第70話 『全ての事故を防ぐことが無理な以上、起こったときの対処法を検討すべきである』
北アメリカ大陸を版図とする
その内容とは、余剰次元理論に基づくマイクロブラックホールの生成・蒸発に関するもの。準備自体は2年前に終えていたのだが、安全性のリスクを読み切れないとの理由でなかなか実行には至らなかった。
しかしここに来て、そうも言ってられない事態が発生した。
極東で起こった、軍事都市と艦隊を纏めて吹っ飛ばした“大爆発”。USNAの科学者達は激しい議論の末、質量をエネルギーに変換したことによるものだと結論づけた。しかし通常の理論で質量をエネルギーに変換した場合、核分裂・核融合の際に残留物質が生じるはずなのだが、今回の爆発ではそれがまったく存在しない。つまりそれは、自分達が想定している方法で引き起こされたものではないということになる。
それは、非常にまずい。魔法によるものならば再現できないのも無理はないが、その仕組みが分からないとなれば、いざその矛先が自分に向いた際に対処のしようがない。せめて質量・エネルギー変換のシステムに関する手掛かりだけでも掴もうと、今回の実験と相成った。
例の“大爆発”は、おそらく今回の実験とは違うメカニズムによるものだ。しかしホーキング輻射は対消滅に比べて観測が不充分な現象であり、理論的予測に収まらないデータが得られる可能性がある、かもしれない。場合によっては“大爆発”と一致する現象が観測される、かもしれない。
そのような儚い根拠で危険な実験にゴーサインを出すというのは、通常ならば考えられないことだろう。おそらく3年前と同じ大爆発が再び起こったことで、何か裏で動き出しているのかもしれない、という精神的な焦りがUSNA首脳陣にあったのかもしれない。
だからこそ、彼らは“利用”されたのだ。
* * *
2095年12月24日。学生にとっては2学期最後の登校日であり、世間一般ではクリスマス・イブとされている日だ。
3度の世界大戦を乗り越えた日本だが、この国は相も変わらず宗教に対して無頓着だ。一神教の絶対神ですらも神々の1柱として扱う日本人にとって、クリスマスと正月を同じように祝うことに対する抵抗など存在しない。
この時期になると、街はクリスマス一色に染まる。ここで達也は「クリスマス“商戦”一色の間違いだろう?」などと斜に構えるようなことはしない。以前冗談でエリにそれを言ったとき、彼女は「それだと何か問題なの?」と尋ねたうえで、目を爛々と輝かせながらクリスマス商戦による経済効果を挙げて、いかにクリスマス商戦が大事なことか延々ご教授してきたのである。
それに今の達也は、普段から
それに今回のパーティーは、クリスマスパーティー以外にもう1つ意味合いがある。
「それじゃ、雫の海外留学を祝して……まぁ、せっかくだし、このフレーズで行こうか。――メリークリスマス」
「メリークリスマス!」
達也の落ち着いた挨拶の直後、クリスマスに限らずお祭り大好きな面々によるはっちゃけた歓声と共に、クリスマスパーティー兼雫の送別会は幕を開けた。
雫がアメリカに留学することが皆に伝えられたのは、定期試験に向けて勉強会をしていたときのこと。年が明けたらすぐ出発で、期間は3ヶ月ほど。優秀な魔法師は軍事資源の流出を防ぐために海外渡航が制限されているのだが、なぜか雫にはその許可が下りたという。雫の父親・潮の話では「交換留学だから」だそうだ。
とにかく留学が決まったのなら送別会をしようということになり、どうせクリスマスも近いのだから一緒にやっちゃおう、ということで今回のクリスマスパーティーが企画された。
最初は厚志の家でやろうという案もあったのだが、結局は達也たちが普段から常連として利用している喫茶店“アイネ・ブリーゼ”を貸し切ることにした。せっかくのクリスマスにモカ達の手を患わせるのもどうかという理由なのだが、それを聞いたモカが若干残念そうにしていたのが印象的だった。
「しかしまぁ、何とも無節操な……」
パーティーではしゃぐ他の面々には聞こえないように、達也は独りごちた。彼の目の前には生クリームをたっぷり使った大きなホールケーキが鎮座しており、そのど真ん中に飾られたホワイトチョコの板には“MERRY XMAS”と書かれていた。この店の流儀に従えば“WEIHNACHTEN”の方が相応しいし、あるいは魔族や堕天使に配慮するならば天界の“唯一神”を連想しないように“HAPPY HOLIDAY”とするのが良いのでは、と達也は思ったが、それを気にする者は達也以外にはいないようである。
それよりも彼らが気にしているのは、魔法師では滅多に認められることのない“海外留学”についてだった。
「ねぇねぇ、雫! 留学先ってどこなの!」
「バークレー」
「あれ? アメリカの魔法研究って、ボストンのイメージが強いんだけど」
「東海岸は、雰囲気が良くないらしくて」
「ああ、最近“人間主義者”が騒いでるってニュースでやってたよ」
幹比古の言葉は、その場にいる全員を大なり小なりうんざりした表情にさせた。もちろん、幹比古に向けられたものではない。
「“魔女狩り”の次は“魔法師狩り”か。歴史は繰り返す、ってヤツだな」
「実際にはちょっとニュアンスが違うけどね。魔女狩りは“漠然とした不安に対する民衆の集団ヒステリー”ってのが定説だけど、今回のは“新白人主義”と根っこが同じっぽいから」
エリの言葉に、先程冷めた声で吐き捨てたレオが興味深そうに眉を上げた。
「そうなのか、エリちゃん?」
「うん。活動団体のメンバーリストを見てると、結構な確率で同じ人がいるよ」
「へぇ、そりゃ知らなかったな。メンバーリストなんて見たことねぇぞ」
「そりゃそうだよ。普通表に出るようなものじゃないから」
「……なんでそんな物を、エリちゃんが手に入れられ――あぁ、“プリティ☆ベル”絡みか」
レオはそう呟いて、1人納得していた。本当は達也が色々と探りを入れた結果手に入れたものであり、エリ達はそれを達也から聞いただけである。とはいえわざわざ訂正するほどのものではないため、エリは何も言わなかった。
それに、
「おいおい、レオ! なぁに辛気臭い話してんだよ! 今日はクリスマスだぜ! 呑んで食って騒ぎまくるんだよ!」
「ちょっ、リカルドさん! もしかしなくても酔ってますね! まだパーティー始まったばかりですよ!」
「兄者、明日は確実に二日酔いだな……」
顔を真っ赤にした上機嫌なリカルドが後ろからレオに飛びつき、マッドがそれを見て苦笑いを浮かべている。咄嗟にエリに助けを求めるレオだったが、彼女は既に雫を囲む女性集団の中へと避難しており、レオは酒臭いリカルドに絡まれながらぐったりと項垂れた。
「それで雫、代わりに来る子は分かってるの?」
「代わり?」
「“交換留学”なんでしょ?」
「……同じ歳の女の子、ってだけは」
「それ以上は?」
モカの問い掛けに、雫は首を横に振ることで答えた。
「そうですよね。自分の代わりに誰が来るのか、気になったところで答えてくれる人がいませんものね」
美月の言葉に、その場にいた誰もが納得したように頷いた。結局留学生の話はそこで打ち切りとなり、その後は留学先の学校のことや勉強の内容などにシフトしていった。
そんな中、テーブルに並べられた料理を取りに行くためにエリがその場を離れた。大皿に山のように盛られているフライドチキンは、それだけで満腹になりそうな光景だったが、絶賛食べ盛り中のエリにとっては何てことない。ちなみに彼女はこの1年の間に身長が10センチほども伸び、入学の頃に比べて随分と大人びた印象となっている。チキンに齧り付く姿はまだまだ子供っぽいが。
と、そんな彼女に近づく者がいた。
「やっほー、エリちゃん。食べてる?」
エリカだった。
「うん。エリカさんもお代わり?」
「あーっと、それ“も”あるかな?」
エリカはいたずらっぽい笑みを浮かべながら、ちらりと周りを一瞥した。2人の周辺には誰もおらず、小声で話せば喧騒が壁となって周りには聞こえない。
エリカはそれを確認したうえで、スッとエリの耳元に顔を近づけた。
「ねぇ、エリちゃんから見て、今回の“留学”はどう思う?」
「アメリカに留学なんて、雫さんが羨ましいよ。私はもう“魔法師”になっちゃったから、海外に行けなくなっちゃったし。向こうではどんな勉強をしてる――」
「エリちゃん」
改めて呼び掛けるエリカは笑顔ではあるものの、その眼差しは真剣そのものだった。
エリは少しの間考え込むような素振りを見せると、
「……まぁ、ちょっとばかり変だよね」
「やっぱり、エリちゃんもそう思う? そうなのよ、『交換留学だから』なんて理由で海外渡航が認められるなんて変よね?」
「最初は“大実業家の娘”って意味合いでの留学かなって思ってたけど、だったら相手のことを知らないなんて有り得ないよね。そもそもこの時期に留学ってのも不自然だし」
「……ってことは、もしかして向こうは“スパイ”だったり?」
「さぁ、そこまでは……」
表面上は首をかしげるエリだったが、実際のところエリは向こうの正体におおよそ見当はついていた。
達也・深雪・厚志の3人で四葉家に行ったときに真夜から伝えられた“忠告”の内容は、その日の内にエリ達にも伝わっていた。なので2ヶ月ほど前に大亜連合の軍事都市と艦隊を吹っ飛ばした“マテリアル・バースト”の仕組みと術者を突き止めるべく、USNAの魔法師部隊“スターズ”が近々やって来ることも知っている。
「まぁ、もしかしたら本当にただの留学生かもしれないよ? せっかく滅多に会えない海外の魔法師と会えるんだから、色々と学べることも多いんじゃない?」
とはいえ、エリカ達にそれを教えるのは憚られた。どうやってそれを知ったのか疑われるのもそうだが、エリカ達を変なことに巻き込むことになりかねない。
「……ねぇ、エリちゃん。ひょっとしたら、プリティ☆ベルを探りに来たって線は無いかな?」
もっとも、エリカ達ならば自分から厄介事に首を突っ込みそうな気概ではあるが。
「どうだろう……、可能性は低そうだけどね。まぁ、たとえ相手が誰だったとしても、こっちが疑っていることを悟られない方が良いだろうね」
「でしょうね。……うーん、腹芸はあんまり得意じゃないんだけどなぁ」
エリカは頭をがしがしと掻きながら、料理を片手にわいわいと喋る皆の元へと戻っていった。
その背中を見送りながら、エリは頭の片隅で考えに耽る。
――それにしても、“スターズの一員”に雫さんと同じ歳の女の子がいるなんて……。世界は広いんだなぁ……。
おそらくそれを聞いた誰もが「おまえが言うな」とツッコミを入れそうなことを思いながら、エリはチキンに齧り付いた。
* * *
日本でクリスマスパーティーが行われている頃、太平洋を隔てた北米大陸中部ではまだクリスマス・イブの前夜だった。単なるイベントの1つとして捉えることの多い日本人と違い、アメリカ人の多くは遥かに真摯に、敬虔に、熱心にクリスマスを迎える。なので人々は明日に備えてぐっすりと眠っており、街は静まり返っていた。
しかしUSNAの大都市・テキサス州ダラスの一画では、ビルからビルへ跳び移って逃亡を図る者と、その不審者を頭上から包囲する複数の魔法師が暗躍していた。まだ普及が始まったばかりの飛行魔法特化型CADを使用していることから、追い掛けている集団は警察か軍の関係者ということが推察できる。
「止まりなさい、アルフレッド・フォーマルハウト中尉! もはや逃げ切れないのは分かっているはずです!」
と、そのとき、逃亡者を包囲する魔法師の1人、目の周りを覆う仮面をつけ、首に大きなストールを巻いた小柄な人影が、逃亡者の正面に下り立って進路を塞いだ。少女のように甲高いその声に、呼び掛けられた逃亡者はピタリと足を止める。
「……なぜですか、フレディ? “一等星”のコードを与えられたあなたともあろう人が、なぜ隊を脱走するなんて真似を……」
「…………」
先程の居丈高な呼び掛けから一転し、不安と戸惑いの入り混じった声で問い掛けるが、逃亡者からの返事は無かった。
「この街で起きている連続焼殺事件も、あなたのバイロキネシスによるものだと言う者もいます。まさかとは思いますが、あなたの仕業ではありませんよね?」
「…………」
「――答えてください、フレディ!」
その瞬間、逃亡者に反応があった。
言葉を使った弁明ではなく、魔法を使った迎撃というものだったが。
咄嗟にそれを感じ取った少女は、首に巻いていたストールを残して後ろに飛び退いた。逃亡者の視線から少女を隠すことになったそのストールは、次の瞬間、何の火種も無いはずにも拘わらず突然炎を上げて燃え盛った。
バイロキネシスは体系化された現代魔法ではなく、かつては“超能力”とも言われた発火念力である。CADを使わず、CADよりも圧倒的に早い攻撃を仕掛けることが可能だが、視線をキーとして発動する能力のため、こうして障害物を超えて向こう側にいる人物を攻撃することはできない。
だからこそ、バイロキネシスの発動が確認された次の瞬間、逃亡者の周りから一切の光が消えた。一定の空間に光が侵入しなくなる“ミラー・ケージ”によって、逃亡者が魔法を発動する視線を遮ったのである。
それに気づいた逃亡者が離脱を試みるが、彼は既に別の魔法によってその身を拘束されていた。
「フォーマルハウト中尉! 連邦軍刑法特別条例に基づく“スターズ総隊長”の権限により、あなたを処断します!」
悲痛な声でそう叫んだ仮面の少女は、逃亡者に向けてサプレッサー付きの自動拳銃を構えた。
強力な情報強化によって一切の魔法干渉が無効化された弾丸が、逃亡者の心臓を1発で貫いた。
スターズ専用機のクラスターファンVTOLで基地に帰還し、統合参謀本部に暗号通信で報告を済ませた後、USNA軍統合参謀本部直属魔法師部隊“スターズ”の総隊長であるアンジー・シリウスことアンジェリーナ・クドウ・シールズ少佐は、制服のまま自室のベッドに横になった。そのまま寝返りを打って俯せになり、枕に顔を押しつける。
彼女にとって、処刑任務は何回やってもけっして慣れることはなかった。最初のように任務終了後に嘔吐することは無くなったが、それは単に心の痛みに体が慣れただけのことである。むしろ任務を経験する度に、心の痛みは大きくなっていった。
「……何をやっているんだろう、私」
ふいに呟いたそのとき、部屋の呼び鈴が鳴った。それを聞いたシリウス少佐は苦笑いを浮かべてベッドから起き上がり、リモコンで鍵を開けながらドアホンのマイクに向かって「どうぞ」と呼び掛けた。
「失礼します、総隊長」
そして入ってきたのは、スターズのナンバーツーであり、彼女が不在のときは総隊長の任務を代行する第1隊の隊長、ベンジャミン・カノープス少佐だった。スターズは階級と地位がリンクしていない編制を採っているため、隊長と総隊長の階級が同じということは珍しくない。
スターズは12の部隊から成り、総隊長は各隊長を統括する立場にある。つまりシリウス少佐の部下は自分の部下の面倒を見なければいけない立場にあるのだが、カノープス少佐の場合はこういう任務の後は決まって様子を見に来てくれる。おそらく彼自身に彼女よりも2歳年下の娘がいることが大きいのだろう。
「差し入れです、総隊長」
彼はいかにも高級士官といった、叩き上げの兵士とも民間のビジネスマンとも違うスマートな所作で、シリウス少佐に湯気を立てるハニーミルクを手渡した。自分の父親にも似た年齢の部下からの気遣いに、彼女は照れ臭いような申し訳ないような表情を浮かべながらそれを受け取った。
「ありがとうございます、ベン」
「どういたしまして。――“準備”は、もう終わったんですか?」
「ええ、大体は」
「さすがに手際が良いですね。日本人の血、というヤツでしょうか?」
「日本人だからって、みんなが几帳面というわけではありませんよ」
自分の体に流れる4分の1の血を言われて、シリウス少佐は軽く肩をすくめた。
「せっかくの機会です。しばらく因果な任務のことは忘れて、のんびり羽を伸ばしてください」
「ベン、休暇じゃなくて特別任務なんですよ。……それに、のんびり羽を伸ばすなんてできるわけないじゃないですか。我々がこれから調査するのは、“あの”プリティ☆ベルが懇意にしている人物なんですよ」
彼女が担当するターゲットは、東京の高校に通う兄妹2人。その高校に潜入して真相を探るために、同じ歳であるシリウス少佐に白羽の矢が立ったのである。
とはいえ、実際はそんな単純な理由で選ばれたわけではない。
彼らは世界中の軍事組織が最大級の警戒心を抱く一大勢力“プリティ☆ベル”と、非常に親しい関係にあった。家が隣同士ということもあってよく互いの家を行き来し、もはや彼らの仲間と呼んで差し支えないほどに親密なのである。
ここで上層部は頭を悩ませた。彼らは世界を相手取れるほどに強大な力を持っているが、普段自分達に対してその力が発揮されることはない。彼らが動き出すのは、常に自分に対して害をなそうとする勢力が現れたときのみである。つまり裏を返せば、その容疑者2人を下手に突っつくことで、プリティ☆ベルの矛先がこちらに向く可能性があるということだ。
なので彼らを調べる人間自体に、ある程度の戦闘力があった方が良い。なので戦闘力は申し分ないが畑違いのシリウス少佐が矢面に立ち、多くの専門家が彼女のバックアップに当たるということになったのである。
「プリティ☆ベルに親しい人物というのもそうですが、この2人自身も油断ならない相手です。戦略核を凌駕する魔法の使い手かもしれないうえに、こちらの調査でも正体を掴ませなかった。だからこそ総隊長の役目は諜報そのものではなく、容疑者に接触して揺さぶりを掛ける面の方が大きいと思われます」
「ええ、そうでしょうね。諜報技能に関しては、私は素人同然ですから」
「だとしたら、変に気負わずに学生生活を満喫した方が良いかもしれませんよ。その方が、相手が隙を見せる可能性も高い」
「……まぁ、そうかもしれませんね」
シリウス少佐はカップをテーブルに置いて立ち上がると、カノープス少佐の正面へと回った。
「ベン、留守中のことはよろしくお願いします。残りの脱走者の処分も終わっていない状況で、本来私が負うべき役割をあなたに押しつけるのは心苦しいのですが……、私の代わりをお願いできるのはあなたしかいませんので」
「お任せください、総隊長。少し早いですが、いってらっしゃいませ」
慈しみの籠もった笑顔で敬礼をする部下に、シリウス少佐は感謝の意を込めた笑顔で返した。
* * *
「それじゃ、行ってくるよ」
「はい、行ってらっしゃい」
楽しかった送別会兼クリスマスパーティーから翌日、世間ではクリスマスとされている25日の早朝、厚志はモカに見送られて自宅を後にした。普段ジムで着ているスポーツウェアを身につけた厚志は、家を出るやすぐにランニングを始めた。
昨日のパーティーは実に楽しいものだったが、ボディービルダーの厚志にとっては実に過酷な環境だった。油分の多いフライドチキン、糖質と脂質の塊であるケーキ、それ以外にもあの場で提供された様々な料理は、普段の厚志ならば絶対に食べることのないものばかりだ。
しかし厚志は、それを食べないという選択を採らなかった。その代わりこうして早朝に起きてランニングをすることで、少しでもカロリーを消費することを選択した。
まだ太陽も姿を表さず人通りもほとんど無い道を、厚志は一定のテンポで地面を蹴って走っていく。鍛え上げられた筋肉が躍動し、身長2メートルの大柄な体が軽快に風を切る。ちなみに今日のルートは厚志の家から第一高校の正門まで、徒歩とキャビネットによる移動で30分ほど掛かる距離である。
そして、そろそろ第一高校を視界に捉えようか、という頃、
「あれっ! 厚志さんっ!」
後ろから驚いたような声が聞こえ、厚志は足を止めて振り返った。
「ほのかちゃんか、おはよう」
「あっ、おはようございます!」
厚志からの挨拶に、桜色のスポーツウェアを着たほのかは大袈裟に頭を下げて答えた。頬がスポーツウェアと同じ色に染まっているのは、先程まで体を動かして血行が良くなっているからか、それとも冷たい空気に晒されているからか、それともまた別の理由によるものか。
「厚志さんも、昨日の分を消費しようと……?」
「ああ、たまにはああいう料理も良いけど、余分なカロリーは消費したくなるのが性分でね」
「私もです! 本当なら食べないのが一番なんでしょうけど、どうしても我慢ができなくて……」
「ほのかちゃんは肉体改造が目的ではないんだ、無理に食事制限をしてストレスを溜める必要は無いよ」
「いいえ、無理していません! 厚志さんのジムでトレーニングするようになってから、自分に自信が持てるようになって、実際に実技の成績も上がったんです! それに体を鍛えることが楽しくなってきて……! だから今日こうして走ってるのも、私がそうしたいからそうしてるんです!」
頬の桜色を顔全体に広げながら、ほのかは叫ぶようにそう言った。その真剣味は相当なもので、台詞をそのまま告白に取り替えても違和感が無い。
「あっはっはっ、そこまで好きになってくれるなんて、ほのかちゃんに指導した甲斐があったよ」
「す、好きになって! た、確かに私は厚志さんのことが――あっ、ああっ! “体を鍛えることが”ってことですね! は、はい! そうです!」
どんどん顔を真っ赤にして大声で騒ぎながら狼狽える彼女の姿は、もし周りに人の姿があったら奇異の目で見られること間違いなしだろう。あるいは、彼女のこの大声で人が寄ってくるかもしれない。
「ええと、ほのかちゃん。この後の予定はどうなってるんだい? もし良かったら、もう少し2人で走ろうかと思うんだけど」
「は、はいはい! 暇です! たとえ暇じゃなくても、たった今暇になりましたから!」
「……そ、そうかい。それじゃ、どこか行きたいところはあるかい? ほのかちゃんの行きたい所で構わないよ」
「本当ですか! それじゃですね――」
冬の寒空の下、ほのかは今までに無いくらいに熱い時間を過ごしたという。