魔法科高校に鐘が鳴る   作:ゆうと00

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第-102話 『世界にあるのは“表と裏”ではなく、“自分が知っていることと知らないこと”である』

 初対面の方々と昼間に沖縄へ渡り、夜にはその方と一緒に親類主催のパーティーへ行き、それが終わって家に戻り、結局ベッドに入ったのは真夜中近く。こうして振り返ってみても随分とハードな1日でしたが、お日様も昇りきらないような時間に目を覚ましてしまったのは、体に染み込んでしまった習慣の成せる業なのでしょう。

 二度寝をしてしまうとレディとしてはしたないと思ったので、私は頑張ってベッドから起き上がってカーテンと窓を開けて、部屋の空気を入れ換えることにしました。ここは2階で周辺には家が無いので、パジャマ姿を誰かに見られる心配はありません。誰にも見られなかったとしても身だしなみを整えるのが、本当のレディというものなのでしょうが。

 私は潮の香りのする風を胸いっぱいに吸い込み、体に溜まっていた古い空気と入れ換えるように大きく息を吐きました。さっきまでぼんやりしていた意識も、これのおかげではっきりと覚醒していきます。

 そのせいでしょうか、庭の方から人の声が聞こえてくるのに気づきました。

 私はそちらへと顔を向けます。

「ぬふううううううううううううううううううううううう!」

 …………。

 …………。

 …………、はっ!

 あまりにも衝撃の強すぎた光景に、私の脳は一時的に活動をストップさせてしまったようです。

 とはいっても、私が見たのは“厚志さんがトレーニングの一環で腕立て伏せをしていた”というだけのものだったのですが、2メートルもの長身で筋骨隆々の男性がもの凄い形相で残像が見えるほどに高速で腕立て伏せをするという光景は、私が今まで生きてきた中で経験したことのないような迫力があり、私の脳がショック状態に陥ってしまったのでしょう。

 と、私が1人でそんなことをしていたら、厚志さんが私の視線に気づいたのか顔を上げてこちらへ視線を向けてきました。

「やぁ、深雪ちゃん、おはよう」

「おはようございます、厚志さ――!」

 私は厚志さんに挨拶を返そうとして、自分が今パジャマ姿であることを思い出しました。急いでカーテンを閉めて厚志さんから見えなくすると、さらに窓際から離れて背中に壁が当たるまで後退りしました。

 窓の向こうから「急いで着替えなくても大丈夫だからねー!」と厚志さんの呼び掛ける声が聞こえ、私はとりあえずホッとしながら大急ぎで着替えを始めました。薄手のサマードレスを1枚羽織り、再び窓際まで歩いてカーテンを開けます。

「やぁ、深雪ちゃん。改めておはよう」

 先程と変わらず、厚志さんはそこで待っていてくれました。

「…………」

 私に向かって頭を下げる、トレーニングウェア姿の兄と共に。

「……おはようございます、厚志さん」

 私は少しだけ迷って、厚志さんのみに挨拶を返すことにしました。あくまで兄は使用人なので、この対応で間違っていないはずです。……間違っていない、と思います。

「深雪ちゃんが着替えてるときに、ちょうど達也くんもここに来てね。トレーニングをするところだったみたいだから、これから軽く手合わせしようかと思うんだ。深雪ちゃんも見るかい?」

「……手合わせ、ですか?」

 厚志さんと兄では、身長も体重も違いすぎます。しかも桜井さんの話によると、厚志さんの筋肉はボディービルで鍛えただけのハリボテではない、何かしらの武道を極めたような芯の強さを感じたそうです。確かに厚志さんの耳は潰れたように変形していたので、柔道のようなものをやっていたのかもしれません。

 対して、兄は“ガーディアン”として鍛えているとはいえ、まだ私と同じ中学1年生。子供が鍛えられるレベルなんて高が知れており、とても経験や体格差を補えるものではないはずです。

「……魅力的なお誘いですが、私は遠慮させていただきます」

 私は武道というものにそれほど関心があるわけでもないし、結末の分かりきっている勝負に面白みを見出すほど精通していません。

「そうかい、分かった。――それじゃ達也くん、始めようか」

「はい。宜しくお願いします」

 しかし厚志さんは私が誘いを断ったことを気にした様子は無く、すぐさま兄と短く会話を交わすと、距離を取って向かい合わせに立ち、互いに小さく頭を下げました。

 私はそれを見てすぐさまカーテンを閉め、そこから逃げるように部屋を後にしました。

 ……逃げるように?

 私はいったい、何から逃げたというのでしょうか?

 

 

 

 それから1時間ほど後、桜井さんの手によってリビングのテーブルに全員分の朝食が並べられていきます。

 この別荘にも自動調理器が備わっているのですが、桜井さんが「機械が作った料理は味気ない」と考える人なので、基本的に司波家の料理は桜井さんによって作られます。私もときどきお手伝いをするのですが、自己評価としては“まだまだ”と言わざるを得ません。

「おはよー」

「ふあ……、おはよー」

「おはよーございまーす!」

 厚志さんを除いた皆さんが、続々とリビングに姿を現します。エリちゃんやダッチちゃんは朝から元気いっぱいで、その他の皆さんは眠そうに目を擦りながらの入室です。もし私もあのときベッドの誘惑に負けて二度寝した場合、おそらく私も彼女達の仲間入りを果たしていたことでしょう。

 と、そのとき、

「あら、厚志さんに達也くん、おはようござい――達也くん!」

 リビングに入ってきた厚志さんと兄を出迎えた桜井さんが、ふいに大声をあげて兄の下へ駆け寄りました。何事かと思って顔を向けた私達やお母様の目に飛び込んできたのは、体のあちこちに青痣を作った兄の姿でした。

 そして兄の隣では、厚志さんが実に申し訳なさそうに頭を下げていました。

「いやぁ、申し訳ありません。達也くんの気迫に圧倒されてしまいまして、つい加減を間違えてしまいました。こんなつもりじゃなかったんですが……」

「厚志さんが心配することではありません。戦闘に支障の無い程度の怪我ですので」

 怪我をした本人がしれっとした表情をしているせいか、桜井さんも心配そうな表情こそするものの「痛かったら、遠慮無く言ってくださいね」と言って再び朝食の準備に戻っていきました。

「達也」

 桜井さんとの会話が終わったのを見計らって、お母様が兄を呼びつけました。兄は真剣な表情でお母様の下へと歩いていきます。

「申し訳ございません、自身の実力不足を痛感致しました」

「そう。……精進なさい」

「はい」

 お母様はそれ以上何も言わず、兄はそれを察して下がっていきました。

 しかし今回は致し方ないと、私は思いました。相手は身長2メートルで武道経験者。対してこちらは中学生。まともにやり合っては勝負にすらなりません。厚志さんが思わず力加減を間違えてしまったとしても仕方ないでしょう。

 と、私が厚志さん達の方へ視線を向けると、彼女達は真剣な表情で厚志さんとひそひそ小声で話していました。それは相手に怪我をさせてしまった厚志さんを責めるようなものではなく、ましてや厚志さんに負けてしまった兄を馬鹿にするようなものでもありません。

「厚志さんが相手に怪我をさせるって……。そんなにやばかったんですか?」

「正直、彼の実力を見誤ってたよ。少しでも油断したら、手痛い1撃を食らっていただろうね」

「兄貴にそこまで言わせるとは……。しかもあの歳で……」

 何やら皆さんの反応が只事ではなく、私はそれについて尋ねようとしたのですが、

「はい、皆さーん。朝食の準備が整いましたよー」

 桜井さんのその一言で皆さんが会話を打ち切って料理に向き合ってしまったので、私は口を開くことができませんでした。

 

 

 

「皆さん、今日のご予定は決めていらっしゃいますか?」

 食後の紅茶を淹れながら、桜井さんが呼び掛けるように尋ねました。

「いや、今のところは何も」

「はいはーい! 私、海に行きたーい!」

 エリちゃんが手を挙げて提案すると、全員が顔を向き合わせて笑顔を見せました。どうやら反対する様子は無さそうです。

 すると、お母様がこんな提案をしました。

「それでしたら、暑さが和らいだときに沖へ出てみるのも良いかもしれませんね」

「それって、もしかしてクルーザー?」

 ミルクちゃんの質問にお母様が首を縦に振ると、皆さんが一斉に「おー」と感心するような声をあげました。

「では、4時に出港するということで宜しいですか?」

「ええ、それでお願い」

 お母様の思いつきに近い提案に、桜井さんは慣れた様子で段取りを組んでいきます。これで4時以降の予定が決まったことになりますが、直射日光の苦手なお母様はそれまでの間別荘で過ごされるおつもりでしょう。

「ねぇねぇ、深雪さんも一緒に行こう!」

「ええ、もちろん」

 元々行く気でしたし、エリちゃんに可愛らしくお願いされては断れるはずもありません。

 こうしてお母様と桜井さんを除く全員が、海へ行くことになった――

「あぁ、厚志さん」

 と思ったところで、お母様が思い出したように厚志さんに声を掛けました。

「申し訳ないのですけど、今から少しお話がしたいのですが、宜しいですか?」

「お話、ですか? ええ、構いませんよ」

「ありがとうございます。――ミルココのお2人とも、お話がしたいのですが」

「うん、良いよ」

「ちょうど私達も話がしたいと思ってたしね。――それじゃみんな、エリちゃんを宜しくね」

 厚志さんとミルココちゃんが抜けたことに、皆さんは少し残念そうな表情を浮かべていましたが、すぐに「おう、任せとけ」というリカルドさんの言葉を皮切りに、海に行く準備をするためにリビングを出ていきました。

 私もリビングを出ていこうとして、ふいにお母様の方へ視線を向けました。

 お母様、厚志さん、そしてミルココちゃん。

 4人が柔らかな笑みを浮かべて言葉を交わしているのが、とても印象的でした。

 

 

 *         *         *

 

 

 桜井さんの手で体の隅々まで日焼け止めクリームを塗りたくられた私は、エリちゃん・ダッチちゃん・モカさん・リカルドさん・マッドさん、……そして兄と一緒に、別荘から一番近いビーチへとやって来ました。

 ビーチにはすでに何組かグループがいて、皆が思い思いに海を楽しんでいました。小学1年か2年くらいの女の子と、それよりも少し年上の男の子が、父親らしき男性を無邪気に海へと引っ張っていきます。その隣には無人のパラソルがあり、2人分のパーカーが無造作に置かれています。

 そしてその隣では――わわっ!

「ん? どうした、深雪ちゃん?」

 突然慌てたように視線を逸らした私に、リカルドさんが尋ねてきました。そして彼は私が直前まで見ていた方へ視線を向け、納得したように苦笑いを浮かべました。

 そこには高校生くらいのカップルがいて、男性が女性にオイルを塗っていました。俯せになっているとはいえ、女性は人目を遮る物が無いこの場所でビキニの紐を外して背中を全開にし、男性がその背中を……た、丹念に撫で回していました。かなり際どい所まで……というより、完全に触っているようにしか見えなくて……、

「みゆきー、どうしたの? 顔真っ赤だよ?」

「へっ? だ、大丈夫よ、ダッチちゃん!」

 首をかしげて尋ねてくる彼女に、私は記憶に残っていた光景を振り払うように首を振り、つい大声で答えてしまいました。

 そんな中、リカルドさんが不思議そうに私に話し掛けます。

「あの2人、多分恋人同士だろ? だったら、あれくらい普通じゃねぇのか?」

「ひ、人前であんなに肌を晒すなんてはしたないです! “フリーセックス”なんて悪しき習慣は、半世紀も昔に終わってるんですよ! な、なのに、なんであんなに恥ずかしいことができるんでしょうか!」

 顔を真っ赤にして捲し立てる私に対し、意外にもマッドさんが「そうだそうだー」と賛同してくれました。男の人は女性の体に触りたがるものだと雑誌に書いてありましたけど、マッドさんはそうではないのでしょうか?

 ちなみに、マッドさんの近くでモカさんがやたらとダメージを受けたように俯いていました。どこか体の調子でも悪いのでしょうか?

「まぁまぁ、女の子の方も嫌がってる様子は無いみたいだし、あいつらはあいつらなりの付き合い方ってもんがあるんだ。大目に見てやってくんねぇか?」

「…………」

 リカルドさんの言葉に、私は再びちらりとあの2人の方へ視線を向けました。女性の表情は見えませんが、されるがままになっているということは、少なくとも嫌だと思っているわけではないのでしょう。まぁ、確かに2人っきりで海に出掛けるからには、それなりに深い関係であるとは思います。

 ……兄も、女性の体に触りたいと思うことがあるのでしょうか?

 一番後ろを歩く兄へ視線を向けると、兄がじっと私を見つめていたせいか、ばっちり目が合ってしまいました。私は咄嗟に恥ずかしくなって視線を逸らしますが、たとえ恋愛経験の無い私であっても、兄が私のことを“そういう目”で見ているのではないことは分かりました。

 あれは、ただ単に“護衛対象を見守る仕事人の目”でしかありませんでした。

 そしてそれを感じ取り、私の心にちくりと痛みが走りました。

 なぜ私が、痛みを感じる必要があるのでしょう? 兄をそのような立場にしているのは、紛れもなく自分だというのに。

「ねぇねぇ、みゆきー。早く泳ごうよー」

「深雪さん! 早く早く!」

 海を間近で見て我慢ができなくなったのか、ダッチちゃんとエリちゃんが私の腕を引っ張って駄々を捏ね始めました。確かに、せっかく海に来たのに泳がないのは勿体ないです。

 私は2人に頷いて、前開きになっているチュニックを脱いで、ビキニとまではいかなくともかなり露出の多いセパレートの水着姿になりました。さっき熱く語っていたのは何だったんだ、と思われるでしょうが、これは私が選んだのではなく、桜井さんにむりやり着せられたものなのです。

 ちなみにダッチちゃんとエリちゃんはフリルのついたワンピース型、モカさんはそのメリハリの利いたスタイルを最大限に活かしたビキニタイプでした。私が水着姿になったときにモカさんが「深雪ちゃんって、やっぱり綺麗ね……」と見惚れたように呟いていましたが、私からしたらモカさんの方がよっぽど魅力的に感じます。

 と、話が逸れてしまいました。とにかく今は、2人と遊ぶ方が先決です。私は2人に引っ張られるままに、走りにくい砂浜を走っていき――

「ぐえっ」

 何かにぶつかるような音と共にダッチちゃんが変な声をあげ、私の方へ飛んできました。私が反射的に彼女の体を受け止めたので、彼女がそのまま砂浜に倒れ込むことは防げました。

 しかし、問題なのは、

「おいおい、どこ見て歩いてんだよ、あぁん?」

 ダッチちゃんがぶつかった男性グループが、私達に因縁をつけてきたことです。しかも困ったことに、彼らは“取り残された血統”(レフト・ブラッド)でした。

 レフト・ブラッドとは、20年戦争の激化によって沖縄に駐留していたアメリカ軍(当時はまだUSA)がハワイへ引き上げた際、沖縄に取り残されてしまった子供達のことを指します。親を戦争で亡くした彼らの多くは、米軍基地を引き継いだ国防軍の施設に引き取られ、そのまま軍人となった者が多いようです。

 彼ら自身は立派に国境防衛を果たした勇猛な兵士だったのですが、その子供(つまり第2世代)は素行の良くない者も多く社会問題になっています。レフト・ブラッドには近づくな、というのがガイドブックによく書かれる定型文になっているほどです。

 私達に因縁をつけてきたのは、軍服を着崩した肌の黒い大柄な男でした。その後ろにも同じように軍服姿の男が2人いて、同じように海外の血が入った見た目をしています。そして2人共、こちらを見下ろしてにやにやと気持ち悪い笑みを浮かべています。

「何だよ、アタシはちゃんと避けようとしたぞ! そっちからぶつかってきたんだろ!」

 ダッチちゃんが彼らに立ち向かっていきますが、私は背筋の凍る思いがしました。小学校低学年くらいでしかない彼女がまともに戦えるはずもなく、私も今はCADを持っていないからです。補助具が無くても魔法自体は使えるのですが、加減が難しいので相手に大怪我をさせてしまうのです。

「あぁ? ガキのくせに、俺達に喧嘩売ろうっていうのか?」

「止めとけよ、ガキ。その歳で死にたくねぇだろ?」

「ほら、さっさとママの所へ帰んな」

 子供相手に本気で凄み、卑下た笑い声をあげる彼らに、私の中に怒りが芽生えてきました。とはいえ、こんな奴らでも大怪我をさせてしまったら大問題です。

 と、そのとき、

「ごめんなさい、うちの子が!」

 そう叫びながら私達の前に割り込んできたのは、モカさんでした。ダッチちゃんは文句があるのか彼女に何か言おうとしていましたが、咄嗟に私がダッチちゃんの口を手で塞いだのでそれは免れました。

 彼らは罵声を浴びせるためか口を開きかけ、しかしモカさんの姿を見るやその表情をさらに醜悪に歪めました。

 それは先程女性にオイルを塗っていた男性が浮かべていたものを、100倍くらいに濃縮したような身の毛もよだつものでした。

「……本気で悪いと思ってんなら、それなりに“誠意”ってもんが必要だよなぁ」

「おう、良いこと言うじゃねぇか、桧垣(ひがき)

「さてと、そういうわけで嬢ちゃん、あんたがこれから何をすべきか、分かってんだろうな?」

 ターゲットを私達からモカさんへと変えた彼らが、その邪な感情を隠すことなくモカさんへと詰め寄っていきます。

 それに対して、モカさんは1歩大きく後ろへ下がり、

「いい加減にしろ」

 特別大きな声でもなかったのにやけにはっきり聞こえたその声に、私達を含む全員がそちらへと顔を向けました。

 そこにいたのは、兄でした。

「さっきのは、明らかにおまえ達の方からぶつかってきた。本来なら謝るのはこちらではなく、おまえ達だ。――詫びを求めるつもりは無いから、来た道を引き返せ。それが互いのためだ」

「……何だと?」

 まるで少年らしくない口調で、まるで少年らしくない台詞を吐く兄に、彼らはこめかみに血管を浮かび上がらせて兄に詰め寄っていきます。

 明らかに剣呑とした雰囲気に、私は助けを求めようとモカさんやリカルドさん達に視線を向けました。しかし彼女達は兄の動向を見守るようにじっと見つめているのみで、その場から動く様子はありません。……まさか、兄の実力を図ろうなどと思っているのでしょうか?

 駄目です。兄は魔法的な才能がありません。いくら体を鍛えていようと、所詮は同年代の中では強いという程度。大の大人、しかも複数人、さらには軍に所属して専門的な訓練を受けている彼らに勝てるはずがありません。

 私は彼らを止めようと足に力を込め――

「待って」

 あろうことか、エリちゃんが私の腕を引っ張ってそれを止めました。私は振り返ってエリちゃんに顔を向けますが、彼女は真剣な表情で兄を見つめるのみで私の腕を離そうとしません。

 その間にも、最初に因縁をつけてきた――桧垣と呼ばれた男が、兄の目前まで迫ってきました。

「地面に頭を擦りつけて、許しを乞いな。今なら青痣程度で許してやる」

「土下座しろ、という意味だったら、“頭を”ではなく“額を”と言うべきだ」

 桧垣という男が兄に殴り掛かったのは、その直後でした。鍛え上げられた体から繰り出される、情け容赦の無い一撃。普通の子供が受ければ、まず間違いなく吹き飛ばされて重傷を負う一撃。

 兄はそれを、真正面から受け止めていました。衝撃を完全に受け流したのか、その体はほとんど後ろに下がっていません。

 今のは、魔法でしょうか? いえ、それらしい兆候はありませんでした。魔法に関しては私の方が完全に上なので、兄が魔法を使って私が気づかないなんて有り得ません。

「面白いな……。単なる悪ふざけのつもりだったんだが」

 桧垣という男はそう言うと兄から距離を取り、ボクシングだか空手だかの構えを取りました。それは相手が本気になったことを表しており、先程のようにはいかないことを表しています。

「良いのか? ここから先は、洒落じゃ済まないぞ?」

 だというのに、なぜそんな挑発的な言い方をするのですか!

 内心冷や冷やしている私などお構いなしといった感じで、兄は桧垣という男と相対します。まさか、このまま迎え撃つつもりではないでしょうか?

「ガキにしちゃ、随分と気合いの入った台詞を吐くもんだな!」

 桧垣という男はそう言って、大きく1歩前へ踏み出し――

 

 ざばぁっ!

 

「ぶへっ!」

 突然彼の足元から姿を現した短冊状の布らしきものに足を取られ、そのまま砂浜に顔をぶつけて倒れました。

「さすがだな、達也。今のだけでも充分に分かったわ。おまえ、あいつらより数段強いだろ」

 その声に私がそちらへ顔を向けると、リカルドさんが兄を見てニヤリと笑うその隣で、マッドさんの右手から先程の布が飛び出して砂浜へと伸びているのが見えました。あの布が砂の中を移動してあの男を真下から狙ったことは分かるのですが、あの布は何なのか、そしてマッドさんがどうやって布を動かしたのかまでは分かりません。

「やはり皆さん、自分の実力を確かめようとあえて動きませんでしたね?」

「そう不機嫌になるなよ。そっちだって、俺達の実力を見ようと少し動くのを遅らせただろ? お相子ってことで良いじゃねぇか」

 兄とリカルドさんがそんな会話を交わす間にも、桧垣という男はマッドさんから伸びる布で体をぐるぐる巻きにされて、どんどん身動きの取れない状態になっていきます。「てめぇ、離しやがれ!」と彼が叫びますが、布はびくともせずに彼の動きを封じています。……本当に、あの布は何で出来ているのでしょうか?

「んで、おまえら、まだやるか?」

 そしてそんな仲間を呆然とした表情で眺めていた残り2人にリカルドさんが呼び掛けると、彼らはハッとした表情でこちらへ視線を向け、一瞬だけ敵意を見せるように目つきを鋭くし、そしてすぐに囚われの身である仲間に視線を移して敵意を失っていきました。今すぐにでも立ち去りたいが仲間を見過ごせない、といった感じでしょうか?

 すると他の皆さんも同じことを感じたのか、桧垣という男を縛っていた布がその力を緩め、彼は砂浜にその体をボスンと落としました。彼はすぐさま立ち上がると、ちらりと兄へ視線を向け、そのまま砂を払うこともせずに立ち去っていきました。他の2人も、その後に続きます。

 そしてあれだけ騒がしかった空間が、途端に静寂に包まれます。あまりに静かすぎると思って周りに目を遣ると、さっきまではいたはずの家族連れやカップルの姿が見当たらなくなっていました。おそらく私達が喧嘩しているせいで、どこかへと避難してしまったのでしょう。

「……さて、遊ぶか」

「もしかしたら今の騒動、ミルココ達が感知してるかもしれないよ?」

「あ、そうかも。念の為に、厚志さんに電話しておくわ」

「みゆき! 見て、貸し切りだよ!」

「やっほー! プライベートビーチだー!」

 しかし皆さんはそんなことを気にする様子も無く、リカルドさんとマッドさんは泳ぐ準備を、モカさんは電話をするためか荷物置き場へと歩いていき、ダッチちゃんとエリちゃんは先程と同じように私の腕を引っ張り始めました。そして兄は溜息を吐くような仕草をすると、モカさんと同じく荷物置き場へと歩いていきました。

 とはいえ、私としては様々な疑問で頭がいっぱいになっていました。なぜ兄はあれだけの実力があるのか、あの男を拘束した布は何なのか、マッドさんの魔法はどのようなものなのか、そして他の皆さんにも何か隠している能力があるのか。

「深雪さん?」

「ねぇねぇ、みゆきー。早く泳ごうよー」

「……そうね。泳ぎましょうか」

 とはいえ、今彼らにそれを尋ねたところで、素直にそれを教えてくれるとは思えません。

 なので今は、普段は行くことのない海を楽しむことにしましょう。

 

 

 *         *         *

 

 

 その後、ほとんどの時間を泳いで過ごした私達は、お昼に一旦別荘へと戻ってきました。そこではすでに桜井さんの手によって、普段とは比べ物にならないほどに大量の昼食が用意されていて、運動をして空腹だったせいか皆さん勢いよくそれを掻き込んでいました。

 お母様とのお話が終わったのか、午後には厚志さんやミルココちゃん、そして珍しいことにお母様も一緒に海へと向かいました。とはいえお母様は泳ぐことはせず、桜井さんの用意したパラソルの下で私達を眺めてるくらいでしたが。

 そして何とそのときには、お母様からお許しでも出たのか、兄も厚志さん達と一緒になって遊ぶことになりました。男性陣でビーチバレーを始め、厚志さんと協力してリカルドさん・マッドさんチームを圧倒していた姿が印象的でした。厚志さんとハイタッチをしているときですら無表情だったのは兄らしいですが、ハイタッチに少しだけ力が籠もっていたのは気のせいではないはずです。

 そんなこんなで日も傾き始めてきて、朝に予定を立てていたクルーズの時間になりました。本当は桜井さんも一緒に行く予定だったのですが、「昼間よりも食事の量が多くなりそうなので」と言って一足先に別荘へと戻っていきました。確かに昼間に加えて厚志さんやミルココちゃんも体を動かして空腹状態ですし、もしかしたら夕食の時間はちょっとした戦争になるかもしれません。

 というわけで、クルーズに参加するのは全員で11人。私達家族だけだったならば電動モーター付きの帆走船でも良いのですが、今回は人数が多いので通常のクルーザーで沖へと向かいます。伊江島の方角へと船を進め、適当な頃合いを見て引き返すルートです。

 大戦期前のクルーザーだとそれなりのスピードですぐに大きく揺れたらしいのですが、現代のクルーザーはとても広いだけでなく、スタビライザーと揺動吸収システムのおかげで船酔いの心配が無くなっています。さらには空気抵抗や過剰な光線をカットするために、甲板全体が流線型の透明なドームで覆われているのでかなり快適です。

「うっひょー! 気持ちいー!」

 クルーザーの柵に体重を掛けて身を乗り出すのは、ミルココちゃんとダッチちゃん、そしてエリちゃんの4人です。それ以外は、私を含む女性陣は景色を楽しむために外側へ、男性陣はクルーザーの運転を観察するために内側へと視線を向けています。

 と、私は周りの目を盗んで兄へと視線を向けました。兄も厚志さん達と一緒に、クルーザーを運転している様子を眺めています。兄も普通の男の子同様、乗り物などに興味があるのでしょうか?

 ……私は、兄のそんなことも知りません。

 私は今まで、兄の戦っている姿を見たことがありませんでした。ときどき怪我をしているのは知っていましたが、それは訓練によるものばかりでした。

 いくら私が四葉の後継者候補とはいえ、子供に手出しするような卑劣な者はほとんどいない。私にガーディアンをつけるのは後継者候補としての象徴的な意味合いが強くて、だから兄のような子供でも務めることができる。そして魔法的才能に乏しい兄にガーディアンを務めさせることで、四葉に兄の居場所を確保することができる。

 私は自分の罪悪感を少しでも紛らわす意味も込めて、今までこう考え込んでいました。

 しかし午前中の兄の態度は、明らかに実戦に慣れている様子でした。実力的にはまず負けることのない私ですら、彼らに怒りの目を向けられて咄嗟に竦んでしまったのです。なのに兄には、そのような様子は一切ありませんでした。

 もし兄が、私の知らない所であのようなことをしていたとしたら……。

 もし兄が、私の知らない所で私に降り掛かる脅威を排除していたとしたら……。

「どうかしましたか、深雪さん?」

 隣に座るお母様が、訝しげに私に尋ねてきました。私が「何でもありません」と慌てて返事をすると、お母様は首をかしげながらもそれ以上は何も訊きませんでした。なので私は風を感じるフリをして、お母様から逃げるように視線を逸らしました。

 とはいえ、風が気持ち良いのは事実です。これならばもっと早い時間に沖に出ても良かったかもしれない、と私は泳ぎに泳いで全身に溜まっている疲れを自覚しながらそんなことを考えました。

 他の皆さんも同じくらい泳いでるのに、疲れていないんでしょうか?

 そんなことを思った私は、とりあえず一番近くにいるミルココちゃんの様子を確かめようとそちらへ視線を向け、

「……ココア」

「……うん」

 真剣な表情で短く会話を交わす2人に気づきました。

 そして、それとほぼ同時、

「……ん? 何だ、この信号?」

 運転席でレーダーを確認していた船長が、不思議そうな声をあげました。

「――敵襲!」

「ひっ――!」

 ミルクちゃんが突然大声で呼び掛け、私は思わず声をあげて驚いてしまいました。

 しかしそれ以上に驚いたのは、ミルクちゃんの呼び掛けに厚志さんを始めとした全員が反応し、即座に行動を開始したことです。厚志さんとダッチちゃんはミルココちゃんの下へと駆け寄り、モカさん達はエリちゃんの周りを取り囲むような布陣になりました。

 そして兄も同じタイミングで動き出し、私とお母様の所で駆け寄ってきます。

「お嬢様達は、後ろへ」

「ええ、分かったわ」

 兄に促され、私とお母様は船尾の方へと移動しました。そして私達と入れ替わるように、兄が前へ――厚志さん達の隣へと移動します。

「船長! レーダーの反応は!」

「えっ――! ……っと、伊江島南南東にて、所属不明の潜水艦を確認!」

 潜水艦というと、地理的に大亜連合でしょうか? 領海内に潜水艦で侵入するなんて、まさかこのまま戦争でも始めるつもりじゃ――

「――って!」

 ここで私は、重大な問題に気づきました。

 お母様はとても強力な魔法師ですが、前線を退いて久しいです。元々体が弱かったのか、強大な魔法の出力に体がついていかなくなってきたからです。なので、お母様に魔法を使わせるわけにはいきません。そして兄は知ってる通り魔法師としての才能が無く、桜井さんは不在。

 つまりこの場で魔法を使えるのは、実力が未知数の厚志さん達を除けば私だけとなります。

 私は咄嗟にポーチからCADを取り出すと、潜水艦から距離を取るために全速力を出しているせいで揺れるクルーザーを走り抜け、兄達のいる場所までやって来ました。

 と、そのとき、おそらく潜水艦がいるであろう方向から、2つの影がこちらに向かって来るのが見えました。

 あれはまさか……魚雷!

 何の警告も無しに撃ってくるとは思わなかった私は、あろうことか体を硬直させてしまいました。そうしている間にも、魚雷はみるみる私達へと迫ってきます。

 絶望的な状況に私が現実逃避のように目を逸らすと、兄が海中の黒い影に向かって右手を差し伸べていました。

 CADも持たずに。

 そんな行動に何の意味が、と私が考えていた次の瞬間、

「え――」

 あまりにも突然の出来事に、私は一瞬魔法が発動したと気づけませんでした。

 そして私の魔法師としての感覚が、魚雷がバラバラに分解されて海の底に沈んでいくことを知らせてきました。

 まさか、今のは兄の仕業? 何の補助具も無しに、魚雷の構造情報に干渉して構造体を分解するという、超高難度の魔法を実現させたというのでしょうか?

 魔法的な才能が無いと判断された、この兄が?

 もしかして私は兄のことを何も知らなくて、実際には――

 

「マジカル・トラアアアアアアアンス!」

 

 と、私が思考の渦に嵌りそうになったタイミングで、厚志さんが突然大声をあげました。

 私は咄嗟にそちらへと視線を向け――

 

 

 *         *         *

 

 

 国防軍の沿岸警備隊が駆けつけたときには、不審潜水艦の乗組員は全員捕縛されていました。

 本来ならば領海内に敵の侵入を許すなんて不祥事極まりないと憤慨するのかもしれませんが、面倒事には関わりたくなかった私達にはあまり関心の無いものでした。警備隊の責任者から話を訊きたいと言われましたが、訊きたいことがあれば別荘に来るように伝え、私達は別荘へ戻りました。

 桜井さんの用意した夕飯を食べ、シャワーを浴び、その日はすぐに眠りにつきました。

 え? 途中がすっ飛ばされてる、ですって? そこを説明してくれ、ですって?

 思い出したくないんですよ、さっさと忘れたいんですよ、察してくださいよ。

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