゆっくりと撫でた。

 

「ごめんなさいね……助けてあげられなくて」

 

涙が子供の頬に落ちる。

それに応えるように、子供は胸に顔を埋め、声を上げた。

 

有栖さんの肩が震える。

それでも、その腕は緩まなかった。

その光景を見つめたまま、息を吐く。

それ以上、何も言えなかった。

 

「……」

 

所長が手にしていたマグカップを静かに置く。

かすかに立ちのぼっていた甘い香りが、ゆっくりと空気に溶けていった。

 

「さっきも言ったけど、報告は明日でいいわ。今日はこの子を休ませてあげて。宿坊は開けておく」

 

「ありがとう……ございます」

 

深く頭を下げる。

所長は椅子に身を預けたまま、小さく手を振った。

有栖さんが子供を抱いたまま立ち上がる。

俺もそれに続き、執務室を後にした。

 

宿坊へ向かう道すがら、有栖さんの腕の中で子供は泣き続けていた。

ハンカチはすでに涙で濡れきっている。

 

部屋の扉を開けると、畳の上に布団が三組並んでいた。

障子の隙間から入り込む夜気が、かすかに肌を撫でる。

有栖さんがそっと膝をつき、子供を布団へ下ろそうとする。

その動きに合わせて、布団へ手を伸ばした。

そのとき、小さな手が袖を掴む。

 

「……ひとりは、やだ」

 

かすれた声に、有栖さんの動きが止まる。

 

「大丈夫よ。ここにいるから」

 

やわらかな声でそう言って、抱いたまま軽く背を撫でた。

その様子を見て、手を下ろす。

 

しばらくして、子供の呼吸が少しずつ落ち着いていく。

有栖さんが視線で合図を送ってきた。

もう一度、今度はゆっくりと体を布団へ下ろしていく。

小さな手はまだ服を掴んだままだったが、力は弱くなっていた。

指をほどくようにして、そっと布団へ寝かせる。

 

「……眠ったみたいですね」

 

有栖さんが小さく微笑み、そっと子供の額に手を当てる。

 

「よかった……」

 

肩の力を抜き、布団の傍らに腰を下ろす。

規則正しい呼吸が、すぐそばで静かに続いていた。

有栖さんが起こさぬよう、ゆっくりと布団をかけ直す。

 

「もっと……守れるようになりたいですね」

 

ぽつりと落ちた声は、そのまま闇に溶けていった。

 

「うん。……守れる力が、欲しい」

 

短く応じると、言葉はそれ以上続かなかった。

有栖さんが柔らかく笑う。

月明かりに照らされた横顔は淡く、けれどその瞳は静かに前を向いていた。

 

「一緒に頑張りましょう。私と、貴方で」

 

「……うん」

 

小さく頷き、布団に横になる。

子供を挟むように、左右へと。

夜風が障子を揺らし、かすかな音を立てた。

その音に耳を預けながら、目を閉じる。

やがて、意識はゆっくりと沈んでいった。

 

 

 

震える小さな手が、腕にしがみつく感覚で目が覚めた。

窓の外はまだ薄暗い。

夜明け前――世界が色を取り戻す直前の、静かな時間。

 

「……どうしたの?」

 

そっと声をかける。

小さな肩がびくりと揺れた。

瞼は閉じたまま、眉が寄り、唇がかすかに震えている。

 

「ママ……パパ……」

 

かぼそい声が、途切れがちに漏れる。

身を起こし、子供の背に腕を回した。

引き寄せると、軽い体がすぐに胸へと収まる。

震えが伝わってきた。

寒さではない、奥に残ったままの怯え。

 

「大丈夫。……大丈夫だよ」

 

耳元で、落ち着かせるように繰り返す。

 

「ここにいる。一緒にいるよ」

 

抱き寄せた体は軽く、頼りないほどに小さい。

それでも、しがみつく力だけは必死だった。

子供の額が胸元に触れ、浅かった呼吸が少しずつ落ち着いていく。

握っていた指の力も、少しずつ和らいでいった。

そのまま、しばらく動かずにいる。

腕の中の体から、力が抜けていく。

規則正しくなった寝息が、胸元にかかる。

障子の向こうが、いつの間にか白みはじめていた。

 

 

 

「凪さん……起きていたんですね」

 

不意に襖が静かに開き、有栖さんが顔を覗かせた。

いつの間にか起きていたらしく、入り口に立ち止まり微笑む。

 

「……はい。少し目が覚めてしまって」

 

腕の中の子供を崩さないように、抱き直しながら答える。

有栖さんは小さく頷き、静かに歩み寄ってきた。

そのまま膝をつき、子供の顔を覗き込む。

 

「昨夜のこと……夢にも出てきたんでしょうね」

 

「ええ。さっきまで、ずっと」

 

短く答えると、彼女の指先がそっと髪を梳いた。

触れられた拍子に、子供の体がわずかに動く。

けれどすぐに、また静かな呼吸に戻っていった。

 

「……少しは落ち着いたみたいですね」

 

有栖さんが小さく息をつく。

 

「――ああ、それと」

 

ふと思い出したように、視線をこちらへ向けた。

 

「先ほど、葵さんに昨夜の報告をしてきたんです」

 

「もう?」

 

「ええ。被害に遭われた方の身元も、確認が取れたそうです」

 

わずかに言葉を選ぶような間があった。

 

「この子は……湊くん、というみたいです」

 

「……湊くん、か」

 

小さく繰り返す。

腕の中の寝息は、変わらず静かだった。

 

「お腹も空いているでしょうし、朝食の準備はできています」

 

有栖さんが、子供の顔をもう一度だけ見つめる。

 

「……無理に起こすのも、少し可哀想ですけど」

 

小さく苦笑してから、視線を上げた。

 

「落ち着いたら、行きましょうか」

 

頷き、腕の中の体に視線を落とす。

しばらくそのまま様子を見る。

 

「……起きてくれるかな」

 

そっと肩に触れて、やわらかく揺すった。

 

「おはよう。朝だよ」

 

 

 

子供の目蓋が、重たげにゆっくりと持ち上がる。

濡れた睫が何度も瞬き、焦点を探るように揺れたあと、やがて俺の顔を捉えた。

その瞬間――思い出したのだろう。

表情が、きゅっと歪みかける。

けれど。

 

「……お兄ちゃん」

 

か細い声が、こちらを呼ぶ。

弱々しくはあるが、昨夜の絶叫とは違う。

震えは残っている。それでも、もう飲み込まれそうな恐怖の中にはいない。

俺は小さく息をつき、頷いた。

 

「うん。おはよう」

 

目線を合わせるように、ほんの少しだけ顔を近づける。

 

「ちゃんと眠れた?」

 

声を落として言う。

掴まれたままの服地が、わずかに引かれる。

 

「パパとママは……?」

 

言葉は途中で細く途切れ、視線が落ちる。

当然の問いだった。

胸の奥が、わずかに軋む。

答えなきゃいけないことは分かっている。

でも、うまく言葉にできない。

代わりに頭に手を置いて、ゆっくり撫でた。

それしか、できなかった。

有栖さんが隣に来て、静かに子供の肩に手を添える。

 

「朝ご飯を食べたら、お話があるの」

 

少し間を置いて、

 

「少しだけ、時間をもらってもいい?」

 

湊くんは黙ったまま、うつむいている。

そのまましばらく動かず――

やがて、小さく頷いた。

 

「じゃあ、行こうか。おいしいご飯できてるから」

 

有栖さんが手を差し出すと、子供はためらいながらも指を重ねた。

三人で廊下に出る。

やわらかな朝の光が差し込み、冷えていた空気も少しずつ緩んでいた。

湊くんは俺の手を離さないまま歩く。

有栖さんはその隣で、自然と歩幅を合わせていた。

急かすことも、引くこともない。

ただ、そのままの速さで進んでいく。

三人の足音が、静かな廊下に重なっていった。

 

 

 

食堂にはすでに人数分の膳が並んでいた。

湯気の立つ味噌汁に、ウィンナーと目玉焼き、炊きたてのご飯。

湊くんは小さな手で箸を取り、ゆっくりと口へ運ぶ。

 

「……おいしい?」

 

有栖さんが静かに尋ねる。

少しだけ間を置いて、こくりと頷いた。

 

「うん……」

 

小さな声だった。

それでも、ゆっくりとではあるが食べる手は止まらない。

気づけば、器の中はほとんど空になっていた。

 

「……ごちそうさま」

 

小さな声に、有栖さんがそっと立ち上がる。

 

「……お部屋、戻りましょうか」

 

その言葉に合わせるように、腰を上げる。

そのまま三人で、静かな廊下へと歩き出した。

 

 

 

食事を終え、宿坊の一室に戻る。

三人で座布団に並んで腰を下ろした。

 

少しのあいだ、誰も口を開かなかった。

その静けさの中で、有栖さんがゆっくりと声を落とす。

 

「昨日の夜のこと……覚えてる?」

 

湊くんは小さく頷く。

 

「パパとママは……どこにいるの?」

 

その言葉で、空気がわずかに揺れる。

息を吸いかけて、言葉が出ない。

けれど、有栖さんは視線を逸らさなかった。

 

「……残念だけど、パパとママはもう戻ってこないの」

 

静かな声だった。

目に涙が浮かび、唇が震える。

こぼれそうになって、それでも、かろうじて留まっている。

有栖さんは、少しだけ間を置いて続けた。

 

「だから、新しいお家に行くの。たくさんの友達がいて、みんなで一緒に暮らすところ。わたしも小さい頃はそこに住んでいたのよ」

 

有栖さんの過去。

これまで、自分から触れたことはなかった。

けれど今は、それをためらいもなく口にしている。

 

「お姉ちゃんも……?」

 

「ええ。怖いことも、つらいこともあったけど――友達がいたから、乗り越えられたの。これから行く場所でも、きっと出会えるわ」

 

やわらかな声が、静かに続く。

有栖さんがそっと頭を撫でると、湊くんは唇を引き結び小さく頷いた。

 

準備を整えて玄関に出ると、外はすっかり朝の光に包まれていた。

やわらかな日差しが、頬に触れる。

駐車場へ向かい、車に乗り込んだ。

 

「行き先は……」

 

言いかけたところで、有栖さんが静かに口を開いた。

 

「ここで、お願いします」

 

短く告げられた場所をナビに設定すると、画面に道筋が浮かび上がる。

距離はそれほどでもない。

 

「俺が運転します」

 

「お願いします」

 

有栖さんは子供と一緒に後部座席へ乗り込む。

隣に腰を下ろし、そのままそっと距離を詰めた。

ドアが閉まる音が、ひとつずつ重なる。

ルームミラー越しに見ると、子供は窓の外を見つめていた。

けれどその肩は、わずかに有栖さんへ寄っている。

 

「道は複雑ではありませんが、気をつけてくださいね」

 

小さく頷き、ハンドルを握る。

ゆっくりと車を出すと、景色が静かに流れ始めた。

町並みは、少しずつ表情を変えていく。

住宅街を抜け、やがて人通りの少ない道へ。

進むにつれて家並みはまばらになり、景色は次第に落ち着きを帯びていった。

 

 

箒の先が、しっとりとした砂利を掃く。

その音だけが、静かな庭に残っていた。

二月にしては、めずらしく穏やかな朝。

高く昇った日差しはまだ冷たさを残しながらも、どこかやわらかく、庭先を静かに照らしている。

白い光の中で、遠くの山並みが淡く滲んで見えた。

 

ふと手を止めたのは、塀の向こうでエンジン音が途切れたからだ。

有栖から連絡は受けている。

今日、ここへ来ると――それも一人ではない。

あの子が誰かを連れてくるなら、理由がある。そういう子だ。

 

門の方へ目を向ける。

駐車場に停まった車から三人が降り、やがて手をつないでこちらへ歩いてくる。

その姿はどこか親子のようにも見えた。

やわらかな光の下で、三つの影がゆっくりと伸びている。

子供の手を、左に有栖が、右に青年が握っていたが、その表情はどれも穏やかではない。

何かを失ったあとの静けさ。

 

しばらく、そのまま眺めていた。

風が梢を揺らし、砂利が小さく鳴る。

やがて三人は門をくぐり、目の前で足を止めた。

 

有栖がまっすぐこちらを見る。

変わらない目――昔と同じだ。

だが、その奥に宿るものが、わずかに変わっている。

 

隣の青年へ視線を移す。

凪さんと呼ばれたその若者は、軽く頭を下げた。

まだ若く、どこかぎこちなさも残っているが、視線だけはまっすぐだった。

 

最後に、小さな子供へ視線を落とす。

あどけない顔立ちだが、その目は静かで、ほとんど揺れがなかった。

 

彼らは、ただの来客ではない。

箒を持ったまま、わずかに立ち位置を変える。

有栖と目が合い、小さく頷きが返ってきた。

それを受けて、ゆっくりと口を開く。

 

「――おかえりなさい」

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