僕の常識が息をしていない   作:最高司祭アドミニストレータ

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私たちは生きていく。
俺たちは生きていく。


エピローグ
僕の常識は息をしていない


 日本は平和になった。その事実は、泉新一にとって未だに不思議な感覚をもたらしていた。

 

 ある日を境に、日本国内における寄生生物による人間の捕食被害は、ぴたりと鳴りを潜めたのである。日本だけではない。ミギーがインターネットの海外ニュースの波形やデータを解析した結果によれば、世界各地で頻発していた「ミンチ殺人」に類する不審死事件が、同時多発的にゼロへと収束していた。

 

 なぜ彼らが急に大人しくなったのか。

 

 ひとつにはもちろん、あの東福山市役所における壮絶な攻防戦が、パラサイトたちに対する最大級の見せしめ効果を発揮したことが挙げられる。

 

 市長であった広川剛志が倒れ、最強の集合体である後藤が黒曜石の棺に封じ込められた。その絶望的な情報と、人間の武力──とりわけ、物理法則を無視して空間を支配するアレックス・スティルウォーターという規格外の存在への恐怖は、パラサイトたちの独自のネットワークを通じて瞬く間に世界中へと共有されたに違いない。

 

「人間を捕食し、目立てば狩られる」という冷酷な事実が、彼らの生存本能に強力なブレーキをかけたのだ。

 

 それだけではない。彼らパラサイト自身の社会への浸透が、ますます巧みになってきたことも大きな要因であった。

 

 生き残るために彼らが選んだ道は、人間との徹底した「同化」であった。かつての田宮良子が行っていた実験が、種全体に共有されたかのようだった。彼らは人間の食事からでも十分に栄養を摂取できることを学習し、人間の食生活へと完全に変化させていった。

 

 表向きは真面目なサラリーマンとして働き、定食屋で昼食をとり、夜は静かに眠る。感情を持たないはずの彼らの中に、人間社会のルールを遵守し、極めて人間化していく者たちが現れ始めたのである。

 

 新一は、リビングの窓から冬晴れの澄んだ空を見上げながら、その最大の証明とも言える出来事を思い返していた。

 

 そう、探偵の倉森と、パラサイトである田宮良子が結婚したことである。

 

 それは、人間と寄生生物の結婚という、歴史的に見ても初の、そしてあまりにも奇妙な出来事であった。アレックスの要塞から無事に帰還した後、倉森は自らの言葉通り、田宮良子とその赤ん坊を全力で守り抜いた。

 

 田宮良子は当初、人間の不合理な愛情に対して戸惑いを隠せなかったが、倉森の誠実さと、倉森の娘である陽子が赤ん坊を妹のように可愛がる姿を観察し続けるうちに、彼女の冷徹な細胞の中に、明確な「家族」という概念が定着していったのである。

 

 ささやかな結婚式は、泉家のリビングで行われた。新一の母である信子が腕によりをかけて作った豪勢な料理が並び、父の一之はなぜかまた青く輝くダイヤモンドの鎧を着て乾杯の音頭を取った。里美は嬉しそうに陽子と遊んでおり、ミギーはウェディングケーキの成分を分析していた。

 

 純白のドレスに身を包んだ田宮良子は、倉森から指輪を受け取った時、彼女自身の細胞の制御による擬態ではなく、極めて自然な、人間と全く同じ表情で微かに微笑んだのだ。

 

 

「悪くない気分です。人間と共に生きるという実験も」

 

 

 そう呟いた田宮の腕の中には、すやすやと眠る赤ん坊が抱かれていた。人間とパラサイトの共存。決して交わるはずのなかった二つの種族が、確かな絆で結ばれた瞬間であった。

 

 新一は、その光景を思い出すたびに、胸の奥に温かいものが広がるのを感じていた。日常は壊れなかった。一度は壊れかけたが、自分たちの手で、より強固な形に作り直すことができたのだ。

 

 

「泉くん、お茶が入ったよ」

 

 

 ふと背後から優しい声が聞こえ、新一は思考から引き戻された。振り返ると、村野里美が湯気を立てるマグカップを二つお盆に乗せて微笑んでいた。彼女の屈託のない笑顔は、パラサイトの脅威が去った今、より一層輝きを増しているように見える。

 

 

「ありがとう、里美。…平和だね」

 

 

 新一がマグカップを受け取りながらそう言うと、里美は嬉しそうに頷いた。

 

 

「うん。お義母さんも今日はお買い得の卵が買えたって喜んでたし、お義父さんも鎧を脱いで庭の盆栽のお手入れをしてるしね」

「父さん、やっとあの重装備から解放されたんだな…」

 

 

 新一が苦笑いした、その時であった。

 

 

「おい泉! 大変だ! 拠点のチェストに入れておいた私のエンチャント金リンゴが一つ無くなっているぞ! ミギー、お前食べたな!」

 

 

 庭の方から、ドタドタと騒がしい足音と共に、アレックスがリビングへと駆け込んできた。彼女はいつものタクティカルギアではなく、日本の女子高生の制服姿であったが、その剣幕は相変わらずであった。

 

 右手の甲から目玉を出したミギーが、冷淡に答える。

 

 

『事実誤認だ。私はそのような過剰な回復アイテムを必要としていない。それに、あの金のリンゴは君自身が昨夜、徹夜でゲームをしている最中に無意識に咀嚼していたはずだ』

「なんだと!? 寝ぼけて貴重なレアアイテムを消費してしまったというのか! 私のプレイングミスだと!?」

 

 

 アレックスは頭を抱え、床をゴロゴロと転がり始めた。

 

 新一と里美は顔を見合わせて笑った。世界を恐怖に陥れたパラサイトを裏で管理し、市役所を一人で制圧した「神」のごとき存在。その正体は、アイテムの紛失一つで大騒ぎする、どうしようもなくマイペースなゲーマーの少女なのだ。彼女がいてくれたからこそ、今の平和がある。

 

 だが、その平和な休日の空気が、唐突に、そして決定的に書き換えられる瞬間が訪れた。

 

 

 ゴゴゴゴゴォォォォン…!! 

 

 

 突然、泉家の庭の中央から、空間そのものが軋むような、重く禍々しい音が響き渡ったのである。

 

 

「な、なんだ!?」

 

 

 新一はマグカップを置き、反射的にミギーを戦闘態勢に移行させた。床を転がっていたアレックスも跳ね起き、窓の外を鋭く睨みつける。

 

 

「この音…! まさか、ネザーゲートの起動音か!?」

 

 

 三人が庭に飛び出すと、そこには信じられない光景が広がっていた。空間が歪み、巨大な「黒曜石の枠」が音もなく出現していたのだ。縦に長い長方形のブロックの枠組み。

 

 その内側には、渦巻くような紫色の光の膜が形成されており、不気味な紫色の粒子が周囲にフワフワと舞い散っている。

 

 

『新一、警戒しろ! あの光の膜の向こう側から、強大なエネルギーの反応を感じる。パラサイトの波長ではない。もっと根本的な、空間の次元を捻じ曲げるような力だ!』

 

 

 ミギーが新一の右腕で鋭利な刃を形成し、威嚇の姿勢をとった。里美も新一の背後に隠れ、いつでも「お守り」の木の棒を振れるように身構える。

 

 

「ゲートが開いた…誰かが、別のオーバーワールドからこのサーバーに接続してきたのか?」

 

 

 アレックスは、いつものふざけた態度を完全に消し去り、真剣な眼差しで紫色の膜を見つめていた。やがて、紫色の光の膜が水面のように波打ち、そこから「一人の人物」がゆっくりと足を踏み出してきた。

 

 新一は、その人物の姿を見て完全に息を呑んだ。ゲートから現れたのは、一人の美しい少女であった。

 

 亜麻色の美しい髪が、冬の風にふわりと揺れる。知性と好奇心に満ちた、宝石のような緑色の瞳。その容姿は、新一の隣に立っているアレックス・スティルウォーターと、まるで双子のように瓜二つであった。

 

 だが、纏っている雰囲気や装備は全く異なっていた。

 

 現れた少女の頭上には、黄金に輝く豪奢な王冠が載せられている。服装は極めてシンプルで、淡い緑色のTシャツに、動きやすそうなカーキ色のプリーツスカートを身に着けていた。タクティカル防具のような物騒なものは一切身につけていない。

 

 しかし、彼女の存在を最も際立たせていたのは、その両手で優雅に抱えるように持っている「巨大な杖」であった。

 

 緑色の金属で作られた長い柄の先端には、正六面体のブロックがそのままの形でゴツンと取り付けられている。木材のテクスチャの表面に、色とりどりの四角いボタンが格子状に配置された、およそ武器には見えない奇妙なブロック。

 

 

「あれは…コマンドブロック…!」

 

 

 隣で、制服姿のアレックスが震える声で呟いた。

 

 

「世界のルールを直接書き換える証…!」

 

 

 王冠を戴く美少女は、庭の芝生の上に降り立つと、背後のネザーゲートがシュンッという音と共に消滅した。彼女は、警戒する新一たちを見渡し、自分と瓜二つである制服姿のアレックスへと視線を合わせ、柔らかな微笑みを浮かべた。

 

 

「初めまして、もうひとりの私」

 

 

 透き通るような、それでいて空間全体に響き渡るような声だった。制服姿のアレックスは、いつもの生意気な態度はどこへやら、直立不動の姿勢で額に冷や汗を流している。

 

 王冠の少女は、次に新一とミギー、そして里美へと視線を向けた。彼女の緑色の瞳には、新一たちがこれまで歩んできた過酷な運命、パラサイトとの死闘、そして手に入れた平穏のすべてを見透かしているかのような、深い深い慈愛の色が宿っていた。

 

 

「泉くん、だね」

 

 

 彼女が新一の名前を呼んだ。その響きには、敵意は全く感じられなかった。王冠の少女は、困ったような、しかしどこか楽しげな苦笑いを浮かべながら、制服姿のアレックスを指差した。

 

 

「泉くん、彼女が何か粗相してないだろうか。彼女は色々とあれだからね」

「えっ…?」

 

 

 新一は思わず間の抜けた声を出してしまった。

 

 

「粗相って…まあ、市役所を占拠したり、パラサイトを棺桶に詰めたり、僕たちをドッキリにかけたり、やりたい放題でしたけど…」

 

 

 新一が正直に答えると、制服姿のアレックスが「おい泉! 余計なことを報告するな!」と慌てて首を振った。

 

 王冠の少女は、コロコロと鈴が鳴るように笑った。

 

 

「やっぱりね。彼女は行動力がカンストしている分、モラル設定が少し緩いんだ。君たちには、随分と苦労をかけたみたいだね。でも、そのおかげでこの世界は最悪の結末たる『カノン•イベント』を回避し、人間と寄生生物が共存するという、極めて美しいバニラの状態を保つことができた。素晴らしい成果だ」

 

 

 彼女は、杖の先端にあるコマンドブロックを地面にトンッと軽く突いた。それだけで、泉家の庭に満ちていた冬の冷たい空気が、春のような暖かく心地よい風へと瞬時に書き換わった。物理法則すらも意のままに操る、神のごとき力。

 

 新一は悟った。目の前の少女は、自分たちの隣にいるアレックスよりもさらに上位の存在、すべての次元と世界を管理する、本当の「神」なのだと。

 

 王冠の少女は、真っ直ぐに制服姿のアレックスを見据えた。

 

 

「さて、もうひとりの私。君がこの世界で成し遂げた整地と建築は、十二分に評価されている。だが、この世界はもう、君の過剰な介入を必要としていない。彼らは自らの足で、新しい日常を歩み始めているからね」

 

 

 制服姿のアレックスは、少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐにいつもの不敵な笑みを取り戻した。

 

 

「ふん。分かってるさ。私の目的は達成された。ラスボスも倒したし、隠し実績も全部解除したからな。そろそろ、次のワールドにログインする頃合いだと思ってたところだ」

 

 

 王冠の少女は優しく頷き、そして新一と里美に向かって、真っ直ぐにその美しい緑色の瞳を向けた。風が吹き、彼女の亜麻色の髪と、黄金の王冠がキラキラと太陽の光を反射する。

 

 すべてのアレックスとマインクラフターを統括する存在。マルチプレイが可能な、無限の創造と冒険が広がる『くらふたーのせかい』からやってきた、至高の案内人。

 

 彼女は希望に満ちた声で、物語の終わりと新たな始まりを告げる言葉を紡いだ。

 

 

「改めて、自己紹介させてもらおう。私は統括のアレックス。君たちをクラフターズに招待したい」

「クラフターズ…?」

 

 

 新一がオウム返しに呟くと、統括のアレックスは穏やかな微笑みを崩さないまま、ゆっくりと頷いた。

 

 

「そう。様々な世界を渡り歩き、理を構築し、終わりのない冒険を続ける者たちの集まりだ。君たちはこの過酷なサバイバルを見事に生き抜き、予想外のシナリオを自らの手で作り上げた。その強靭な意志と適応能力は、私たちの世界でも大いに役立つはずだ」

 

 

 統括のアレックスは、持っていたコマンドブロックの杖を静かに掲げた。杖の先端から、眩い光の粒子が溢れ出し、周囲の空間を優しく包み込んでいく。

 

 

「私は時間の枷を開放する権限を持っている。それはつまり、創造主に進化すること」

 

 

 その言葉の持つ意味の重さに、新一は息を呑んだ。

 

 時間の枷を開放する。それはつまり、人間という種族の絶対的なルールである「寿命」や「死」という概念から解き放たれることを意味している。病気も怪我も老いも存在しない。パラサイトの脅威に怯えることもなく、システム側として世界を管理する絶対的な存在になるということだ。

 

 

「有限とはさよならだ。さあ君たち全員、彼女と同じ存在になろう。技術開発部が、君たちを待っている」

 

 

 統括のアレックスの誘いは、果てしなく甘美で、絶対的な救済のように響いた。

 

 もしこの誘いに乗れば、もう二度と大切な人を失う恐怖に怯える必要はない。痛みに耐え、理不尽な暴力に抗うために血を流す必要もなくなる。すべてをブロックのように自在に操り、意のままの安全な世界を構築できるのだ。

 

 新一は、自分の右腕に視線を落とした。

 

 

『…新一』

 

 

 ミギーが、小さな声で新一の脳内に語りかけてきた。

 

 

『知的好奇心という観点から見れば、彼女たちのいる世界は究極の探求の場だろう。永遠の時間をかけて、あらゆる法則を解析することができる。だが…私という細胞は、君の生命活動に依存している。最終的な決定権は、宿主である君にある』

 

 

 ミギーは、いつものように合理的な計算を提示するのではなく、ただ静かに新一の選択を尊重しようとしていた。

 

 新一は顔を上げ、隣に立つ村野里美を見た。新一の視線に気づくと、そっと彼の手を握りしめた。彼女の温かく柔らかい手のひらの感触が、新一の心に真っ直ぐに伝わってくる。里美の瞳には、一切の迷いがなかった。

 

 彼女は不死の創造主になることよりも、ただの人間として新一の隣で笑い、泣き、そしていつか終わりを迎える道を選んでいるのだと、言葉を交わさずともはっきりと分かった。

 

 さらに背後の家の窓からはエプロン姿の信子と、すっかり鎧を脱ぎ捨ててくつろいだ格好の一之が、心配そうにこちらの様子を窺っているのが見えた。彼らもまた、パラサイトと戦うための異常な力を手に入れはしたが、その根底にあるのは「普通の家族として生きたい」という、あまりにも人間らしくて脆い願いなのだ。

 

 新一は、ゆっくりと息を吐き出した。統括のアレックスに向かって、真っ直ぐに答えた。

 

 

「…お誘いはすごく魅力的だけど、お断りします」

 

 

 統括のアレックスは予想外の答えだったのか、僅かに目を丸くした。

 

 

「どうしてだい? 君たちの世界はまだ完全に安全になったわけではない。パラサイトという火種は残っているし、いつまた日常が壊れるか分からない。永遠の安寧を手に入れたいとは思わないのかい?」

「思いません」

 

 

 新一はきっぱりと首を横に振った。そして、少しだけ悪戯っぽく笑いながら、隣で腕を組んでいる制服姿のアレックスを指差した。

 

 

「だって、そこのアホな管理者が、前にすごくいいことを言っていたんですよ。…『老いることも死ぬことも、人間という儚い生命体の美しさだ』って」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、制服姿のアレックスが「ぶっ!」と噴き出した。

 

 

「お、おい泉! なんでこのタイミングで私のセリフをパクるんだよ! 恥ずかしいだろ!」

 

 

 顔を真っ赤にして抗議する彼女を尻目に、新一は言葉を続ける。

 

 

「僕たちは人間です。いつか死ぬからこそ、今を必死に生きようとするし、大切な人を守りたいって強く願うことができる。時間の枷が外れてしまったら、きっと僕たちは、僕たちじゃなくなってしまう。だから…有限のままでいいんです」

 

 

 新一の決意に満ちた言葉に、里美も力強く頷いた。

 

 

「私も泉くんと同じです。アレックスちゃんたちの世界はすごくて、私なんかじゃ想像もつかないくらい広いんだと思うけど…私は、この狭くて危ない世界で、泉くんたちと一緒に年を取っていきたいんです」

 

 

 新一と里美の真っ直ぐな意志を受け止めた統括のアレックスは、驚いたような表情を浮かべた後、やがてふっと目を細め、どこまでも優しく、包み込むような笑みを浮かべた。

 

 

「…そうか。それが、君たちというプレイヤーがたどり着いた『答え』なんだね。有限であることの美しさ。それを自覚し、受け入れる強さ。…本当に、素晴らしいと思うよ」

 

 

 統括のアレックスは、コマンドブロックの杖をゆっくりと下ろした。そして、照れ隠しのようにそっぽを向いている制服姿のアレックスへと視線を向けた。

 

 

「君の言う通りだったね。彼らはもう、立派に自分たちのワールドを管理できる。私たちのような『システム』の介入は、無粋というものだ。さあ、帰ろうか。私たちの場所へ」

 

 

 統括のアレックスは、コマンドブロックの杖をゆっくりと下ろした。そして、照れ隠しのようにそっぽを向いている制服姿のアレックスへと視線を向けた。

 

 

「行こう!」

 

 

 制服姿のアレックスは、踵を返し、統括のアレックスの横に並ぶと、元気よく大きく頷いた。その足取りには何の未練もないように見えた。統括のアレックスは満足そうに微笑み、空間にネザーゲートの紫色の渦を発生させた。

 

 

「そしたら…」

 

 

 統括のアレックスがゲートへ足を踏み入れようと、次の言葉を紡ぎかけたその瞬間だった。

 

 

「嘘だよバーカ!」

 

 

 制服姿のアレックスは、統括のアレックスの背中に向かって思い切り両手で「あっかんべー」をして見せ、そのまま脱兎のごとく新一と里美の後ろへと駆け戻ってきたのだ。

 

 

「はい?」

 

 

 統括のアレックスは、片足をゲートに向けた不自然な体勢のまま、完全に間の抜けた声を出し、目を丸くして振り返った。その顔からは先程までの神秘的なまでの威厳がすっかり抜け落ちていた。

 

 新一も里美も突然の展開に呆気にとられ、自分の背中に隠れるようにひょっこりと顔を出しているアレックスをまじまじと見つめた。

 

 

「お、おいアレックス。お前、帰るんじゃないのか?」

 

 

 新一が戸惑いながら尋ねると、アレックスは「ふんっ」と鼻を鳴らした。

 

 

「誰が帰るか! 私が丹精込めて整地して、ようやく安全地帯にしたこのワールドを置いて帰れるわけないだろ! 私はここで、こいつらのドタバタ劇を特等席でポップコーン食べながら眺める権利があるんだ!」

 

 

 統括のアレックスは、困惑した表情のまま杖を握り直し、制服姿のアレックスを真っ直ぐに見据えた。

 

 

「まさか…看取るまで?」

 

 

 その声には深い驚きと、永遠を生きる者特有の哀憐の情が混じっていた。

 

 

「人間の寿命を知っているだろう? 時間の枷から解放された私たちにとって、人間の八十年や九十年なんて、ほんの瞬きのような時間だ。彼らが老い、病に倒れ、土に還っていく過程を、君は一つも変わらない姿のまま見届けるというのかい? それは…あまりにも残酷な観測だぞ」

 

 

 統括のアレックスの言葉は、真理を突いていた。新一はハッとした。アレックスは不老不死の存在だ。もし彼女がこのまま自分たちと一緒にいるなら、新一や里美が年老いて死んでいくのを、彼女は一人で取り残されながら見送らなければならないのだ。

 

 それは、想像するだけでも痛ましい孤独である。だが、制服姿のアレックスは少しも怯まなかった。

 

 

「残酷? 何言ってんだ。私がさっき言っただろ。『老いることも死ぬことも、人間という儚い生命体の美しさだ』ってな! 私はその美しいエンディングまで、しっかりとこの目に焼き付けると決めたんだ!」

 

 

 その確固たる宣言を聞き、統括のアレックスは深いため息をついた。

 

 

「君は両親を殺され、両親を取り戻そうとマインクラフターになった。『くらふたーのせかい』に降臨してね」

 

 

 統括のアレックスの口から、不意にアレックスの過去が語られた。

 

 新一は息を呑んだ。アレックスが広川に語っていた「寄生獣に両親を殺された」という言葉。それは彼女が常識を超越した力を求めるに至った、悲痛な原点だったのだ。人間のエゴによって愛する者を奪われた絶望が、彼女を時間の枠組みから外れた存在へと押し上げた。

 

 

「君はその強すぎる喪失感と執念で、あらゆる世界の理を解き明かし、ついには統括の座を狙うくらいだ。圧倒的な力を手に入れた君が、どうしてそこまで、この脆弱な人間たちに固執するんだい?」

 

 

 統括のアレックスの問いかけに対し、制服姿のアレックスはチッと舌打ちをした。

 

 

「うるさいな。昔の話をほじくり返すな。それに、お前だって人のことは言えないだろ?」

 

 

 アレックスは統括のアレックスを指差して、挑発的な笑みを浮かべた。

 

 

「お前だって後天的に時間の枷から解放されて、なんやかんや統括の座を簒奪したじゃないか。お前だって人間だったくせに、偉そうに語るなよな!」

 

 

 新一と里美は顔を見合わせた。どうやら、目の前にいる二人の「神様」は、どちらも元々は人間のような存在であり、壮絶な過去を経て今の力を手に入れたらしい。

 

 統括のアレックスは、痛いところを突かれたというように少しだけ肩をすくめた。

 

 

「私の場合は頂点に君臨したかっただけさ。両親のことなんてどうでもいい」

 

 

 その言葉は冷徹であったが、どこか達観したような響きを持っていた。

 

 

「それに、別れを済ましたしね。私は過去を完全に切り離し、役割を受け入れた。けど、君は違う。君はまだ人間としての未練を引きずったまま、創造主の力を持っている。そんな君が彼らを看取れば、君の心は永遠に傷つくことになるんだよ」

 

 

 統括のアレックスは、心から心配するように忠告した。しかし、制服姿のアレックスは、ニカッと歯を見せて笑い飛ばした。

 

 

「傷つく? 上等だ! 私はHPがゼロにならない限り、どんなデバフだって気合いで治せるんだよ! それに、こいつらが私の前からいなくなるその日まで、毎日クエストを押し付けて、パシリにして、徹底的にこき使ってやるんだ! 悲しんでる暇なんて一秒も与えてやらないからな!」

 

 アレックスはそう言うと、新一の背中をバンバンと力強く叩いた。

 

 

「ほら泉! 聞いてたか! 私がお前らを最後まで面倒見てやるって言ってんだぞ! 感謝の言葉を述べろ!」

「い、痛い痛い! 叩く力が強すぎるっての!」

 

 

 新一は背中の痛みに顔をしかめながらも、その言葉の裏にある不器用な優しさに、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 

「アレックスちゃん…」

 

 

 里美も、涙ぐみそうになるのを堪え、優しく微笑みながらアレックスの手を握った。

 

 

「ありがとう。私、おばあちゃんになっても、アレックスちゃんに美味しいパンケーキ焼いてあげるからね」

「おう! 約束だぞ! シロップ増し増しで頼む!」

 

 

 その光景を見て、統括のアレックスはついに諦めたようにふっと笑った。

 

 

「…やれやれ。どうやら、私の説得は無意味だったようだ。君という存在は、本当にシステムのエラーそのものだよ」

 

 

 統括のアレックスはコマンドブロックの杖を軽く振り、再びネザーゲートの紫色の光を活性化させた。

 

 

「まあいい。君がそこまで言うのなら、見守るといいさ。彼らの人生という名の、美しく有限な物語を。そしていつか彼らを見送った後、君が本当にクラフターズに戻りたくなった時は、いつでもゲートを開いてあげるよ」

「ふんっ。そんな日は百年後かもしれないぞ!」

「百年なんて、私たちにとっては明日のようなものさ。…元気でね、泉くん、里美ちゃん。そして、もうひとりの私」

 

 

 統括のアレックスは優雅に一礼し、今度こそ迷うことなくネザーゲートの中へと足を踏み入れた。シュンッという甲高い音と共に、紫色の光の渦は空中に吸い込まれるようにして完全に消滅した。

 

 冬の冷たい風が、再び泉家の庭を吹き抜ける。しかし、そこに残された新一たちの心は、これ以上ないほどに暖かかった。

 

 

「…本当によかったのか? 帰らなくて」

 

 

 新一は改めて尋ねると、アレックスは「当たり前だろ」と鼻を鳴らした。

 

 

「私はお前たちの保護者なんだからな。それに、信子さんから頼まれた特産品集めのクエストもまだ残ってるし、お前のお父さんのダイヤ装備のメンテナンスも定期的にやってやらないといけない。私がいないと、この家はすぐにゲームオーバーだぞ!」

 

 

 そこへ、家の中からドタドタと足音がして、エプロン姿の信子が顔を出した。

 

 

「あら、アレックスちゃん! ちょうどよかったわ! 明日の朝ごはんの材料が足りないから、隣町のスーパーまでダッシュしてきてくれない? あと、ついでに裏山の整地もお願いね!」

「げっ! 信子さん、いくらなんでもクエストの発注ペースが早すぎる! 私だってスタミナの限界が…」

「お釣りでデザート買ってきてもいいわよ」

「受注します!」

 

 

 アレックスが直立不動で即答するのを見て、新一と里美はついにこらえきれずに吹き出した。ミギーも右手の甲から目玉を出し、『人間社会におけるヒエラルキーの逆転現象だな。非常に興味深い』と冷徹な分析を下している。

 

 パラサイトの恐怖が去り、世界は平和になった。

 

 泉家を取り巻く日常は、相変わらず物理法則と常識をぶち壊す「マインクラフターの理」に満ち溢れている。永遠を生きる孤独な神様は、こうしてただの騒がしい居候として、新一たちの限られた時間を共に歩んでいくことになったのだ。

 

 

「行くぞ、里美。アレックスがまた変なブロックを置く前に、手伝ってやらないと」

「うんっ! 行こう、泉くん!」

 

 

 笑い声が響く泉家の庭。

 

 新一は、いつか必ず訪れる死という結末を恐れなくなった。なぜなら、自分たちの生きた証を、喜びも悲しみも、すべてを永遠に覚えていてくれる無敵の友人が、すぐ隣で元気に騒いでいるからだ。

 

 奇妙で、過酷で、そして最高に愛おしい彼らの日常は、これからもずっと、笑顔と共にクラフトされ続けていくのだから。




拙作「僕の常識は息をしていない」、これにて無事完結となります!

執筆を始めた当初は本当に最後まで描き切れるのか、風呂敷を畳み切れるのかと、不安でいっぱいでした。しかし、まさかこうして最終話まで走り抜け、完結の瞬間を迎えられるとは…正直なところ、作者自身が一番驚いており、夢のような心地です。

執筆を進める中で、物語は私の想定を超えて動き出しました。まさかここまでカオスで、熱く、そして面白い展開になるとは!

皆様、この長い旅路を楽しんでいただけたでしょうか?

私は今後も、筆を止めることなく、また新たな世界を創造していこうと思います。至らない部分も多々あるかと思いますが、これからもどうぞ温かく見守っていただければ幸いです。

本当にありがとうございました!

PS: 統括のアレックスですが、Alan Becker氏のキング•オレンジをイメージしております。統括のアレックスは、pixivにオマージュ•ファンアートとして描かせていただきました。よろしければ、どうぞご覧ください。
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「なんでよりによって、アイツなんだよぉぉぉぉ!!」▼ 目覚めると、そこはガンダムSEED DESTINYの世界。よりによって視聴者から「無能・姑息・情けない」と叩かれ、悲惨な最期を遂げた御曹司、ユウナ・ロマ・セイランになっていた。▼ 時は本編開始直前。目前にはユニウスセブン落下、大西洋連邦との泥沼の軍事同盟、そしてキラやシンとの敵対という、回避不能な破滅フラ…


総合評価:23113/評価:8.58/完結:158話/更新日時:2026年06月01日(月) 04:48 小説情報

ハサウェイがアムロやシャアに影響される前に機械オタクになった世界線のお話(作者:陸奥九十九)(原作:ガンダム)

閃光のハサウェイの結末悲惨やな…せや!ハサウェイがアムロやシャアに影響される前にのめり込むものがあればいいんや!▼ミライさんの実家って地球圏の大企業だし、その実家で過ごしているうちにハサウェイが機械いじり(特にバイクや車)にハマって、なんやかんや幸せになるお話です。▼あんまりMSとか出てこないし、戦闘シーンなどもあんまりない予定です。▼追記:▼公式だとミライ…


総合評価:18344/評価:9.19/連載:44話/更新日時:2026年05月26日(火) 09:57 小説情報


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