駐車場のアスファルトは、陽に照らされてわずかに熱を含んでいた。
二月にしては珍しく空は晴れ渡り、柔らかな風が頬を撫でる。
心地よい空気の中で、揃って車を降りた。
「ついたよ」
声をかけると、湊くんは小さく頷く。
足取りは重く、反応がわずかに遅れる。
合わせて歩こうとしているのは分かるが、どこかぎこちなさを感じた。
有栖さんが静かに手を差し出し、俺も反対側からその小さな手を包んだ。
自然と両側から支える形になり、そのまま三人で歩き出す。
ふと顔を上げると、庭の奥に一人の女性が立っているのが見えた。
箒を手に、掃く手を止めてこちらを見ている。
木漏れ日の中、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「――おかえりなさい」
たった一言なのに、身体ごと包まれる安心感があった。
有栖さんがほんの少しだけ表情を緩めて、頷く。
「ただいま。桔梗姉さん」
それから、こちらへ軽く視線を向ける。
「こちらは黒須凪さん。そしてこの子は――」
名前が続くより先に、彼女はやわらかく微笑んで一歩だけ距離を縮めた。
「はじめまして。こちらの養護施設『ひだまり庵』で院長を務めております、高原桔梗と申します」
差し出された手は、静かで迷いがない。
触れると、指先にやわらかな温もりが残った。
「はじめまして。黒須凪です」
挨拶を返すと、彼女の視線がゆるやかに子供へ移る。
ほんのわずかに膝を折り、そのまま目線を合わせた。
「こんにちは。お名前は?」
湊くんは俯いたまま答えられず、俺の背後へ隠れるように身を寄せてきた。
指先に、かすかな力がかかる。
「大丈夫よ。ゆっくりでいいの」
変わらない調子で、彼女はそう言った。
背中越しに、わずかに頷く気配が伝わる。
けれど、言葉は出てこなかった。
「じゃあ、中に入りましょうか」
そう言って、自然に踵を返した。
高原さんに付いて行く有栖さんの背を追い、湊くんと手をつなぎ進んでいく。
引き戸を開けると、木の香りがふわりと広がった。
廊下の奥からは、かすかな気配が伝わってくる。
窓越しに、小学生くらいから高校生くらいの子どもたちの影が揺れていた。
「桔梗姉さん。事前に連絡した通りなんだけど……」
有栖さんが話しながら先へ進む。
俺は湊くんの手を握り直し、そのまま後に続いた。
小さな手が、かすかに震えている。
力を込めると、それに応えるように指先がわずかに動いた。
廊下の突き当たりに、小さな応接室があった。
高原さんはその扉を開け、こちらへ軽く手を向ける。
「さあ、座って。温かいお茶を用意するわ」
それだけ言い残し、部屋を出ていった。
室内には、やわらかな光が満ちている。
カーテン越しの陽光が、畳の上に淡い影を落としていた。
有栖さんは湊くんを窓際の椅子に座らせ、俺もその隣に腰を下ろす。
かすかに、古い紙と木の匂いが香った。
長い時間をくぐってきたような、静かな空気が満ちている。
ほどなくして、扉が静かに開く。
高原さんがお盆を手に戻ってきた。
湯気の立つ紅茶と、小さなマグに入ったココア。
それぞれを前に置きながら、自然な手つきで位置を整えていく。
「それにしても有栖ちゃん、久しぶり。元気そうで良かったわ」
「はい。桔梗姉さんも変わりなくて」
二人は、自然に笑みを交わした。
そのやり取りに、言葉にしなくても分かる距離がある。
「黒須さん……でしたね。有栖ちゃんが迷惑をおかけしてないかしら? この子、意外と無茶しがちだから」
「いえ、そんな……むしろいつも助けてもらってます」
院長は、くすりと笑った。
その表情には、どこか懐かしむような色が滲んでいた。
湊くんは、隣でカップを両手で包むようにして持ち、少しずつ口をつけている。
湯気の向こうで、伏せた睫毛がかすかに震えていた。
やがて、カップの中身が減るにつれて、まぶたがゆっくりと落ちていく。
頭が前に傾き、肩が小さく揺れた。
それでも、必死に目を開こうとしている。
「……湊くん?」
院長が立ち上がり、そっと傍へ寄る。
膝を折り、目線を合わせた。
一瞬だけ身を引きかけて、けれど湊くんはそのまま視線を返す。
「大丈夫よ。ちゃんとそばにいるからね」
湊くんの唇が、かすかに動く。
「……寝たら……また……」
声は掠れ、今にも消えそうだった。
院長はそっと手を伸ばし、湊くんの背中を撫でる。
「ここには怖いものなんていないわ。あなたを傷つけるものも、何もない。だから……安心して」
有栖さんも、そっと言葉を重ねる。
「桔梗姉さんはね、とても優しいの。私も小さい頃、たくさん助けてもらったのよ。だから……大丈夫」
湊くんは、しばらく視線をさまよわせた。
俺と有栖さん、そして院長の顔を、順に見ていく。
やがて、小さく――ほんのわずかに、頷いた。
「……おいで」
院長が両腕を広げる。
ほんの一瞬ためらってから、湊くんはそっと身を寄せた。
体を預けたその瞬間、院長の表情が静かにやわらいだ。
抱き寄せる腕に、迷いはなかった。
胸元に顔を埋めたまま、湊くんの肩が小さく震える。
喉の奥から、押し殺していたものがこぼれた。
声にならない嗚咽だった。
涙がひとつ、頬を伝って落ちる。
そのまま、湊くんは静かに眠りに落ちていった。
院長は、その軽い身体を抱き上げると、俺たちに向き直った。
「この子は、私が責任を持って預かります」
その眼差しには、揺るぎのない意志が宿っていた。
「あなたたちは……今、やるべきことがあるのでしょう?」
俺は無言で頷く。
有栖さんも、小さく頷いた。
「ただ……時間があれば、また顔を見せてください。この子も、きっと喜ぶから」
短い言葉を交わし、俺たちはその場をあとにする。
背後で、静かに扉が閉まる音がした。
車は、春の気配を含んだ風を切って走っていた。
運転席の窓から差し込む日差しは、二月にしては珍しくやわらかい。
ハンドルに置いた手の上で、光が淡く反射していた。
助手席では、有栖さんが窓の外を見つめている。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「桔梗姉さんは……私がここに来た頃から、ずっとあの場所にいるんです」
その声は低く、どこか遠くをなぞるようだった。
俺はアクセルをわずかに緩め、その言葉に耳を傾けた。
「ひだまり庵に来た時、私は九歳でした。最初は誰も信じられなくて、ずっと部屋の隅で膝を抱えていたんです。明かりが眩しくて、人の声が怖くて……食事も、ほとんど喉を通らなくて」
記憶を辿るように、彼女の視線は遠くへ向けられている。
雲の切れ間から、やわらかな陽の光がのぞいていた。
「でも桔梗姉さんは、毎日欠かさず声をかけてくれたんです。強引にじゃなくて……ただ、そっと隣に座ってくれるだけで」
一度、言葉が途切れる。
「時間だけが過ぎていって……気づいたら、少しずつ喋れるようになっていました」
ふと、彼女がこちらを見る。
「葵さんに引き取られたのは、それから少し経って、中学に入ってすぐでした」
わずかに息をついてから、続ける。
「葵さんは……職場の上司として尊敬しています。桔梗姉さんは、すべて受け入れて包み込んでくれるんです。――なんというかお母さんってあんな感じなのかなぁって」
そう言って、彼女は恥ずかしそうに窓の外へ視線を戻した。
「あの人――桔梗姉さんの近くにいると、本当に落ち着くんです。なぜでしょうね。香りとか、雰囲気とか……うまく言葉にできませんが」
信号が黄色から赤へと変わる。
車はゆっくりと減速し、やがて止まった。
エンジンの振動だけが、かすかに伝わってくる。
有栖さんの視線は、外の景色ではなく、どこか遠くへ向けられていた。
「さっき、湊くんを見ていて思い出したんです。私も、あんなふうに桔梗姉さんに救われたんだって」
口を開きかけて、やめた。
ハンドルを握る手に、わずかに力が入る。
信号が青に変わり、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
それでも、何か言おうとして結局うまく言葉にならなかった。
事務所に着いたのは、午後三時前だった。
二月にしては暖かい日だったが、建物の中に入ると、ひんやりとした空気が肌に触れる。
社務所の前を通り過ぎ、そのまま所長室へ向かう。
「所長、失礼します」
軽くノックをしてからドアを開ける。
所長はデスクで書類を整理していた手を止め、椅子の背にもたれながらこちらに目を向けた。
「お疲れさま。報告、聞くわよ」
短い促しに、有栖さんは手帳を取り出し、俺の隣に並ぶ。
昨日の魂喰との遭遇から、湊くんの保護に至るまでを簡潔に説明した。
所長は要点だけを拾うように、ときおりメモを取りながら問いを挟んでくる。
「なるほど。湊くんのことは高原先生に任せたのね」
有栖さんが小さく頷く。
「はい。桔梗姉さんが任せてと請け負ってくれました」
「高原先生が言うなら心配いらないわね」
そう言って、葵はゆっくりと椅子から立ち上がる。
「ところで黒須くん。報告書の書き方は分かる?」
「……いえ、まだ分からないです」
「なら、これを見て書いてみなさい。形式は揃えて」
所長は棚から一冊のファイルを抜き取り、そのままこちらに差し出した。
「有栖。彼に基本のフォーマットを教えてあげてくれる? 私は他の仕事を片付けているから」
有栖さんは静かに頷き、デスク横のソファへと俺を促した。
革張りのソファに腰を下ろすと、わずかに沈み込む。
彼女はメモ帳と筆記具を差し出し、報告書の書き方を簡潔に説明してくれた。
「事実を中心に。感情表現は控えるのが基本です。それと、誰が読んでも同じ印象になるように書くのが大切です」
「わかりました」
指示に従いながら、昨日の現場の様子を文章にしていく。
結界の引き継ぎや湊くんの様子、閉鎖の手順、有栖さんとの連携――書くべきことははっきりしているはずなのに、なにか一部だけが抜け落ちているような気がする。
「――魂喰については……」
手が止まる。
「どうかしましたか?」
「いや……何か、引っかかって……」
うまく思い出せない。
すぐそこまで来ているのに、つかめそうでつかめない。そんなもどかしい感覚を持つ。
ペン先を紙の上で止めたまま、しばらく考え込む。
それでも、何を忘れているのか分からないまま書き進めるしかなかった。
受け取った報告書に目を通すと、所長は紙面を指で軽く叩いた。
「まあ、最初にしては及第点かしら。次は一人で書いてみなさい」
「はい……」
「よろしくね。じゃあ……昨日の今日で疲れも溜まっているでしょうし、今日はもう上がっていいわ。ゆっくり休みなさい」
そう言って、所長は書類へ視線を落とす。
窓から差し込む夕暮れの光が、彼女の髪を淡く照らしていた。
「そうそう」
ふと思い出したように顔を上げる。
「言い忘れてたわ。黒須くん、社宅に入る気はある? 職員用のマンションがあるの」
「社宅ですか?」
「ええ。今日みたいなとき、すぐ休めるのは楽でしょう。それに――」
ほんのわずかに目を細める。
「訓練で疲れたあと、帰りに時間がかかるのは大変じゃない?」
言われて少し考える。
確かに、今までもヘトヘトの状態で移動するのは辛かった。
「……そうですね。ぜひ、お願いします」
それを聞いて、所長は引き出しを開けた。
「じゃあ、これ。手続きに必要な書類一式よ」
封筒を取り出し、そのままこちらに差し出した。
「中は社宅の概要と契約書類。引っ越し費用や諸経費はこちらで持つから、見積もりを出してもらいなさい」
封筒を差し出しながら、所長は続ける。
「細かい条件は有栖に。彼女もそこに住んでいるから」
有栖さんが隣で頷いた。
「分かりました。物件の見学も同行しますね」
「ありがとうございます。助かります」
礼を言いながら封筒を受け取る。
手の中に収まるその厚みが、妙に現実味を帯びていた。
「それじゃあ、今度こそ終わり。二人とも気をつけて帰りなさい」
所長が軽く手を振る。
俺たちは頭を下げ、所長室を後にした。
廊下には誰もいない。
足音だけが、やけに大きく響いて聞こえる。
「有栖さん、明日からの練習メニューってどうなってますか?」
「そうですね……」
有栖さんは手帳を確認しながら、歩みを緩めずに答える。
「当初の予定では基礎体力向上と防御術式の反復練習でしたが、昨日の件を踏まえると、戦闘展開も視野に入れる必要があるかもしれませんね」
「昨日の……そういえば、何か大事なことがあった気がしてるんですよね」
彼女の足が、わずかに止まる。
「何かありましたか?」
「いや……何か引っかかっているんだけど思い出せなんです。思い出せないってことは、多分大したことじゃないと思うんですけど」
「……そうですか」
有栖さんは一瞬だけ間を置き話す。
「でしたら、今は無理に思い出そうとしないほうがよいかもしれません。お疲れのようですし――もし思い出したら教えてくださいね?」
「分かりました。……すいません、話逸らしてしまって」
所長室を出ると、廊下の窓から差し込む西日が眩しかった。
二月下旬の陽は、冬の名残を残しながらも、確かに傾きを変えつつある。
壁の時計は、午後四時を少し回ったところを指していた。
「凪さん」
有栖さんに呼び止められ、足を止めて振り向く。
彼女はいつものように背筋を伸ばしたまま、こちらを見ていた。
その視線には、わずかな気遣いが混じっている。
「明日のトレーニングですが……無理のない時間で構いません。今朝も早かったですし」
そう言って手帳をめくる。
紙の端をなぞる指先の音が、静かな廊下に小さく響いた。
「いや、大丈夫ですよ。むしろ、何か動いてないと落ち着かない感じがして……」
昨夜の記憶は曖昧なままだが、身体の芯に残る疲労とは裏腹に、じっとしていると妙に落ち着かない。
何かを思い出しかけているような、あるいは見落としているような感覚だけがはっきりしないまま残っている。
うまく掴めないその違和感が胸の奥で静かに引っかかっていた。
「でしたら……」
有栖さんは少しだけ考えるように間を置いた。
「朝八時に、いつものB1トレーニング場で始めましょうか。ストレッチと基礎訓練から。体調を見ながら調整していきましょう」
提案の端々に、さりげない気遣いが滲んでいる。
自分も疲れているはずなのに、それを表に出さないところに優しさを感じる。
「ありがとうございます。それでお願いします」
「はい。では……お疲れさまでした」
軽く頭を下げる有栖さんに見送られ、俺は玄関へ向かう。
石畳を踏む足音が、夕暮れの鳥の声に重なった。
どこか調子の合わない、不揃いな音だった。
社務所を出ると、冷たい風が頬を打つ。
その感触で、ようやく意識が現実へと引き戻された気がした。
空は茜から藍へとゆっくり色を変え、雲が静かに流れている。
自宅への道を歩きながら、ふと昨夜のことが頭をよぎる。
湊くんを抱えたときの重み。
有栖さんの、あの落ち着いた声。
そして――
思い出そうとすると、そこだけが曖昧に霞む。
手を伸ばせば触れられそうなのに、わずかに届かない。
「……まあ、いいか」
小さく息を吐く。
今は、無理に掘り返す気にはなれなかった。
ただ――
胸の奥に残った違和感だけが、消えきらなかった。