彼女の提案に従い、車へ向かう。
後部座席に乗り込み、体勢を整えかけたところで、ふと動きが止まる。
上着の裾を、小さな手が掴んでいた。
車が静かに発進する。
夜の街を背に、風景が後ろへと流れていく。
隣では、有栖さんが窓の外を見つめていた。
その横顔に、声をかけることができない。
言葉を探すほど、遠ざかっていく気がした。
ただ、腕の中の鼓動だけが――確かなものとして伝わってくる。
先刻、魂喰を屠ったときの感触が、まだ残っている。
何かが内側へ流れ込んだ、あの感覚。
けれど今は、それよりも。
腕の中の重みだけが、現実だった。
視線を上げると、窓の外に灯りが流れている。
それが、ひどく遠く見えた。
やがて、車は静かに停まる。
エンジンの振動が途切れ、遅れて静寂が落ちてきた。
社務所の灯りが、やけに柔らかく見える。
廊下の奥から、かすかに甘い香りが漂っていた。
その香りに触れたとき、張り詰めていたものがわずかに緩む。
子供を抱えたまま、扉を押し開けた。
執務室では、所長がソファに身を預けていた。
こちらに気づくと、マグカップを置き、ゆっくりと顔を上げる。
「戻ったわね」
「はい。討伐は完了しました。ただ……」
「ええ、わかってる。子供……ね」
短く息を吐き、所長の視線が腕の中へと向かう。
蛍光灯の白い光の下、子供の顔は土と涙に汚れていた。
眠っているはずなのに、わずかな震えだけが残っている。
「……この子は」
言葉を継ごうとしたところで、所長は小さく手を上げて制した。
「報告は明日でいいわ。先に、その子を休ませてあげなさい」
端末に触れる指先は変わらず淡々としている。
それでも、その声だけはどこかやわらかかった。
「部屋はこちらで用意する。詳しくは――」
その言葉が途切れた瞬間、腕の中の小さな体がびくりと震えた。
瞼が揺れ、潤んだ瞳がゆっくりと開く。
焦点の定まらない視線が彷徨い、やがて俺を捉えた。
「……お兄ちゃん?」
掠れた声が、かすかに零れる。
次の瞬間、顔が歪んだ。
「ママぁ……パパぁ……どこぉ……」
しがみつく指先が、服を強く掴む。
涙が滲み、嗚咽が小さく漏れた。
答えようとして、口を開く。
けれど、声にはならなかった。
「……ごめん」
それしか言えなかった。
だが、その一言がひどく軽く感じられる。
「凪さん」
有栖さんがそっと隣へ屈み込み、俺の腕に手を添えた。
涙の跡をそのままに、わずかに笑う。
「抱っこ……代わりますね」
言葉の代わりに、子供を預ける。
有栖さんは壊れ物を扱うように抱き取り、背をゆっくりと撫でた。
「ごめんなさいね……助けてあげられなくて」
涙が子供の頬に落ちる。
それに応えるように、子供は胸に顔を埋め、声を上げた。
有栖さんの肩が震える。
それでも、その腕は緩まなかった。
その光景を見つめたまま、息を吐く。
それ以上、何も言えなかった。
「……」
所長が手にしていたマグカップを静かに置く。
かすかに立ちのぼっていた甘い香りが、ゆっくりと空気に溶けていった。
「さっきも言ったけど、報告は明日でいいわ。今日はこの子を休ませてあげて。宿坊は開けておく」
「ありがとう……ございます」
深く頭を下げる。
所長は椅子に身を預けたまま、小さく手を振った。
有栖さんが子供を抱いたまま立ち上がる。
俺もそれに続き、執務室を後にした。
宿坊へ向かう道すがら、有栖さんの腕の中で子供は泣き続けていた。
ハンカチはすでに涙で濡れきっている。
部屋の扉を開けると、畳の上に布団が三組並んでいた。
障子の隙間から入り込む夜気が、かすかに肌を撫でる。
有栖さんがそっと膝をつき、子供を布団へ下ろそうとする。
その動きに合わせて、布団へ手を伸ばした。
そのとき、小さな手が袖を掴む。
「……ひとりは、やだ」
かすれた声に、有栖さんの動きが止まる。
「大丈夫よ。ここにいるから」
やわらかな声でそう言って、抱いたまま軽く背を撫でた。
その様子を見て、手を下ろす。
しばらくして、子供の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
有栖さんが視線で合図を送ってきた。
もう一度、今度はゆっくりと体を布団へ下ろしていく。
小さな手はまだ服を掴んだままだったが、力は弱くなっていた。
指をほどくようにして、そっと布団へ寝かせる。
「……眠ったみたいですね」
有栖さんが小さく微笑み、そっと子供の額に手を当てる。
「よかった……」
肩の力を抜き、布団の傍らに腰を下ろす。
規則正しい呼吸が、すぐそばで静かに続いていた。
有栖さんが起こさぬよう、ゆっくりと布団をかけ直す。
「もっと……守れるようになりたいですね」
ぽつりと落ちた声は、そのまま闇に溶けていった。
「うん。……守れる力が、欲しい」
短く応じると、言葉はそれ以上続かなかった。
有栖さんが柔らかく笑う。
月明かりに照らされた横顔は淡く、けれどその瞳は静かに前を向いていた。
「一緒に頑張りましょう。私と、貴方で」
「……うん」
小さく頷き、布団に横になる。
子供を挟むように、左右へと。
夜風が障子を揺らし、かすかな音を立てた。
その音に耳を預けながら、目を閉じる。
やがて、意識はゆっくりと沈んでいった。
震える小さな手が、腕にしがみつく感覚で目が覚めた。
窓の外はまだ薄暗い。
夜明け前――世界が色を取り戻す直前の、静かな時間。
「……どうしたの?」
そっと声をかける。
小さな肩がびくりと揺れた。
瞼は閉じたまま、眉が寄り、唇がかすかに震えている。
「ママ……パパ……」
かぼそい声が、途切れがちに漏れる。
身を起こし、子供の背に腕を回した。
引き寄せると、軽い体がすぐに胸へと収まる。
震えが伝わってきた。
寒さではない、奥に残ったままの怯え。
「大丈夫。……大丈夫だよ」
耳元で、落ち着かせるように繰り返す。
「ここにいる。一緒にいるよ」
抱き寄せた体は軽く、頼りないほどに小さい。
それでも、しがみつく力だけは必死だった。
子供の額が胸元に触れ、浅かった呼吸が少しずつ落ち着いていく。
握っていた指の力も、少しずつ和らいでいった。
そのまま、しばらく動かずにいる。
腕の中の体から、力が抜けていく。
規則正しくなった寝息が、胸元にかかる。
障子の向こうが、いつの間にか白みはじめていた。
「凪さん……起きていたんですね」
不意に襖が静かに開き、有栖さんが顔を覗かせた。
いつの間にか起きていたらしく、入り口に立ち止まり微笑む。
「……はい。少し目が覚めてしまって」
腕の中の子供を崩さないように、抱き直しながら答える。
有栖さんは小さく頷き、静かに歩み寄ってきた。
そのまま膝をつき、子供の顔を覗き込む。
「昨夜のこと……夢にも出てきたんでしょうね」
「ええ。さっきまで、ずっと」
短く答えると、彼女の指先がそっと髪を梳いた。
触れられた拍子に、子供の体がわずかに動く。
けれどすぐに、また静かな呼吸に戻っていった。
「……少しは落ち着いたみたいですね」
有栖さんが小さく息をつく。
「――ああ、それと」
ふと思い出したように、視線をこちらへ向けた。
「先ほど、葵さんに昨夜の報告をしてきたんです」
「もう?」
「ええ。被害に遭われた方の身元も、確認が取れたそうです」
わずかに言葉を選ぶような間があった。
「この子は……湊くん、というみたいです」
「……湊くん、か」
小さく繰り返す。
腕の中の寝息は、変わらず静かだった。
「お腹も空いているでしょうし、朝食の準備はできています」
有栖さんが、子供の顔をもう一度だけ見つめる。
「……無理に起こすのも、少し可哀想ですけど」
小さく苦笑してから、視線を上げた。
「落ち着いたら、行きましょうか」
頷き、腕の中の体に視線を落とす。
しばらくそのまま様子を見る。
「……起きてくれるかな」
そっと肩に触れて、やわらかく揺すった。
「おはよう。朝だよ」
子供の目蓋が、重たげにゆっくりと持ち上がる。
濡れた睫が何度も瞬き、焦点を探るように揺れたあと、やがて俺の顔を捉えた。
その瞬間――思い出したのだろう。
表情が、きゅっと歪みかける。
けれど。
「……お兄ちゃん」
か細い声が、こちらを呼ぶ。
弱々しくはあるが、昨夜の絶叫とは違う。
震えは残っている。それでも、もう飲み込まれそうな恐怖の中にはいない。
俺は小さく息をつき、頷いた。
「うん。おはよう」
目線を合わせるように、ほんの少しだけ顔を近づける。
「ちゃんと眠れた?」
声を落として言う。
掴まれたままの服地が、わずかに引かれる。
「パパとママは……?」
言葉は途中で細く途切れ、視線が落ちる。
当然の問いだった。
胸の奥が、わずかに軋む。
答えなきゃいけないことは分かっている。
でも、うまく言葉にできない。
代わりに頭に手を置いて、ゆっくり撫でた。
それしか、できなかった。
有栖さんが隣に来て、静かに子供の肩に手を添える。
「朝ご飯を食べたら、お話があるの」
少し間を置いて、
「少しだけ、時間をもらってもいい?」
湊くんは黙ったまま、うつむいている。
そのまましばらく動かず――
やがて、小さく頷いた。
「じゃあ、行こうか。おいしいご飯できてるから」
有栖さんが手を差し出すと、子供はためらいながらも指を重ねた。
三人で廊下に出る。
やわらかな朝の光が差し込み、冷えていた空気も少しずつ緩んでいた。
湊くんは俺の手を離さないまま歩く。
有栖さんはその隣で、自然と歩幅を合わせていた。
急かすことも、引くこともない。
ただ、そのままの速さで進んでいく。
三人の足音が、静かな廊下に重なっていった。
食堂にはすでに人数分の膳が並んでいた。
湯気の立つ味噌汁に、ウィンナーと目玉焼き、炊きたてのご飯。
湊くんは小さな手で箸を取り、ゆっくりと口へ運ぶ。
「……おいしい?」
有栖さんが静かに尋ねる。
少しだけ間を置いて、こくりと頷いた。
「うん……」
小さな声だった。
それでも、ゆっくりとではあるが食べる手は止まらない。
気づけば、器の中はほとんど空になっていた。
「……ごちそうさま」
小さな声に、有栖さんがそっと立ち上がる。
「……お部屋、戻りましょうか」
その言葉に合わせるように、腰を上げる。
そのまま三人で、静かな廊下へと歩き出した。
食事を終え、宿坊の一室に戻る。
三人で座布団に並んで腰を下ろした。
少しのあいだ、誰も口を開かなかった。
その静けさの中で、有栖さんがゆっくりと声を落とす。
「昨日の夜のこと……覚えてる?」
湊くんは小さく頷く。
「パパとママは……どこにいるの?」
その言葉で、空気がわずかに揺れる。
息を吸いかけて、言葉が出ない。
けれど、有栖さんは視線を逸らさなかった。
「……残念だけど、パパとママはもう戻ってこないの」
静かな声だった。
目に涙が浮かび、唇が震える。
こぼれそうになって、それでも、かろうじて留まっている。
有栖さんは、少しだけ間を置いて続けた。
「だから、新しいお家に行くの。たくさんの友達がいて、みんなで一緒に暮らすところ。わたしも小さい頃はそこに住んでいたのよ」
有栖さんの過去。
これまで、自分から触れたことはなかった。
けれど今は、それをためらいもなく口にしている。
「お姉ちゃんも……?」
「ええ。怖いことも、つらいこともあったけど――友達がいたから、乗り越えられたの。これから行く場所でも、きっと出会えるわ」
やわらかな声が、静かに続く。
有栖さんがそっと頭を撫でると、湊くんは唇を引き結び小さく頷いた。
準備を整えて玄関に出ると、外はすっかり朝の光に包まれていた。
やわらかな日差しが、頬に触れる。
駐車場へ向かい、車に乗り込んだ。
「行き先は……」
言いかけたところで、有栖さんが静かに口を開いた。
「ここで、お願いします」
短く告げられた場所をナビに設定すると、画面に道筋が浮かび上がる。
距離はそれほどでもない。
「俺が運転します」
「お願いします」
有栖さんは子供と一緒に後部座席へ乗り込む。
隣に腰を下ろし、そのままそっと距離を詰めた。
ドアが閉まる音が、ひとつずつ重なる。
ルームミラー越しに見ると、子供は窓の外を見つめていた。
けれどその肩は、わずかに有栖さんへ寄っている。
「道は複雑ではありませんが、気をつけてくださいね」
小さく頷き、ハンドルを握る。
ゆっくりと車を出すと、景色が静かに流れ始めた。
町並みは、少しずつ表情を変えていく。
住宅街を抜け、やがて人通りの少ない道へ。
進むにつれて家並みはまばらになり、景色は次第に落ち着きを帯びていった。
箒の先が、しっとりとした砂利を掃く。
その音だけが、静かな庭に残っていた。
二月にしては、めずらしく穏やかな朝。
高く昇った日差しはまだ冷たさを残しながらも、どこかやわらかく、庭先を静かに照らしている。
白い光の中で、遠くの山並みが淡く滲んで見えた。
ふと手を止めたのは、塀の向こうでエンジン音が途切れたからだ。
有栖から連絡は受けている。
今日、ここへ来ると――それも一人ではない。
あの子が誰かを連れてくるなら、理由がある。そういう子だ。
門の方へ目を向ける。
駐車場に停まった車から三人が降り、やがて手をつないでこちらへ歩いてくる。
その姿はどこか親子のようにも見えた。
やわらかな光の下で、三つの影がゆっくりと伸びている。
子供の手を、左に有栖が、右に青年が握っていたが、その表情はどれも穏やかではない。
何かを失ったあとの静けさ。
しばらく、そのまま眺めていた。
風が梢を揺らし、砂利が小さく鳴る。
やがて三人は門をくぐり、目の前で足を止めた。
有栖がまっすぐこちらを見る。
変わらない目――昔と同じだ。
だが、その奥に宿るものが、わずかに変わっている。
隣の青年へ視線を移す。
凪さんと呼ばれたその若者は、軽く頭を下げた。
まだ若く、どこかぎこちなさも残っているが、視線だけはまっすぐだった。
最後に、小さな子供へ視線を落とす。
あどけない顔立ちだが、その目は静かで、ほとんど揺れがなかった。
彼らは、ただの来客ではない。
箒を持ったまま、わずかに立ち位置を変える。
有栖と目が合い、小さく頷きが返ってきた。
それを受けて、ゆっくりと口を開く。
「――おかえりなさい」