『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

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第22話 赤く灯る欠片と、眠れない夜

 

 

 ――何かが、動き出そうとしている。

 

 そんな予感だけが、静かに胸の底へ沈んでいった。

 

 赤く光る憑代のカケラを囲んだまま、俺たちはしばらく誰も口を開かなかった。

 部屋の中は妙に静かで、さっきまでの騒がしさが嘘みたいだった。

 

 光自体は強くない。

 脈打つように強く明滅しているわけでもない。

 けれど、袋の口から漏れる赤い明かりは、見ているだけで落ち着かない気分にさせる。

 

 まるで、何かを待っているような。

 あるいは、こちらに気づかれないよう、じっと息を潜めているような。

 

「……本当に、これだけですか?」

 芳乃が不安げに呟く。

 

 その声も、いつもよりわずかに硬い。

 無理もない。目の前にあるのは、昨日までただの欠片だったものだ。それが今は、理由もわからないまま赤く光っている。

 

「今のところはの」

 ムラサメちゃんは腕を組み、じっと袋を見つめたまま答えた。

「じゃが、何も起きぬから安全とは限らぬ。むしろ、こういう時の方が厄介じゃ」

 

「いっそ派手に何か起きてくれた方が、対処のしようもあるのですが」

 茉子が落ち着いた口調で言う。

「何もわからないまま警戒だけを続けるのは、少々気疲れしますね」

 

「それはわかる」

 俺は苦笑しながら頷いた。

「敵が見えてるなら斬ればいいけど、前触れだけだとどう動けばいいのかわからないしな」

 

「脳筋寄りの発言じゃのう」

「誰が脳筋だ」

 

 すぐに返すと、ムラサメちゃんはふんと鼻を鳴らした。

 そのやり取りで、張り詰めた空気がほんの少しだけ緩む。

 

 けれど、それも一瞬だった。

 

 不意に、ぐらりと視界が揺れた。

 

「……っ」

 

 一瞬、床が遠くなったような感覚がする。

 足元がふわりと浮いたみたいになって、俺は反射的に近くの柱に手をついた。

 

「将臣さん?」

 芳乃がすぐにこちらを見る。

「どうしましたか?」

 

「いや……ちょっと」

 俺はこめかみを押さえながら息を吐く。

「少し目眩がしただけだ。たぶん大したことない」

 

「大したことなくありません」

 芳乃がすぐに立ち上がる。

「顔色も少し悪いです。座ってください」

 

「そうです。こういう時に無理をされては困ります」

 茉子も肩を貸そうとしてきた。

 

「お、おいおい。そんな大げさな――」

 

「大げさではない」

 ムラサメちゃんが、珍しくきっぱりとした声で言った。

「ご主人、他にどこか痛むところはあるか? 吐き気、寒気、耳鳴り、妙な眠気……何でもよい、思い当たることを申せ」

 

 その声音に、俺もふざける気をなくす。

 

「いや、本当に一瞬くらっとしただけだ。頭痛もないし、気持ち悪くもない。体が重い感じもない」

「ふむ……」

 

 ムラサメちゃんは小さく唸ると、今度は芳乃と茉子の方を見た。

 

「芳乃、茉子。おぬしらはどうじゃ。体調に変化はないか?」

「私は……特には」

 芳乃は自分の胸元に手を当てて、少し考える。

「今は大丈夫です。朝の犬耳の件はありましたが、それ以外には」

「私も異常はありません」

 茉子も即答した。

「気配が濃くなったという感覚はありますが、体調不良というほどのものはありませんね」

 

「む」

 ムラサメちゃんは袋を見てから、俺に視線を戻した。

「ならば、あと確認すべきは一人じゃな」

 

「……レナさんか」

「うむ」

 

 俺も同じ考えに至っていた。

 カケラに関わった面子の中で、この場にいないのはレナさんだけだ。

 

「ご主人、すぐに確認してまいれ。今のところ一番わかりやすく異変が出たのはおぬしじゃ。ならば、同じくカケラに関わったレナにも何か起きておる可能性はある」

「わかった」

 

 頷いた瞬間、芳乃が少し身を乗り出した。

 

「将臣さん、私も――」

「芳乃様はここでお待ちください」

 茉子がやんわりと制した。

「今は下手に動かれる方が危険です。もし何か起きた時、こちらに一人は残っていただかないと困ります」

 

「ですが……」

「大丈夫だよ」

 俺は芳乃に向き直る。

「様子を見てくるだけだ。何かあったらすぐ戻る」

 

 芳乃は不安そうに目を伏せたが、やがて小さく頷いた。

 

「……はい。お気をつけて」

「おう」

 

 そう答えると同時に、俺は神社を飛び出した。

 

 

     ◇

 

 

 健実神社を出て、俺はそのまま玄十郎との稽古の待ち合わせ場所へ向かった。

 

 レナさんがいるなら、まずあそこだ。

 最近は祖父ちゃんの鍛錬を見に来ることも多く、俺が着く頃には、祖父ちゃんとレナさんが先に待っていることも珍しくない。

 少し離れたところから「マサオミ、がんばってくださいですー!」なんて声を飛ばされるのが、ここしばらくの妙な恒例にもなっていた。

 

 だからこそ、待ち合わせ場所に祖父ちゃんしかいないとわかった瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。

 

 朝の空気はまだ澄んでいて、境内の端には冷たい風が流れている。

 木刀を脇に置いた祖父ちゃんは、いつも通り静かに立っていたが、その周囲にレナさんの姿はどこにもない。

 

「祖父ちゃん!」

 俺が駆け寄ると、祖父ちゃんは短くこちらを見る。

 

「将臣か。どうした」

「レナさんは?」

 

 単刀直入に聞くと、祖父ちゃんはわずかに眉を寄せた。

 

「来ておらん」

「……やっぱりか」

 

 小さく漏れた自分の声が、思ったより低かった。

 嫌な予感が、少しずつ現実味を帯びてくる。

 

「リヒテナウアーさんなら、言伝を残しておった」

「言伝?」

「少し頭痛がするため、今日は来られぬとのことだ」

 

 その一言で、胸のざわつきが一気に強まった。

 

「頭痛……」

 

 俺の目眩。

 赤く光るカケラ。

 そしてレナさんの頭痛。

 

 ただの偶然だと笑い飛ばすには、出来すぎている。

 

「それと」

 祖父ちゃんは変わらぬ調子で続けた。

「来られぬことを謝っておいてほしい、とも言っておった」

 

 思わず苦笑が漏れそうになった。

 あの人らしい。

 体調が悪くても、まずそこを気にするのか。

 

「志那津荘にいるんだな?」

「おそらくはな」

「悪い、祖父ちゃん。ちょっと様子見てくる」

「行け」

 

 それだけ聞いて踵を返そうとした時、祖父ちゃんが低く言った。

 

「将臣」

「ん?」

「焦るな。焦れば見えるものも見えなくなる」

 

 短い言葉だった。

 けれど、今の俺には十分すぎるくらい刺さる。

 

「……ああ。わかってる」

 

 返事をして、俺は志那津荘へ向かって駆け出した。

 

 山道を抜ける風が頬を打つ。

 走りながら、頭の中では嫌な想像ばかりが膨らんでいく。

 

 もし、ただの頭痛じゃなかったら。

 もし、俺の目眩と同じように、レナさんにも何か影響が出ているとしたら。

 

 考えれば考えるほど足が速くなる。

 落ち着け、と祖父ちゃんに言われたばかりなのに、胸の内まではそう簡単に静まってくれなかった。

 

 

     ◇

 

 

 志那津荘に着くと、女将さん――猪狩さんがちょうど帳場にいた。

 

「あら、有地くん。どうされました、そんなに慌てて」

「レナさんの様子を見に来ました」

「リヒテナウアーさん? 少し顔色はよくないけど、お部屋で休んでいますよ」

 

 その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。

 少なくとも倒れてはいないらしい。

 

「会っても大丈夫ですか?」

「はい。それは構いませんが」

 

 礼を言って、俺は客室の方へ向かった。

 

 廊下を進む足音が、妙に大きく聞こえる。

 落ち着け。とりあえず顔を見て、ちゃんと話を聞く。それからだ。

 

 そう自分に言い聞かせながら襖の前に立ち、軽くノックした。

 

「……はい」

 

 少し遅れて返ってきた声に、ほんの少しだけ安堵する。

 意識ははっきりしているようだ。

 

「俺だ。入っていいか?」

「マサオミ? どうぞです」

 

 襖を開けると、レナさんは布団の上に腰掛けていた。

 寝込んでいるほどではない。

 けれど、やっぱりいつもより顔色が悪い。明るい金髪も、今日は少しだけ元気を失って見えた。

 

「大丈夫か?」

 俺が近づくと、レナさんは少し申し訳なさそうに笑った。

 

「すみませんです。大旦那様との約束、行けませんでした」

「いや、今はそんなのどうでもいい。頭痛がするんだって?」

「はい。ちょっとだけです」

 レナさんはこめかみに手を当てる。

「すごく痛いわけではないです。少し重い感じというか、ぼんやりする感じです」

「熱は?」

「たぶん、ないと思います」

 

 俺は少し屈んで顔色を確かめる。

 熱っぽさはあまり感じない。

 ただ、肌の色は少し悪くて、目の下にもかすかに疲れが見える。

 

「無理して学院に行こうとか思ってないだろうな?」

「う……少しだけ思いましたです」

「正直か」

「でも、今は休んだ方がいいかもと、ちょっと思い始めました」

「その方がいい」

 

 そう言うと、レナさんは困ったように笑った。

 

「マサオミ、ちょっと厳しいです」

「心配してるだけだよ」

「それは、わかります」

 

 その返事はいつもより少し小さくて、だからこそ余計に無理をしている感じがした。

 

「朝、神社でちょっと妙なことがあってさ」

 俺は椅子代わりに近くへ腰を下ろしながら、できるだけ簡潔に説明した。

 カケラが赤く光ったこと。

 俺が少し目眩を起こしたこと。

 それで、念のためレナさんの様子も見に来たこと。

 

「私も……関係あるかもしれないですか?」

 レナさんが不安そうに視線を揺らす。

 

「まだ断定はできない。でも、無関係とも言い切れない」

「そう、ですか……」

 

 レナさんは自分の膝の上で指先を重ねた。

 その仕草に、表面上は落ち着いて見えても不安なのが伝わってくる。

 

「でも、今のところは大きな異常じゃない」

 俺は少しだけ声を柔らかくする。

「休んで、何か変なことがあったらすぐ知らせてくれ。それだけでいい」

「はい……」

「無理に平気そうにしなくてもいいからな」

「……そんなに、わかりやすいですか?」

「結構な」

 

 そう答えると、レナさんはほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「マサオミに来てもらえると、ちょっと安心しますです」

「それなら来た甲斐はあったな」

 

 その笑顔を見て、胸の奥の重さが少しだけ軽くなる。

 今この瞬間、少なくとも会話はできている。

 それだけでも、かなり大きい。

 

「じゃあ、俺は戻るよ。みんなも心配してるし」

「はい」

 レナさんはこくりと頷いて、それから少しだけ笑った。

「また学院で、です」

「ああ。また学院で」

 

 その何気ない一言に、少しだけほっとする。

 また学院で。

 いつも通りの明日を前提にした言葉だ。

 

 だから、その時の俺はまだ、夜にあんなことになるなんて本気では思っていなかった。

 

 

     ◇

 

 

 健実神社に戻ると、芳乃たちはまだ居間で待っていた。

 俺の姿を見た瞬間、芳乃がほっとしたように息を吐く。

 

「将臣さん……!」

「ただいま。とりあえず、レナさんには会えた」

 

 全員の視線が集まる中、俺は志那津荘で確認したことを順に話した。

 少し頭痛があること。

 顔色は悪いが、会話は普通にできたこと。

 今すぐ深刻というわけではなさそうなこと。

 

「そうですか……」

 芳乃が胸を撫で下ろす。

「レナさんが無事で、よかったです」

 

「完全に無事と言い切るには、まだ早いですが」

 茉子が静かに言う。

「将臣さんの目眩、レナさんの頭痛、そして芳乃様の犬耳。偶然にしては、少々出来すぎていますね」

 

「うむ」

 ムラサメちゃんが頷いた。

「どうやら、ただ光っただけでは済まぬらしいの」

 

 そう言って、ムラサメちゃんは袋の中のカケラへ目を向ける。

 赤い光は、相変わらず弱く明滅していた。

 

「我輩の推測じゃが」

 ムラサメちゃんは腕を組み直した。

「おそらく、カケラを集めたことで呪詛の力が少しずつ強まっておる。ゆえに、芳乃には犬耳が現れ、ご主人やレナには体調の変化が出たのではないか」

 

「呪詛の力が……強まっている」

 芳乃の声がわずかに震える。

 

「そしてもう一つ」

 ムラサメちゃんは目を細めた。

「カケラが赤くなっておるのは、他のカケラへ呼びかけておるからかもしれぬ」

 

「呼びかけてる?」

 俺が聞き返すと、ムラサメちゃんはこくりと頷いた。

 

「元は一つの憑代じゃ。砕けて散っておっても、互いを求め合う性質があっても不思議ではあるまい。半分まで揃った今、残るカケラを引き寄せようとしておる可能性はある」

「なんか、厄介な習性だな……」

「じゃが、考えようによっては手掛かりにもなる」

 

 ムラサメちゃんの言葉に、茉子がわずかに目を細める。

 その横で、芳乃はどこか青ざめた顔をしていた。

 

「芳乃?」

 俺が声をかけると、芳乃ははっとしたように顔を上げた。

 

「あ……いえ」

 けれど、その表情は晴れない。

「その……朝のことを思い出して、少し」

 

「朝?」

「犬耳が出た時です」

 芳乃はそっと自分の耳に触れる仕草をした。

「自分ではよくわからないうちに、ああなっていました。もし、あれが……憑代に乗っ取られたようなものだとしたら、と」

 

 その言葉に、場の空気が少し重くなる。

 芳乃は普段、自分の不安をあまり表に出さない。そんな芳乃がこうして言葉にしたということは、心の中でよほど引っかかっていたのだろう。

 

 けれど、ムラサメちゃんは即座に首を振った。

 

「それは違う」

 いつになく断定的な口調だった。

「少なくとも、今の芳乃が憑代に乗っ取られておるわけではない」

 

「ですが……」

「よいか。憑代が動くとすれば、おそらく芳乃の意識が薄れておる時じゃ。眠っておる時、あるいは意識を失っておる時。そして夜の方が力が増しやすい」

 ムラサメちゃんは落ち着いた声で続ける。

「朝のあれは、乗っ取りというより影響が表へ出ただけに近い。おぬし自身が消えておるわけではない」

 

 芳乃はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

 

「……そう、でしょうか」

「そうじゃ。少なくとも、今ここで不安に呑まれる必要はない」

「はい……」

 

 完全に安心したわけではなさそうだが、それでも少しは肩の力が抜けたように見えた。

 

 その横で、俺はつい芳乃の耳に目がいく。

 

「つまりあれか」

「何ですか、将臣さん」

「犬耳って、アンテナみたいな役目してたりするのか?」

 

「……は?」

 芳乃が固まる。

 

「いや、だってほら。カケラの反応を拾いやすくなってるとか、そういう」

「将臣さん」

 芳乃の頬がじわっと赤くなる。

「その話の流れで、なぜ私の犬耳を見るのですか」

「いや、考察の一環というか」

「見ていますよね」

「見てるな」

「認めないでください!」

 

 思わず正直に答えたら、芳乃がさらに赤くなる。

 その様子に、茉子がくすっと笑った。

 

「将臣さん。真面目な顔で芳乃様の犬耳を観察されても、言い訳としてはかなり苦しいかと」

「うっ」

「ご主人はほんに正直者じゃのう」

 ムラサメちゃんまで面白そうに言う。

 

「だって気になるだろ、あれ」

「気になるの意味が違いませんか?」

 芳乃がじとっとした目を向けてくる。

 

 うん、今は深追いしない方がいいな。

 なんとなく本能で察した。

 

 そこで茉子が咳払いを一つして、空気を戻す。

 

「ともあれ、何かしら対策は必要です。このまま様子見だけで済ませるのは危険でしょう」

「そうですね」

 芳乃も気持ちを切り替えるように頷いた。

「何か、できることがあれば……」

 

「ある」

 ムラサメちゃんが口元を吊り上げた。

「むしろ、この状況は利用できるやもしれぬ」

 

「利用する?」

 俺が眉を上げると、ムラサメちゃんは得意げに胸を張る。

 

「うむ。我輩の作戦はこうじゃ」

 

 

     ◇

 

 

「――つまり、夜に見張るってことか」

「そうじゃ」

 

 その夜。

 俺たちは再び集まり、ムラサメちゃんの作戦内容を最終確認していた。

 

「憑代が呼びかけるのが芳乃の意識がない時、そして夜に力を増す時だけなら、そこを押さえるのが一番手っ取り早い」

 ムラサメちゃんはそう言って、卓の上に置かれた袋を見る。

「今夜、芳乃が眠る時を見張り、憑代がどう動くかを監視する。これで少なくとも、何がきっかけで異変が起きるのかは見えるはずじゃ」

 

「まあ、理にはかなってるな」

 俺は頷いた。

「問題は、芳乃が普通に寝られるかどうかだけど」

 

「そ、そこは……努力します」

 芳乃がやや気まずそうに答える。

 

「万が一に備えて、戦闘準備も整えておきましょう」

 茉子が淡々と言う。

「憑代が何らかの形で表に出てきた場合、すぐ対処できるように」

「おう」

 俺は頷き、叢雨丸の位置を確かめた。

 

 そして準備を終えると、芳乃は赤く光る憑代のカケラの入った袋から、一つだけ小さな欠片を取り出した。

 

 それは、他の欠片と同じように淡く赤く光っていた。

 夜の静かな部屋の中では、その弱い光でさえ妙に目につく。

 

「芳乃?」

 俺が声をかけると、芳乃はその欠片を胸元でそっと包むように持った。

 

「ムラサメ様のお話では、私の意識がない時に憑代が呼びかけるかもしれないのでしょう?」

「うむ」

「でしたら、私が実際に持って眠った方が、何か変化があった時にわかりやすいかもしれません」

 

 声は穏やかだった。

 けれど、その指先にはわずかな力が入っている。

 

「危なくないか?」

 思わず聞くと、芳乃は少しだけ困ったように微笑んだ。

 

「怖くないと言えば、嘘になります」

 そう言ってから、芳乃は静かに目を伏せる。

「ですが、ここで逃げてばかりもいられません。私に関わることなら、私も向き合わないと」

 

 その言葉は、強がりではなく決意だった。

 不安も怖さも抱えたまま、それでも目を逸らさない。その在り方がいかにも芳乃らしい。

 

 茉子が柔らかく頷く。

 

「芳乃様……」

「無理はするなよ」

「はい」

 

 芳乃はそう答えて、欠片を大事そうに握ったまま自室の布団へ入った。

 

 部屋の中には、芳乃、茉子、俺、ムラサメちゃん。

 さすがに全員でじっと見つめる形になるので、どう考えても寝にくい。

 

 芳乃は布団を胸元まで引き上げ、憑代のカケラを両手でそっと包み込むようにしていた。

 その赤い光が、布団の隙間からかすかに漏れている。

 静かな寝室の中では、その淡い光さえも妙に生々しく見えた。

 

「では、消灯します」

 茉子が明かりを少し落とす。

 

 部屋が薄暗くなる。

 外からは虫の声がかすかに聞こえていた。

 夜の穂織は静かだ。静かすぎるくらいに。

 

 数秒後。

 

「……寝たか?」

 ムラサメちゃんが小声で聞いた。

 

「まだです」

 芳乃が即答した。

 

「では、寝ました?」

 今度は茉子が確認する。

 

「まだです」

 やっぱり即答だった。

 

 いや、そりゃそうだろ。

 確認されるたびに意識が戻るわ。

 

 と思ったけど、ここで黙ってるのも妙に気まずい。

 なので俺も、一応空気に乗ってみた。

 

「……寝た?」

 

 その瞬間だった。

 

「もう!」

 

 ばさっと布団が跳ね除けられる。

 芳乃が起き上がり、頬を赤くしたまま俺を睨んだ。

 

「じっと見つめられて寝れるわけないじゃないですか!」

「いや、見張るってそういう――」

「そういうことではありません!」

 芳乃は憑代のカケラを握ったまま、恥ずかしそうにしながらも抗議を続ける。

「こんなに見られていたら、眠れるものも眠れません!」

 

「すまん、そこまでとは思ってなかった」

「思ってください……!」

 

 言い返しながらも、芳乃は目を逸らした。

 その耳がほんのり赤いのを見て、たぶん怒っているだけじゃないんだろうなと察する。

 

 そして芳乃は、ぶつぶつと小さく続けた。

 

「それに、このままでは寝顔を見られるじゃないですか……」

 

「え?」

 聞き返すと、芳乃はびくっと肩を震わせた。

 

「な、なんでもありません!」

 耳まで赤くしながら、慌てて顔を逸らす。

「と、とにかく早く出て行ってください!」

 

「いや今、絶対なんか言っただろ」

「言っていません!」

「言ってたって」

「言っていません!」

 

 芳乃は羞恥をごまかすように声を強めた。

 

「もう、本当に無理です! 将臣さんがいると眠れません!」

「俺そんな安眠妨害装置みたいな扱いなの?」

「今はそうです!」

 

 横で茉子が肩を震わせている。

 笑いを堪えてるな、あれ。

 

「でしたら、こうしましょう」

 茉子がようやく口を開いた。

「私だけ残ります。将臣さんとムラサメ様は、いったん部屋の外で待機してください」

「それがよさそうじゃの」

 ムラサメちゃんもあっさり頷く。

 

「じゃあ、何かあったらすぐ呼べよ」

「はい!」

 芳乃はもう追い出すことしか考えていない返事をした。

 

 俺とムラサメちゃんは、やや釈然としないまま部屋を出た。

 

 

     ◇

 

 

 リビングへ戻ると、そこには見慣れた金髪の姿があった。

 

「……レナさん?」

「あ、マサオミ」

 

 少し驚いた声が出る。

 こんな時間に、どうしてここに。

 

 レナさんは立ち上がりかけて、それから少し気まずそうに笑った。

 

「その……憑代のことが気になって、来てしまいましたです」

「来たって……もう夜だぞ?」

「はい。でも、朝にあんな話を聞いたあとだと、どうしても落ち着かなくて」

 

 朝に顔を見た時より少し落ち着いているようにも見える。

 けれど、近くで見るとやはり顔色はよくない。無理に平気そうにしている感じがある。

 

 たしかに、レナさんの気持ちはわかる。

 神社であんな話を聞いて、自分にも頭痛という変化が出ているなら、不安になるのは当然だ。

 しかも夜だ。一人で志那津荘にいても、かえって落ち着かないだろう。

 

「……まあ、この時間に帰すのも危ないか」

「うむ」

 ムラサメちゃんも頷いた。

「今夜はここにおらせた方がよかろう」

 

「とりあえず、座っててくれ」

「はい、です」

 

 レナさんは素直に頷き、リビングの席に腰を下ろした。

 その動きはいつも通りに見えるのに、どこか少しだけ鈍い。

 

 そこへ、茉子が戻ってきた。

 

「芳乃様は、しばらく寝られそうにありませんね」

 そう言いながらリビングへ入ってきた茉子の手には、湯気の立つカップが乗った盆があった。

「少しでも落ち着けるよう、ホットミルクを――」

 

 そこで茉子は、リビングにいるレナさんに気づいた。

 

「レナさん?」

「こんばんは、です」

「……こんな時間にいらしていたのですか」

「憑代のことが気になって……」

 

 事情を察したらしい茉子は、それ以上は咎めなかった。

 ただ、その目はすぐに別の点へ向く。

 

「レナさん」

「はい?」

「やはり顔色が優れませんね」

 

 穏やかな声音だったが、指摘はまっすぐだった。

 レナさんは少し困ったように笑う。

 

「そう見えますか?」

「見えます」

 茉子はきっぱり言った。

「ご本人は大丈夫なおつもりでも、その顔色では説得力がありません」

 

「う……」

「ホットミルクはあとでお持ちします。少し客室で休まれますか?」

「でも……」

「何かあればすぐお呼びします」

 茉子はやわらかく、けれど有無を言わせぬ調子で言う。

「今は休んでいただいた方が賢明です。こういう時に無理をしても、よいことは一つもありません」

 

 レナさんは少し迷ったあと、観念したように頷いた。

 

「……わかりましたです」

「では、ご案内します」

 

 茉子はレナさんを客室へ案内していく。

 俺はその背中を見送りながら、なんとなく胸の中に小さな引っかかりを覚えた。

 

 どこがどうおかしいとまでは言えない。

 ただ、さっきからずっと、何かが噛み合っていないような違和感がある。

 

「俺、芳乃の様子を見てくる」

「うむ。行ってこい」

 

 ムラサメちゃんにそう言われ、俺は再び芳乃の部屋へ向かった。

 

 

     ◇

 

 

 襖をそっと開けると、芳乃はまだ起きていた。

 布団に入ってはいるが、胸元には赤く光る憑代のカケラを抱えたまま、目だけがしっかりと冴えている。

 

「……やっぱり寝られてないか」

「はい……」

 芳乃は少し恥ずかしそうに目を伏せた。

「さすがに、あの状況のあとでは」

 

「だよな」

 俺は苦笑して、少しだけ肩をすくめる。

「悪かった。見張るにしても、あれはさすがに落ち着かなかったよな」

「いえ、必要なのはわかっているのですが……」

 芳乃は布団の端を指でつまむ。

「将臣さんに、あのように見つめられては……」

 

 そこまで言って、芳乃は顔を赤くした。

 俺もなんとなくそれ以上は突っ込めず、曖昧に笑う。

 

「まあ、今は茉子もいるし、少しは落ち着けるだろ」

「はい。……たぶん」

 

 そう言った芳乃の表情は、まだ少し強張っていた。

 それでも、さっき一人で布団にいた時よりは少しだけ落ち着いて見える。

 

 俺は布団越しに、芳乃の手元へ目を落とした。

 胸元で抱えられた欠片は、まだかすかに赤く光っている。

 

「その欠片、平気か?」

「……少し、冷たいです」

 芳乃は小さく息を吐いた。

「でも、それだけです。今のところは」

「無理そうならすぐ手放せよ」

「はい」

 

 短いやり取りだった。

 けれど、そのわずかな間に、部屋の外を慌ただしく駆ける気配がした。

 

 次の瞬間、ばたん、と勢いよく襖が開く。

 

「将臣さん! 芳乃様!」

 

 飛び込んできたのは茉子だった。

 その顔から、いつもの余裕が消えている。

 

「茉子?」

 俺が立ち上がる。

 

 茉子は息を整える暇も惜しむように告げた。

 

「レナさんが、客室から出ていきました」

「え?」

「様子がおかしいのです。呼びかけにもほとんど反応せず、そのまま外へ――山の方へ向かいました」

 

 その瞬間、背筋が冷たくなる。

 

「山へ?」

「はい」

 茉子は素早く頷く。

「最初は少し様子を見るつもりでしたが、歩き方も視線も明らかに普通ではありませんでした。まるで、何かに引かれるように」

 

 芳乃が息を呑む音が聞こえた。

 

「まさか……」

「おそらく、憑代の影響です」

 茉子が低く言う。

「ムラサメ様が、すでに後を追っています。気づかれぬよう監視しながら、行き先を探ると」

「ムラサメちゃんが」

「はい。私はその報告に戻りました」

 

 部屋の空気が一気に変わった。

 さっきまでの落ち着かない夜とは違う。もうこれは前触れなんかじゃない。

 

「レナさんが……操られたのですか?」

 芳乃の声はかすかに震えていた。

 

「断定は避けますが、この状況でただ事ではありません」

 茉子は芳乃に向き直る。

「まっすぐ山へ向かっていました。普通の様子ではありません。自分の意思で歩いているというより、何かに導かれているようでした」

 

 俺は迷わず叢雨丸へ手を伸ばした。

 

 赤く光るカケラ。

 俺の目眩。

 レナさんの頭痛。

 夜になってからの異変。

 芳乃の胸元で光る欠片。

 

 全部が、一本の線で繋がるような感覚があった。

 

「行くぞ」

 低く言うと、茉子も即座に頷く。

 

「はい」

 

 芳乃も布団の上で欠片を握りしめたまま顔を上げた。

 

「私も行きます」

「芳乃」

「ここで待っているだけなんて、できません」

 声は震えていたが、目は逸らしていなかった。

「レナさんに何かあったのなら、なおさらです」

 

 その言葉に、俺は一瞬だけ迷う。

 危険だ。けれど、ここで残れと言っても、たぶん芳乃は納得しないだろう。

 

 茉子が静かに口を開いた。

 

「将臣さん。芳乃様をここに残しても、かえって不安が強まる可能性があります」

「……だな」

「でしたら、私が必ずお守りします」

 

 その声音に迷いはなかった。

 従者としてではなく、芳乃のそばに立つ者としての強さがそこにあった。

 

 俺は頷く。

「わかった。行こう」

 

 立ち上がった芳乃は、胸元の欠片を見下ろした。

 まだ弱く赤い光を放っている。

 その光が、今の状況の不穏さをそのまま映しているように見えた。

 

 部屋を出る直前、俺は一度だけ振り返る。

 さっきまで、ここには妙なラブコメみたいな空気もあった。

 寝顔がどうだとか、見つめるなとか。

 けれど、もうそんな空気は完全に消えていた。

 

 静かに忍び寄っていた不安は、もう前触れでは終わらない。

 

 ついに今夜、形を持って動き出したのだ。

 

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