魔法科高校に鐘が鳴る   作:ゆうと00

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第75話 『全ての出来事は、起こるべくして起きている』

 夜の渋谷に人通りが絶えることは無い。しかしそれは“全ての場所”という意味ではなく、短い時間でなら虫食いのように人がいなくなる場所が存在する。

 例えば、表通りと裏通りの間にある申し訳程度の公園、とか。

 その公園には現在、2人の人間の姿があった。1人はベンチに横たわる、ハーフコートの下にニットのセーターとミニのラップキュロット、厚手のレギンスで装った若い女性。そしてもう1人はその女性に覆い被さる、ロングコートにマフラー、丸いつばのついた帽子を目深に被った、人相も性別も不明な影のような人物。

 その帽子の人物が体を起こした直後、背後に新たな人影が現れた。

――また不適合か?

 帽子の人物とまったく同じ外見をした人影が、空気を震わせることのない声でそう尋ねた。

――駄目ですね。今回は複製体(コピー)を送り込んだ後で接続を完全遮断してみたのですが、これまでと同様、サンプルの血液からサイオンを摂取しただけで定着せず戻ってきてしまいました。

 1人目が、同じく無音の声で2人目に答えた。

――やはりコピーでは駄目か。

――有り得ません。私達自身がオリジナルの複製体なのですから。

――では、資質があっても望みが無ければ私達になれないということか。

――望みの無い者などいるのでしょうか?

――他に何か条件があると?

――それを突き止めるためにも、もっとサンプルが必要です。

――そういうところは、変わらないな。

――私は私です。あなたがあなたであるように、何も変わっていません。

――そうだったな……むっ?

 2つの人影が、思念会話を中断して同時に同じ方向へと顔を向けた。

――サイキックバリアを突破した人間がいる。2人……いや、3人か?

――試行(トライアル)中でしたからバリアの強度を高めてあったのですが、かなり高い資質の持ち主なのでしょう。

――こちらは2人。退くか?

――いえ、せっかくのチャンスです。それだけの逸材ならば、適合するかもしれません。幸い、最後尾の1人は他の2人から離れているようです。その1人が合流するまでには、最初の2人を無力化できるでしょう。

――良いだろう。“皆”もそれで良いな?

 返ってきた肯定の返事も、無音の声だった。

 ベンチの上に女性を残して、2つの人影は街灯の光の外へと姿を消した。

 

 

 

 USNAが誇る3人の戦略級魔法師の内、スターズに所属しているのはアンジー・シリウス1人だけだ。残りの2人はそれぞれ、アラスカ基地と国外のジブラルタル基地に配属されている。

 しかしそれでもスターズがUSNAにとって魔法戦力の主軸であることに変わりは無く、特に“一等星”のコードを与えられた魔法師ともなれば“世界最強の魔法戦力”を象徴する存在だ。だからこそ“一等星”の1人であるアルフレッド・フォーマルハウト中尉の脱走事件はかなりの衝撃であったし、今後このようなことを繰り返さないためにも、残りの脱走者を見せしめの意味も込めて()()しなければならない。

 現在夜の渋谷を早足で進む、夜遊びに興じる若い女性という格好をした2人の女性も、そんな任務に駆り出された精鋭である。彼女達の所属は“スターダスト”と呼ばれ、スターズと同じくUSNA軍統合参謀直属の魔法師部隊でありながら星々(スターズ)になれなかった星屑、とされている。しかし実戦魔法師として猛者であることは疑いようもない事実であり、特定分野に限ってはスターズの一般隊員にも引けを取らない実力の持ち主だ。

 そしてこの2人は、捜索・追跡に優れていた。サイオン波のパターンを識別してその痕跡を感知するという、まだ日本では実用化されていない技能を()()()()()()()強化魔法師である。その甲斐あって、現在彼女達は脱走者の1人、スターズ“衛星(サテライト)級”ソルジャーであるデーモス・セカンドことチャールズ・サリバンを徒歩距離内にまで追い詰めていた。

「奴はこの先の空き地だ」

 足を止めた女性に相棒が頷き、コートのポケットから情報端末を取り出した。ターゲットのいる公園までの路地は一本道であり、2人から見て左側と、右の角を曲がった所に入口がある。

「挟撃しよう。私は右を行く。仕掛けるのは同時だ」

「了解だ」

 短い会話で意思疎通をした2人は、即座に左右に分かれてその公園内へと足を踏み入れた。

 目深に被った帽子とマフラー、そしてその間から覗く翼を広げたコウモリの描かれた灰色の覆面、という出で立ちの人物を見つけたのは、それから10秒と経たない頃だった。

「脱走兵デーモス・セカンド。両手を挙げて指を開きなさい」

 覆面の前に躍り出た女性が呼び掛けるのと同時、背後に回り込んだ女性がガラスを引っ掻いたようなノイズを覆面に浴びせ掛けた。とはいえ、そのノイズは普通の人間に聞こえることはない。

 それは“キャスト・ジャマー”が放つサイオン波だった。USNA軍魔法技術部が開発した携行武器による魔法妨害は、アンティナイトのような無差別妨害ではなく、CADの機能を妨害するものだ。サイオンを放出するタイプの無系統魔法に長けた者しか使えない、有効範囲はせいぜい5メートル以内、という非常に限定的なものだが、非常に高価で希少な鉱石を使わずに魔法妨害ができる画期的な秘密兵器である。

 突き付けられた銃口を前に、覆面――サリバンは両手を挙げて指を開いた。彼女達に与えられたデータによれば、サリバンはCADが無ければ魔法を行使できず、身体能力も一般兵の域を出ない。魔法師であると同時に生化学的強化措置が施されている彼女達の敵ではない。

「おまえには発見次第即時消去の決定が下されている。しかし他の脱走兵の情報を提供するなら、刑一等を減じるとも命令されている」

「デーモス・セカンド。10秒だけ考える時間をやろう」

「いや、必要無いさ。スターダスト捜索班(チェイサーズ)、ハンター(17th)とハンター(18th)

 恐怖どころか緊張の欠片も無いサリバンの声に、そして自分達のコードを言い当てられたことに、2人の女性ことQとRの眼光に鋭さが増した。

「君達に、私は倒せない」

 サリバンの言葉と共に、Qが構えていた銃が火を噴いた。サプレッサーによっておもちゃのエアガンと変わらぬほどに銃声が静粛されているが、放たれた弾丸は人の命を奪うのに何の不足も無い本物だ。

 従ってその銃弾はサリバンの胸を抉って心臓に達する――ことなく、彼の後ろにいたRの腕を抉った。

「ぐっ――!」

 苦悶の声を漏らすRに、Qは思わず目を見開いた。銃という武器からしたら至近距離とも言って良い場所でターゲットを外す、なんてことは訓練された兵士であるQには有り得ない。

 しかしQは、その現象が引き起こされた原因にすぐさま思い至った。そしてそのうえで、驚愕の表情を浮かべていた。

「軌道屈折術式だと!」

「何をそんなに驚く必要がある。私がそれを得意としていたことくらい、君達なら聞いているはずだろう」

「なぜだ! キャスト・ジャマーは確かに発動していた! なぜそんな状況下で、魔法を行使することができる!」

「教えてやろう。――私はもはや、CADを必要としない」

 Qがスカートの下に隠していたホルスターに銃を突っ込み、Rと共に袖口からナイフを引き抜いてサリバンに襲い掛かった。強化された身体能力と阿吽の呼吸で繰り出される連撃は、生身の人間には到底避けることのできないものだった。

 しかし強化措置を受けていないはずのサリバンは、ひらひらと華麗な動きでそれを躱していく。彼の身体能力が不自然に向上しているのみならず、的確に彼の急所を狙っていたナイフが不自然に軌道を変えて軌道を逸らしていた。

 その事実に、QとRの目がまたしても見開かれた。手に持つナイフの軌道を変えるというのは高度な技術であり、以前の彼ならばそのような強力な魔法を使えるはずがない。

「まだ理解できないか? 私が以前の私ではないことを」

「抜かせ!」

 QとRが悪態を吐いて、再びサリバンに突っ込んだ。しかしそれぞれのナイフはまたしても軌道をねじ曲げられ、Rが苦悶の声を漏らしながらバランスを崩していく。そしてサリバンが手品のような手際で2人と同じナイフを取り出して握りしめると、Rの背中に向けて振り下ろした。

 しかしそのナイフは、空中に築かれた透明な壁に跳ね返された。

「ベクトル反転術式――!」

「総隊長!」

 サリバンの台詞に被せるようにして、Qが叫ぶ。その意味を瞬時に理解したサリバンが、体勢を崩したままのRに跳び掛かった。

 そしてそんなサリバンの背中に降り注ぐ、4本の短剣。

 それを察知したサリバンが短剣を避けるように体の軌道を横に逸らし、着地したのと同時にRをQ目掛けて突き飛ばし、その直後に4本のナイフを2人へと投げつけた。しかし地面に刺さる寸前だった短剣が軌道を変え、その4本のナイフを叩き落とす。

 その隙に、サリバンは近くのビル目掛けて飛び上がった。向かい合わせの壁を3回蹴ることで、路地を構成するビルの屋上へと到達する。

 それを見た赤髪・金瞳・仮面の魔法師が同じルートで追跡を行おうとし、その直後に路地の向こう側で新たにサイオンが活性化するのを感じ取った。

 一瞬動きを止めて考え込んだ魔法師は、サリバンの追跡を断念し、新たな犠牲者が発生するのを防ぐべく行動を開始した。

 

 

 *         *         *

 

 

 レオは今日も、深夜の渋谷を歩き回っていた。しかしいつものように“宛ても無く”さ迷っているのではなく、知り合いに聞いて回って怪しげな連中の情報を収集し、それを基に実際に足を運んでいた。

 なぜこんな刑事の真似事をしているのか、レオ自身にもよく分かっていなかった。正義感から動いているにしては、他の理不尽な犯罪にはさほど関心は無い。渋谷がホームタウンではない以上縄張り意識は適当でないし、単なる好奇心としても実は犯人の正体にそれほど興味は無い。

 レオは自分の行動を、“第六感”によるものだと考えている。

 彼は元々、危険に対して人並み以上に鼻が利く。それが彼の出自によるものかどうかは定かではないが、エリカと共に大江山流護身術道場に弟子入りしたことで、さらにその感覚が鋭くなったように感じている。

 本来ならば、その感覚を()()()()()()()()()()()()()()使うべきなのだろう。しかしレオはこの感覚によって、別方向からの予感も感じ取っていた。

 この事件が、いずれ自分達に火の粉として降り掛かってくる。

 だからこそ、今の内にできるだけの情報を集めようとしているのかもしれない。自分達の生活が脅かされることのないように。自分達の大事な人を守り抜けるように。

「……さっきから、気になるんだよなぁ」

 先程からレオが聞き取っている、虫の羽音のようなノイズ。耳に直接聞こえてくるのではなく、彼の意識の奥底近くを過ぎっているそれを、彼は魔法的な力を使った会話だと直感していた。

 その発信源へと吸い寄せられるように歩いていくと、

「――――!」

 急激に膨れ上がった闘争の気配に、レオは足を止めた。ここから先は好奇心で踏み込める領域ではない、とレオは本能的に感じ取った。寿和に話した「危険なことに首を突っ込むつもりは無い」というのは嘘ではない。

 レオはポケットから通信ユニットを取り出すと、寿和に教えられたアドレスへ短いメールを送信した。『吸血鬼はここにいる』という内容で位置情報を公開しているので、寿和がすぐに気づけば容疑者を捕捉することができるだろう。

 これ以上巻き込まれないようにレオはそのまま踵を返そうとして、公園のベンチに横たわる人影に気がついた。レオは周囲への警戒、そしてベンチの人影自体にも警戒を怠らずに、そのベンチへと近づいていく。

「おい、大丈夫か」

 恐る恐る肩に手を触れて揺するが、その女性からの返事は無い。首筋に手を当ててみると、肌が冷たく、指先から今にも消えそうな鼓動が伝わってくる。レオは慌てて通信ユニットを取り出した。今度は警察ではなく、救急車を呼び出すために。

「――――!」

 そして次の瞬間、レオは反射的に振り返って端末を持つ手を顔の前に掲げた。

 通信ユニットが砕け散る。その得物が伸縮警棒だということは、後ろに大きく飛び退いてから分かったことだ。

 その伸縮警棒を持つ人物は、一言で言えば“異様”だった。丸いつばのついた帽子の下は、目の部分だけが切り抜かれた不気味な白一色の覆面。足首まで届くケープ付きの長いコートは体の線を完全に隠し、性別の判断すら判然としない。いや、ここまでくると性別どころか人間かどうかすら分かったものではない、とレオは他人事のように考えていた。

 そしてその間にも、レオの意識に例のノイズが過ぎる。先程は会話のように聞こえたそのノイズは、今度は焦りのような感情が含まれていると直感する。

 しかしレオがそれに気を取られている隙に、覆面の怪人が一気にレオとの距離を詰めてきた。まるで自己加速術式のような動きだが、魔法式を構築する予兆をまるで感じなかった。不意を突かれた形となったレオは、硬化魔法を編み上げる余裕も無く、横殴りで襲い掛かる警棒を咄嗟に左腕で受け止めた。

 何かが潰れる、鈍い音。

 そうして折れ曲がった()()に、覆面に隠された怪人の顔に明らかな動揺が走った。

「いてぇじゃねぇか、この野郎!」

 雄叫びと共に放ったボディーアッパーが、怪人の胸を捉えて硬い音をたてた。大きく後方によろめく怪人に、痛そうに手を振り払うレオ。しかし骨が折れた様子は無く、先程警棒を受け止めた左腕にも損傷の様子は無い。

「コートの下は、カーボンアーマーか? ご大層なこって」

 レオが半笑いで怪人を睨みつける中、怪人が拳を握りしめて構えた。左半身で左手を顎の高さに、右手を鳩尾の高さに構えるその姿に、レオは中国拳法のようだと思った。そしてその拳の小ささは、まるで女性のようだとも思った。

 次の瞬間、風に乗って怪人が再び襲い掛かった。自己加速術式に流体移動魔法による追い風をプラスしたスピードに合わせ、カミソリのように薄い刃が飛んでくる。レオはそれを、硬化魔法を展開したジャケットで弾き飛ばした。

 しかしすぐさま、怪人が手刀が振り下ろしてきた。レオはそれを、左腕で迎え撃つ。

 と、そのとき、怪人がその左腕を掴んできた。

「――――!」

 その瞬間、急激な脱力感がレオを襲った。足に力が入らずに倒れそうになるのを堪えながら、レオは怪人に掴まれている左腕を絡めてその腕を掴み、右手をズボンのポケットに突っ込んだ。

 空いている怪人の左手がレオの胸、ちょうど心臓の辺りへと伸びていく。

 その手をレオの右手が受け止める――ことなく、覆面に隠された怪人の眼前へと伸びていく。

 そして怪人の手がレオの胸へと到達する、その直前、

「――――!」

 怪人の眼前に伸びたレオの右手から、強烈な閃光が(ほとばし)った。突然のことで驚愕し、夜闇に慣れた目に強烈な光が差し込まれたことで視界を奪われ、怪人の動きが一瞬止まった。

 その一瞬を見逃すレオではない。力一杯握りしめられた彼の拳が、怪人の顎を横から殴りつけた。テコの原理によって怪人の脳が大きく揺さぶられ、怪人がもんどり打つ勢いで地面に転がった。レオが息を呑んで怪人の様子を見つめるが、怪人が起き上がる気配は無い。

「へっ……! 魔法師が魔法だけで戦うわけじゃないってのは、あんただって知ってることだろうが……!」

 今にも意識が途切れて倒れ込みそうになる体に鞭打って、レオは苦しみながらも獰猛な笑みを浮かべた。先程閃光が迸ったレオの右手には、片手で隠せるほどの大きさの、艶のある黒い円筒型をした物が握られていた。チェーンをつければキーホルダーのようにも見えるそれには、小さなレンズがついている。

 これはレオが大江山流護身術道場に弟子入りしてから携帯するようになった物の1つで、先程からも分かるように強烈な閃光を放つものである。魔法的な仕掛けは無く普通の人間にも使えるそれは、使うタイミングを見極めればこのように多大な効果をもたらす。

 ――ぐっ、やべぇ……。マジで意識が薄れてきやがった……。

 立つこともできなくなって膝をついてしまったレオは、公園のベンチへと目を向けた。そこには先程と同じように女性が横たわっているが、先程と同じように脈が続いているかは分からない。

 レオはジャケットの内ポケットに手を突っ込み、そこから防犯用のブザーを取り出した。紐を引っ張ることで、耳障りな音がけたたましく周囲に鳴り響く。せめて誰か気づいてくれ、という願いを込めながら、レオはとうとうその体を地面に横たわらせた。

 ――何だ、あれ……?

 自分を見つめるように佇む赤髪の人間を遠くに見据えながら、レオの視界が黒く塗り潰された。

 

 

 

「まさか一介の高校生が倒してしまうなんて……」

 唖然としたように呟いたのは、赤髪金瞳の仮面魔法師、アンジー・シリウスだった。つまり、アンジェリーナ・クドウ・シールズだった。

 彼女がここにやって来たとき、まさにレオと怪人が戦っているところだった。リーナはすぐさま助太刀に入りたかったが、変装しているとはいえ自分の姿を彼に見られるのは憚られた。

 しかし彼女が迷っている間に、事態が急転した。怪人に腕を掴まれた途端、明らかにレオが脱力するような仕草を見せた。これはまずいと助けに入ろうとしたリーナだったが、さらに事態が急転、レオの手から強烈な閃光が迸って怪人の動きが鈍化、そのままレオが一撃お見舞いして怪人の意識を奪い去ったのである。

 リーナはすぐさまレオに近づいて、地面に転がって未だに鳴り響いているブザーを止めた。音が止んで周囲に静寂が戻ったそのときになって、リーナの背後に先程怪人と激しい戦いを繰り広げたQとRが姿を現した。

「申し訳ありません、総隊長。まさか高校生に遅れを取ってしまうなんて……」

「構いません。それよりも今は、ここから離れることを最優先にしましょう。先程のブザーを聞いて、誰かがここにやって来るかもしれません」

「分かりました」

 QとRの返事にリーナは頷くと、未だに地面に倒れている怪人へと目を向けた。その目は冷えきっており、感情の一切を感じさせない。

 その目で怪人を見つめながら、リーナは先程Qが使っていたのと同じサプレッサー付きの拳銃を取り出した。その銃口を怪人の心臓へと向けると、ちょっとした風ですら消え入りそうなほどに小さく1回深呼吸をした。

 そしてリーナは、引き金を引いた。

 

 

 *         *         *

 

 

 千葉エリカの朝は、日の出前から始まる。小さい頃から続けてきた鍛錬を行うためだ。

 10歳までは、父に逆らえず言われるままに。14歳に自分が何者か思い知らされるまでは、誰よりも千葉の剣士らしくあろうとして。そして去年の3月までは、ただ惰性で。

 しかし去年の4月に達也やエリと出会ってからは、自らの意思で“強くなりたい”という想いで鍛錬を続けている。惰性の日々を過ごしていたときにはなおざりになりがちだったロードワークは、強くなろうと決意した日からは、家にいるときは1日たりとも欠かしたことが無い。

 今朝も目覚まし時計が鳴ると同時に目を覚ましたエリカは、何千回と繰り返されてきた習慣だからか、あくびを噛み殺しながらも危なげない足取りで彼女専用のバスルームへと歩いていった。

 バスルームといってもシャワーブースとシャンプードレッサーのみの簡易的なものだが、一般家庭には普及していないそれをエリカが持っているのは、ひとえに彼女が資産家の娘だからだ。彼女の父親は少なくとも、物によって子供を差別するタイプではないらしい。

 真冬に冷水を頭から被って眠気を洗い流したエリカは、トレーニングウェアに着替えるためにクローゼットの前に立ったとき、視界の隅でメールの着信ランプが点灯しているのに気がついた。時間から考えて真夜中に届いたであろうそのメールを、何か嫌な予感がしたエリカは後回しせずに開いた。

 シンプルが故に今も現役のテキストメールを読み進める内、エリカの表情がみるみる険しくなった。ぎりぎり、と歯軋りが聞こえてきそうなほどに奥歯を噛みしめ、怒りが今にも溢れてきそうな声で呟く。

「あの馬鹿兄貴……、馬鹿に何やらせてんのよ……!」

 乱暴にパジャマを脱ぎ捨てたエリカは、トレーニングウェアの代わりにセーターとスカートに手を伸ばした。

 

 

 

 達也の元にそのメールが届いたのは、登校すべく家を出ようとしていたときだった。

 家の電話にではなく携帯端末に送り込まれたプレーンテキストのメッセージは、普段は災害予報のような速報性を最優先した情報の配信にしか使われない。つまり一刻も早く伝えたいことがあるということであり、達也は不吉な予感に駆られてそのメールを開いた。

「お兄様、良くない知らせなのですか?」

 メールを読み進めていた達也の表情を見た深雪が、心配そうに彼を見上げていた。

「エリカからメールだ。レオが“吸血鬼”に襲われ、病院に運び込まれた」

「……冗談では、ないのですね」

 深雪の質問に、達也はゆっくりと頷いた。

「中野の病院で治療を受けているらしい。幸い命に別状は無いようだから、見舞うのは放課後にしよう」

「……はい」

 達也の決定に、深雪が反対することはない。それに達也は母親によって強い感情を奪われていたとしても、人間としての情までも失ったわけではない。

 おそらく誰かが彼についているのだろうと結論づけて、深雪は達也の提案に肯定の返事をした。

 

 

 

 エリカがメールを送ったのは達也だけではない。彼と親しい付き合いをしていた友人達全員に一斉送信されている。

 そしてその中には、エリや厚志達も含まれている。

「エリちゃんと厚志の兄貴は、いつも通りに過ごしてください。レオの見舞いには、俺達で行きますので」

「すまないね。よろしく頼むよ」

「お願いね、2人共」

 そのメールを読んだリカルドがすぐさまそう言って、厚志とエリが軽く頭を下げた。エリは達也たちと同じく学校があるし、厚志も今日は朝からジムで仕事が待っている。厚志はある程度融通の利く仕事ではあるものの、エリカが病院に向かっていることがメールで分かっている以上、無理して押し掛ける必要性は無いと判断した。彼女ならば、レオを安心して任せられるだろう。

 よって病院に行くのは、リカルドとモカの2人となった。ミルココとマッドはエリの護衛があり、ダッチはそもそも現在この場にいない。

 それぞれがこれからの予定を決めたところで、全員が外出の準備を始めた。

 と、そのとき、ミルココの2人が同時にハッとした表情で顔を上げた。互いに顔を見合わせて無言のアイコンタクトで何かを相談し、やがてミルクが携帯端末を操作してメールを作成した。

「一応、送っておくか」

 ミルクのその一言と共に、メールの送信ボタンに指が置かれた。

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