――何かが、動き出そうとしている。
そんな予感だけが、静かに胸の底へ沈んでいった。
赤く光る憑代のカケラを囲んだまま、俺たちはしばらく誰も口を開かなかった。
部屋の中は妙に静かで、さっきまでの騒がしさが嘘みたいだった。
光自体は強くない。
脈打つように強く明滅しているわけでもない。
けれど、袋の口から漏れる赤い明かりは、見ているだけで落ち着かない気分にさせる。
まるで、何かを待っているような。
あるいは、こちらに気づかれないよう、じっと息を潜めているような。
「……本当に、これだけですか?」
芳乃が不安げに呟く。
その声も、いつもよりわずかに硬い。
無理もない。目の前にあるのは、昨日までただの欠片だったものだ。それが今は、理由もわからないまま赤く光っている。
「今のところはの」
ムラサメちゃんは腕を組み、じっと袋を見つめたまま答えた。
「じゃが、何も起きぬから安全とは限らぬ。むしろ、こういう時の方が厄介じゃ」
「いっそ派手に何か起きてくれた方が、対処のしようもあるのですが」
茉子が落ち着いた口調で言う。
「何もわからないまま警戒だけを続けるのは、少々気疲れしますね」
「それはわかる」
俺は苦笑しながら頷いた。
「敵が見えてるなら斬ればいいけど、前触れだけだとどう動けばいいのかわからないしな」
「脳筋寄りの発言じゃのう」
「誰が脳筋だ」
すぐに返すと、ムラサメちゃんはふんと鼻を鳴らした。
そのやり取りで、張り詰めた空気がほんの少しだけ緩む。
けれど、それも一瞬だった。
不意に、ぐらりと視界が揺れた。
「……っ」
一瞬、床が遠くなったような感覚がする。
足元がふわりと浮いたみたいになって、俺は反射的に近くの柱に手をついた。
「将臣さん?」
芳乃がすぐにこちらを見る。
「どうしましたか?」
「いや……ちょっと」
俺はこめかみを押さえながら息を吐く。
「少し目眩がしただけだ。たぶん大したことない」
「大したことなくありません」
芳乃がすぐに立ち上がる。
「顔色も少し悪いです。座ってください」
「そうです。こういう時に無理をされては困ります」
茉子も肩を貸そうとしてきた。
「お、おいおい。そんな大げさな――」
「大げさではない」
ムラサメちゃんが、珍しくきっぱりとした声で言った。
「ご主人、他にどこか痛むところはあるか? 吐き気、寒気、耳鳴り、妙な眠気……何でもよい、思い当たることを申せ」
その声音に、俺もふざける気をなくす。
「いや、本当に一瞬くらっとしただけだ。頭痛もないし、気持ち悪くもない。体が重い感じもない」
「ふむ……」
ムラサメちゃんは小さく唸ると、今度は芳乃と茉子の方を見た。
「芳乃、茉子。おぬしらはどうじゃ。体調に変化はないか?」
「私は……特には」
芳乃は自分の胸元に手を当てて、少し考える。
「今は大丈夫です。朝の犬耳の件はありましたが、それ以外には」
「私も異常はありません」
茉子も即答した。
「気配が濃くなったという感覚はありますが、体調不良というほどのものはありませんね」
「む」
ムラサメちゃんは袋を見てから、俺に視線を戻した。
「ならば、あと確認すべきは一人じゃな」
「……レナさんか」
「うむ」
俺も同じ考えに至っていた。
カケラに関わった面子の中で、この場にいないのはレナさんだけだ。
「ご主人、すぐに確認してまいれ。今のところ一番わかりやすく異変が出たのはおぬしじゃ。ならば、同じくカケラに関わったレナにも何か起きておる可能性はある」
「わかった」
頷いた瞬間、芳乃が少し身を乗り出した。
「将臣さん、私も――」
「芳乃様はここでお待ちください」
茉子がやんわりと制した。
「今は下手に動かれる方が危険です。もし何か起きた時、こちらに一人は残っていただかないと困ります」
「ですが……」
「大丈夫だよ」
俺は芳乃に向き直る。
「様子を見てくるだけだ。何かあったらすぐ戻る」
芳乃は不安そうに目を伏せたが、やがて小さく頷いた。
「……はい。お気をつけて」
「おう」
そう答えると同時に、俺は神社を飛び出した。
◇
健実神社を出て、俺はそのまま玄十郎との稽古の待ち合わせ場所へ向かった。
レナさんがいるなら、まずあそこだ。
最近は祖父ちゃんの鍛錬を見に来ることも多く、俺が着く頃には、祖父ちゃんとレナさんが先に待っていることも珍しくない。
少し離れたところから「マサオミ、がんばってくださいですー!」なんて声を飛ばされるのが、ここしばらくの妙な恒例にもなっていた。
だからこそ、待ち合わせ場所に祖父ちゃんしかいないとわかった瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
朝の空気はまだ澄んでいて、境内の端には冷たい風が流れている。
木刀を脇に置いた祖父ちゃんは、いつも通り静かに立っていたが、その周囲にレナさんの姿はどこにもない。
「祖父ちゃん!」
俺が駆け寄ると、祖父ちゃんは短くこちらを見る。
「将臣か。どうした」
「レナさんは?」
単刀直入に聞くと、祖父ちゃんはわずかに眉を寄せた。
「来ておらん」
「……やっぱりか」
小さく漏れた自分の声が、思ったより低かった。
嫌な予感が、少しずつ現実味を帯びてくる。
「リヒテナウアーさんなら、言伝を残しておった」
「言伝?」
「少し頭痛がするため、今日は来られぬとのことだ」
その一言で、胸のざわつきが一気に強まった。
「頭痛……」
俺の目眩。
赤く光るカケラ。
そしてレナさんの頭痛。
ただの偶然だと笑い飛ばすには、出来すぎている。
「それと」
祖父ちゃんは変わらぬ調子で続けた。
「来られぬことを謝っておいてほしい、とも言っておった」
思わず苦笑が漏れそうになった。
あの人らしい。
体調が悪くても、まずそこを気にするのか。
「志那津荘にいるんだな?」
「おそらくはな」
「悪い、祖父ちゃん。ちょっと様子見てくる」
「行け」
それだけ聞いて踵を返そうとした時、祖父ちゃんが低く言った。
「将臣」
「ん?」
「焦るな。焦れば見えるものも見えなくなる」
短い言葉だった。
けれど、今の俺には十分すぎるくらい刺さる。
「……ああ。わかってる」
返事をして、俺は志那津荘へ向かって駆け出した。
山道を抜ける風が頬を打つ。
走りながら、頭の中では嫌な想像ばかりが膨らんでいく。
もし、ただの頭痛じゃなかったら。
もし、俺の目眩と同じように、レナさんにも何か影響が出ているとしたら。
考えれば考えるほど足が速くなる。
落ち着け、と祖父ちゃんに言われたばかりなのに、胸の内まではそう簡単に静まってくれなかった。
◇
志那津荘に着くと、女将さん――猪狩さんがちょうど帳場にいた。
「あら、有地くん。どうされました、そんなに慌てて」
「レナさんの様子を見に来ました」
「リヒテナウアーさん? 少し顔色はよくないけど、お部屋で休んでいますよ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
少なくとも倒れてはいないらしい。
「会っても大丈夫ですか?」
「はい。それは構いませんが」
礼を言って、俺は客室の方へ向かった。
廊下を進む足音が、妙に大きく聞こえる。
落ち着け。とりあえず顔を見て、ちゃんと話を聞く。それからだ。
そう自分に言い聞かせながら襖の前に立ち、軽くノックした。
「……はい」
少し遅れて返ってきた声に、ほんの少しだけ安堵する。
意識ははっきりしているようだ。
「俺だ。入っていいか?」
「マサオミ? どうぞです」
襖を開けると、レナさんは布団の上に腰掛けていた。
寝込んでいるほどではない。
けれど、やっぱりいつもより顔色が悪い。明るい金髪も、今日は少しだけ元気を失って見えた。
「大丈夫か?」
俺が近づくと、レナさんは少し申し訳なさそうに笑った。
「すみませんです。大旦那様との約束、行けませんでした」
「いや、今はそんなのどうでもいい。頭痛がするんだって?」
「はい。ちょっとだけです」
レナさんはこめかみに手を当てる。
「すごく痛いわけではないです。少し重い感じというか、ぼんやりする感じです」
「熱は?」
「たぶん、ないと思います」
俺は少し屈んで顔色を確かめる。
熱っぽさはあまり感じない。
ただ、肌の色は少し悪くて、目の下にもかすかに疲れが見える。
「無理して学院に行こうとか思ってないだろうな?」
「う……少しだけ思いましたです」
「正直か」
「でも、今は休んだ方がいいかもと、ちょっと思い始めました」
「その方がいい」
そう言うと、レナさんは困ったように笑った。
「マサオミ、ちょっと厳しいです」
「心配してるだけだよ」
「それは、わかります」
その返事はいつもより少し小さくて、だからこそ余計に無理をしている感じがした。
「朝、神社でちょっと妙なことがあってさ」
俺は椅子代わりに近くへ腰を下ろしながら、できるだけ簡潔に説明した。
カケラが赤く光ったこと。
俺が少し目眩を起こしたこと。
それで、念のためレナさんの様子も見に来たこと。
「私も……関係あるかもしれないですか?」
レナさんが不安そうに視線を揺らす。
「まだ断定はできない。でも、無関係とも言い切れない」
「そう、ですか……」
レナさんは自分の膝の上で指先を重ねた。
その仕草に、表面上は落ち着いて見えても不安なのが伝わってくる。
「でも、今のところは大きな異常じゃない」
俺は少しだけ声を柔らかくする。
「休んで、何か変なことがあったらすぐ知らせてくれ。それだけでいい」
「はい……」
「無理に平気そうにしなくてもいいからな」
「……そんなに、わかりやすいですか?」
「結構な」
そう答えると、レナさんはほんの少しだけ口元を緩めた。
「マサオミに来てもらえると、ちょっと安心しますです」
「それなら来た甲斐はあったな」
その笑顔を見て、胸の奥の重さが少しだけ軽くなる。
今この瞬間、少なくとも会話はできている。
それだけでも、かなり大きい。
「じゃあ、俺は戻るよ。みんなも心配してるし」
「はい」
レナさんはこくりと頷いて、それから少しだけ笑った。
「また学院で、です」
「ああ。また学院で」
その何気ない一言に、少しだけほっとする。
また学院で。
いつも通りの明日を前提にした言葉だ。
だから、その時の俺はまだ、夜にあんなことになるなんて本気では思っていなかった。
◇
健実神社に戻ると、芳乃たちはまだ居間で待っていた。
俺の姿を見た瞬間、芳乃がほっとしたように息を吐く。
「将臣さん……!」
「ただいま。とりあえず、レナさんには会えた」
全員の視線が集まる中、俺は志那津荘で確認したことを順に話した。
少し頭痛があること。
顔色は悪いが、会話は普通にできたこと。
今すぐ深刻というわけではなさそうなこと。
「そうですか……」
芳乃が胸を撫で下ろす。
「レナさんが無事で、よかったです」
「完全に無事と言い切るには、まだ早いですが」
茉子が静かに言う。
「将臣さんの目眩、レナさんの頭痛、そして芳乃様の犬耳。偶然にしては、少々出来すぎていますね」
「うむ」
ムラサメちゃんが頷いた。
「どうやら、ただ光っただけでは済まぬらしいの」
そう言って、ムラサメちゃんは袋の中のカケラへ目を向ける。
赤い光は、相変わらず弱く明滅していた。
「我輩の推測じゃが」
ムラサメちゃんは腕を組み直した。
「おそらく、カケラを集めたことで呪詛の力が少しずつ強まっておる。ゆえに、芳乃には犬耳が現れ、ご主人やレナには体調の変化が出たのではないか」
「呪詛の力が……強まっている」
芳乃の声がわずかに震える。
「そしてもう一つ」
ムラサメちゃんは目を細めた。
「カケラが赤くなっておるのは、他のカケラへ呼びかけておるからかもしれぬ」
「呼びかけてる?」
俺が聞き返すと、ムラサメちゃんはこくりと頷いた。
「元は一つの憑代じゃ。砕けて散っておっても、互いを求め合う性質があっても不思議ではあるまい。半分まで揃った今、残るカケラを引き寄せようとしておる可能性はある」
「なんか、厄介な習性だな……」
「じゃが、考えようによっては手掛かりにもなる」
ムラサメちゃんの言葉に、茉子がわずかに目を細める。
その横で、芳乃はどこか青ざめた顔をしていた。
「芳乃?」
俺が声をかけると、芳乃ははっとしたように顔を上げた。
「あ……いえ」
けれど、その表情は晴れない。
「その……朝のことを思い出して、少し」
「朝?」
「犬耳が出た時です」
芳乃はそっと自分の耳に触れる仕草をした。
「自分ではよくわからないうちに、ああなっていました。もし、あれが……憑代に乗っ取られたようなものだとしたら、と」
その言葉に、場の空気が少し重くなる。
芳乃は普段、自分の不安をあまり表に出さない。そんな芳乃がこうして言葉にしたということは、心の中でよほど引っかかっていたのだろう。
けれど、ムラサメちゃんは即座に首を振った。
「それは違う」
いつになく断定的な口調だった。
「少なくとも、今の芳乃が憑代に乗っ取られておるわけではない」
「ですが……」
「よいか。憑代が動くとすれば、おそらく芳乃の意識が薄れておる時じゃ。眠っておる時、あるいは意識を失っておる時。そして夜の方が力が増しやすい」
ムラサメちゃんは落ち着いた声で続ける。
「朝のあれは、乗っ取りというより影響が表へ出ただけに近い。おぬし自身が消えておるわけではない」
芳乃はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……そう、でしょうか」
「そうじゃ。少なくとも、今ここで不安に呑まれる必要はない」
「はい……」
完全に安心したわけではなさそうだが、それでも少しは肩の力が抜けたように見えた。
その横で、俺はつい芳乃の耳に目がいく。
「つまりあれか」
「何ですか、将臣さん」
「犬耳って、アンテナみたいな役目してたりするのか?」
「……は?」
芳乃が固まる。
「いや、だってほら。カケラの反応を拾いやすくなってるとか、そういう」
「将臣さん」
芳乃の頬がじわっと赤くなる。
「その話の流れで、なぜ私の犬耳を見るのですか」
「いや、考察の一環というか」
「見ていますよね」
「見てるな」
「認めないでください!」
思わず正直に答えたら、芳乃がさらに赤くなる。
その様子に、茉子がくすっと笑った。
「将臣さん。真面目な顔で芳乃様の犬耳を観察されても、言い訳としてはかなり苦しいかと」
「うっ」
「ご主人はほんに正直者じゃのう」
ムラサメちゃんまで面白そうに言う。
「だって気になるだろ、あれ」
「気になるの意味が違いませんか?」
芳乃がじとっとした目を向けてくる。
うん、今は深追いしない方がいいな。
なんとなく本能で察した。
そこで茉子が咳払いを一つして、空気を戻す。
「ともあれ、何かしら対策は必要です。このまま様子見だけで済ませるのは危険でしょう」
「そうですね」
芳乃も気持ちを切り替えるように頷いた。
「何か、できることがあれば……」
「ある」
ムラサメちゃんが口元を吊り上げた。
「むしろ、この状況は利用できるやもしれぬ」
「利用する?」
俺が眉を上げると、ムラサメちゃんは得意げに胸を張る。
「うむ。我輩の作戦はこうじゃ」
◇
「――つまり、夜に見張るってことか」
「そうじゃ」
その夜。
俺たちは再び集まり、ムラサメちゃんの作戦内容を最終確認していた。
「憑代が呼びかけるのが芳乃の意識がない時、そして夜に力を増す時だけなら、そこを押さえるのが一番手っ取り早い」
ムラサメちゃんはそう言って、卓の上に置かれた袋を見る。
「今夜、芳乃が眠る時を見張り、憑代がどう動くかを監視する。これで少なくとも、何がきっかけで異変が起きるのかは見えるはずじゃ」
「まあ、理にはかなってるな」
俺は頷いた。
「問題は、芳乃が普通に寝られるかどうかだけど」
「そ、そこは……努力します」
芳乃がやや気まずそうに答える。
「万が一に備えて、戦闘準備も整えておきましょう」
茉子が淡々と言う。
「憑代が何らかの形で表に出てきた場合、すぐ対処できるように」
「おう」
俺は頷き、叢雨丸の位置を確かめた。
そして準備を終えると、芳乃は赤く光る憑代のカケラの入った袋から、一つだけ小さな欠片を取り出した。
それは、他の欠片と同じように淡く赤く光っていた。
夜の静かな部屋の中では、その弱い光でさえ妙に目につく。
「芳乃?」
俺が声をかけると、芳乃はその欠片を胸元でそっと包むように持った。
「ムラサメ様のお話では、私の意識がない時に憑代が呼びかけるかもしれないのでしょう?」
「うむ」
「でしたら、私が実際に持って眠った方が、何か変化があった時にわかりやすいかもしれません」
声は穏やかだった。
けれど、その指先にはわずかな力が入っている。
「危なくないか?」
思わず聞くと、芳乃は少しだけ困ったように微笑んだ。
「怖くないと言えば、嘘になります」
そう言ってから、芳乃は静かに目を伏せる。
「ですが、ここで逃げてばかりもいられません。私に関わることなら、私も向き合わないと」
その言葉は、強がりではなく決意だった。
不安も怖さも抱えたまま、それでも目を逸らさない。その在り方がいかにも芳乃らしい。
茉子が柔らかく頷く。
「芳乃様……」
「無理はするなよ」
「はい」
芳乃はそう答えて、欠片を大事そうに握ったまま自室の布団へ入った。
部屋の中には、芳乃、茉子、俺、ムラサメちゃん。
さすがに全員でじっと見つめる形になるので、どう考えても寝にくい。
芳乃は布団を胸元まで引き上げ、憑代のカケラを両手でそっと包み込むようにしていた。
その赤い光が、布団の隙間からかすかに漏れている。
静かな寝室の中では、その淡い光さえも妙に生々しく見えた。
「では、消灯します」
茉子が明かりを少し落とす。
部屋が薄暗くなる。
外からは虫の声がかすかに聞こえていた。
夜の穂織は静かだ。静かすぎるくらいに。
数秒後。
「……寝たか?」
ムラサメちゃんが小声で聞いた。
「まだです」
芳乃が即答した。
「では、寝ました?」
今度は茉子が確認する。
「まだです」
やっぱり即答だった。
いや、そりゃそうだろ。
確認されるたびに意識が戻るわ。
と思ったけど、ここで黙ってるのも妙に気まずい。
なので俺も、一応空気に乗ってみた。
「……寝た?」
その瞬間だった。
「もう!」
ばさっと布団が跳ね除けられる。
芳乃が起き上がり、頬を赤くしたまま俺を睨んだ。
「じっと見つめられて寝れるわけないじゃないですか!」
「いや、見張るってそういう――」
「そういうことではありません!」
芳乃は憑代のカケラを握ったまま、恥ずかしそうにしながらも抗議を続ける。
「こんなに見られていたら、眠れるものも眠れません!」
「すまん、そこまでとは思ってなかった」
「思ってください……!」
言い返しながらも、芳乃は目を逸らした。
その耳がほんのり赤いのを見て、たぶん怒っているだけじゃないんだろうなと察する。
そして芳乃は、ぶつぶつと小さく続けた。
「それに、このままでは寝顔を見られるじゃないですか……」
「え?」
聞き返すと、芳乃はびくっと肩を震わせた。
「な、なんでもありません!」
耳まで赤くしながら、慌てて顔を逸らす。
「と、とにかく早く出て行ってください!」
「いや今、絶対なんか言っただろ」
「言っていません!」
「言ってたって」
「言っていません!」
芳乃は羞恥をごまかすように声を強めた。
「もう、本当に無理です! 将臣さんがいると眠れません!」
「俺そんな安眠妨害装置みたいな扱いなの?」
「今はそうです!」
横で茉子が肩を震わせている。
笑いを堪えてるな、あれ。
「でしたら、こうしましょう」
茉子がようやく口を開いた。
「私だけ残ります。将臣さんとムラサメ様は、いったん部屋の外で待機してください」
「それがよさそうじゃの」
ムラサメちゃんもあっさり頷く。
「じゃあ、何かあったらすぐ呼べよ」
「はい!」
芳乃はもう追い出すことしか考えていない返事をした。
俺とムラサメちゃんは、やや釈然としないまま部屋を出た。
◇
リビングへ戻ると、そこには見慣れた金髪の姿があった。
「……レナさん?」
「あ、マサオミ」
少し驚いた声が出る。
こんな時間に、どうしてここに。
レナさんは立ち上がりかけて、それから少し気まずそうに笑った。
「その……憑代のことが気になって、来てしまいましたです」
「来たって……もう夜だぞ?」
「はい。でも、朝にあんな話を聞いたあとだと、どうしても落ち着かなくて」
朝に顔を見た時より少し落ち着いているようにも見える。
けれど、近くで見るとやはり顔色はよくない。無理に平気そうにしている感じがある。
たしかに、レナさんの気持ちはわかる。
神社であんな話を聞いて、自分にも頭痛という変化が出ているなら、不安になるのは当然だ。
しかも夜だ。一人で志那津荘にいても、かえって落ち着かないだろう。
「……まあ、この時間に帰すのも危ないか」
「うむ」
ムラサメちゃんも頷いた。
「今夜はここにおらせた方がよかろう」
「とりあえず、座っててくれ」
「はい、です」
レナさんは素直に頷き、リビングの席に腰を下ろした。
その動きはいつも通りに見えるのに、どこか少しだけ鈍い。
そこへ、茉子が戻ってきた。
「芳乃様は、しばらく寝られそうにありませんね」
そう言いながらリビングへ入ってきた茉子の手には、湯気の立つカップが乗った盆があった。
「少しでも落ち着けるよう、ホットミルクを――」
そこで茉子は、リビングにいるレナさんに気づいた。
「レナさん?」
「こんばんは、です」
「……こんな時間にいらしていたのですか」
「憑代のことが気になって……」
事情を察したらしい茉子は、それ以上は咎めなかった。
ただ、その目はすぐに別の点へ向く。
「レナさん」
「はい?」
「やはり顔色が優れませんね」
穏やかな声音だったが、指摘はまっすぐだった。
レナさんは少し困ったように笑う。
「そう見えますか?」
「見えます」
茉子はきっぱり言った。
「ご本人は大丈夫なおつもりでも、その顔色では説得力がありません」
「う……」
「ホットミルクはあとでお持ちします。少し客室で休まれますか?」
「でも……」
「何かあればすぐお呼びします」
茉子はやわらかく、けれど有無を言わせぬ調子で言う。
「今は休んでいただいた方が賢明です。こういう時に無理をしても、よいことは一つもありません」
レナさんは少し迷ったあと、観念したように頷いた。
「……わかりましたです」
「では、ご案内します」
茉子はレナさんを客室へ案内していく。
俺はその背中を見送りながら、なんとなく胸の中に小さな引っかかりを覚えた。
どこがどうおかしいとまでは言えない。
ただ、さっきからずっと、何かが噛み合っていないような違和感がある。
「俺、芳乃の様子を見てくる」
「うむ。行ってこい」
ムラサメちゃんにそう言われ、俺は再び芳乃の部屋へ向かった。
◇
襖をそっと開けると、芳乃はまだ起きていた。
布団に入ってはいるが、胸元には赤く光る憑代のカケラを抱えたまま、目だけがしっかりと冴えている。
「……やっぱり寝られてないか」
「はい……」
芳乃は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「さすがに、あの状況のあとでは」
「だよな」
俺は苦笑して、少しだけ肩をすくめる。
「悪かった。見張るにしても、あれはさすがに落ち着かなかったよな」
「いえ、必要なのはわかっているのですが……」
芳乃は布団の端を指でつまむ。
「将臣さんに、あのように見つめられては……」
そこまで言って、芳乃は顔を赤くした。
俺もなんとなくそれ以上は突っ込めず、曖昧に笑う。
「まあ、今は茉子もいるし、少しは落ち着けるだろ」
「はい。……たぶん」
そう言った芳乃の表情は、まだ少し強張っていた。
それでも、さっき一人で布団にいた時よりは少しだけ落ち着いて見える。
俺は布団越しに、芳乃の手元へ目を落とした。
胸元で抱えられた欠片は、まだかすかに赤く光っている。
「その欠片、平気か?」
「……少し、冷たいです」
芳乃は小さく息を吐いた。
「でも、それだけです。今のところは」
「無理そうならすぐ手放せよ」
「はい」
短いやり取りだった。
けれど、そのわずかな間に、部屋の外を慌ただしく駆ける気配がした。
次の瞬間、ばたん、と勢いよく襖が開く。
「将臣さん! 芳乃様!」
飛び込んできたのは茉子だった。
その顔から、いつもの余裕が消えている。
「茉子?」
俺が立ち上がる。
茉子は息を整える暇も惜しむように告げた。
「レナさんが、客室から出ていきました」
「え?」
「様子がおかしいのです。呼びかけにもほとんど反応せず、そのまま外へ――山の方へ向かいました」
その瞬間、背筋が冷たくなる。
「山へ?」
「はい」
茉子は素早く頷く。
「最初は少し様子を見るつもりでしたが、歩き方も視線も明らかに普通ではありませんでした。まるで、何かに引かれるように」
芳乃が息を呑む音が聞こえた。
「まさか……」
「おそらく、憑代の影響です」
茉子が低く言う。
「ムラサメ様が、すでに後を追っています。気づかれぬよう監視しながら、行き先を探ると」
「ムラサメちゃんが」
「はい。私はその報告に戻りました」
部屋の空気が一気に変わった。
さっきまでの落ち着かない夜とは違う。もうこれは前触れなんかじゃない。
「レナさんが……操られたのですか?」
芳乃の声はかすかに震えていた。
「断定は避けますが、この状況でただ事ではありません」
茉子は芳乃に向き直る。
「まっすぐ山へ向かっていました。普通の様子ではありません。自分の意思で歩いているというより、何かに導かれているようでした」
俺は迷わず叢雨丸へ手を伸ばした。
赤く光るカケラ。
俺の目眩。
レナさんの頭痛。
夜になってからの異変。
芳乃の胸元で光る欠片。
全部が、一本の線で繋がるような感覚があった。
「行くぞ」
低く言うと、茉子も即座に頷く。
「はい」
芳乃も布団の上で欠片を握りしめたまま顔を上げた。
「私も行きます」
「芳乃」
「ここで待っているだけなんて、できません」
声は震えていたが、目は逸らしていなかった。
「レナさんに何かあったのなら、なおさらです」
その言葉に、俺は一瞬だけ迷う。
危険だ。けれど、ここで残れと言っても、たぶん芳乃は納得しないだろう。
茉子が静かに口を開いた。
「将臣さん。芳乃様をここに残しても、かえって不安が強まる可能性があります」
「……だな」
「でしたら、私が必ずお守りします」
その声音に迷いはなかった。
従者としてではなく、芳乃のそばに立つ者としての強さがそこにあった。
俺は頷く。
「わかった。行こう」
立ち上がった芳乃は、胸元の欠片を見下ろした。
まだ弱く赤い光を放っている。
その光が、今の状況の不穏さをそのまま映しているように見えた。
部屋を出る直前、俺は一度だけ振り返る。
さっきまで、ここには妙なラブコメみたいな空気もあった。
寝顔がどうだとか、見つめるなとか。
けれど、もうそんな空気は完全に消えていた。
静かに忍び寄っていた不安は、もう前触れでは終わらない。
ついに今夜、形を持って動き出したのだ。