東福山市役所の最上階付近に位置する、広大で薄暗い講堂。普段であれば数百人の市民や職員を集めて式典が行われるその場所で、東福山市長である広川剛志は、演台の上に一人静かに立っていた。
広い空間には主のいないパイプ椅子が整然と並べられ、窓から差し込む冬の斜光が、空気中を舞う埃を白く照らし出している。
広川の耳には、庁舎の下層階から断続的に響いてくる鈍い破壊音と、容赦のないショットガンの連射音、そして何より、彼が同胞と認めたパラサイトたちの断末魔の叫びが届いていた。
彼が長年をかけて築き上げてきた、パラサイトが人間社会に紛れ込み、安全に、そして効率的に人間を間引くための理想的な社会システム。それが今、圧倒的でシステマチックな物理的暴力によって、根底から粉砕されつつあることを、広川は極めて冷静に認識していた。
恐怖はなかった。ただ、自らの壮大な実験が終わりを迎えようとしているという、静かな受容だけが彼の胸の内にあった。
やがて、重厚な講堂の扉が、音もなくゆっくりと押し開かれた。広川は演台に両手を置き、その方向を見据えた。
暗がりの中を滑るようにして、次々と漆黒の影が講堂内へと流れ込んでくる。黒い出動服に身を包み、防弾ベストの胸元に「POLICE」の白い文字を刻んだ、特殊急襲部隊SATの隊員たちだ。彼らは客席の通路や柱の影を利用しながら、迅速かつ完璧なタクティカルフォーメーションを展開していく。
さらに広川の目を引いたのは、SATの隊員たちに混じって配置につく、一際異様な風体の集団であった。顔面を完全に覆うガスマスクとバリスティックバイザー、一切の皮膚を露出させない真っ黒な装甲。
オブシディアン・ユニットと呼ばれる彼らの動きには、人間特有の呼吸の乱れや感情の揺らぎというものが完全に欠落していた。まるで精巧な機械仕掛けの狩猟者たちが、広川という一人の獲物を仕留めるためだけに動いているようだった。
無数のショットガンの銃口が、逃げ場のない演台上の広川にピタリと向けられた。赤いレーザーサイトの光点が、彼のスーツの胸元や額にいくつも集まり、死の宣告のように明滅する。
そして、その完璧に構築された包囲網の中心を割って、部隊の先頭に一人の人物が歩み出た。
広川はその姿を見て、わずかに眉を動かした。現れたのは、部隊の屈強な男たちとは対照的な、小柄な少女であったからだ。
漆黒のタクティカルギアに身を包んだその美少女は、亜麻色の髪を冷たい空気に揺らしながら、広川の真正面で歩みを止めた。彼女の顔にはガスマスクはなく、その整った美しい素顔が露わになっている。
広川は、少女──アレックスの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その緑色の瞳の奥を探ろうとして、広川は背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。
ないのだ。彼女の瞳には、これから人を殺そうとする者の躊躇いも、正義を執行しようとする者の使命感も、あるいは憎悪すらも、一切存在していなかった。
そこにあるのは、道端の石ころを蹴り飛ばす時のような、あるいは害虫を駆除する時のような、極めて無機質で冷え切った視線だけである。
広川は悟った。彼女は、自分を「言葉を交わし、理解を深めるべき対話の相手」としては全く見ていない。ただ、目前の「完全に排除すべき敵」として処理しようとしているのだ、と。
無数の銃口と、少女の絶対的な殺意を向けられながら、広川の脳裏には、遠い過去の記憶が走馬灯のように蘇っていた。
広川剛志は、かつて人間という種の善性を信じていた時期があった。若き日の彼は、環境保護の理想を掲げ、政治の世界に身を投じた。豊かな森を守り、澄んだ海を次世代に残すために、彼は言葉の限りを尽くして人々に訴えかけた。
しかし、彼がその熱意の果てに直面したのは、底知れない絶望の連続であった。
目先の利益のために平気で広大な森を焼き払う企業。有害な汚染水を海へと垂れ流しながら、書類上の数値だけを改ざんして保身に走る政治家たち。
そして何より、自分たちの生活が便利になるのであれば、他の生物がどれほど犠牲になろうとも一切顧みようとしない、大衆の底なしのエゴイズムであった。
どれほど警告を発しても、どれほど悲惨な現実を突きつけても、人間の強欲な歩みは決して止まらなかった。人間社会という巨大なシステムには、自らの過ちを正す「自浄作用」が完全に欠落しているのだと、広川は悟ってしまったのだ。
だからこそ、彼は完全に絶望した。人間は、この美しい地球という生命体を内側から食い破る病原菌に他ならないと。そんな深い絶望の淵にいた彼の前に現れたのが、人間の脳を奪い、人間を捕食するパラサイトたちであった。
世間が彼らを残忍な化け物と呼んで恐れる中、広川だけは違った。彼はパラサイトの存在を、「増えすぎた人間という種を間引くために、地球自身が生み出した防衛本能」であり、地球を救うための「白血球」であると確信したのだ。
人間を殺し、その絶対数を減らすこと。それこそが、この星の未来を守る唯一にして絶対の正義であると。
広川は自ら進んで彼らの協力者となり、市長という立場を利用して彼らの捕食活動を庇護してきた。すべては、大いなる地球の意思に寄り添うためであった。
そして今、自浄作用を持たない愚かな人間たちが、自分たちの特権を脅かすパラサイトたちを暴力によって排除しようとしている。その醜悪なまでのエゴイズムの体現者たちが、目の前で銃を構えているのだ。
広川は、ゆっくりと両手を胸の前で合わせた。静まり返った講堂に、乾いた拍手の音が響き渡った。確かな力強さを持った拍手。広川の口元には、薄く皮肉めいた笑みが浮かんでいた。
「見事だ」
広川の低く落ち着いた声が、張り詰めた空気を震わせた。
「本当に、見事な手際だ。一階のホールからこの最上階に至るまで、我々の同胞たちをこれほどまでに効率的かつシステマチックに追い詰め、狩り立てるとは。君たちのその強硬な駆除作戦を実行する手腕には、素直に称賛の意を表そう」
広川は両手を演台に置き、包囲する隊員たち、そして真っ直ぐに自分を見据えるアレックスへと視線を向けた。
「殺戮に関しては、やはり人間こそがこの星で最も優れている。君たちは今、自分たちの社会を守るために異物を排除し、『勝利』を確信しているのだろう。だが、私から見れば、それは自らの首を絞める無知で野蛮な暴力に過ぎない」
広川の言葉は、説教をする教師のように堂々としていた。
「人間たちは、自分たちの仲間が数人殺されただけで大騒ぎをし、正義の皮を被って武力を行使する。だが、少し視点を広げて考えてみたまえ。個人の殺人などという些細な事象よりも、この星の環境を破壊し、森を燃やし、無数の生物を絶滅に追いやりながらゴミを垂れ流し続けることの方が、生命全体から見れば遥かに重罪ではないのか?」
広川は講堂の広大な空間に向けて、自らの確信を響かせるように語る。
「人間という種は、自らの数をコントロールする術を持たない。だからこそ、我々のような『間引き役』が必要なのだ。君たちは今、彼らを化け物と呼んで迫害しているが、いずれ人類自身が、自分たちの存続のために彼らのような存在の重要性に気づき、むしろ保護するようになる日が必ず来る。君たちの今日の行いは、地球の寿命を縮める愚行でしかないのだ」
広川の静かな語り口は、次第にその奥底に隠されていた熱を帯びていった。何十年にもわたって蓄積されてきた、人間という種全体に対する怒りと絶望。それが、彼の冷静な仮面を打ち破り、激しい感情の奔流となって表に現れ始めた。
「人間は、自らを『万物の霊長』と呼んで憚らない!」
広川は声を荒らげ、演台を強く叩いた。その轟音が、彼を取り囲む銃口の森に反響する。
「だが、自分たち一種の繁栄だけを貪り、他のすべての生命を犠牲に踏み台にする存在のどこが万物の霊長だ! 真にその名に値するというのなら、地球という一つの巨大な生態系全体のバランスを考えるべきだろう! 全体を俯瞰し、自らを律し、時には自らの血を流してでも調和を保つ。それができてこそ、初めて霊長を名乗る資格があるのだ!」
広川は身を乗り出し、部隊の先頭に立つアレックスを鋭く指差した。
「お前たち人間は、地球を蝕む猛毒だ! 際限なく増殖し、資源を食い尽くし、ただ汚物を撒き散らすだけの存在! 人間こそが、この美しい星に取り憑いた『寄生虫』そのものではないか!」
広川の喉から絞り出されるような熱弁が、講堂の空気を激しく震わせた。それは、彼が人生の全てを懸けて辿り着いた真実であり、人間社会に対する痛烈な弾劾であった。
しかし、広川がどれほど肺腑を突く叫びを響かせようとも、彼を包囲する特殊部隊員たちはピクリとも動かなかった。そして何より、広川の真正面に立つアレックスの表情には、いささかの感情の波紋も生じていなかった。
彼女の緑色の瞳は、広川の言葉の重みを一切受け取ることなく、ただ無機質に、目前のターゲットの座標を固定し続けているかのようだった。氷のような、純粋で絶対的な殺意だけが、銃口の先から広川の胸へと突き刺さっている。
広川は、自らの放った魂の叫びが、彼らには全く届いていないことを悟った。人間のエゴにまみれた彼らの耳には、地球の声など初めから届くはずがなかったのだ。どれほど崇高な理念を掲げようと、彼らにとって自分たちは、ただの不都合な排除対象に過ぎない。
「いや、正しくは…」
広川は荒くなっていた呼吸を整え、ゆっくりと目を伏せた。自らの敗北と、人間という種の救いようのない愚かさに対する、静かな怒りと深い悲哀が、彼の全身を包み込んだ。
「寄生獣か」
広川剛志は、薄暗い講堂の天井を仰ぎ見ながら、自嘲気味に、吐き捨てるようにそう呟いた。
周囲を取り囲む漆黒の特殊部隊員たちは、広川の魂を削るような演説を前にしても、微動だにしなかった。彼らの構えるショットガンの銃口は一ミリたりともブレることなく、ただ冷徹に広川の命を刈り取る瞬間を待ち構えている。
広川は目を伏せ、死の訪れを静かに待った。自らが地球のために良かれと信じ、長年をかけて構築してきたパラサイトによる人間管理システム。
それが今、人間の圧倒的な暴力によって無に帰そうとしている。自分の声は、彼ら人間のエゴの塊には決して届かなかった。それが、この星の限界なのだ。広川はそう納得し、すべてを諦めようとしていた。
「…確かに、人間は寄生獣なのかもしれない」
その時、静寂を破って放たれたその声に、広川は弾かれたように顔を上げた。声の主は、無数の銃口の中心に立ち、部隊を率いる小柄な少女──アレックスであった。
広川は彼女の瞳を見つめた。先ほどまで、ただの「排除すべき障害」を見るような無機質な冷たさを漂わせていた彼女の緑色の瞳に、今は、深淵を覗き込むような、計り知れない底なしの静けさが宿っていた。いつもの人を食ったような態度も、理解不能な単語の羅列もそこにはない。
彼女は広川の演説を否定しなかった。人間のエゴを、地球を蝕む毒であることを、彼女はあっさりと肯定したのだ。広川が驚きに目を見開いていると、アレックスはライフルを軽く下げ、自らの胸に手を当てながら静かに言葉を続けた。
「"私"は両親を殺された。己の利益しか頭に無い寄生獣に」
その言葉の響きに、広川は強烈な違和感を覚えた。"私"という言葉に込められた、途方もない喪失感。それは、目の前にいる十代の少女が経験したと呼ぶには、あまりにも重く、そして遠い過去の出来事のように聞こえたのだ。
彼女が言う「両親を殺した寄生獣」とは、パラサイトのことではない。自らの欲望のために他者を踏みにじる、人間の暗部そのものを指しているのだと、広川は直感的に理解した。
人間という種の残虐性を、身を以って知っている。それなのに、なぜ彼女は人間側に立ち、パラサイトを駆除しようとするのか。
「ならば、なぜだ…!」
広川は、枯れ果てたはずの喉から再び声を絞り出した。
「なぜ、お前はそのような愚かな種を守ろうとする! 人間の本性が己の利益だけを追求する寄生虫であると知っているのなら、なぜ我々の『間引き』を邪魔するのだ! 彼らの増長を手助けした先に、この星の破滅しかないと分かっているだろう!」
広川の悲痛な叫びが講堂に響く。しかし、アレックスの表情は全く揺らがなかった。彼女は広川の怒りを、そよ風でも受けるかのように静かに受け流し、透き通った声で答えた。
「けど、そんな人間にだって魅力はある」
広川は息を呑んだ。魅力、だと。地球を汚染し、同族で殺し合い、他の生命を喰い物にすることしかできないこの醜悪な生き物の、どこに魅力があるというのか。
「老いることも死ぬことも、人間という儚い生命体の美しさだ」
「老いるからこそ死ぬからこそ、たまらなく愛おしく尊い」
アレックスの口から紡がれる言葉は、広川の理解の範疇を完全に超えていた。人間が老い、死にゆくこと。その抗いようのない有限の運命すらも「美しい」と肯定する彼女の視点は、地球という枠組みの中で善悪を論じていた広川の思想を、根本から覆すものであった。
広川の全身に、粟立つような戦慄が走った。目の前の少女は、人間社会の法に縛られてここに立っているわけではない。彼女の存在そのものが、物理法則や生物の理から完全に逸脱しているのだ。人間の生死を、これほどまでに客観的かつ絶対的な俯瞰の視点から語ることができる存在。
それはもはや、人類というカテゴリーに収まるものではない。
「…貴様は、一体何者なのだ」
広川は、自らの震える声を止めることができなかった。
「人間ではない。パラサイトでもない。私の言葉を理解しながら、人間という種そのものを外部から観察するその瞳…。貴様は我々とも人間とも違う、全く別の次元に属する存在だというのか…!?」
広川のその言葉を受けて、アレックスは僅かに口角を上げた。それは嘲笑でも冷笑でもない。事実を見抜いた者への、残酷なまでの肯定の笑みであった。
「そうだ。君の言う通り、私は人間でもパラサイトでも無い。時間の枷から解放された知覚種族だ」
時間の枷から解放された知覚種族。その宣言を聞いた瞬間、広川の思考は完全に凍りついた。
不老不死、あるいはそれに類する、永遠の時を生きる超越者。広川は自分が地球の意思を代弁し、地球の未来のためにパラサイトを庇護していると自負していた。
しかし、もしも、目の前の少女が、地球という星の寿命すらも超えた場所から、人間という「現象」をただ愛でて、観測しているとしたら…?
広川が抱えていた深い絶望、環境保護への執念、地球の未来への危惧…それらすべてが、彼女という途方もない存在のスケールの前では、ほんの刹那の演劇に過ぎないのだと思い知らされた。
広川は、自分が挑んでいた相手の本当の姿を理解し、その圧倒的なスケールの違いに、不思議な安堵すら覚えた。自分たちは、人間の警察機構や武力に敗れたのではない。
この世の理を外れ、時間を超越した存在の気まぐれな庇護の対象から外れ、狩られたのだ。ならば、この敗北は不可避の運命だったのだろう。
アレックスはゆっくりとアサルトライフルを構え直した。チャキッという冷たい金属音が、静寂の講堂に鋭く響いた。手慣れた、無駄の一切ない装填の動作。それが、広川剛志という一人の男の人生の終わりを告げる秒針の音であった。
「私は忘れないだろう。これから先、ずっと。だから──」
アレックスの銃口が、広川の心臓を正確に捉える。それを合図とするように、周囲を取り囲んでいた無数の特殊部隊員たちも、一斉にショットガンの指を引き金にかけた。逃げ場はどこにもない。
けれど、広川に逃げる意思はとうの昔になかった。
「君のことも、忘れない」
「そして
それは処刑の前の静かな宣言であり、彼女なりの最大限の敬意であった。
広川の戦いと絶望、そしてこの星を想う彼なりの正義が、この永遠を生きる少女の果てしない記憶の中に、一つの確かな物語として刻まれる。時間の枷から解放された彼女が「忘れない」と誓うことの重みを、広川は魂の底で理解した。
広川は顔を背けることなく、両手を広げ、堂々と胸を張った。来るべき死を真正面から受け入れる。彼が地球の調和を願ったその信念に、最後まで一片の嘘もなかったことを証明するように。
「撃て」
広川が静かに、しかし力強く言い放った。その言葉が終わるか終わらないかのうちに、アレックスの指が引き金を引いた。
ダァァァンッ!!
アレックスの放った初弾を皮切りに、講堂を包囲していた無数のショットガンが一斉に火を噴いた。凄まじい轟音と、目を開けていられないほどの閃光が、薄暗い講堂を真っ白に染め上げる。
無数の鉛弾が、四方八方から広川の肉体へと容赦なく襲いかかった。スーツが引き裂かれ、肉が抉られ、骨が砕かれる鈍い音が連続して響き渡る。物理的な激痛が走るよりも早く、圧倒的な運動エネルギーが広川の体を宙へと浮かせた。
彼は逃げる素振りも見せず、苦悶の声を上げることもなかった。
ただ、自らの体を貫く無数の銃弾の衝撃を受け入れながら、ゆっくりと演台の後方へと崩れ落ちていく。視界が激しく揺れ、極彩色の光が明滅する中、最後に広川の目に映ったのは、硝煙の向こうで冷然と銃を下ろす、時間を超越した少女の姿であった。
(そうか。我々は、仮初の夢を見ていたに過ぎなかったのだな…)
彼の視界は急速に狭まり、すべての音は遠ざかっていった。
人間の愚かさに絶望し、パラサイトと共に地球の未来を夢見た広川剛志の意識は、冷たいコンクリートの床に背中を打ち付けた衝撃と共に、完全な闇へと沈んでいった。
原作時間軸さん「よし! 広川が死んだ! タイムライン通りだな!」
分岐時間軸さん「タイムライン通り、ね…」
原作時間軸さん「くぅ、酒が美味い!」