論文コンペの本番を2日後に控えた、10月28日金曜日の夜。
入浴も終えてすっかり寛いでいた達也に、突然その電話は掛かってきた。
『お休み前なのにごめんね、達也くん』
その電話の相手は、藤林だった。
「藤林さんがこうして電話を掛けてきたということは、犯人の目星がつきましたか?」
『もう。せっかく電話してきたんだから、もうちょっと会話を楽しもうとは思わないの?』
「俺も藤林さんも、意味も無く世間話をするようなタイプではないでしょう?」
意味も無く会話をすることを“世間話”というのだが、藤林はいちいちそんなことをツッコむような人間ではなかった。彼女としても、達也の言っていることを重々承知しているからである。
『ふふ、相変わらずクールねぇ……。それでこそ、“最も自由なる者”の名を冠するに相応しいのでしょうけど』
「……俺を指して“最も自由”というのは、随分と皮肉が効いていますね」
『あら、実際にそうじゃないの? 確かに今のあなたは“外面上は”自由なんて無いかのような立場でしょうけど、実際にはまったく違うじゃない?』
「……まぁ、良いでしょう。それで、成果は?」
気まずそうに話題を切り替えようとする達也に、藤林はくすりと笑みを浮かべて答えた。
『“目星がついた”っていうのは正確じゃないわね。――だって、スパイの実働部隊はほとんど拘束した後なんだから』
藤林の言葉に、達也は驚きを隠すことなく目を丸くしていた。その反応に、藤林は満足そうに笑みを深くする。
「……驚きました。俺の予想では、もっと犯人の特定に時間が掛かるものと思ってましたから」
『ふふ、そりゃそうよね。何てったって、場所の絞り込みもできていない段階で「犯人のアジトを特定しろ」って言うんだもの。とんでもない無茶振りよね。――だからこそ、達也くんをびっくりさせるために頑張ったんだから』
その様子だと成功みたいね、と藤林は愉快そうにくすくす笑った。達也は少しだけ表情を不機嫌なものにするが、それがモチベーションとなって結果的に犯人逮捕に繋がったわけだから、文句など言えるはずがない。
『達也くんからの情報は、かなり役に立ったわ。残念ながら隊長の
「いえ、俺から無理に頼んだことですので」
『だとしても、今回のスパイには多数の企業が悩まされていたからね。私達の部隊の性質上、魔法技術を狙ったスパイにも知らん顔できないし、あなたから依頼が無かったとしても近々出動する予定ではあったのよ。それが達也くんたちのおかげで少し早まったんだから、こちらとしても感謝してるのよ』
「そうですか。――レリックに関しては、どこから漏れたのでしょうか?」
『お恥ずかしい話だけど、軍の経理データから漏洩してたみたいなの。魔法研究の委託費支払いがあった先が、片っ端から狙われていたみたいね』
どうりでやり方が中途半端だったわけだ、と達也は1人納得した。
『拘束したメンバーは東洋系多国籍だけど、もしかしたら“あの街”の尻尾を掴めるかもしれないわ。――そのときは、達也くんにも協力してもらっても良いかしら?』
「それでしたら、“いつものように”厚志さんを通してください」
『もちろん、そうさせてもらうわ。――日曜日、頑張ってね』
その言葉を最後に、電話は切れた。その口振りは大して深刻なものではなく、達也としても「今回は随分とビッグな名前が出てきたな」程度のものだった。
その判断は、結果的には少々早計だった。
* * *
次の日、土曜日。
本番を明日に控えた達也だが、現在教室の端末にて課題に取り組んでいる真っ最中だった。さすがにこの日にもなれば作業という作業は無く、今日は本番と同じ段取りで作動状況を確認するというものだった。なので達也たちが出張るのは午後からとなっており、午前中の授業はいつも通り受けている。
とはいえ、土曜日の授業は半分自習のようなものである。特に教師のつかない二科生ともなればそれは顕著であり、授業中でも不真面目な生徒が教室で騒いでいる(もちろん、課題中の生徒の邪魔にならない程度で)ので、世間一般で想像するような授業風景とはかけ離れている。
「ねぇねぇ、達也くんは明日何時頃に会場入りするの?」
なので授業時間にエリカが堂々と話し掛けてきたとしても、達也としては意外でも何でもなかった。真面目に勉強したらどうだ、とは思わなくもないが。
達也は平静を装って聞き耳を立てているレオをちらりと見遣って、
「8時に現地集合して、9時に開幕だ。30分のセレモニーの後、9時半からプレゼンがスタート。持ち時間は1チーム30分で、インターバルは10分。午前4チームで昼休憩は12時から1時で、午後に5チームやるから終了時刻は4時10分。審査と表彰があって、終了予定時刻は午後6時だ」
「……成程」
想像していた以上の答えが返ってきて、エリカは少々面食らった様子だ。
「それで、一高の出番は?」
「最後から2番目だから、午後3時だな」
「随分と後ね。時間が余っちゃうんじゃない?」
「まぁな、だから市原先輩は午後に会場入りだ。俺と五十里先輩は機器の見張り番とトラブルの対処とかあるから、午前から行くけどな」
「ふーん、現地集合なんだ……。デモ機はどうするの?」
「生徒会が運送業者を手配して、服部先輩が同行することになっている」
「あれ? 服部先輩って、市原先輩の護衛じゃなかったっけ?」
「当日は七草先輩と渡辺先輩が迎えに行く手筈になっている。――で、どうしてそんなことを訊くんだ?」
達也の質問にエリカはたじろぎ、今まで無言を貫いていたレオが代わりに口を開いた。
「……なぁ達也、俺達にも護衛を手伝わせてくれないか?」
「それは構わないが、なんでそんな面倒なことにわざわざ関わろうとするんだ?」
「まぁ、せっかくあそこまで頑張って特訓したのに、何もしないまま終わるのはちょっとな……」
「達也くんたちを助けるために特訓したのに、自分達の知らないところで事件が解決してるのって馬鹿みたいじゃない?」
レオの言葉に続けてエリカが言ったのは、おそらく火曜日の特殊鑑別所でエリが呂を捕縛したことを指しているのだろう。エリカとしては、呂みたいな人間を想定して特訓していただけに、とても悔しかったのだろう。
とはいえ、
「……レオとエリカは、確か護身術を学んでいたはずだろう? 護身術の基本は“危険だと思う場所には近づかない”だったと思うんだが?」
「確かにそうだけど、それはあくまで普通の人が実践する場合でしょ? あたし達は“戦うため”にそれを選んだわけだからさ、逃げるなんて選択はハナから無いわけよ」
「でも俺としては、護身術を学んだ意味はあると思ってるぜ? 少なくとも、前よりは無闇に突っ込まなくなったしな」
「レオなんて、年下の女の子相手に散々やられてたからね。最後の方なんて、プライドかなぐり捨てて魔法バリバリ使ってたもんね」
「ちょっ! それを言うんじゃねぇよ!」
結局いつもの通りの言い合いに発展していった2人を放っておいて、達也はレオと同じように聞き耳を立てていた幹比古と美月へと顔を向ける。2人はビクッと肩を震わせ、気まずそうに苦笑いを浮かべていた。
「……えっと、僕も護衛を手伝っても良いかな? 十文字先輩の練習相手でしかないけど、それなりに鍛錬は積んできたつもりなんだ」
「え、えっと……、私は特に特訓とかしてないんだけど、もしかしたら私の眼が何かの役に立つかもしれないし……。戦力にはならないと思うけど、一緒に手伝わせてくれないかな……?」
「あぁ、人手は1人でも多い方が良いからな。頼りにしてるぞ、2人共」
達也の言葉に、幹比古と美月は力強く頷いてみせた。
* * *
一高は会場まで近いので当日現地集合でも問題無いが、遠方の学校は前日あるいは前々日に現地入りしてホテルに宿泊することになる。
それは旧石川県を本拠地とする第三高校も同じであり、“カーディナル・ジョージ”こと吉祥寺真紅郎をメインとする代表選手だけでなく、当日会場の警備に参加したり応援に駆けつけた生徒達もすでに横浜入りしている。
「ジョージ、そろそろ着くぞ」
「……ん? もうそんな時間か」
電子書籍の世界に没頭していた真紅郎は、将輝の呼び掛ける声をきっかけに現実世界へと戻ってきた。携帯端末を鞄にしまいながらバスの窓に目を遣ると、バスを丸ごと収容する長距離高速列車越しに高層ビルがびっしりと建ち並ぶ港町が見えた。さらに遠くに目を凝らすと、横浜のランドマークである横浜ベイブリッジも見える。
「こうして実際に着いてみると、いよいよ本番って感じがするな」
「そうだね。――明日の今頃は、“あいつ”とも顔を合わせてる頃かもね」
普段滅多に乱暴な言葉を使わない真紅郎の口から飛び出した“あいつ”という単語に、しかし将輝はそれを訝しむことなく力強く頷いた。2人の目には、ありありと闘志が浮かび上がっていた。
2人がここまで対抗心を燃やす“あいつ”とは、言うまでもなく司波達也のことである。九校戦で美咲エリとの見事なコンビネーションで苦渋を味わわされた真紅郎にとって、今回の論文コンペはまさに雪辱戦である。将輝は直接には達也と対決することはないが、まるで自分のことのように真紅郎を応援していた。
そんなことを考えている内に、列車はターミナルへと到着して停止した。周りにいた第三高校の生徒達が続々と立ち上がって外へと歩いていき、将輝と真紅郎もそれに倣って自分の席から立ち上がる。
と、そのとき、ふいに真紅郎が口を開いた。
「そういえば、将輝」
「ん、どうした?」
「今回こそは、美咲エリから電話番号を聞き出すんだよ」
真紅郎のその言葉に、将輝は苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
「……あのな、真紅郎? 何度も言うようだが、俺は別に彼女のことは何とも思っていないんだからな? 確かに昔彼女には命を助けられた恩があるが、別に彼女に対して恋愛感情は微塵も抱いていない」
「それじゃこっちも何度も言わせてもらうけど、会場の警備に参加するって決まってから、将輝は事あるごとに美咲エリのことを口にしていたじゃないか。『彼女も警備に参加するんだろうか?』とか『そうでなくても、あいつの応援には駆けつけるだろうな』とか」
「……それは、その、あれだ。少しでも顔見知りが多くいた方が、慣れない場所でも安心というか、何かそんな感じのアレだよ、うん」
あからさまに動揺している将輝に、真紅郎は必死に笑いを堪えながら「そうか、そういうアレか」と言葉を返した。そんな彼に将輝は口を引き結んで不機嫌な表情になるが、どうせ反論しても無駄だと悟ったのか何も言わなかった。
――それにまぁ、これでジョージの緊張が解けるのならば、甘んじて道化を演じても良いか。
そうだ、真紅郎の緊張を解くためだ。つまり、わざとなのである。別に真紅郎の言うことが図星だったとか、自分でも思い当たる節があるとか、そんなことは断じて無いのである。
そんな誰に対する言い訳なのかよく分からない言葉を頭の中で繰り返しながら、将輝は横浜の大地(ターミナルのプラットフォームなので、正確にはコンクリートなのだが)を踏みしめた。
「やっほーい! 横浜だー!」
三高が下り立った長距離高速列車のプラットフォームとは別の場所に、この時代においても長距離鉄道の代名詞として名高い新幹線のプラットフォームがあった。そして現在停まっている新幹線から降りた1人の女性が、両腕を高らかに突き上げてテンション高く叫んでいた。長い髪を後ろで縛ったいかにも気の強そうな印象を持つ彼女は、見たところ年齢は30代前半くらいだろうか。
「洋子さん、自分の荷物くらい自分で持ってくださいよ」
そんな女性に困ったように声を掛けるのは、長い金髪にバンダナをつけた20代中頃ほどの女性だった。おっとりとした印象を受ける彼女の手には、2人分のキャリーバッグが握られている。
「仕方ないわよ、沙希ちゃん。久し振りの旅行で浮かれてるんだから」
そんな彼女に同情するような声を掛けながら新幹線を降りてきたのは、旅行らしくおしゃれな格好に身を包んだ景だった。
「ああ、ごめんごめん! やっぱ子供と旦那から解放されるとテンション高くなってねぇ!」
洋子と呼ばれた女性は笑い混じりで謝りながら、沙希と呼ばれた女性の手から自分のキャリーバッグを受け取った。見た目も性格も年齢も見事にバラバラなはずの3人からは、親友と形容して差し支えないほどに仲の良い雰囲気が漂っていた。
「それにしても、2人共論文コンペを観に行きたいだなんて、今までそんなことありませんでしたよね?」
「そりゃあ、達也が出るとなったら応援しないわけにはいかないだろ!」
「私も前々から景さんが行ってるって聞いてたから興味はあったんですけど、なかなか行くきっかけが無くて……。現代魔法に関する論文なんて難しそうですけど、景さんの解説があったら楽しめそうですね」
「そうそう! 明日は頼りにしてるよー、景ちゃん!」
「私も大して魔法に詳しいわけじゃないから、解説できるかどうかは分かりませんよ?」
「またまたぁ! 毎年観に行ってるんだから、少しは分かるんでしょー?」
「あ! そういえば、論文のタイトルって、事前にパンフレットで確認できるんですよね? 景さん、それ見せてもらって良いですか?」
「ん、良いよ。――はい」
「お、どれどれー?」
景が鞄から出した紙媒体の印刷物に、洋子と沙希が顔を近づけて覗き込んだ。パンフレットには沙希の言った通り、各高校の発表する順番と論文のタイトルが掲載されていた。
1番:第二高校『収束魔法によるダークマターの計測と利用』
2番:第四高校『分子配列の並べ替えによる魔法補助具の製作』
3番:第五高校『地殻変動の制御とプレート歪曲エネルギーの緩やかな抽出』
4番――
「ごめん、パス」
「……すみません、私もちょっと限界です」
小難しい単語の羅列は、現代魔法どころか普通の勉強からも離れて久しい彼女達には少々難易度が高すぎたようだ。
「うへぇ……、景ちゃん達はこんな小難しい勉強を乗り越えてきてるのか……。さすがだな……」
「達也くんの所なんて、『重力制御魔法式熱核融合炉の技術的可能性』ですって。いかにも難しそうな感じですね」
「ちょっと勉強すれば、何を言っているのかくらいは理解できますよ。何なら私が教師になりますので、お二人共勉強してみますか?」
小学校の教師らしく仕事モードに入った景に、洋子と沙希は揃って首を横に振った。
「そんなことよりも、ホテルにチェックインしたら早速観光に繰り出すぞ! とにかく色々観て回るんだから!」
「ああ、横浜中華街が私を呼んでいる……」
景から逃げるように突き進んでいく2人に、景はくすりと笑みを浮かべて2人の後に続いた。
* * *
その日の夜。
「それでは、お互いお疲れ様ということで、乾杯」
藤林のその言葉と共に、千葉は持っていたグラスを軽く合わせてワインを口にした。
2人が今いるのは、横浜港を望む高層ビルの複合施設・横浜ベイヒルズタワーの最上階付近にあるバーラウンジである。普段の地味なメイクではなくバッチリとドレスアップして決めてきた藤林の艶やかな笑みに、千葉は平静を保つので精一杯だった。
「素晴らしいワインをご馳走していただいて、大変光栄ですわ」
「いえいえ、今回のヤマは藤林さんのおかげで解決の目処がたったわけですし、本官からのせめてものお礼ということで」
「ふふ、それじゃ遠慮無く頂きますね」
藤林はそう言って、グラスに湛えられたルビー色の綺麗な液体を少量口の中に流し込んだ。普通の仕草なのにどこか妖艶な雰囲気の漂う彼女に、妹から「
「ところで警部さん、今日誘っていただいたのは“お礼”だけのためなんですか?」
「へっ――?」
不意を突かれて思わずグラスの中身を零しかけた千葉に、藤林は楽しそうに微笑みを携える。
「もし警部さんが宜しければ、今晩だけじゃなく明日も付き合っていただきたいのですけど」
「は、はい! 本官で良ければ喜んで!」
「ありがとうございます。――それじゃ、明日の8時半に桜木町の駅で宜しいでしょうか?」
「8時半ですね! 分かりました! 美味しい店を予約しておきます!」
「……8時半といっても、“朝の”ですよ?」
「……えっ? 朝?」
呆然とした様子で藤林を見つめる千葉に、彼女はそれを気にする様子も無く言葉を続ける。
「明日は国際会議場で、高校生による魔法学の論文コンペが開かれるんですよ」
「……ええ、存じておりますが」
「それに知り合いの男の子が出場するので、応援に行きたいと思いまして」
「……はぁ」
口に出すことはしないが、千葉の顔には『話が違う』というメッセージがありありと浮かんでいた。もちろん彼が勘違いするように仕向けていたので、藤林もその笑顔が揺らぐことはない。
「そうそう。何ならいっそのこと、部下の皆さんも誘ってみてはいかがですか? CADだけじゃなくて、武装デバイスや実弾銃も一緒に持って」
「――藤林さん、それって……」
残念そうに呆けていた千葉の表情が、途端に引き締まったものになった。
「もちろん、何も起こらなければそれで良いのでしょうけど」
藤林はそう言って夜景に目を向けると、それを肴にワイングラスを傾けた。
* * *
明日――暦の上では今日、横浜にて“全国高校生魔法学論文コンペティション”が行われる。とはいえ街が特殊な雰囲気に包まれるわけではなく、街の人間にとっては数多あるイベントの1つに過ぎない。横浜の主要な歓楽街の1つである横浜中華街も、いつものように客を呼び込んで営業し、いつもの時間で閉店にしている店が大半だった。
そして中華街の中でも一際大きな店であるそこも、いつもの時間に店を閉めて明かりを落としている。現在明かりの灯っているこの部屋は、入口からは見えない奥まった場所にあった。そこでは2人の男性が向かい合って座り、テーブルには2つのグラス(最高級の酒入り)がそのまま放置されている。壮年の男性がなかなか手をつけないので、年若い青年もお預けを食らっていた。
「
「恐縮です、閣下」
台詞に反して横柄な態度でそう言う
「本国から艦艇を派遣すると連絡がありました。おかげで無事、次の作戦を遂行できる」
「お役に立てたのであれば光栄です」
「ただ1つ、未解決な問題がありまして」
「おや、それは何でしょうか?」
あくまで表情を変えずに尋ねる周に、陳は少しの間だけ言い淀んで、
「ご存知かもしれませんが、武運つたなく副官が敵の手に落ちまして……」
「存じております。真に運が悪かったとしか言えません。まさか呂先生が……」
「一度は敵に囚われる失態を晒したとはいえ、彼は我が国に必要な武人」
陳の言葉に、周は無言で頷くことで同意を示した。陳はしばらくの間じっと周を見つめたまま黙っていたが、やがて何かを諦めるように自分から話を切り出した。
「もう一度だけ、手を貸してはもらえないだろうか?」
「おお、もちろんですとも! 同胞の危地とあれば見過ごしにはできません!」
その途端、周は破顔してそう言うと陳に身を乗り出した。
「実は明日の朝、いえ、暦の上では今日ですか。呂先生の身柄が横須賀の外国人刑務所へ移送されることになっておりまして」
「……本当ですか?」
周からもたらされた情報に、陳は“本気で”驚きを顕わにしていた。
「ええ、実に好都合なタイミングです。もちろん、移送ルートも抜かりなく調べてあります。――その代わりといっては何ですが、今日の作戦でこの街にはなるべく――」
「もちろんですとも。作戦の第一目標は魔法協会関東支部ですから多少の荒事は避けられませんが、この中華街にはなるべく被害が及ばぬように作戦指揮官には念押ししてあります」
陳の言葉は、単なる安請け合いであることは周も分かっている。分かっていながら、周は「ご配慮、感謝致します」と恭しく頭を下げた。
* * *
こうして10月30日は、すぐそこまで迫っている嵐を感じさせないほど静かに幕を開けた。